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「駄天使」ってなおまいさん「駄菓子」の仲間か何かかね(挨拶)。や、しかし誤字にツッコむのは無粋な話であってすでに述べたとおり「誤植にたじろがない強い心」が重要なのです、もちろん(今回は書き文字なので誤「植」ではないわけだが、つうか誰か気付きなさい誰か)。さてちょっと忙しくて取り残しているコメントへのフォロー特集なのである。

まず「『ブログ世界の未成熟さ?』」に対する りょう さんのコメントから。以下の議論でのブログと匿名掲示板についてはいずれも理念型であり現実と必ずしも100%は一致しない点があることを最初に注記した上で言うと(まあこれは当たり前で「すべてのブログに共通する性質」なんてほとんどなくなってしまうわけだが)、両者の差は基本的に「権力者のいる社会」と「いない社会」に対応している。前者では不正行為や問題発言に対して責任を持って対処する主体が確立している。もちろんその「権力者」が暴走する危険性や、「権力者」自身が問題行為を引き起こす可能性があって、それに対する備えが必要になるわけで、この点では例えば現実の国家とあまり違わない。違うのは「移動コストの低さ」で、つまり現実の国家において我々が政府の行為を監視しないといけないのはそう簡単に別の国に逃げるわけにもいかないからという事情がある。現実の世界では、一般的に個々人にとってある政治共同体から離脱して他に移行するためのコストよりも現在の共同体にとどまってその改善を試みるコストの方が低い。だから人々はその共同体を良くするための公共的な行為にコミットするだろうと、そういう話だ(*1)。大澤真幸はかつてこの点を宿命的な所属の領域という言葉で表し、廣瀬克哉はそこから、移行コストの低いネット社会における公共性形成の困難さを指摘したのであった。

しかしそのことは逆に、市場的な対処の可能性を保証するものでもある。つまり、現実の国家からは「逃げにくい」ので、第三者から見るとどんなに不合理で「悪い」権力者の元でもとどまろうとする国民が存在する。一方、ブログの場合には読者の選択の自由が広く開かれているし、議論をするにしても同じようなトピックを扱っているブログは他にもありそうなものであるから、「悪い権力者」の元にとどまる動機は強くない。信頼できない・不公正なブログ主の元からは、コメントやトラックバックで反応する積極的読者も、読むだけの消極的読者も離れていくのであり、つまり質の低いブログは「言論の自由市場」における競争を通じて自然と淘汰されていくと考えることができる。

もちろん、だから問題は起きないと考えるのは楽観的に過ぎるのであって、まず現実の商品市場とのメタファーが通じる範囲で言うと虚偽表示や偽装の問題が生じるだろうし(発信者のアイデンティティを偽るようなケースが想定できる)、あるニッチの中で非常に強い支持を集めれば社会一般の意見とは無関係に存続できるようになるという問題もある。また、商品と違ってブログの場合には生産コストが非常に低いので、どんなに(市場の評価によれば)質が低く、消費者によって選択されないようなブログでも市場から淘汰されないという問題もあるだろう。売れない商品が市場に並び続けることはできないが、読まれないブログはいつまでも残せるのだ。

しかしいずれにせよそれは「権力者のいる社会」のコントロールに関する問題の変奏曲に過ぎず、我々がすでに開発してきたさまざまな方法(具体的には「権力者」に対する訴訟のようなものも含まれるだろうが)を適用していくことである程度の管理可能性が見込めそうである。これに対し、「権力者のいない社会」のコントロールは難しい。

ここではまず、理念型としての匿名掲示板を考えよう。例えば削除人(という「権力者」)がおらず、IDもトラップもないので全員が「名無しさん」であるような「2ちゃんねる」だ。そのような場所で実りのある議論が可能だろうか?

可能である。参加者全員が誠実に議論したいと思っており、そのためのルールに自発的に従うことができれば。もちろん問題は、その可能性は高くないという点にある。例えばりょう さんは「参加者が多数という側面もあり、自分一人で○○派を気取ることはできません。」とお書きであるが、(現実には)一人でも(匿名掲示板内では)複数の人間であるかのようなふりをして書き込むことができるし、ある論者の意見に対して多くの人間が賛意を示しているかのような状態を演出すること(「自作自演」)もできる。もちろん他の人々はその状態の怪しさを指摘することができるし、反論をみんなで投げかけることもできる。しかしそのこと自体が示しているのは、つまり「権力者のいない社会」においては誠実な人間が多数派でない限り秩序が維持できないという問題である。逆に言うと、誠実なルールを共有しない人間が一定割合を超えた段階で混乱は収拾不能に陥る(*2)。匿名の場合にさらに問題が大きくなるのは、この「割合」の母数がおそらく現実の人数ではなく「発言数」だということだ。どんなに質の低い発言であろうが、それが100も200も連続してなされればその合間に埋まった良い発言は「押し出されて」crowding outしまう。

困ったことに、質の高い発言ができる人は一般的に多忙である。彼の識見能力には市場価値があるので買い手が付くわけだが、問題は個人の能力だけを純粋に売買するようなことはできないという点にあり、その際必ず彼の時間が媒体として消費されるわけだ。一方多忙でない人はどうかというと、もちろん世の中にはカネが有り余ってもう能力を売らなくても良くなったので暇な人とか、病気やケガなど何らかの事情で労働市場に参加できない人もいるので「必ず」というわけではないにせよ、一般的にはその逆の推定が働くわけである。「金権政治は直接民主政に優る」という私のアネクドートは(もちろんそれを正面から信じてもらっては困るわけだが)、そのことを指摘している。

もちろん現実に存在する匿名掲示板は上で想定された理念型とは異なることが多い。例えば「2ちゃんねる」では議論のモメる板についてIDの強制表示が行なわれているようだし、「なりすまし」を防ぐためにトリップ制度が設けられている。逆に言えばこれは、議論を実りあるものとするためにはそのような構造化が不可欠だという証拠でもある。ID表示によって「自作自演」が防げるかといえば、どうやらIDは接続ごとに個別化されている(らしい)ので完全ではない。しかしそこから例えば単発IDだけで議論が進んでいるように見える状態は疑わしいというような信頼性判断の基準が機能しはじめるわけで、無意味ではないと思うわけである。

さてもう一つの話は「権威」をめぐる問題だが、まず事実についていうとガリレイ当時の人々が地動説に対して「証拠を直接全部出せ、あとは自分たちで判断する」と考えたということはない。「人々」の範囲が問題であってもちろん異端審問における裁判官たちはそのようにガリレイに言ったかもしれないが、それ以外の普通の人々は審問の結果を待ってそれを信じただろう。というのはそもそも、カトリックにおいて宗教的真理は教会を通じて信者に「示される」ものであり、信者たちが自発的に考えて判断するものではないとされていたからである。聖書はラテン語で書かれ、各国の現地語には翻訳されなかったから特別に教育を受けた聖職者以外はそもそも聖書を読むことすらできなかった。宗教改革においてプロテスタント側が批判したのはまさにこのような教会の権威的側面であった(*3)。

もちろんそのような盲従的権威が正しいというつもりはない。しかし疑うには疑うだけの能力が必要だというのもまた事実である。ウィトゲンシュタインはすべてを疑うというものは「疑う」という地点にもたどり着いていないと言ったが、例えば流体力学の実験について論じる際にこの世界の実在から疑っていたら話は進まない。同様にその領域の基本的な概念や理論について疑うことは無益ではないが、しかしその結果どういう結論が出てくるかについての正確な知識がないまま議論すれば間違うだけだろう。シロウトの素朴な疑問がいいポイントを突いていることはある。しかし、それがより正しい結論や代替的な理論を作り出すことはない(という指摘は例えば呉智英がずっと前にしているのである)。「盲人が盲人を導けば溝に落ちる」という箴言はどうしようもない真実、なのだ。

話を単純化すれば、世の中には多くの人が言っていることが正しい領域とそうでないものがあるのであって、前者について言えば広い範囲の人間が自由に話しながら議論を煮詰めていくことは有益だと思うが、後者はそうではない。みんなでどんなに議論しようが投げ上げた鉄球は地面に落ちるし、どれだけ固く決意してもいきなり田んぼの反あたり収量が3倍になったりはしないのである。だから、「烏合の衆」が疑問を持ち寄る場としては匿名掲示板は有効だが、それを解決するにはふさわしくないと考えるわけだ。

その一方、非常に面白いと思ったのは匿名の空間と顕名のそれの使い分けが問題を拡大させている可能性という話で、確かに問題のある発言だけを匿名空間に押しつけるような行動が発生する可能性はあるし、おそらく生じているだろう。この問題はもう少し考えないといけないが、しかし匿名空間に一元化したらうまくいくというものでもないだろうとは思う。逆に、顕名空間への一元化というのもあまり利口ではなくて、いやもちろん我々全員が「単なる悪口」と「健全な批判」を区別してネガティブな発言だろうが堂々と表で言えるようになれば(言っても怖くないようになれば)ある程度は解決するのだが、私ぐらいでもよく正直に書くものだという評価をときに受けることからするとそう簡単ではないだろう。となるとやはり「アーキテクチャにはそれぞれ固有の長所と欠点があるわけで、目的に合わせて使い分けていく」ということを前提に、その使い分けが公正であるような仕組み・両方の空間が健全であり得るような仕組みというのを考えていく必要があると思われる(*4)。7月の報告予定はそういう話で、匿名ならば悪いという前提に立つわけでもない(すでに2001年の日本法哲学会において、匿名掲示板というのはある意味でユートピアだ、という趣旨の指摘を私はしている)。ただそこには(「権力者のいる社会」とは異なる)暴走の可能性があるし、それを防止するアーキテクチャがあるとすれば何かを考える必要があると指摘しているだけのことである。


もう一つ、Modern banditさんの話。Internetがなぜ言説の分断に結びつくかというと、ネットが広大だからである。士郎正宗『攻殻機動隊』のラストは確か「さあて どこに行こうかしらねえ/ネットは広大だわ……」だったと思うのだが、草薙のように強大な情報処理能力を持っていれば別段、普通の人間はそれを前にして踏み惑うのみであり、あらかじめ持っている関心や嗜好を元に、それを扱っていそうな場所に近づいていくことになるだろう。つまり情報技術の進化が情報流通量の爆発的な増大をもたらした一方、人間が情報を享受する能力の方はたいして変化していないのであって(所詮一日は24時間である)、結果的に情報の流通総量に対して個々人のカバーできる割合は極端に下がることになる。その限られたシェアを有効に使いたいと普通の人間は考えるので、情報の中身を見る前の時点で選抜して好きそうな情報だけを見ることになるわけだ。

すると、社会の全員ないし多数が見ており、共通体験としてシェアできるような情報が消えていくことになる。例えばかつては岩波文庫の新刊をすべて読む人々というのが現実におり、もちろんそれは全体の出版量が少ないからこそ可能になったことだが、その人々の間ではデカルト・カント・ショーペンハウエルを呼んでない奴は人にあらずみたいな、まあヤな感じと思わなくもないが濃密なコミュニケーションの基盤が形成できていたわけである。その後も『世界』『朝日ジャーナル』あたりがそういう役目を果たした時代があり、そのうち『平凡パンチ』とか『月刊プレイボーイ』になっていったのかとも思うが、なにせまだ生きていない時代なので判然とはしない。もちろん読んだ上でそれに対する賛否をめぐっては議論があるわけだが、議論をするための共通経験は維持されてきたわけである。

その果てに、うす〜くなったとはいえ新聞の機能もあって、例えば私があれだけ文句を言いつつ朝日新聞を(しかも中日新聞のお膝元で)読んでいるのは何故かと言えばやはり頭脳労働者の端くれとして読むべき新聞といえば朝日かなとか思っているからではある。そしてそれは具体的に言えば、あれ読んでないと周囲の人間と話題が合わないかもしれんという恐怖心である。「ねえねえ、昨日の夕刊の文化面読んだ?」「あ〜あれ、なんつうか、追悼文じゃないっすよねえ(笑)」とかいう会話を我々もしたいわけであって(*5)、正直ジャンプ読んでる小学生と大差ないわけだが教養とはそんなもんである(*6)。

ところが、ネットのニュースサイトを読むというのは「新聞を読む」ということとは異なるわけで、それはたとえ掲載されている情報の総量に差がないとしてもそうなのだ。つまりニュースサイトを読むとき人は見出しを見て自分の関心のある記事(だけ)を読むものだからそれ以外は視界にはいることすらなくオミットされるし、いろいろなニュースが基本的にはフラットに配列されているので、各面のレイアウトや見出しの体裁に籠められた新聞社サイドとしての各記事の重要性や価値付けを読み取ることもできない。例えば某新聞社幹部の息子が逮捕されたというニュースがどの面にどの大きさで掲載されるか、それが各紙の「ものの見方」を反映しているのだが、それらも共通経験の基盤から失われていることになる。

このような流れの果てに、しばらく前に話題になった「EPIC」の幻想があるわけで、つまりそれは各人が読むことを望む(はずの)情報が先手を打って配信される世の中だが、そこでは個々人はあらかじめ持っていた趣味嗜好ごとに分断された言説の空間を生き、その中に自閉していくことになるだろう。これが民主主義の危機につながるのだと、まあSunsteinが言いたかったのはそういうことじゃないかと私は考えているわけである。

さて本当にそうなるか、というのはよくわからない。EPICの想定しているビジネスモデル自体に自己破壊的要素があるのでうまくいかないはず、という指摘を某研究会で公文先生がされていたし(私はそういう趣旨だと理解した)、あるいは今回の報告で私が言おうとしているように、もう少し別の可能性があるのかもしれない。まあちょっとこれから考えないといけない領域の問題なのであります。

ちなみにこういうのと180度違う法学部の研究のイメージというのも気になるわけですが、まあその、私たちみたいなのは結構原理論もやるんですよ、という話で、はい。

(*1) このことは逆に、人々が公共的に振る舞うかどうかはコスト構造に依存的であるということも意味している。一例としては、イギリスにおける大学改革の失敗が挙げられるだろう。サッチャー時代に大学の経営改善を意図して教員の待遇を引き下げたところ、研究教育水準の大きな低下が発生したとされるケースだが、その原因の一つは彼らの「移行コスト」の低さにある。例えば我々日本の大学教員はこの国以外に母語で仕事のできる環境を持たないが、イギリス人はアメリカ・ニュージーランド・オーストラリアなど他国の大学にさほど障害なく移行することができる。この場合、個々の教員にとっては必ずしも結果の予測できない政治的抵抗を組織するよりも、自分により良い待遇を保障してくれる他国の大学に流出する方がはるかに合理的であり、結果としてイギリスの大学は優秀な研究者から順番に失うことになったという。
(*2) これはニューズグループなどの「古いインターネット」を対象に、私が1994年の文章で指摘した問題である。歴史は繰り返される、と言うべきかどうか。
(*3) 宗教改革を受けてカトリック教会の在り方も変わったわけで、これはその時代の話だ、という注意をしておく必要はあるだろう。ただしカトリックの典礼が現地語化された(ラテン語から各国語に変わった)のは1960年代に入ってからだというのもまた事実である。
(*4) 念のために言うと、部分的に不健全な場所を含んだ秩序は全体として健全であり得る。道化が王への批判を許されていることによって、王権はより強固なものとなる。
(*5) ちなみにこれは(口調は違うが)実際に階段でばったり会った某先生に振られた話題であり、当の「追悼文」の筆者は我が師匠であった。わかる人には多分これだけでわかる。
(*6) なお私自身はサンデー派だったのでキャプ翼も車田正美もドラゴンボールもわからないのである。そもそも闘ってNo.1を決めるというのがよくわからず最強といえば鳥坂さんに決まっているではないかいやいやいやいや。

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わしは素人法学談義がけっこう好きなんおだが、なぜかというと、数学が「太さがゼロの線」や「無限に交わらない平行線」などの架空の概念をもとに議論するように、ある種の架空の 続きを読む

Comment(3)

Modern bandit さんのコメント (2006年5月 6日 19:12):

ありがとうございます。バケーション先からなので文字化けしたらすみません。

私は、情報へのアクセスコストが下がることによって、言説の分断に抵抗するような動きのほうが大きいように、ジャスト個人的感触で思います。(某所でされているような、研究所のペーパーをもとに素人も含めてブログで議論するなんてことはこれまではできなかったわけですし。是非はさておき。)
こういうのって、なんとかすれば定量的な分析もできるもんなんですか?

ちなみに、私の持っている法学部の研究のイメージは、たとえば××法専門とかで国内外の条文や判例に精通して、伊藤説だの鈴木説だのと非常にマニアックだけれども、一貫性のある法体系のためには必要なもの。まぁ理系ワールドで言うところの理学部のような、基礎的で大事だけれど実務屋(企業)から見たら直接は関わらないので金は出さないよ、的なことを議論しているというイメージです。(全然知らないので本当に適当ですみません。)

おおや さんのコメント (2006年5月12日 23:17):

>Modern banditさん
え〜遅くなってすいませんが私も直感で言うとですな、もとから「開いている」人 i.e. 自分の意見を形成したり陶冶したりするために他者の意見とか根拠を知りたがる人にとっては、インターネットの発展によって開かれ方の度合いはかなり向上したと思うのですが、「閉じている」人 i.e. 自分の意見を変えるつもりなど毛頭ない人にとっては、閉じたまま幸せでいられる可能性が増しただろうなと思います。結局インターネットというのは、リテラシのある層に大きな福音をもたらした一方、これまでは社会の個々の部分において疎外されていた「困ったちゃん」が団結し自己閉塞していく機会も与えたのではないかと、ちょっとペシミスティックに思っています。定量的に分析するのは難しいと思うんですけどね。
法学部の研究のイメージは概ねおっしゃっている感じで間違っていないと思うのですが、私のように立法論やその基礎になる社会分析まで視野に入れてる人間もいます、というか私は基礎法学者ですから「普通の」法学者とはやはり少し違うかもしれないとは思います。はい。

りょう さんのコメント (2006年5月27日 17:10):

お返事遅くなって申し訳ありません。
特に気になる部分だけ反論をします。

「参加者が多数という側面もあり、自分一人で○○派を気取ることはできません。」
についてですが、自分が意図していたのはそういうことではなく、
現実に○○派が複数いる場合を意図して書きました。
自分一人で○○派を気取るという孤独な戦いではなく、
PSEの反対派のように複数いる場合です。
BBさんや、長作さんは、「中古品が含まれると明記されてない」から「含まれない」
という解釈などをしていないにもかかわらず、おおやさんに誤解をされたように、
ネット上では一人で反対派を気取ることはできないのです。

おそらくおおやさんは、長作のブログを読むときに、
他の反対派のバイアスがかかっていたと思います。
これが自分の言いたいことです。
「質の高い発言ができる人は一般的に多忙である。」との理由から、
2ちゃんねるの書き込みを過小評価するのもありですが、
おそらくPSEの件ではおおやさんもちゃねらーを過小評価できてなかったと思います。
反対派の敵は反対派と自分は認識しています。差別化ですね。
長作氏やBBさんがもっともしなければならないことは、
「中古も含まれる」と明言しておくことで、足を引っ張られないようにすることだったように思います。

ヤな感じのスパイラルとおおやさんのような人に思わせないことです。
どうせ、世の中を変えれるのは最終的には政財官学の人達なのですから。
この人達にナルホドと思わせる以外にないと思っています。
権威筋にヤな感じのスパイラルと評価されるようでは、どうしようもないです。

またヤな感じのスパイラルの原因の一つは偏りだと思います。
ブログのコメント欄の炎上の理由も同じだと思います。
といいますのは2ちゃんねるだとそこに絶対的な権力者がいないので、
炎上という状態ではなく、お祭り状態になり、
ブログでは権力者の価値観とズレが生じるので、炎上という状態になるにすぎず、
実質的には差異はないと思うからです。

ある空間だけの多数派を、全体の多数派と錯覚してしまうと危険です。
現実社会でもそうですが、何かに怒りを持った人や、何かに不満を持つ人が、
その空間の多数派になったとき、そこにいる人達は、
「自分の思いはみんなの思い」というキーワードで突っ走るのだと思います。

2ちゃんねるでもブログのコメント欄でも、まともな意見の持ち主は多勢に無勢で、
発言のパワーゲームに敗れ駆除されていってるのだと思います。
しかし「質の高い発言ができる人は一般的に多忙である」を言い訳に、
それをよしとし一部に平和な空間があることに満足すれば、PSE問題のように足を引っ張られるだけです。
自分がコミットしないようなテーマならばそれでもいいんですけど。

それとPSE問題、NHK偏向報道疑惑や他のネットでのヤな感じのスパイラルは、
もともと「世の中には多くの人が言っていることが正しい領域」ではなく、
「世の中の少しの人しか言わない領域」で起こっているのだと思います。
といいますのは、「世の中には多くの人が言っていること」であれば、
メディアの討論番組などが扱いますので、ヤな感じのスパイラルにならない方向に誘導されますから。

http://alicia.zive.net/weblog/t-ohya/archives/000307.html
他のトピックの話ですが、すでに深いところに落ちてますのでこちらで。
「実名を要求すること自体が不合理な規制」についてですが、
mixiの規則は現実社会に例えると「ある店の規則」みたいなもので、
例えば2ちゃんねるや、ヤフー掲示板のような匿名、顕名でもOKな空間がいくらでもある以上、
不合理とは言えないと思います。
あるフランス料理店が「正装」という規則を求めても不合理ではないように。

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お返事遅くなって申し
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>Modern ba
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ありがとうございます

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