「法曹」?

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いや選挙で選べる政党の数が問題ならネット上の意見の集計がどうこう言うより比例代表制に統一すればいいだけのことだと思うんだが(挨拶)。ただしそれを本気で主張する人はイスラエル政治についてレポート書いてくること。

さて昨日は忙しくて朝刊に目を通していなかったのだが、TKさんのコメントを受けて風呂に入りながら読んだところ当該記事の掲載された見開きがかなり面白おかしかった。というわけでちょっとしわしわになっている新聞を開きつつ法科大学院問題から。まあ結論から言うと全然ダメ、なのだが。

まず法科大学院の現状について言うと、もちろん私が知っているのは本学の事情だけではあるが、受験予備校に通っている学生がいないとは断言できないものの例外的だろうとは思う。いないと考える理由はLSの講義・課題の密度がかなり高いからで、本学では記録を調べたところ半年の演習で二百数十回課題を出題した教員がいてそれはそれで問題になった(数え方の単位に問題があったんではないかとの声もある)。試験前あたりの週に課題が集中して寝る暇もないので出題時期については配慮してほしい、という申し出が学生側からあるくらいであり、それらをまともにこなしながら予備校なんか行ってる時間はないだろう。

それでも断言できない理由は二つあって、一つはもちろん全学生の事情を私が聞いて知っているわけではないということであるし、もう一つは「仮面LS学生」とも呼ぶべき人々、つまりLSに在籍してはいるが現行司法試験も受験していてそちらがむしろ本筋だと考えている学生もいるようだからである。彼らにとっては現行合格が目的なので、LSの成績や単位が多少どうにかなろうと予備校に行くという選択肢はあるだろう。しかしいずれにせよLSの講義も演習も単位認定も厳格であって、そう生やさしくはない。

しかし特に単位認定については一つの限界があり、それはどうしても相対評価にならざるを得ないという点である。第一に、一定の学力水準に達していない学生に軒並み「不可」をつけるというのは困難であり、特にカリキュラム面での制約が厳しくて必修「不可」が留年に直結しかねないLSにおいては、経営上の要請とか第三者評価への対応を考えるとそうも留年者を出すことはできず、従って「不可」もつけにくい(あるいはつけても追試や再試で救済するという方向に行きやすい)。

第二に、そもそも評価の絶対基準が確定していない。もちろん個々の教員の頭の中には「法律家として必要な最低限の能力」の基準があり、率直に言って「こいつダメだな」とか思うこともあるのだが、しかしその自分基準が信頼できるかと問われるとよくわからない。そのよくわからない基準で特定の学生の将来を閉ざしていいかとなると、まあおそらく多くの教員は躊躇するのではないかと思う。医師国家試験の場合には、ある一定の成績水準に達していないと卒業させない(=国試を受けさせない)大学もあると聞くが、そういうことができるのは国試の問題内容と水準がかなり予測できるからである。LSの場合にはまだ新司法試験の実施実績がない段階であり、もちろん各教員は「こんな感じの問題でこんな水準じゃないかな?」というのを予測しながら教育を行っているわけだが、それでもその予測に照らして自分が下した評価と、現実に新司法試験によって下される評価が全然違うのではないかという疑念は脳裏を去らないのである。この段階で強力なクオリティ・コントロールはできないよねえと、私なら思う。だから、単位認定に問題があるのではないかというTKさんの疑念はある程度正しく、だがそうならざるを得ないかなとも思うわけである。

さて次に、アメリカの状況について言うと、もちろん私が聞いた話の範囲ということにはなるが、司法試験予備校みたいなものはあって結構多くの学生が行くらしい。ただ日本と違うのは、主な目的はLSの卒業から試験(アメリカの場合は弁護士会の試験=bar exam)までのあいだに特に試験対策の勉強をする点にあって、LSと並行して通ったりするものではないという点である。実際、LSの特に1年目は殺人的な忙しさだというのはよく言われるところであって(例えば、スコット・タロー『ハーヴァード・ロースクール:わが試練の一年』ハヤカワ文庫NFを参照)、ダブルスクールなんて暇はない。また、上位のロースクールほど理論とか哲学とか「即効性」のない学問を重視するのであって、試験対策に血道をあげるような人間は学生仲間でも軽蔑されるのだ、とはやはりよく聞かれるし、コーネル報告の際にもある学生からそういう発言があった(それはあれだろ、bar examにはみんな受かるからだろ?と聞いたらそうですねと苦笑いしていたが)。

じゃあアメリカの法曹というのは行政とか登記とか労務とかやっていても「法曹」として同一視されるし、どんなLSの卒業生も「法曹」になるからLS間に競争はないのかというと、全然そんなことはない。前者から言うと、アメリカの弁護士(attorney)の業務範囲が広く、日本なら弁護士以外の専門家(弁理士、税理士、司法書士、行政書士、社会保険労務士、企業法務担当者)が担当している仕事の多くをカバーしているというのは事実である。だが、大手ロー・ファームに所属して渉外や大規模企業法務や訴訟に従事する弁護士と、税務申告や不動産取引を専門にしている弁護士のあいだには社会的威信や収入の面で大きな差がある。たとえば浅香吉幹『現代アメリカの司法』(東大出版会)は以下のように指摘する。

アメリカの弁護士については伝統的に、出身階層が高く、エリート・ロー・スクール出身で、企業相手で格調高い法分野を専門とする高所得の弁護士と、出身階層が低かったり人種ないし宗教的マイノリティで、二流以下のロー・スクール出身で、個人依頼者を相手に格の低い法分野を主として取り扱う低所得(……)の弁護士とで、階層分化がある、といわれている。

だからどのロースクールに入れるかは学生のキャリアにとって非常に決定的だし、さらに言うとその中でどのくらいの成績を収めたかも問われることになる。日本では「大卒」かどうかではなく「○○大学卒」であることが重要であり、だから「学歴社会」というよりは「学校歴社会」なのだとは天野郁夫などのつとに指摘するところだが、逆に言うとその大学でどの程度の成績だったかというのは、特に「人格識見を問う」みたいな「官能的」選抜を重視してきた民間企業ではあまり問題にならなかった(と言われているが私は民間への就職活動をしたことがないので確信はない)。一方、欧米の学者の履歴書などを見る機会があると「cum laude」とか「magna cum laude」とか「summa cum laude」とか自慢げに書いてあって、これはつまり成績に応じて順に「第三位優等」「第二位優等」「最優等」と認定され、以降どこでもそう書きそう称することができるのである。私も自分の成績なら知っているがそれが他の学生と比較してどの程度なのかはよくわからず、助手には採用されたので一応それなりに優秀だったんだろうと思うが認定されているわけでもないので堂々と書くわけにもいかず、見劣りするような気がしてちょっと寂しい。話を戻すと、何故そういう認定をしてそれを書くかと言えばそれによって得られる進路や待遇が違ってくるからである。ある意味でアメリカは「個人歴社会」なのであって、日本の大学みたいに入っていれば遊んでいていいというものでもない(日本でもいいわけではないが)。そういうわけで(野心的な)学生は良い評価を得ようとLSの中で必死に努力するし、「このLSでこの程度の評価ならこのくらいの進路」というデータを元に進学先を選ぼうとするから、LSの側でも学生により高い評価で選ばれるように努力して競争しないといけない。別に日本の状況とそう大した差はないのである。

で、ではその競争の下の方になったLSの社会的評価はどんなもんかというのを間接的に表現すると、これは浅香前掲が紹介しているデータだが、1985年の平均所得において、ロー・ファームのパートナーが88,000ドルだったのに対し、単独開業している弁護士は25,000ドルだったという。その年の全体平均所得は14,427ドルというデータがあるから、上回ってはいるもののそう大した数字ではない(本当は年齢階層の違いとか収入か所得かとか細かいところを詰めないと比較できないのであくまでおおざっぱな話である)。「ロースクールを卒業してタクシー運転手をやっている」というのはアメリカ社会についてよく言われるジョークだが、それは下位ロースクール出身者にとってそう不思議な話ではなく、つまり元々ちょっと落ちればタクシー運転手くらいの社会的階層なのではないかと、そういうことになる。

そこで私が思うのは、別に新司法試験が現状通りのものであっても社会はその程度には「法務博士」号を評価してくれるのではないかということで、もちろん現状の弁護士ほどの社会的威信も収入も期待できないだろうが、行政書士や社会保険労務士だって全労働者平均よりはいい暮らしをしているのではないかと思う。嘘かまことか、某企業がLS卒の「三振博士」について修士修了程度の待遇であれば採用を考えてもいいと言ったという話もある。つまり、ちょっと楽観的なのは認めるが、まあゼロやマイナスではなくプラス評価にはなるだろうと言えるのではないか。別に「司法試験の結果と関係なく政府・社会・市場経済は、その価値を認めるべきである」などと力みかえることもあるまい、と思うわけだ。

問題は、もちろん、しかし投下したコスト(時間と授業料などの直接経費、さらにはその期間労働していたら得られたであろう収入などの逸失利益)にそのメリットが見合うのかという点で、個人的にはダメなんじゃないかと思い、だから学生には「君たちの最大の仕事は新司法試験に合格することである」とはっきり言っている。しかし、逆に言うと見合わないロースクール(新司法試験に合格できるだけの学力を養成できない・そのレベルに到達できるような学生を選抜できない)は淘汰されるだけ、なのではないだろうか。

先に指摘したLS内の成績評価の問題点も、実際に新司法試験が行われ、その経験が蓄積されていくことによって解決される話である。新司法試験の水準に照らして合格可能性のない学生は途中で排除するとか、そもそも採用段階ではじくという対処を各LSがするだろうし、それで経営が成り立たなくなるLSや、採用方針や単位認定水準に信頼性がなくて通う側が安心できないLSは市場からの退出を促されるであろう。するとまあ、数年から十数年くらいの調整期間を経て健全な水準の学生選抜と合格率が実現するような安定状態に到達するのではないかと、これが私の予想の一つである。特定の組織を守るために市場原理を歪めるというのはスジの悪い議論であって、別にできたLSの全部を存続させる必要もないよねえと。もちろんその台詞が本学に向けられないように努力しないといかんわけではあるが、それを心の棚に乗せた上で言えばまあそれだけの話であり、淘汰されそうなところは焦るだろうが取り合わない方がいい(念のために言うが、当該記事の筆者の所属するLSがそうだと言いたいわけでは毛頭ない)、我々には我々の競争があると、そう思っている。

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既にお読みになった方もいらっしゃるとは思うのですが、 法哲学者おおや先生のブログ「おおやにき」で、興味深い ご論考がありましたのでご紹介します。 「法曹」? おおや先生のご 続きを読む

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