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引き続き原稿
千葉の補選は民主党が勝ったようですが、見かけた事前予測の中で一番笑ったもの:「民主の候補が当選して、来月に不祥事で辞職」。ええと、大丈夫だよね?(どきどき)
さて疲労から何とか回復して原稿を仕上げる。「ネット上のリソースの利用と情報倫理」、まあ1年半くらい前に出しておいたらリライトの依頼があったものなので、さっと済ませる。字数はあってるはずだけど、アクセプトされるかどうか。
光市母子殺害事件の弁護について、安田弁護士が批判されているようである。しかしこれだけは確認しておかなくてはならないことがあって、あの事件の弁護を引き受けたのはとても立派なことだ。もちろん死刑廃止という持論があってのことではあろうが、被害者が女性と子供であり犯行も短絡的で残虐、反省の有無についても疑問を持たせる材料を被告人自らが出してしまうというダメさである。弁護士としての腕のふるい方があるのかどうかも疑わしいし、ふるったらふるったで批判の対象になることは目に見えている。それでも頼まれて弁護を引き受けるというのはえらいこと(ダブルミーニング)で、普段偉そうなことを言っていても自分が責任を負うハメになるかもしれないとなった途端に逃げ出す連中だって世の中多いのだから、主義主張を貫いて逃げないその姿勢は率直に立派だと思うし、こういう人がいないと刑事裁判すらできないわけだから、受任したこと自体を批判するのは間違っている。
ところでその一方、その弁護方針については擁護できない点が多い。欠席戦術もそうだが、最高裁での公判のあとに記者会見で述べた主張内容についても強い批判が向けられているようである。これに対しては、弁護人の職務は自己の信念に基づいて判断を下すことではなく、被告人の視点に立ってもっとも有利な主張をすることであるという反論がある。だが、それにも自ずから限度があるというべきだろう。安田弁護士は、自らの家族が被害者となってもなお、そのような主張ができるのだろうか。
……と書くと、死刑反対論者に「身内が殺されてもその主張を貫けるのか」と言うような通俗的な批判のように思われるかもしれない。しかし私の考えでは両者の間には大きな差があるのであって、それはreversibility(反転可能性)の有無ということでもあるし、そもそも裁判とは何のためにあるものかという話でもある。
後者から言えば、そもそも事件の「真相」など神ならぬ我々にはわからないということから出発する必要がある。被害者の家族である本村氏は、真相を知るのは被害者母子と被告人だけだと言ったが、例えば殺意の有無については被告人自身でさえ知っているとは限らない。喧嘩中にカッとして刺殺したというような場合、その直前に加害者の心の中にあったのが「殺意」なのかどうか。聞いてみれば「死んでも構わないと思いました」とかなんとか言うかもしれないが、それはあとから当時の心境を推測して言っていることである。刺す前に「よし、俺は今『相手は死んでも構わない』という認識のもとにナイフを腹に刺そうとしているな」などと心の中で確認しているなどというイメージはナンセンスである。もちろん、本人の証言がうそ偽りでないことを直接証明する方法もない。過去に行って犯行そのものを再確認することができない以上、すべての証言は過去の出来事に対する推測に過ぎない(このあたりの問題は大森荘蔵の過去論をもとに「規則とその意味」で扱った)。
では裁判とは何か。過去の痕跡である証拠と、過去への推測である証言をもとに、どのような出来事の連鎖を想定したらそれらがもっとも矛盾なく理解できるかを双方当事者が提案し、それをもとに裁判官がある特定の展開を「過去の事実」として権威的に確定するようなものである。出来事が因果関係によって結ばれた連鎖のことを、「物語り」(ナラティブ)という。裁判とは、過去を合理的な物語りとして理解し、再編しようという社会的な営みなのである。
そのことは、望ましい弁護方針にも現れている。密室でただ一人・手を血まみれにしてナイフを持って・刺殺遺体の横に立っているところを捕まった被疑者がいたとして、彼が「壁を通り抜ける超能力を持った異星人がやってきて、超能力で私を麻痺状態にし、手にナイフを握らせて被害者を刺させた」(なおあらゆる超能力の証拠は超能力なので残らないものとする)と心から真剣に主張した場合、良心的な弁護人はどのような主張をするだろうか。おそらく「被告人はこのような主張を真面目にすることからわかるように精神異常であり、心神喪失か少なくとも耗弱にあたる」と述べるのであり、「被告人はこのように言っているので真犯人ではない」とは言わないだろう。何故か。もし被告人の主張が正しければ彼は無罪判決というもっとも有利な帰結を得ることができるにもかかわらず。
答えはおそらく簡単であって、それが合理的ではないからだ。被告人の述べた内容が真実である可能性は、ゼロではない(我々はすげえ超能力を持った異星人が存在しないことを確証しているわけではない)。だが、それが真実である可能性を認めることが我々の過去の認識の仕方や社会のあり方をちっとも良くしない、だからそのような可能性は検討する余地もないと、そう考えるからではないか。合理的な「物語り」の想定に役立たない主張は排除されるべきなのである。
そこでその「合理性」の基準として考慮すべきなのが「反転可能性」である。端的には「自分が言われる側に変わっても受容できるか」ということだ。人間は弱いものだから、自分だけの利害を考えてさまざまな主張をする。その中から合理的なもの・正当化可能なものをより分ける基準として、自分が言われたときのことを考えようと、そういう話である。もちろん許容可能な水準というのは人ごとに違うし、あくまで仮想の問題だから実際に立場が変わったら意見が変わることもある(身内が殺されたら死刑存置論に変わった人、などはその一例であるかもしれない)。それでも例えば多数意見がどう考えるかを見れば、一定の指標にはなる。
さて、そこで安田弁護士の問題である。例えば残虐な刑罰だから死刑を認めるべきでないという主張は、犯罪被害者・遺族の中にも認める人が多いだろう。個人的には反対かもしれないし、所詮きれい事だと思うかもしれないし、立場が違うから言うことだと思うかもしれない。しかし「立場が逆だったら主張するだろう」という基準では、その合理性を多くの人が認めるだろうと考える。一方、例えば「赤ん坊については泣き止ますために首に紐でちょうちょ結びしようとしただけ」というような主張を、「立場が逆だったら主張するだろう」と想像する人間というのがどのくらいいるのか。当の安田弁護士からが、自分が被害者の家族だったときに言われて受容できるのか。私の印象はどちらも否定的である。
つまり安田弁護士の行為は、目的において尊重すべきものあるも手段において許される境界線を越えたというのが私の意見である。その境界を彼が越えてしまった理由は、前回の欠席戦術においても同様なのだが、つまり裁判とは真実(として取り扱われるもの)を確定するための共同作業だということを見逃した点にある。国家権力を自己から疎外する「反=権力」という姿勢の限界という話でもあるのだが、今日はここまで。
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でも、これって素人から見ると、サッカーの日韓戦の審判を韓国人がやってるようにしか見えないんだよね。
普通審判は第三国から呼ぶでしょみたいな。
しかも、この審判、韓国寄りの笛を吹いてるはずが、結果的に日本を利してるようにも見えて香ばしいよね。
おおやは、この弁護を引き受けただけでも偉いっていうけど、ほっといたら他の人が担当しなかったんだろうかと思い、今から弁護士の選定方法を調べてきます。
付記
いつも勉強させてもらってます。
忙しいと思うけど、一般書書いて欲しいな。
原田さんも新書を書く時代だし。
>ええと、大丈夫だよね?
できればそうなって、↓な名著を書くお方のほうになっていただきたいモンです(よく考えると参院向きだったんじゃないかとも…)
転落の歴史に何を見るか―奉天会戦からノモンハン事件へ
斎藤 健
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480059377/ref=pd_rhf_p_2/249-8739523-6250745
>こうの君
例えの趣旨がよくわかんないぞ。一応この事件1審・2審の弁護人はいるのだが、どうも最高裁で弁論が開かれるという情勢になったので(というのは2審の結論が見直される公算が高いということだが)安田氏のところに前任者から依頼が行ったみたい。つまり逃げる気なら理屈は付いた話で、それを引き受けたことはやはり火中の栗を拾ったと評価していいと思う。
>truly_falseさん
他人の不幸を願うのはいくないです。穴に落ちますよ(笑)。
経緯をしらんかったのに、恥ずかしいこと書いたかも。
そりなら渦火中の栗拾ったってことになるね。
たとえはね、テレビで当該弁護士のトンチンカンなインタビュー見てたら、死刑廃止論者が自らの主義を主張すべくめちゃくちゃな論法で被告の弁護をかってでたように見えたので、変な例えをしちゃいました。