草の根と現実の保守

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朝日新聞が信頼獲得とか自己監査についてトヨタ自動車にお説教を垂れていることについて(挨拶)。いやもちろんトヨタがいい会社かとかいい自動車を作ってきたかという点についてはいろいろ議論もあるだろうが(*1)、しかし誰か止めるやつはいなかったのか

さて11日の朝日新聞の話の続きだが、もう一つ愉快だったのは例の法科大学院記事の向かいに載っていた小熊英二氏のナショナリズム論である。念のために言うと私はその内容が間違っているとはほとんど思わないのだが、しかし見落としか語り落としか、あるいは記事をまとめた記者のまとめ落としだなと思う箇所があって、この記事を読んで左派(*2)の人たちが心慰めるとしたら可哀想なことになるなと思ったのである。

こういうことだ。まず、記事で取り上げられているような「保守」の人たち、つまり「新しい歴史教科書をつくる会」に結集するような草の根保守運動の人たちは確かにいる。日本の保守言論人の思想にあまり共通性がなく、結局「アンチ左派」という一点で結び付いているだけではないかという診断も、当たっているように思う。その部分を「不安を抱えた人々が群れ集う『ポピュリズム』」と見るのも正しいのではないか。

だが、彼らが「アンチ左派」の全体だと考えると見間違いをするだろうなと思う。この点は「ネット右翼」批判にも通じる問題点だが、第一に、非常に攻撃的で誤解に満ちた左翼批判を流布するような「ネット右翼」は確かにいるが、左翼に批判的な人々からも彼らが「コヴァ」(*3)や「国士様」と呼ばれ、批判されていることに注意する必要がある。ここでは彼らのことのみを「ネット右翼」という言葉で指すことにすると、「ネット右翼」の批判対象になっているのは左派だけではないことにも気付くだろう。例えば政治外交問題について雪斎氏が、人権擁護法問題ではbewaadさんも批判対象となったように、どう考えても左派とは言えない意見であっても彼らの許容するところにはならないのである。これは「草の根保守」の人々も同様であって、たとえば小泉政権の対中国・韓国外交姿勢は左派の人々の強く批判するところであるが、だからといって「草の根保守」の人々に支持されているわけでもなく、むしろ「売国的」とか「弱腰」という非難を浴びている。「非=左派」の中には「ネット右翼」に還元できない部分ないし対立があるのだ。

第二に、「草の根保守」ないし「ネット右翼」が間違いだったりポピュリズムに過ぎないからといって、その批判対象になっている左派が正しいということにもなるまいという話である。「ネット右翼」と同じような行動様式を持っている「ネット左翼」と呼ぶべき人々もいるし、「実情もよく知らずに思い込みで作った幻想」としての「右翼」に批判を加えて勝った気になっている左派の人々も枚挙に暇がない。憲法改正は徴兵制への道とか、白燐弾は化学兵器とか、証拠に基づいてどれだけ批判されても思い込みを変えない「サヨク」の人も多いようだし、劣化ウランの危険性は主として重金属としての毒性に由来するという主張に対して「じゃあ飲んでも安全だってことですか?」とかねじまがった理解で反論した気になった人というのも最近いたようである。「だからすぐに脱退や分裂騒動がおきてしまう」という部分なんかギャグかと思ったよな。「原水禁」と「原水協」ってなんだっけとか、「内ゲバ」とか、まあそれを含めて「草の根保守」や「ネット右翼」が遅れて来た「サヨク」ではないかという話はあるわけですが。

話を戻すと、だから小熊氏の分析が間違っているとは思わないがその特徴はかつての左派にも相当あてはまるものであり、するとつまりどの時代にもある「不安を抱えた人々が群れ集う『ポピュリズム』」の行き先が左から右に変わっただけの話じゃないのかとは思うわけである。そう考えると、「思想的な核が何もないのですから、大きな政治運動に成長する可能性は低いと思います。ただ、彼らが(……)[敵]とみなした対象を集中的に攻撃したり、(……)「世論」を形成したり、時々の選挙で特定の政党を水膨れさせるという現象は起き続けるでしょう」という結論部分の文章は、何やらものすごく趣深い。

さてしかし、これは氏の見落としと考えていいんじゃないかと思うのは、上で指摘した「草の根保守」あるいは「ネット右翼」以外の右派が何からできているのかという問題である。この点に関し、アメリカの保守なら経済自由主義、ヨーロッパなら帰属やブルジョアの思想や生活様式が保守主義の核になっているのに対し、「日本の保守に思想的な核がない」というのはかなり正しいだろう。だがそこから「日本の自民党は保守政党と言われますが、乱開発で自然を破壊してきたあの政党がいったい何を『保守』してきたのでしょうか」と問われるなら、私は多分それはこの日本ののんきな日常ではなかったかと思うわけである。もうちょっと真面目に言えば「軽武装と市場経済による貿易立国」という路線であり、その前提となるアメリカの安全保障政策をつなぎとめるためには対米追随だの何だの言われようが構わないという決意だろう。

つまり、別の言い方をすれば政治的現実主義である。「戦後日本の代表的な保守論者(……)も、各人の思想はばらばら」というのは確かにそうだが、第一に保守論者にせよ「草の根保守」の人々にせよ現実の問題を処理してきた実務家ではないという共通点があるのであって、その部分を見落すと日本における保守の全貌は見えないだろうなと思う。もう一つは「戦後日本の保守論者がやってきたことは、『左派の主張は非現実的だ』といった左派批判がほとんどだった」という部分の皮肉な含意で、では左派は右派にどういう批判を向けていたのか。あるいは、「現実的過ぎる」という批判を右派から受けた左派がいたのか。日本政治とは主に「現実的な右派 対 理念的な左派」あるいは「理念なき右派 と 理念しかない左派」の対立だったのではないか。日本の保守に「保守らしさ」がないのと同様、「革新勢力」が何かを革新したこともないと、そう言い切ってしまおうか。

ここが私の現在問題だと思っている点であって、つまり広く共有された目標がなくなり、この国の将来をどうするかについて真剣に議論する必要のある時代になったにもかかわらず、「現実的な左派」がいない、もしくは弱すぎるのである。所得再分配をどの程度行なうか、福祉水準をどうするか、あるいは市場経済に対する国家介入の程度など論点になり得る場所は多いと思われるのだが、小泉改革路線に対する現実的な代替選択肢が左派から十分に示されていない。あるいはそれをその選択肢によって利益を得ることのできる層に届ける努力に成功していない。「自民党の従来の集票基盤は弱っている」という小熊氏の分析はおそらく正しいが、民主・社民・共産といった左派政党(*4)の集票基盤だって同じように、あるいはそれ以上に弱っているので、他人のことを笑っている場合じゃないだろう。もちろんこれは小熊氏に対してというよりは、氏の論説を見て心慰めてしまった左派の人々に言っているのである。その中身がポピュリズムに過ぎないとしても、それは票である。政治的パワーである。その行き先が左から右に流れたとすれば、それは左派がパワーの動員に失敗し、政治という支持獲得競争の敗者に転落したということを意味する。どこから来ようが票は票という現実主義の欠如に左派の人々が気付けないとすれば、その流れを再び呼び込むこともできまい、と思われるのだが。

ちょうど象徴的な話を見かけたので言及しておくと、民主党議員の政策秘書の方が書いているブログの記事である。「日本は右傾化しているのではなくて他人を思いやることの無い左翼が勝手に自滅していっただけなのかも。」という末尾の文章の重さを、いい加減受け止めてほしいと、保守を自認するところの私としては他人事ながらそう思うわけである。


(*1) いや私自身はトヨタ車に乗っていて品質にもサービスにも不満はないわけだが。あえて言うと最近乗り換えたいと思うような車が出ていないのが不満ではある。後継車のラクティスはなんか私にとってはすごく中途半端なので……
(*2) なお以下、右派・左派というカギカッコなしの表現は政治的方向性の違いを価値中立的に示すものとして用い、たとえば「草の根保守」のようなカギカッコ付きの表現は(善かれ悪しかれ)何らかの価値を担って使われていることを示す。
(*3) 小林よしのり信者、の意であるらしい。
(*4) 民主党が本当に左派政党なのかはよくわからないが、とりあえずそうしておく。

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成城トランスカレッジ! ―人文系NEWS & COLUMN― - 今日のリンク (2006年5月15日 01:24)

◆「憂国呆談:不安から自律へ【完全版】」 浅田彰さん、田中康夫さん、宮台真司さんの鼎談です。読み応えのある長文です。文末には鈴木謙介さんへの問いかけも。 ◆「水道橋博士× 続きを読む

コメント(6)

 TBを有難うございます、
 結局、この国の思潮は、「三酔人経綸問答」以来、変わっていないような気がします。左右に「洋学紳士君」と「豪傑君」の末裔が居て、真ん中に「南海先生」の末裔が居るという構図です。さらにいえば、「政府の現実主義」と「民間の理想主義」という対立図式もあります。「民間の理想主義」を担う人々が、左右に分かれて「政府の現実主義」を挟撃するという構図を考えれば、それは「三酔人経綸問答」の構図に重なりあいます。小熊英二氏は「洋学紳士君」の末裔かもしれないし、彼がネット右翼と批判する層は。「豪傑君」の末裔かもしれませんけれども、どちらも、現実の政治と関わりを持たない「民間の理想主義」者であることには、変わりがない。
 拙者は、「政府の現実主義」に寄り添っていることは間違いない。だから、左右から、「御用学者」と叩かれる。それが、どうしたという気がします。
 

同日夕刊の「現実主義を美点としていたはずの保守もまた非現実的なラディカリズムに堕しつつある」とはっきりいった宮崎哲弥の方が、よりポイントを突いていますかね。

>雪斎さま
まさしく兆民は偉大で、『問答』は今なお必読の古典であるわけですが、気になる点もございます。
1.南海先生は「政府の現実主義」の体現者でしょうか? 
2.豪傑君は根底においてはシニシストで、アイロニカルな形で進歩に貢献しようとしていますね。それに対して洋学紳士君にはそういう翳りがない。こうしたアイロニーのセンスは、もともとそれが希薄だった左翼はもちろん、保守からもいまや失われつつあるように思います。
3.内田義彦が述べていることですが、『問答』がユートピックであるのは、三人が激しく、しかし礼儀正しく仲良く議論しあっているところです。しかしその末尾で、三人の道は分かれ、再び合間見えることはなかった、とされている。
 こうした『問答』空間はいかにすれば構築できるのでしょうか? 

・いなば殿
「政府の現実主義」と「民間の理想主義」という図式は、入江昭教授が『日本の外交』で示したもので、兆民の議論とは直接の関連がありません。誤解を招く書き方をしたようです。
 ただし、入江教授が「民間の理想主義」と読んだものを担った層(学者・知識人…)が現実の政治感覚の乏しい層であったことは、教授が指摘した通りです。これは。左にも右にも居るとおもいます。
 『問答』は、「あれかこれか」というニ項対立の思考に陥らないためには非常に有意義なものでしょうが、兆民は、多分にルソーに触れながら、このスタンスを体得したのではないかとおもいます。だから、『問答』に具体的な人物三人をモデルにした作品ではないのでしょう。

>雪斎さん
わざわざお越しいただきありがとうございます。いつも勉強させていただいております。
問題は、「政府の現実主義」は(「南海先生」のように)一人の人間ではないわけですから、同じ現実主義の中で「現政権」と「次の政権」にあたるグループに分裂してもよかったのではないか、ちょうどアメリカでそうであるように、その「次の政権」に回るはずの現実主義者たちが学者・知識人の一定層を作ってもよかったのではないかという点にあるように思います。
ロースクールで読んでいるRichard Posnerに、判事たちもthe enterprise of governing the United Statesの一部なのだというような言い方があって、アメリカ人らしいなあと思う一方、本当はそうだとも考えました。つまり政治的現実主義に立ってあるべき政策を考えるというのは「現政権」への奉仕では(必ずしも)なく、特定の政権を超越した「この国」とか「この社会」とか「国民の集合」といったものへの忠誠であって、だとすれば野党その他の政治勢力であってもそれから本来無縁ではいられないはずだと思うのです。「女王陛下の野党」という話でもあるでしょうが。
言う人に言わせれば私ももう立派に「御用学者」なのかもしれません。少なくともベトナム共産党やラオス人民革命党の支配を強化する機能は少し果たしたはずです(笑)。自分の仕事がこの国の人々を幸せにすることをもって「御用学者」と呼ばれるなら私もそれで構わないというか、むしろそうなりたいものだと思うわけですが。

おおやさま
古い記事で恐縮ですがTBさせていただきました。
最近、大学時代の先生のことを知人が述べていまして、ちょっと驚きました。彼も私も先生と同じ時期に駒場にいたのですね。なんだか不思議な気分がします。

>やじゅん さん
ども。そうなんですか、う〜ん、あの大学人数も多いですからそう変でもないのかもしれませんが、やっぱり不思議ですね。しかしこう、過去の悪業が明るみに出る可能性が……

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