「ブログ世界の未成熟さ」?

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政治アナリストの花岡信昭氏による「これでいいのか? ブログ世界の理不尽な未成熟さ」というコラムが話題になっているようである(「Matimulog」経由「酔うぞの遠めがね」経由。)。このコラムの論旨自体に問題が多いのはすでに多くの方が指摘されているとおりであって、例えば(1)「ブログ世界」と一括に語ってしまっていいのか、(2)マスメディアの側の問題点・限界について無自覚ではないかといった批判があり、正当なものだと思う。しかしそれで捨ててしまってはちょっともったいない部分があるように感じたので、以下に若干述べる。

まず(1)について、第一にさまざまなBlogの筆者たちと読者たち(それが大きく重なっている点が従来のマスメディアとの大きな違いだが)で構成された「ブログ世界」なるものを仮に想定したとすれば、それはそのごく一部で生じた部分的現象に過ぎず、それをもって全体について述べていいかという批判はあるだろう。また、その「ブログ世界」というのはインターネット上のさまざまな情報のやりとりのごく一部に過ぎず、異なったアーキテクチャを持つ「世界」があることを無視しているという批判も可能だろう。いずれも正鵠を射ていると思う。後者について言えば、(1)「誰かの本拠」(特定の主体への言及)という性質を強く持ち、従ってその主体との対話的なやりとりが中心になる傾向の強いBlogと、(2)コミュニティなどにおいて「みんなのコミュニケーション」が広く行われるが、IDなどによって参加主体のアイデンティティが固定され、追跡可能性が高いSNSと(昔の大手パソコン通信などはこれに近いイメージがある)、(3)主体の固定性・連続性も制限され、あるいは例外的であるような匿名掲示板群(本当はある程度の追跡可能性があるが、あまり参加者には意識されていない)といったような区分を想定することができ、それぞれに「人々の一般的な振る舞い」が異なるという印象は、多くの人が共有するのではないか。だとすれば、そのような差異を無視して一括に「ブログ世界」と語ることはおかしい、そこまではその通りである。

しかし、その区分や差異自体に現れているアーキテクチャによる制約という問題を見落とすべきではないのではないか。「酔うぞ」氏は「社会が渾然一体とし猥雑なものであること」であることを指摘される。町村先生は「ブログ世界」を「リアル社会と同じレベルの人間が構成しているという当たり前の事実」を指摘し、「結局最後は、社会全体のレベルに依る」としておられる。いずれもその通りであり、「ブログ世界」にせよ「インターネット」にせよ我々の構成する「社会一般の反映」(「酔うぞ」氏)に他ならない。だが第一に、「反映」であってもその投影のされ方は社会の状況に依存的である。例えば所得格差が大きく、かつインターネットへのアクセスが非常に高価であるような社会(一部の発展途上国のように)では、インターネット上で展開される議論や、ときには形成される「世論」が、ネット外の議論や世論とは大きく異なることが想定できるだろう。念のために言うが、これはどちらの「世論」の質が高いとか低いとか、日本のように貧富の格差が小さく(と書くと文句が来るかもしれないが、先進国間の比較ならともかく国際比較では日本の格差などごく小さい部類に入ると私は考えている)、かなり安価なインターネット・アクセスが普及している社会と、そのような社会のどちらが望ましいかという話ではない。「反映」はイコールではないという、それ自体は比較的当然のことを指摘しているだけである。

第二に、同様の違いがアーキテクチャの違いによっても生じる可能性がある。ここでアーキテクチャとはローレンス・レッシグが『CODE』(山形・柏木訳、翔泳社、2001)において用いた意味、つまり「社会生活の『物理的に作られた環境』」であり、これを操作することによって我々にとっての行為可能性は変動する。例えば新宿の地下街の片隅に奇妙な突起物が設置されることによって、誰かが見張ったり制裁を加えようと待ち受けていたりすることなしに、ホームレスは地下街で眠る可能性を奪われるのだ。さて、しかしここでは誰かがアーキテクチャを操作することを通じた権力の動作(アーキテクチャの権力)を問題にするのではなく、現にアーキテクチャがそのようであるということが人々の振る舞いに影響するという事実を踏まえたい。そういう言葉を使わずに、各主体が実際に選択する行為は主体の選好構造と環境によって規定される、だから環境が異なれば同一の主体から構成される集団であっても選択される行為が異なると言うこともできる。あえて「アーキテクチャ」というのは、しかし特にインターネット上においてはその環境が人工的に規定されていることを強調したいからである。

さてアーキテクチャに規定された「振る舞いの可能性の集合」の次元で考えるなら、我々の社会一般と「ブログ世界」あるいはインターネット上の社会のあいだに違いがあることを多くの人々が認めるだろう。例えば社会一般では自分の趣味嗜好をアピールする機会は限られているし、中にはそれを公表すれば差別の対象になり得るようなものもあるから、「同好の士」と出会うためのコストは比較的高い。また同じトピックに関心があっても意見が同じとは限らない。「議論の場」は構造化されており、専門家と一般人が同一平面で意見を交換するような機会はきわめて限定的である。

一方、例えば「2ちゃんねる」のような匿名掲示板群ではあらかじめトピックごとに(場合によっては立場ごとに)空間が仕切られており、自分の選好にあった場所に行ってそこで起きていることを見るためのコストは低い。特定の・ごく少数の人間が共有する趣味・嗜好・専門に関わるコミュニケーションが容易に可能となり、それは非常にいいことであると同時に場合によっては「タコツボ」化を招く危険もある。「議論の場」は構造化されておらず、多くの人々が匿名化されてコミュニケートするために、通常では遭遇する機会のない言説同士の創発的な出会いも生じ得るが、一方で科学的・社会的に正当化され得ないような言説が横行する危険もある。再度念のために言うが、私自身は上記の通り善悪双方があり得るという立場であって匿名性や構造の欠如を一方的に批判するものではない。ただ、アーキテクチャの違いは同一の人々による振る舞いの次元での差異を作り出すと指摘したいだけである。

さらに、こういうことになる。いま仮に(1)ある部分社会における人々の振る舞いに問題があるとして、(2)そのような振る舞いを可能にしたり促進するようなアーキテクチャがあるとするならば、それを問題化して検討しようとすることは正当なのではあるまいか? もちろん(1)(2)はいずれも証明されるべき問題であり、直ちに事実と想定することはできない。しかし花岡氏の指摘は、多くの問題点を取り除いて考えるならば、この点に関する一つの証言ないし問題提起として見るに値するように思うのである。

最後に注記すると町村先生は「良い作用も悪い作用もある。良くも悪くも増幅することは確かだ」と、「リアル社会」と「ブログ世界」か何かの間に乖離ないし差異が存在することには自覚的である。私の以上の文章は、その乖離ないし差異には主題的に考えるべき何かが存在していないかという指摘として読んでいただきたい。

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コメント(5)

大屋さまの論旨はいちいちもっともだと思うんですが、花岡氏の論考とはあまりにかけ離れた内容になっていませんか。「多くの問題点を取り除いて考える」ほどの価値のあるものだとも思えません。

PSE問題を顧みて、嫌な感じのスパイラルが醸成されつつある、という問題認識からすれば彼の指摘は一見すると当を得ているように見えます。しかし、ネット社会の一部でしかない現象を取り出して全体を批判するような議論が、発展的な議論を生むための問題提起になるとはあまり思えないのですが。

「ネット社会の一部でしかない現象を取り出して全体を批判する」
(文章をまんま流用しましたが他意はないです)という脊髄反射的な反応で、
お茶を濁して終わらせる人がこれほど多いとは。

例えるならば、日本に来た外人が日本の学生をみて、日本はなんとだらしないのかと批判をされて、
それ日本の学生の一部(目立つ人)だけじゃん。と反論することにこそ発展性はない。
もちろんその反論も必要でしょう。相手の誤解をまず解かねば。
しかしながら、相手の批判がパーフェクトでなかったからという理由で、
一部にそのような現象があるという事実、またその現象を悲観している人がいるという事実はなくなりません。

自分はもともとこの記事を読んで、多くの問題点どころか一つの問題点もあるとは思いませんでした。
問題点があると指摘する人がいることは理解できましたが、それのどこが問題なのか未だによくわかりません。

もし、問題があるとすれば花岡氏が一部をみて全体だと「勘違い」したことだけか。
『ブログはいわゆる「ネット・オタク」に占領されているのではないか。』という過剰なまでの挑発は少し問題だとは思いましたが。
挑発されたからといって見ないふりしていいわけがない。

なぜ勘違いしたかというと、そういう人だけが一気に彼の前に押し寄せたからでしょう。
逆に言えばそうでない人がいなかったから。つまり勘違いして当然な状況があります。
正常な判断ができた傍観者が今回のことを見てみないふりをしていたとしても、そんなの反論になどならないでしょう。
あるテーマ、ある範囲においては、占領されてたことにかわりはないのだから。

>おおやさん
良い作用を規制することなく、悪い部分の増長を排除ないしは抑制できれば理想なわけですが、
技術的、法的な規制をかけられる前に、利用者の努力や知恵によってなんとかできるといいですね。

ネットの社会の規制が増えると楽しくなくなっちゃいそうです。

少し論点を突っ込んで、
「科学的・社会的に正当化され得ないような言説が横行」することについて。
また、その一因であるところの、「議論の場」が構造化されていない点も。
これは何も匿名掲示板だからというものではないと思います。
ブログにおいても起こりえるのは、花岡氏の指摘からも読み取れます。
おおやさんは匿名掲示板を顕著な例として書かれてますので、その意図はないのかもしれませんが、
匿名ないし匿名掲示板特有の問題と理論構成されていることに反論します。
匿名ほど生じやすい傾向にあるのかもしれませんけど、それは別の問題だと思います。

また、匿名をどこまで含むのかも難しい話ですね。
現実社会での「実名」、用途に応じて使い分け可能な「芸名・筆名・通り名」。
ネット社会だけの「固定ハンドル」、用途に応じて使い分け可能な「仮のハンドル」。
その場限りの「捨てハンドル」、まったくの「名無し」。いろいろあります。
さらには本名の一部を利用したハンドル(姓だけ。名だけ。また漢字を仮名表記、
アルファベット表記にしたり、あだ名化することでさらに本人特定困難にしたり)などなど。

以後、匿名掲示板に限らないネット社会全体の問題という前提で述べます。
リアル社会との相違点は、「議論の場」が構造化されていないことだとしてではどうすればいいのか。
リアル社会と同じように構造化するのであれば、ネット社会でこそ成熟し得る文化が育たない。
「良い作用の増長」によるメリットは失いたくありません。

そこで考えてみたのですが、
「科学的・社会的に正当化され得ないような言説が横行する」のはなぜなのか。
このカラクリが正直よくわからないです。

PSE問題でもありましたが、素人が議論するにおいて、法律を1年も学べば解消する疑問をどう扱えばいいのか。
例えば、「法学者は法学において、一般の人よりも優位に立つ」という考えがあれば、
このようなことは起こらないですし、合理的な判断ができると思います。
しかし、このような前提だとネット上でまで「専門家の意見は絶対。素人は黙っていろ。」となりがちですし、
このような前提をよしとしない人も多いでしょう。
逆に専門家同士でも意見の割れる部分については、反論も可能になりますが、
であれば専門家同士でも結論がでないことに、素人が結論は出せないわけで、もともと素人が議論する意味などないわけです。

しかし、リンク先のテーマだと「NHKに抗議電話」、「受信料不払い運動」も可能であり、
本人の意思決定の影響が大きいですから、「嫌な感じのスパイラル」が特に問題になってきます。
中国の反日運動も似たような問題であったのかもしれません。

ここで、素人が議論することにどういう意味があるのかも考えてみると、
まず、素人が理解を深めることで、専門家の結論を納得するためが一点。
次に、専門家以外が決められる部分でしょうか。政治問題などは特にそうですね。
郵政民営化すべきかは、国民が判断できたわけですから。
女系・女性天皇問題や、憲法改正問題などは国民的議論が必要とあるわけですし。

もう一点、難しいテーマなのですが、何をもって「嫌な感じのスパイラル」とするのか。
もしPSE問題で、「中古は対象外」と解釈すると経産省が言えばそうではなかったとなるわけで。
つまり、結果論以外に、自己基準で判断できないように思います。
知識や経験により十分推測可能な範疇ですので、専門家の意見を参考にすべきというのはわかります。
しかし、絶対などないわけで、極論を言えば奴隷制度があった時期に、
奴隷制度がダメだと言った有識者ってどれほどいてたのでしょう?
人権を認めるという観点を捨て置けば、奴隷制度は合理的であり、生産性があったわけでだからこそ採用されてきたわけで。
だからといって、この当時奴隷解放を主張した人を「嫌な感じのスパイラル」を熟成させたとは言えないわけで。

ときには自分もどこかで「嫌な感じのスパイラル」を熟成させてるかもしれません。
いや、そんなことはないはずです。だからといって、そう言い切れる根拠はどこにあるのか。
なんでもかんでも専門家になど相談していられないですし、専門家でも間違い得るし。
ある程度のことであれば自分で適切な判断ができるという自信もあるでしょうし、
世の中を自分色に染めたい、自分が生きやすいようにしたいという野望もあるわけで。

結局、「悪貨は良貨を駆逐する」にならないように、
言論のパワーゲームと言いますか、良ネタを提示する人が頑張り続けるしかないように思うのですが、
では、何が良ネタ?誰が良ネタを提示できる人?となります。
みんな自分が正しいと信じて、良ネタであると信じて主張してるわけで、堂々巡りです。

誰も好んで「嫌な感じのスパイラル」を熟成させているわけではありません。
それを回避できる方法があれば受け入れるとは思うのです。
例えばですが2chにおいて、「詭弁のガイドライン」というものが自発的に作られているようです。
このガイドラインの中身の是非はおいとくとして、2chをよくしようと自主的なルール作りを試みようとしてる側面はあります。
またこのガイドラインの存在は、素直に受けられているように思います。

一人一人がネット上で何を気をつけ、どう行動すれば「合理的」であるかの指標があれば、少しは違ってくるんでしょうけれど。
ネット上に特化した、また、ネットの存在により顕在化したものに対応するための、新たな倫理の構築といいますか、ガイドラインといいますか。
リアル社会でも昔は人権という考えすらなかったわけで、ネット社会も今、倫理観を構築する時期なのかもしれません。
PSE問題を初め、いくつかの失敗経験を踏まえてネット社会全体が成長していくという「過渡期」なのかも知れませんね。

「存在の匿名」の問題のように、プロバイダーなり、
2chではIPログを取得したりなど一部の人の判断のみで(そのような法整備が前後してもあったような記憶もあるのですが調べてません)代わり得る問題としてではなく、
ネット社会全体としての倫理観という問題として、自分は捉えたいと思います。

>akiraさん
ども。まあ「間違ったところを取り除いたら合ってます」みたい話ではありますよね。だから花岡氏の論考単独で考えてどれだけの価値があるかといえばおっしゃるとおり疑問ではありますが、しかし証言とか当事者の認識としては使えなくもないです。歴史ってのは当事者の・ときどき偏見が作用している・狭い認識からつなぎ合わせて記述するものでもありますしね。

>りょうさん
インターネットを含むさまざまなアーキテクチャにはそれぞれ固有の長所と欠点があるわけで、目的に合わせて使い分けていくというのが賢いとは思うのですよ。で、片方に構造化の進んだ現実世界があり、他方の極には匿名掲示板があると思います。ブログはその中間でしょうね。さらに言うと匿名掲示板(ここでは連続性や固有性のないものを想定しますが)だからまともな議論が「できない」かというとそうではなく、「しにくい」にとどまる。構造化された現実でもそれをものとせず割り込んでくる困った人が実在するのと同じです(笑)。あくまで傾向ないし可能性の問題として、しかし連続性・固有性のない匿名による議論というのは成立しにくく、だからこそ「2ちゃんねる」でもトリップのように固有性を担保する試みとか、あるいは板ごとのローカルルールで構造化をある程度実現しようとしている(例えば「初心者質問スレ」はそのいい例です)。ただ、それがあくまで当事者の合意や意識によって守られるだけなので、ローカルルールを気にしない人間が構造を踏みにじっては「半万年ROMってろ」とか煽られるわけですね。
「ヤな感じのスパイラル」の発生原因や対処法については考えることもあってごにょごにょしているのですが、実はこれは古典的な「権威」の問題になります。ここで「権威」とはその人の主張が「その人が言ったから」(つまり真偽性に関する検討抜きに)受け入れられるような存在のことですが、そういう存在は「真理とは理性によって証明されるものだ」とか「各個人が自己の理性に照らして何が真実かを判断し、自分の生き方を決める自由を持っている」というような古典的な啓蒙主義からは評判が悪い。しかし現実的には我々はそういった「権威」なしには生きていけないわけで、だって例えば地球が自転していることや日本が列島であることを自分の目で確認した人ってほとんどいないですよね。結局ほとんどのことを我々は「権威」を信頼して済ませている。その信頼すべき理由をあえて挙げれば、(1)信頼している人が信頼しているから、(2)検証しようと思えばできる状態で誰も異論を唱えていないから、(3)ただなんとなく、くらいのものでしょうか。
で、そういう「権威」抜きに世の中が回らないということを前提にすれば、良い「権威」はどのように作ることができるかということが問題になる。逆に、どういうときに我々は自分で考えるのを止めるべきかという問題にもなります。花岡氏の事例でちょっと気になったのは、「証拠を直接全部出せ、あとは自分たちで判断する」という趣旨の主張をした人がいたことで、これは彼の「権威」を信用しないということになります。もちろん「権威」が誤っている可能性はありますから疑って構わないのですが、世の中には表に出さないという条件で公開される情報や、表に出すことが第三者の利益を損なう情報もあります(例えばプライバシー)。あるいは、疑う人間の判断能力が信頼できるかという問題もあります。現実世界における議論の場の構造化というのは、「権威」も疑われチェックされなくてはならないという要請と、そのような条件の妥協として成立してきた側面がありますから、そういう条件への配慮なしにただ「全部見せろ」という話をしても通らない。もちろんそうやって成立してきた既存の「権威」に対する批判意識や疑念というものがあって、それは健全なものですが、しかし行きすぎれば結局「現代物理学の権威など認めません」というトンデモ科学の人と変わらなくなりますよ、ということに自覚的でない人がいるのではないかという危惧はあります。
なおこれは余談ですが、奴隷制というのは実は人権を抜きに純粋に経済的観点から見ても効率的ではなかった、という見方が最近は強いようです。人間やっぱり、自分のためでないと一生懸命働かないみたいですね。

以下、大衆運動という前提で述べます。
「片方に構造化の進んだ現実世界があり、他方の極には匿名掲示板があると思います。
ブログはその中間でしょうね」の部分に少し疑問を感じます。

といいますのは、
匿名掲示板には、ブログにはない「公」の要素があります。
ブログにおいては、開設者には訪問者よりも強い権限があり、
そういう側面からは公平性は担保されていないわけです。

ブログ開設者が公平な判断をすればいいわけですが、
必ずしもそう判断をする、またはできるとは限らないわけで。
批判は全消し&以後コメント禁止というスタンスをとっているブロガーもいます。
よいしょするコメントだけを残すわけですので、
悪く言えば、コメント欄の捏造にて情報操作することも可能です。

また、訪問者のみが開設者にIPなどの個人情報を知らせてしまうという不平等もありますし。
敵対関係に陥った場合、この情報を握られているのは非常に困ります。
最初から特定個人を攻撃するためだけに、誹謗中傷目的で設置されているブログすらありますし。

以下はブログでの体験を基にしたものではなく、
ブログのなかった時期のHP+掲示板という形態での話ですが、
「「誰かの本拠」(特定の主体への言及)という性質」という観点からはブログにも当てはまり得ます。
その人の主張に間違いを含んでいた場合、訂正を求めるわけですが、
その主張がプロパガンダな意味合いのあるもので、初めから嘘、大げさを承知で発信されている場合、
反論だけでなくそのことの指摘も大きなお世話であり、それをすると敵対視されます。
訴訟沙汰にしてまで意見が対立する側を黙らせたい人もいるわけです(冗談ではなく実際に訴訟にまでなってます)。

それに引き替え、お互いに訪問者である匿名掲示板では権限の差はなく、
どうしても間違いの訂正や反論を受け入れざるを得ず、削除も第三者である削除人が判断するため独り善がりの判断はできません。
第三者の判断での削除や、アクセス禁止という仕組みはブログよりも上と言えます。

両者が初めから議論をする気があれば、2ちゃんねるであっても議論は可能であり、
逆にどちらか一方にでも議論する気がなければ、ブログであっても議論は不可能だと思うのです。

また、2ちゃんねるでの議論の場合、主体が固定化されていないという要素がありますが、
参加者が多数という側面もあり、自分一人で○○派を気取ることはできません。
自分への反論を別の人が対応してくれていたり、また他の人がソースを提示してくれたりします。
いつの間にかかなりの協力体制が築けています。
推進派と、反対派みたいに二区分された形での議論になりがちですが、
二区分になるので、同じ立場の人間との「ブレーンストーミングや情報交換」が成立し、
同じ立場の人間が意見集約するのにもってこいの場に思っています。
また、どうしても二区分されてしまうので、同じ側の人の中で足を引っ張る人との差別化も必要になります。
PSE問題でこの作業をやってる人は見かけませんでしたが。

確かに主体が固定されませんので、何度も同じ議論を繰り返すというループ状態に陥るのですが、
ループを何度も回せばそのたびに情報も論述も充実していくと思います。
対立する側と決着を図ることは難しいですが、
同じ意見の側での意見集約や、トンデモ理論の人間を差別化することが大衆運動として必須だとすれば、
これらを目的としての、烏合の衆が議論する場としては、匿名掲示板は最適ではないかと思っています。
またそういう構造が確立しているのではないでしょうか。

さらにブログには開設者が王様という側面もありますので、開設者と訪問者が教祖様と信者の関係にもなりがちであり、
アーキテクチャ固有の長所と欠点からは、ブログの方が「タコツボ」化を招くと思うのですが。
某議員のブログはすでにタコツボそのものになってるように思います。

なぜ、ここにこだわるかと言いますと、
「アーキテクチャにはそれぞれ固有の長所と欠点があるわけで、目的に合わせて使い分けていく」という考えと、
http://ised.glocom.jp/ised/12101210
>しかしmixiは顕名で繋がる社会性になっているので、ポジティブなことで繋がるしかない。
>顕名的な空間だと、ネガティブなことは絶対に許されないわけです。
ここに書かれている、
「顕名的な空間だと、ネガティブなことは絶対に許されないわけです。」という考えから、
普段、ポジティブなことはブログで行っている人が、
ネガティブなことだけを匿名掲示板に押しつけるという使い分けがされがちな状況があるからです。
私的な空間や顕名を好む人間と、公的な空間や匿名を好む人間が棲み分けるというのならばいいのですが、
私的な空間や顕名を好む人間が使い分けるというのはちょっとなぁと思うわけです。
自分の家の庭にゴミを捨てないのに、公園には平気でゴミを捨てるような感じです。
逆に自分の家に庭がなくいつも公園を使ってる人は、公園に平気でゴミは捨てないと思うのです。
人それぞれではありますが、そういう傾向もあると思うのです。

それと少し脱線しますが、
SNSで一番有名なのはmixiだと思いますが、上記引用部分に、
「しかしmixiは顕名で繋がる社会性になっているので、ポジティブなことで繋がるしかない。」
とありますが、mixiは「実名」を要求しています。
よって顕名を実名として使えばそれは偽名です。
このことにかなり疑問を抱いているのですが、実名として実名以外を名乗ることは道徳的に、
倫理的にどのように捉えればいいのでしょうか。

権威についてですが、
「地球が自転していることや日本が列島であること」に対しても、
当時の人は「証拠を直接全部出せ、あとは自分たちで判断する」という対応だったのではないでしょうか。
ガリレオが地動説を唱えそれを理由に有罪判決を受けたとすら言われているわけで、
これが事実かどうかは賛否両論あるところですが、
400年前は裁判所ですら、行きすぎており結局トンデモ科学の人と変わらなかったかもしせませんし、
少なくともこの当時には、ガリレオにも天動説にも権威などなかったわけです。
時代は繰り返すではないでしょうか。もちろんもっと歴史に学ぶべきではありますが。

追伸:
「ごにょごにょ」が激しく気になります(笑)

>りょう さん
主要部分については新エントリに書きましたが、mixiの実名の件について言うと、そもそも「実名」とは何かがあまり判然としないところもあります。日本人の場合は戸籍名かもしれませんが戸籍のない国の方が多いですし、ペンネームや芸名のようにそちらを使う方が本人としての特定が困難になる場合もある。学者の場合、結婚で戸籍上の名字が変わっても業績の継続性の問題から以前の姓を使い続ける人も多く、過去に問題になりました。結局今は法律上戸籍名を使う必要がある場合以外は本人の通用名を使っているケースが多いと思います。つまり「実名」の定義はあまり判然とせず、「顕名」との差を大きく考える必要はないと私は思います(もちろんやり過ぎれば無責任な「匿名」と同じことになるので制約したい気持ちもわかるのですが)。
私としては、従って、実名を要求すること自体が不合理な規制であって、まあ従うことに不自由がなければ従っても構わないし、不自由だと思えばどうにか潜脱する方法を考えるだろうな、と思います。後者について、例えば一人が複数のアカウントを戦術的に使い回しているような場合は批判しようかとも思いますが、筆名や芸名として広く認められたものの場合にはそれが「実名」なのだろうと思って納得するくらいでしょうか。

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