さてもう一件補足。

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本エントリにつき、誤った推測に基づく不当な記述がありました。高橋健太郎氏にお詫びするとともに、該当する箇所について「見え消し」により削除させていただきます。たいへん申し訳ありませんでした。なお引用した高橋氏のブログにおける記述はすでに注記のうえ修正されておりますので、原文を参照されることをお勧めします。このエントリは「以下のような状態であった高橋氏の記述に対する評論」であることを注記しておきます。

高橋健太郎氏がどうもこのblogに言及されたらしいのをコメント欄でお知らせいただいていて、感想を求められているのかもしれないので一言すると「読まずに批判できる業界っていいですね」という感じだろうか。私この方存じあげませんが音楽プロデューサーの方みたいですね。

いやコメント欄で引用された部分、


今回のことで何が腹が立ったかというと、そういうオレにとっての素敵な場所が、薄暗いグレーなビジネスをやっているところになっちゃうことだった。ソープランドを例に出して、おめこぼしがあるんだからいいじゃないか的発言をした法哲学者がいたそうだが、冗談じゃないよ。ミュージシャンやオーディオ・ファンは、そんなグレーな場所で楽しみたいわけじゃない。

だけを取るならばおまえ園児かという話なのだが。というのは「きれいな砂場で遊びたいです」というのはいいとして、小学生くらいになれば放っておいても砂場はきれいにならない、誰かが掃除してくれるか自分たちで当番でも決めないとねという話は理解できるだろうと思う。誰かがいつのまにか綺麗に・安全にしておいてくれるはずだ、そうでないとおかしいとか言ってられんのは幼稚園児までだろう。

しかし私はそういう評論をする気にならなくて、というのは引用部の前後を読むとこの方は今回の対応は法的なスジが通っていなくておかしいと考えているし、スジの通るような法解釈による救済策を提案してもいるし(その妥当性はひとまず措くとして)、やっぱり法改正が本筋なのでこれからそのために努力しないとと考えておられる(いずれも要旨)。つまり私としては別にこの方の意見に文句はなく、ただ「5年くらい前にやっていただけなかったですかね」とは思うがその実際的な可能性については議論のあるところである。まあその、一部だけを読んで決め付けるのは良くない。

というのは私らしき人の意見に対するこの方の反応も同じであって、おおかた誰かがご注進に及んだのを鵜呑みにされたのであろうが、第一に私がソープランドの例を挙げたのは「中古も対象なら以前から違法だったことになる(仮定) → しかるに取締られていない(矛盾) → よって以前から対象でない」という背理法を意図されたらしいコメントに対し、「違法であってもろくに取締を受けていない例がある、従って『矛盾』が成立していない」(そういう法解釈はできない)という説明をするためであって、だからリサイクル業者もソープランドと同じとかそういう話にはなっていない(まんまとそういうひっかかり方をした人もいたのだが)。第二にそれで何が悪いのかという問題も別にあり、どうもこの方はグレーであることが悪いことだとお考えのようだが(一法律家としてはそのような見方を歓迎したいところである)、売春防止法の正当性を認めない立場からするとソープランドというのは法律という相手方の建前を逆手にとった正義の抵抗運動だと言うこともできる。グレーの領域で粘ることを一概には否定できないというのは、別エントリのコメントでも述べたところである。

何が言いたいかというと、これも明記している通りなのだが「『どういう社会のあり方が望ましいか』をひとまず措いて『この社会でいかにウマく振る舞うか」という次元で考えるならば」選択肢はいろいろあるという文脈で述べた内容を、「おめこぼしがあるんだからいいじゃないか的発言」とあたかも正しい規範のあり方に関する議論のように書かれると迷惑だということである。別の言い方をすると私は「仮に法令が今から動かせないとしてもこういう粘り方がある」と説明したのであり、「だから動かさなくていい」などとは一言も言っていない。

なんでこういう書かれ方をするかというと、まあ上述した通りこの方が自分では読んでいないからというのが私の推測である(「法哲学者がいたそうだが」という表現もそのことを示唆していると思う)。それで他人に「冗談じゃないよ」とか言い放っても構わないというのが音楽プロデュース業界だか音楽業界だかのスタンダードなのだとすれば、まあ私としてはそのような業界に近付かずに済むことを幸甚に思う。

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ふぉーりん・あとにーの憂鬱 - 「法」への幻想 (番外編) (2006年3月31日 05:58)

(3/30 追記あり)巷で話題になっているPSE法のことについては、私には正直よ... 続きを読む

コメント(46)

あんまり言ってることがデタラメなので、少しコメントします。
まず、
>「5年くらい前にやっていただけなかったですかね」
おおや氏は、「電取締法制定時」つまり36年からと主張されているのに、このコメントはなんでしょう。
まあ「平成11年の法改正時に再論議しておけよ」という意味とも解せますが、こじつけというものでしょう。
実際、平成11年の改正時は、電安法を含む11法案まとめて審議した上、
立法趣旨説明はは安全検査を民間に丸投げすることの正当性に終始していたわけですから。

とにかくご本人は理路整然のつもりかも知れませんが、論理破綻しまくっています。
ソープランドの例が不適切なのは、法理論的に云々ということでなく、警察とソープランドのような馴れ合いの実態が、中古業者と経産省に存在しないからです。だいたい中古業者にとって所轄は経産省でなく警察ですからね。頭越しに馴れ合えます?
そういう現実の運用について無知なところが叩かれたわけですが、
自覚がないようですね。

電気用品に中古も新品もないなんて当たり前のことを力説されてますが、
もともと中古も新品も商法上の概念ではありません。
しかし、販売形態には新品も中古もあります。
それくらいわかっててミスリードしてるのかと疑いたくなります。
bewaad氏のところで電取法の審議録を読まれたのならご承知とは思いますが、電取法では製造と輸入の取締が目的で、販売規制はそれを補完するものです。また販売規制であって、売買規制でも再販規制でもありません。商法上の販売は、定価(新品)販売を指すと解するのが当時の事情からして妥当でしょう。
また、経産省の出した「2004年電気用品取締法の概要」では、電取法の運用を踏まえた上で販売規制を「流通前」と「流通後」に分けています。流通後については「立ち入り」などを定めただけで、昭和36年の立法趣旨を想起させる、極めてゆるやかな規約があるだけです。

法学者の悪いところはテキストの絶対視ですが、はっきり言って理解が浅過ぎます。要するに対象するコンテキストがあまりに貧弱です。
普段なら無視する程度の内容ですが、けっこうそのまま受け止めてる純真な方が多いようなので、一応、苦情を入れておきます。自慰的テキスト解釈をやるのは勝手ですが、こうした反証がつくこともあるということです。

法学者をひとくくりにする法が理解が浅すぎだってw

K様

横合いからですが、一点、質問させてください。

> 商法上の販売は、定価(新品)販売を指すと解するのが
> 当時の事情からして妥当でしょう。

この部分は、例えば、商法4条2項の「販売」も新品販売を指すと解するのが5年前には妥当だった、という意味でしょうか。

それとも、例えば商法4条2項の「販売」にはあてはまらない、何か講学上の概念として商法上の「販売」というものがあるのでしょうか。

あえて伝聞的書き方をしていますが、もちろん、ソースの確認くらいはしていますよ。

その文章で言いたいことは、オレがなぜ腹が立ったか、という理由であって、あなたが立腹した部分はその形容のために使われたに過ぎません。
その部分を抜きしても、文章は成り立ちますし、言いたことは中古オーディオショップの扉をくぐるのに、ソープランド」の扉をくぐるような気持ちにさせらねばならない理由がどこにあるのか?ということです。

その形容に使うついでに、あなたの揚げ足を取ったのは、あなたがPSE法についての最初のエントリーで、「と言ったらどう反応するかということについては想像力をめぐらしてもらいたい」と書いていたからですね。
あなたは中古オーディオショップに興味がない「普通の人」かもしれないが、それを愛する人、それこそが人生である人に対しての想像力は働かないらしい。

もちろん、考えてみればソープランドだって、同じように、そういう人達がいるとは思われるわけですが、そういう人達はそこにあるグレーの度合いも受け入れて、それを選び取っているはずでしょう。
その差が分からないところに、あなたの想像力の限界がありますね。もっとも、行ったことのないソープランドを形容に使うというところで、そもそもの説得力がないですが。

ところで、ひとつ前のエントリーのコメント欄のBBも私です。この「さてもう一件補足」を読む前にコメントしたものですが、上のKさん、みずすましさんのコメントとも関連しそうですね。

補足すると、私の「グレーな気持ち」と同質のものを、渡辺健吾さんがBLOGで、電安法と風営法を見比べつつ、上手く表現してくださっています。

http://d.hatena.ne.jp/ken-go/20060309

こうした経験も、私の「冗談じゃない」には繋がっています。
「売春防止法の正当性を認めない立場からするとソープランドというのは法律という相手方の建前を逆手にとった正義の抵抗運動」なんていうのは、グレーな領域で粘ったことのない人間の言葉遊びにしか思えません。
「冗談じゃない」は、相手方の建前を逆手とる、どころではなく、隠れて不法行為を行う、であっても、粘る時には粘る人間からのコメントとして、捉え下さい。

あと、自分が揶揄された一言で、「音楽業界だかのスタンダード」を判断するのはいかがかと思いますね。

なんかまあ、そろそろコメントする価値のある人も減ってきたよねというのが正直な印象です、はい。

>Kさん
従来の改正では以前の表示が有効になるような措置が講じられていたのに対し、今回はそれがなかったのが問題の主因だというのが私の分析ですから、重要な時点は5年前です。その余は感情的な罵言なのでコメントの価値がないかな。「みずすまし」さんご指摘の通り「新品だけに限定されており中古を含まない『販売』」の用例があれば話は変わってきますが。

>BB(高橋健太郎)さん
わざわざお越しいただきありがとうございます。「自分が揶揄された一言で、「音楽業界だかのスタンダード」を判断するのはいかがか」とのご指摘ですが、「その部分を抜き[に]しても、文章は成り立」つはずの文章で、私の個人名ならともかく法哲学者全体の信頼に影響しかねない表現をされましたので、私もその手法を利用してみました(にこにこ)。
正直に言うと音楽業界が「聞かずに批判することが許される」ところだとは思いませんから(知人に関係者がいなくもないし)、「ウチなら許されることをヨソの話ではついし忘れました」ないし「つい筆が滑りました」というお詫びくらいいただけるかと思ったのですが、やらかしたあとで証拠もないのに「あえてやった」とか言い張りますかそうですか。「狂人の真似とて大路を走らば、則ち狂人なり」ってな、徒然草ですね。
ちょっと確認したところ確かに22日・23日に当該記載のあるエントリ(299)はお読みのようですが、22日にもう一つのエントリ(297)をお読みいただいた以外、関連のエントリ(295・296・298)はご覧いただけていないようですね。我々の世界では連載の一部だけ読んだのを「ソースの確認くらいは」している、とはあまり言わないのですが。というかそれは発言の文脈も確認せずに字面に反応することのを「ソースの確認」と称しておられるという理解でよろしいのでしょうか。どうも今日の13時過ぎになって「フォロー」4回はお読みいただけたようですが、そもそもの問題の発端はその前の「雑感」(295)ですのでそちらもお読みいただければと思います。まあその、「きちんと読んだ」と主張されるなら上記の通り文脈を取り違えた理解をされていることの妥当性が問題になるとは思いますが。
さてどうも中古業界をソープランドに例えたら愛する人がどう思うかについて私が想像力を巡らしていない、とのご指摘のようであります。正直に言えば他にも例はあろうものを(例えばパチンコだけにしておいてもよかったですね)わざわざ挑発的にソープランドにしたのはそういう反発をする人の中にある差別意識を露出させたいという意図もありましたので、まんまとありがとうございますと言いたいところもあり。確かに「正義の抵抗運動」と思っている人がどれだけいるかは疑問ですが、「必要としてくれる人がいる」「社会的に必要とされる財を供給している」と胸を張って言いたい・言える当事者はいくらもいると思いますよ。そういう「正義」があるから法の外側であることに耐えられるという人も多いでしょうし、逆にそういうのを「グレーの度合いも受け入れて、それを選び取っているはず」と一刀両断できる理由がよくわかりませんね。BB(高橋)さんは「買う側」のことを、私は「売る側」のことを考えているということなのかもしれませんが。
ところでこれは完全に余談ですが「行ったことのないソープランドを形容に使うというところで、そもそもの説得力がない」と批判されるということはーー十分な知識がなければ形容がおかしいという判断もできないはずなのでーーBB(高橋)さんはご利用経験があるということでしょうか。それで「中古をソープランドと一緒にするな」と批判される。なんか終わった後で女の子に「いつまでもこんな仕事してちゃいけないよ」と説教するオヤヂみたいですなあ。いや、そういうオヤヂがいるというのももちろん伝聞ですけどね。ええ。

なお上記はIPアドレスを元に検索した結果を元にしていますので、「別のIPアドレスからちゃんとアクセスした」という事実がありましたら撤回する用意がありますからご指摘ください。なおその際には、可能ならその「別の」IPアドレス、最低でも「こういう手段でこのISP経由でアクセスした」という情報、加えてアクセスした時間帯のできるだけ正確な情報をご教示いただければと思います。数時間分のアクセス記録なら精査する用意がありますから、その程度の特定でかまいませんけど。

>誰にともなく
どうも私は「グレーな領域で粘ったことのない人間」であるらしいです(にこにこ)。ま、「俺は野暮じゃない」と主張するほど野暮なことはねえですから、それでいいや。

>BB(高橋健太郎)さん
あ、急いで付言しておきますが、「きっちりと公明正大にやりたいから立法運動をやる」というBB(高橋)さんの方針自体にはとても賛成ですので、ぜひがんばってください。今回の経産省の対応が安心できるものではないというのもその通りですし、正直今後この種の問題が繰り返されないという保障もないわけですから、可能であればそういう取り組みを永続化・組織化することを目指されるとよいかと思います。老婆心ですが。

みずすまし様

商法4条は、「販売」を定義したものではありません。
テキスト至上主義的な自慰的論争をしても無意味なので、
とりあえず経産省がこの「販売」をどう解釈してきたか?というと、
それは前述したように「2004年の概要」で明らかです。
おおや氏は附則が踏襲されなかったことに法の意図があるという捉え方のようですが、
経産省の見解は2004年の段階ではそうではなかったと言う事です。
なので手のひらを返した現在の見解は、おおや氏と同様、あとづけの理屈と受け取られても仕方ないでしょう。
おおや氏のテキスト至上主義的解釈は、平成11年から昨年までの経産省の解釈を無効化するものです。
法哲学としては理解の範囲ですが、それをもとにして、中古業者に対して「5年前の附則の削除に注目しなかったこと」を批判するのはいかがなものかと。もしこの批判が成立するのであれば、経産省は条文に内在する新品と中古の同時販売規制を知りながら、4年間、あえて間違った解釈と運用をしてきたことになります。
話が拡散するので、最初の「販売」の定義に戻しますが、
電気用品安全法は、平成11年度に法まとめて審議された11法案の中のひとつです。まとめて審議する法的根拠は同一のコンテキストであるということです。つまり「製造」や「販売」の概念は、電気用品安全法独自のものでなく、11法案に共通のものでなければなりません。経産省もこの4年間はその解釈を取り、PS法製品安全4法について、同一コンテキストによる共通パンフレットを制作しています。

>「新品だけに限定されており中古を含まない『販売』」の用例があれば話は変わってきますが。

つまりは、他のPS法の運用例(ガスコンロやベビーベッドなど)が、これにあたる訳です。
というわけで、話を変えていただければと思います。

>おおやさま

私の仕事に使っているコンピューターは3台ありますし、携帯もあります。とりあえず、今は違う環境で書いていますので、こちらもお調べになってみたらいかがですか?
それでもアクセスがないという場合は、もう一台と携帯がありますし、さらに、この二週間ほどの間には、自分のコンピューター以外でもネットは覗いていますので、それらをすべて調べなければいけませんね。

が、それ以前に、アクセス解析を議論に使われるなら、まず、その信憑性を明らかにする必要がありますね。私は複数の会社によるアクセス解析を見比べたことがありますが、同じデータが上がってこなかった経験もありますし。
私のIPアドレスを要求する以前に、最初のアクセス解析が間違いないものであることを、誰の目にも明らかになるようにデータを公開されるべきではないですか? ただ、アクセスがなかった、とデータの公開もなしに、一方的に言われても、反証のしようがないですから。
それと、おおや様の側は私のPSE法に関するエントリーをどこまで遡ってお読みの上、現在、話されているのか、それもお教えいただきたいものです。

ちなみに、私は当該のエントリーは読んでいると記憶しますが、きちんと読んだかうかに関しては、「おめこぼしがあるんだからいいじゃないか的発言」の「いいじゃないか」の箇所については、おおや様があらためて説明された本来の意図を読み違えていたかとは思います。
その理由は後述いたしますが、とりあえず、誤解は誤解ですので、「いいじゃないか」については、すでに今日のお昼には削除させていただいています(但し書きつきで)。
が、「いいじゃないか」ではなく、「ウマく振る舞う」にはこういう「選択肢もある」という趣旨であったとしても、私の「冗談じゃない」には変わりはありません。

次に「法哲学者全体の信頼に影響しかねない表現」とのことですが、私は複数の、あるいは集団としての法哲学者を揶揄したわけではありません。ひとりの法哲学者、だけを指して、物を書いています。どこをどう読んでも、「法哲学者だかのスタンダード」に言及している、とは読めないでしょう。
それと、一個人の発言を「音楽業界だかのスタンダード」といきなり話を巨大化させるのが同じ手法だとは・・・。法哲学者業界(そんなものがあるかどうかは知りませんが)だかの思考法のスタンダードはそんなものか、と、今度は言いたくなりますね。

「あえてやった」理由をお知りになりたいのでしたら、説明さしあげますが、「法哲学者の****氏はこう述べたそうだが」と書かなかったのは、ひとつにはおおや様のフルネーム表記方法がこのサイトを軽く見回っただけでは分からなかった、というのもあります。おおやtakehiro様らしいですが。
もちろん、検索などして見つけることは出来るでしょうが、今まで知らなかった法哲学者の名前を知ったかぶりっぽく出す必要も文脈上にはありませんでしたし、「法哲学者の****氏は」と書くことは、その存在が社会的にエスタブリッシュされていくことに手を貸すことにもなりますので、「冗談じゃない」発言をした相手には、わざわざやってあげないよ、というような狭量な気分もあったかと思います。

とりあえず、仕事中ですので、後述部分を含めた残りは後ほど。

>BB(高橋健太郎)さん
まずお詫びします。
いま確認したところBB(高橋)さんは18日の段階で上述したエントリ(295〜299)にアクセスしておられました。最初のアクセスが22日以降であるという私の発言は誤りです。従って「ちょっと確認したところ」から「そちらもお読みいただければと思います。」までの発言はすべて誤った事実に基づいており、不当なものでした。揶揄的なニュアンスも含めこの部分におけるBB(高橋)さんへの批判をすべて撤回いたします。
ログの取り方を変えたのを忘れており、以前のログが検索範囲に入っていないことを確認しなかった私の単純なミスであって、まったく弁解の余地はありません。不当な批判をBB(高橋健太郎)さんに加えてしまったことにつき、(お詫びしたからいいというものではありませんが)深くお詫びいたします。

その余については追って書きますが、取り急ぎ以上の点につき表明させていただきます。申し訳ありませんでした。

続きです。
「アクセス解析を議論に使われるなら」の部分については、手法を明らかにすることはできるが生データを公開するわけにはいかないので信憑性が限定的であると言われればその通りであるとお答えするしかないでしょう。複数のアクセス解析で同じ結果が出なかったというのはおそらく傾向などの統計的操作を加えたものではないかと思いますが、今回は元々のアクセスログ(apacheのcombined log)をそのまま全数調査しています。逆に言うとそのため元データの公開には個人情報・プライバシの点で問題がありますし、そもそもログを記録しているサーバの管理者は私自身なので「誰にでも納得できる客観的な形で」調査結果を証明することはできません。従って最終的には「私としてはこのように言明するが、信頼性については読者の方々のご判断にお任せする」と言わざるを得ないというのが率直な表現でしょう。もちろん今回は、上述した通りその私自身の判定方法がまったく間違っており信頼性ゼロという結果になりました。繰り返しますが、私のミスにより不適切な表現をしたことにつきお詫びします。
「撤回する用意があります」というのは上記のような限界を明示するためという意図だったのですが、ほかの部分の表現もありそのような趣旨に読み取れないということであればやはりお詫びします。
次に「PSE法に関するエントリをどこまで遡って読んだか」というお尋ねですが、正直に書きますとこのエントリを書いた時点では3月19日付けエントリまでです。その後2005年9月まで遡って読みました。BB(高橋)さんのご活動の評価については結論的にあまり変化はありません。JSPAの請願を評価できないとされておられる点を含め、もっとも妥当な目的の活動の一つだと思います。ただ、それが現実のリソース等に照らしてどの程度可能だったかという問題があることは認めますが、本来ならばそのような活動が法改正前後の時点でなされていたことが理想的なのであり、長期的にはそのような活動を行える「団体」を整備していくことが民主主義にとって望ましいという主張は変わりません。
付言すると「販売」の解釈で解決するという方法は望ましいものではなく、やはり法改正が本筋であろうという判断について前エントリのコメントで書きましたので、ご参照いただければと思います。
次に「あえてやった」点についてですが、率直に申し上げて本ブログのコメント欄に時折来られているような「話の通じない人々」と同レベルの誤読だと思ったことと、しかし前後を読むにこの方はもっとまともな人のようであるという判断から、「ちゃんと読んでいない」という帰結を引き出したものです。しかし上記の通り証拠からそれは誤りだったわけですし、文脈を踏まえても「冗談じゃない」に変わりはないとのことですので、そのような推論が誤っていたことを認めます。そのことを前提にすると「音楽業界」に言及した私の表現が過度に挑発的であることも認めますので、該当する部分についてはこれから(そのことがわかる形で)撤回いたします。なお、「「冗談じゃない」発言をした相手には、わざわざやってあげないよ」というご判断についてはごもっともと思いますが、実名については「おおや 法哲学」でgoogle検索するくらいでも発見できますので、一応お知らせしておきます。「大屋雄裕」と申します。記憶するのも不愉快だ、というようでしたらどうぞご放念ください。
その余についてですが、以上の経過に照らすと上のコメントにおける「ところでこれは完全に余談ですが」から「伝聞ですけどね。ええ。」の部分も過度に揶揄的であり不当であることを認め、撤回いたします。もちろん上のコメントで撤回した部分も含め、これは「不当な表現であったことを私自身が認める」という趣旨であり、「なかったことにしよう」とか言いたいわけではありませんので、BB(高橋)さんにおかれてはいかようにご批判いただいても結構ですし、私としてはこれらの点につきお詫び申し上げるしかありません。
取り急ぎ以上です。

47th氏のブログに紹介されていたので来た通りすがりです。
ホントひまじん(笑)ですね。しかし、感銘しました。
今日は、PSE関連のみに目を通しましたが、後日他のエントリーもじっくり見させてもらいますし、一般書への執筆心待ちにしております。
最後に元音楽業界、現在はその周辺業界に巣くうものとしては、業界のためにも「なんでこういう書かれ方(略)音楽業界だかのスタンダードなのだとすれば(略)」は消さないで欲しいです。
まともな人なら、業界全体を揶揄しているとは思いませんから。
でも書かれても気づかないんだろうな、実際反応もそうだし。

自分も一般書への執筆は心待ちです。
かなりはまったかもしれない。

論理思考を理由にファンになったの初めての経験なのでドギマギしてます(笑)

ひまじんっぷりをこれからも是非お願いします。

おおや様

なんだか、永田議員のメール問題のようになってしまいましたね。
アクセスログを出せないのならば、そもそも、そこで鬼の首を取ったように相手を攻めるのは戦略ミスです。
が、相手がミスと認めたことを重ねて批判するようなことは私は致しませんので、すべての謝罪を受け入れました、ということで、先に行きましょう。

私も、私がおおや様の発言趣旨を読み違ったことは認めています。ですので、今日のお昼には「いいじゃないか」の削除を行ったのは、先のコメントに書いた通りです(ズルイね、先回りして、と言った人もいますが、議論においてはそうやって「ウマく振る舞う」方法もあるということで)。

さて、おおや様が本来の趣旨はこういうことである、と言っているのですから、読み違いは読み違いですが、しかし、読み違いに至るには、至るなりの理由はありました。
おおや様自身が上で「挑発的」と書かれていますから、意図的でもあったのでしょうが、実際、当該エントリーでの「ソープランド」の持ち出し方は、極めて挑発的でした。
「ええと、念のために伺いますが、世の中に「ソープランド」という名前のものがありまして」
ですからね。そんな慇懃無礼な書き方をすれば、通りがかりの第三者ですらも、何か腹に一物あるやりとりだな、とは思ったりする。

でもって、「まあもちろん「どういう社会のあり方が望ましいか」をひとまず措いて「この社会でいかにウマく振る舞うか」という次元で考えるならばという話ではあるのだが」という本来の趣旨に関わる条件が説明されるのは、エントリーのかなり後半です。
それ以前に、「お目こぼしになる方法を考えるとか、規制を潜脱する方法を編み出すとか、あとは摘発されて罰金だの何だのを払ってももうかるだけの利潤を上げるとか、いろいろ対処法というのはある」あたりまで読んで、そんな教えを乞いたいわけじゃねーよ、と思う人は多いでしょう。私を含め、ですね。
それを脊髄反射的などと言って批判するのは、あまり上品なことじゃないとは思います。挑発したのはあなたなのだから。

私への批判を掲げたこのエントリーでも、まずは「おまえ園児か」みたいな太字から入る。が、私がそういう挑発に乗らなかったのは、そのすぐ後に自分で「しかし私はそういう評論をする気にならなくて」と書くぐらいのことを、わざわざ冒頭に持ってきちゃう文章構成の幼稚さに、苦笑したからです。
怒りを現したいなら、最後まで怒りに任せて突っ走った方が説得力がありますよ。
あるいは、おおや様は「『この社会でいかにウマく振る舞うか」という次元で考えるならば」選択肢はいろいろあるという文脈で述べた」に過ぎないということを最初から冷静に説いたのなら、私は読み違いを認めて、退散するだけだったかもしれないですね。

とはいえ、ディベイトが下手な人も世の中にはいます。下手だったら下手で、それは責められることではないですが、そういう人が一方で、「と言ったらどう反応するかということについては想像力をめぐらしてもらいたい」と人を諭しているから、私も揶揄のひとつもしてみよう、という気分になったのでしょうね。
ちなみに、上記引用部分は296にあります。
>関連のエントリ(295・296・298)はご覧いただけていないようですね
は、私が296からの引用をもって、件のBLOGの文章を書いた理由を説明していることを考えれば、アクセスログを確認するまでもなく、間違いであると分かったはずですので、これも不注意でしたね。

というようなところから、あなたは挑発することはできても、説得するには力が足りない、と私は考えてしまうわけですが、説得力の話をするには、明日朝までの原稿が二本残っていることや、それより花見はどうするんだ、という友人の目などもあり、次の機会にさせていただきます。
ただ、例えば、法哲学を論じることが、ある日、違法行為とされ、どこかの密室でしか出来なくなったとしたら、あなたはどうするのか? というようなことを考えおいていただくと、話は早くなるかもしれません。

あと、言いたいことを手軽に補足するために、私が3/18にmixi日記に書いた文章の一部をコピペしておきます。人にグレーな生き方を強いる社会への危惧を、ラフに書き綴った文章の一部ですが、元のソースは誰にでもアクセスできるものではありませんので、もし、おおや様がご確認されたいということでしたら、mixiの友人承認(未加入でしたらご紹介から)などさせていただきます。

「しかし、法律的には今後、中古販売(最近の経産省の見解に沿えば、PSEがあるものを含めた、すべてだな)、あるいは、電気製品の修理、改造といったことは、すべてグレーゾーンに入ってしまう。修理ひとつするにも、あー、この部品を取り替えると、機能が変わっちゃうんで、本当はPSE取得が必要なんですよ、もちろん、ダマテンでやりますけれど、てなことになる。ROM交換でヴァージョンアップとかするも、本当は、技術適合確認からやりなおさないと出来ないのだから。
まあ、今までもそこはグレーゾーンだったんです、という解釈もなりたつのだが、誰もそうとは認識していなかったが、実は重箱の隅を突けば、法に触れていたんです、というのと、本当はいけないんです、とみんなが知りつつ、グレーゾーンで営業が行われるのは、社会的な意味がまったく異なっていると思う。電気製品の修理が、フーゾクみたいな薄暗い営業になっちゃうなんてね」
(中略)
「そういうグレーな生き方を人にわざわざ強いる、そういう法律だということだ、PSE法ってのは。
そういう法律の下で生きなければならないとしたら、どうするか? 法改正を求めるしかないわけだけれど、でも、グレーな生き方を強いられる中で、シロクロをつけるためのアクションを起こすのは難しいんだよね」

まあ、これでも読んで落ち着いてくださいな。

http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/news2/20060328wm03.htm

BBさん、
> あるいは、電気製品の修理、改造といったことは、
> すべてグレーゾーンに入ってしまう。
> 修理ひとつするにも、あー、この部品を取り替えると、
> 機能が変わっちゃうんで、本当はPSE取得が必要なんですよ、
> もちろん、ダマテンでやりますけれど、てなことになる。
まぁ今までも、屋内電気配線の工事・修理とか、電話の配線とかはそれ相応の資格がないと勝手にやっちゃいけないことになってたりしましたけどね。

グレーとかそういう話になると、自分が思い付く一番極端で身近な例はやはり著作権です。著作権法上は「私的な」範囲であれば複製は許されることになってるけど、実際のところこの「私的な」っていうのがどのぐらいを指すのか厳密なところは誰もわからない。
自分が持ってるCDをテープに録音して編集するのは明らかにOK。家族内での利用も明らかにOK。友達のテープにダビングしてあげるのは多分OK。でも、じゃあその友達が20人とかだったら?レンタルCDをダビングして、CD本体を返却した後も聞き続けるのは本当にOK?
これ、法律上は「重箱の隅」でも何でもなく本質的に裁判をやってみないと決まらない話ですけど、気軽にやってる人は本当に気軽にやってるし、実際に悪質なケース以外は摘発もされてないですよね。まぁ最近はネットでの著作物の無断利用の方が大問題になっちゃってどうでもよくなってるところはありますけど。

>BB(高橋)さん
証拠評価と言説戦略についてぐだぐだ言い訳すると本当に永田メール問題みたいになりますからお叱りを受け止めて反省したいと思いますが、後者については2点のみ補足しておきます。第一に、私がまず念頭に置いていたのは高橋さんのblogを紹介された人を含めたこのblogの読者ですから、「おまえ園児か」というのは「高橋さんの文章を『自分たちが何もしなくてもとにかく環境が整備されていてほしい』というような主張の裏付けとして使ってはいけないでしょう」という指摘であり、だから「本来はそういう文脈ではない」ことを直後に補足しているわけです。第二に、挑発的であり説得的でないというご指摘についてはその通りかと思いますが、かなり最初の時点で述べている通り私はこの問題に対してほとんどコミットメントはなく、従ってそもそも説得すべき結論などありませんから、そうですとしか言いようがないというのも事実です。私の中心的な主張は「言説戦略や議論の内容に問題があるのでちゃんとしてほしい」ということであり、表現方法が挑発的であるというのはその通りですが、逆に言えば結果としてきちんとした説明が為されれば(私個人としてはその結論に不同意であっても)満足して終わりです。私自身にPSE問題の解決策に対する何らかの主張があり、それを受け入れるよう人々を説得しているのだとBB(高橋)さんが思われたとしたら、すれ違いはその時点から生じていたことになります。
確認が不十分であったことについては繰り返しお詫びしますが、BB(高橋)さんが「と言ったらどう反応するかということについては想像力をめぐらしてもらいたい」を引用されたのは27日です。これに対し「私が296からの引用をもって、件のBLOGの文章を書いた理由を説明していることを考えれば、アクセスログを確認するまでもなく、間違いであると分かったはず」とのご指摘ですが、引用いただいた箇所は「22日・23日に当該記載のあるエントリ(299)はお読みのようですが、22日にもう一つのエントリ(297)をお読みいただいた以外、関連のエントリ(295・296・298)はご覧いただけていないようですね。」であり、「22・23日に」(より本質的には高橋さんが3月25日付エントリ「ゲームセット?」を書かれる前に)という限定がかかっています。もちろんこれは証拠に照らして誤りだったわけですが、BB(高橋)さんの27日コメントを読めば否定できたはずのことを主張していたわけではない、と指摘しておきます。なお、先回りして修正されたとのことですがその旨がわかるような方法ですので私としてはまったく「ズルい」とは思いませんし、むしろきわめて誠実な対応であると思いました。
「法哲学を論じることが、ある日、違法行為とされ、どこかの密室でしか出来なくなったとしたら」という例については若干苦笑せざるを得ないところもあります。別に私自身の事績ではありませんから偉そうに言うことではありませんが、それを防ぐために自発的な「団体」を作って活動するということを中世以来積み重ねてきたのが大学であって、「大学の自治」や「学問の自由」という原則はそのような先人たちの努力の成果です。一つにはその自由を守るために、もう一つは自由を与えておいても大丈夫だと社会に認めてもらえるような客観性・公平性の確保ということのために、今でも各大学・日本法哲学会のような単位学会・日本学術会議といった組織が活動していますし、その維持のためには多くの学者たちが労力を払っています。私自身はまだ若造ですから言うほどの活動もしていませんが、それでも学会実行委員や地域研究会幹事として「法哲学が自由に語れる場」の維持のために私自身の研究時間を犠牲にしながら働いてきました。あるいは、本学の進めるアジア法整備支援事業に対しても結構積極的にコミットしてきたのですが、その背景には、対象となっているアジアの体制転換国(旧社会主義国)を「法哲学が自由に語れる社会」にしたいという遠大な野望があります(多分私が生きているあいだには無理でしょうが)。「おまえはestablishされた機構に乗っているだけだ」と批判されれば幾分かはその通りですが、音楽関係者にせよ中古リサイクル業界にせよ、正当な利益集団をestablishする努力をどのくらいしたのですか? と、「していない」という判断や批判をする気はさらさらないのでそれぞれの社会の内部の方に自問していただければ結構なのですが、問いたいところです。
「グレーな生き方を強いられる中で、シロクロをつけるためのアクションを起こすのは難しい」というのは、「グレーでも実質的な支障がないからいいじゃん」「クロに出たらどうするのさ」というような反応がどうしても出てくるから、というご趣旨でしょうか。そこから「『グレーで粘れる』ことを指摘すること自体がアクションの邪魔になる」というご批判だとすれば、正直「運動の論理やな」と思います。理解はできますが、事態の客観的な認識や可能性の検討を目的とする研究者を説得することはできないかと。「そんなことはわかっていて、しかしそれは好ましくないからシロクロつけるためのアクションをやっているのだから、『そんな教えを乞いたいわけじゃねーよ』」というご趣旨であれば、確かにBB(高橋)さんのようにシロと認めさせるために自分で動いている方がそれを不愉快に感じられるだろうということについては理解できますし、お詫びしたいとも思いますが、一方で私が念頭に置いていた「自分たちが何もしなくてもとにかく環境が整備されていてほしい」人たちに対しては正当な指摘であると思います。法改正のために動くにせよ、リスクを覚悟して脱法行為を選択するにせよ、自分のリソースをちゃんと使え、という趣旨ですから。
もう一つ、「自分たちの考え方のほうが正しい・正当化できる」(本来ならシロになるはずだ)と思っていても、その主張を表に出せば社会的な偏見などの作用でクロになってしまうことが予想されるために、あえてアクションを起こさずにグレーで粘るという選択をしている人々はたくさんいます(風俗営業関係者のどれくらいがそうかはわかりませんが)。例えば先年立法が実現するまでの性同一性障害者はそうだったでしょうし、同法では性別変更が認められる条件が非常に限られていますから、対象外のまま今でもグレーで粘っている人がいるはずです。しかもこの人々はそうであることを「選択した」わけではありません。グレーなものと一緒にするなというモノイイは、理解はできますが、そういう人々に対して失礼であるとは今でも思っています。
さてお忙しいことと思いますし、私自身も急ぎの仕事があるので反応速度は落ちますから、急かすようなことはいたしません。まだおまえを叱りたいことがあるということでしたら、いつでも構いませんのでお書きいただければ喜んで参考にさせていただきますし、必要があれば反論させていただきます。mixiの件につきましては、寛大なお申し出で大変にありがたいのですが、辞退させていただきます。加入はしていますが、私自身が本当に気を許した相手だけをマイミクシィに入れるという方針でやっておりますので(入れていない人間には気を許していないという意味ではない、為念)。ありがとうございました。


>MUTOさん、りょうさん
優しいお言葉ありがとうございます。謝るべき点を謝り、反省すべき点を反省して努力したいと思っています。永田議員ではないので「でも実態はあったかもしれない」とか言いません。正当化できない表現については「私の間違いでした」ということがわかる形で削除させていただきたいと思います。

で。従ってこれは音楽業界等に関する言及を含むものではまったくありませんし、実際別の某業界に関することなのですが、知人のひとりが昔こういうことを言ったのが記憶に残っています。「なにかみんな不満があるらしくて、身内で酒を飲んでは気勢を上げてるらしいんだけど、ちっとも言ってきてくれないんだよね」。finalventさんは「官僚の天下りを含めた強い利権の構造で業界を掌握するという前提が必要」ではないかと示唆されていて、私はそういうシステムには固有の弊害もあったのであまり良くないとは思いますが、しかし一般論として規制者と規制対象の良好なコミュニケーションがないとダメだ、とは今回の事例を教訓としても言えるでしょう。ディスコミュニケーションの責任がどこにあるか、例えば音楽業界がどうかということは別問題で、私には判断を下すための情報も能力もありませんが、コミュニケーションの必要性は双方に自覚される必要があると思います。

>市民さん
おや。ただこれどうも聞いている方も答えている方も問題がわかっていない印象はあって、核心は27条の「販売の事業を行う者」にあたるかどうか。「販売」にあたるとしても「事業」でなければ27条の対象にならないというのは、個人(大量あるいは継続的である場合を除く)間の売買が禁止されないことからもわかります。経産省の発表しているQ&Aにも、「個人が使用していた電気用品が不要になったために売る場合のような、事業として反復継続して販売を行っていると言えない場合は、規制の対象とはなっておりません。この点、個人がインターネットオークションやバザー等で売る場合も同様です。」という記述がありますね。
次に「販売」と言えるのは品物と支払ったお金(それが代金という名目であれ、カンパという名目であれ)のあいだに実質的な対価関係がある場合ですから、そうでなければやはり対象外です。当該記事に、「入場料を取り、家電自体は無料にすれば該当しない」という話もありますね(もちろんそれはそれで問題があるという話ではありますが)。つまりカンパを「払わないとモノを渡しません」というのは販売ですが、「払わなくても渡すけど払ってほしいなあ」とか「別のところでカンパを集めます」という話なら販売にはなりません。まあそう言うと生協が教員にカンパ袋回しそうで個人的にはイヤな予感がするわけですが。
あと補足すると、そこに載っている名古屋大学の「リユース市」は確か生協がやってるやつで、違ったかな、とにかく法学部サークルのSOLVがやってるやつではないんですよ。後者は、前にも言いましたが明らかに「事業」ではないので、逆に違法性があるのではないかと彼らが考えるようなら法律家としての素養が足りません。再教育してやります。はい。

ありゃ、おおやさんからの回答がきたよ。

じつは私も家内もあなたと同じような職種についているんですけどね、やっぱり春になると学生たちが留学生や新入生向けに家電製品や家具をバザー形式で販売(といっていいのか)するんですよ。

今回の法律でそれができなくなってしまうとかわいそーだなと思っていたんですが、法律の先生がそういうなら大丈夫なんでしょう。ちょっと安心。

まあ、関心を持っている人が多いのでたたかれることも多々あるでしょうが、いい方向へ導いてほしいと思ってますんで、がんばってください。

ありゃ、おおやさんからの回答がきたよ。

じつは私も家内もあなたと同じような職種についているんですけどね、やっぱり春になると学生たちが留学生や新入生向けに家電製品や家具をバザー形式で販売(といっていいのか)するんですよ。

今回の法律でそれができなくなってしまうとかわいそーだなと思っていたんですが、法律の先生がそういうなら大丈夫なんでしょう。ちょっと安心。

まあ、関心を持っている人が多いのでたたかれることも多々あるでしょうが、いい方向へ導いてほしいと思ってますんで、がんばってください。

おおや様

時間がないので手短に。
296の件は、私の「理由」が完全に後づけである、という先入観をお持ちだったのなら、そういう判断になってしまうのも無理はなかったですね。しかし、その時、お持ちだったアクセスログに照らして、3/25以前にはアクセスしていないはずだった296からの引用を私があえてしたことに、今初めて読んだ部分を引用したのかな?という小さな疑問符を持つことができたら、失態は避けられたでしょう。

言説戦略については、「きちんとした説明が為されれば(私個人としてはその結論に不同意であっても)満足して終わりです」というのはおおや様の真意だと思いますが、あなたの挑発的な方法ではそれがもたらされるとは思い難く、「と言ったらどう反応するかということについては想像力をめぐらしてもらいたい」という言葉を投げ返すしかなかったということです。あと、文章、特にネットにおいてのそれを書くにあたっては、斜めに読み飛ばす人や、前半だけ読んでどっか行っちゃう人のことなども考えて構成しないと、と思ったりもしますが、そのへんはそれぞれのスタイルもあるので、余計なお世話かもしれないですね。

>「法哲学を論じることが、ある日、違法行為とされ、どこかの密室でしか出来なくなったとしたら」という例については若干苦笑せざるを得ないところもあります。

以下についてですが、法曹関係者や学者が法律の制定に目を光らせているのは当然ですから、「別に私自身の事績では」以下のようなお答えが返ってくることは、もちろん、想定しておりました。が、想像以上に詳しくご説明いただいて、非常に説得力がありました。

で、そこに、なぜ、私があなたが苦笑するような質問を発したかということの答えもあります。団体の必要性、というようなことを説くにあたっては、まずはあなた自身がよく知っている世界において、それがどうあるかを語っていただくのが、大きな説得力を持つでしょう。
「私自身はまだ若造ですから」以下にはおおや様自身の「粘り」も語られていますね。

しかし、あなたはそれより先に、ソープランドの例を持ち出した。そして、「売春防止法の正当性を認めない立場からするとソープランドというのは法律という相手方の建前を逆手にとった正義の抵抗運動」などという、本当にその世界に生きる人達に対して、「と言ったらどう反応するかということについては想像力をめぐら」すのも難しいような言葉まで組み上げて、喜んでいる。そこに説得力を感じろ、と言っても無理があります。

今になって、「(風俗営業関係者のどれくらいがそうかはわかりませんが)」と言い始めるくらいだったら、「粘る」ことを説くのに、自分には縁遠い風俗営業関係者を例に出さなければいいのです。挑発する気は満々だったが、上にあるような趣旨を説得力を持って、人に問うことは真剣に考えていなかったのではないか?という印象を受けてしまうのも、だからです。

まあ、こういうお話をしても、別に説得力など要らないんです。だって、これという具体的提言があるわけでもなく、ということで終わるのかもしれませんが、だとすると、あなたの文章はそもそも、運動をしている人間、そこまで行かなくても、真剣に現実の行方を考えている人間にはノイズでしかない、ということにもなり、コミニュケーション自体が何ら有益ではない。そういう判断にもなってしまいますね。

先にあげた渡辺健吾さんのBLOGに、私が非常に共感したのは、そこにグレーな中で粘っている人間の肉声があるからです。私も明らかに風営法に違反しているクラブで DJをやってきた人間なので、同じ現場感を共有しているということもあるでしょう。外に警察が来てる。音を消せ、みたいな体験もたくさんしていますし。
そういう意味では、風営法に対しては、グレーの中で粘っているひとりです。しかし、PSE法でまた別のグレーが、自分の人生に覆いかぶさってくるのはまっぴらだ。そう思っている。

ちなみに、一つ前のエントリーのコメント欄で書かれていたことに注意を促したいのですが、渡辺さんはBLOGで「本来中古品は規制対象外だったのではないかという疑問」を国会、行政の過去の動きに照らして、提示しているだけであって、中古品を含まない法解釈で論陣を張っていたわけではまったくないです。

手短かのはずが、すでに長いですね。

以上は説得力にまつわる話の続きですが、「グレーな生き方を強いられる中で、シロクロをつけるためのアクションを起こすのは難しい」にまつわる部分については、もっとデリケートな話を含みますので、もう少し時間が見つけられた機会に譲りましょう。

情緒的な議論に紛れて、販売の概念に関する定義が拡散してますね。
あと「みずすまし」さんのレスに対しても答えがないので、簡単に口を挟みます。
おおや氏は経産省の意図として5年前から中古を含めていたという主張をされているわけですが、これはどうお考えでしょう。

http://www.meti.go.jp/policy/consumer/seian/denan/outline/hou_outline.htm

あとこの資料からも経産省の解釈がどういうものであったかはわかると思います。これは前のレスで指摘した「販売という概念が、中古を含まない」という例です。電気安全法以外では、中古は規制されませんし、すべての用語は同一コンテキストにあります。

http://www.chubu.meti.go.jp/koho/pamphlet/pamphlet.htm#syouhisya

テキスト至上主義的解釈から大屋氏の解釈が出てくるのはわかりますし、それは理解の範疇です。しかしそれは経産省の解釈が同じであったという理由にはなりません。
たとえば大学でのバザーについて電話で経産省に問い合わせた人は「違法」と答えをもらったようです。しかしもちろんソープランドも違法なので、大屋説では問い合わせをした方が悪いわけです。
と言っても、経産省の公式な見解が、すべて大屋氏の法解釈を否定するものであることは事実です。
大屋氏が中古屋を責める根拠となるのは、具体的には「附則の削除に気づかなかった」というだけのことですよね。

市民さんみたいな権威に弱い方もいるので、挑発的、断定的な言い方を改めてくれというような倫理を押し付けるつもりはありません。
ただ、こういう反論はつきますよということです。
それも含めて言論の場とする公平性については評価させていただきます。

K様

おっしゃられるところの「テキスト至上主義」「テキスト至上主義的な自慰的論争」というのがどのような意味なのか良く分かりませんが、電気用品安全法上の「販売」は、同時に審議された法案との関係を考慮して、また「電気用品安全法の概要」などを参考にして解釈すべき、とのご意見は了解いたしました。

しかし、そのように解釈した場合に電気用品安全法上の「販売」が商法典における「販売」と異なるとすると、おそらく、そのような電気用品安全法上の「販売」はもはや「商法上の販売」とはいえないものですので、前回のような質問をさせていただきました。


> 電気用品安全法は、平成11年度に法まとめて審議された11法案の中のひとつです。
> まとめて審議する法的根拠は同一のコンテキストであるということです。つまり「製
> 造」や「販売」の概念は、電気用品安全法独自のものでなく、11法案に共通のもので
> なければなりません。経産省もこの4年間はその解釈を取り、 PS法製品安全4法につ
> いて、同一コンテキストによる共通パンフレットを制作しています。


「平成11年度に法まとめて審議された11法案」とおっしゃるのは、「消費生活用製品安全法」、「液化石油ガスの保安の確保及び取引の適正化に関する法律」、「ガス事業法」、「電気用品取締法」(題名を「電気用品安全法」に改正)、「電気事業法」、「火薬類取締法」、「高圧ガス保安法」、「計量法」、「航空機製造事業法」、「揮発油等の品質の確保等に関する法律」、「熱供給事業法」の十一の法律がそれぞれ一部改正れた改正案を指すのだと思います。

そうすると、それらを現実に改正した「通商産業省関係の基準・認証制度等の整理及び合理化に関する法律」の内容は、附則も含めて、「『製造』や『販売』の概念は、電気用品安全法独自のものでなく、11法案に共通のものでなければなりません」とするK様の議論においても、やはり重要な重みを持つのではないでしょうか。

ですから、

> 大屋氏が中古屋を責める根拠となるのは、具体的には「附則の削除に気づかなかった」
> というだけのことですよね。

とおっしゃっていますが、「通商産業省関係の基準・認証制度等の整理及び合理化に関する法律」の附則の内容は、K様の立場から見ても、電気用品安全法上の「販売」の解釈に重要な影響を及ぼしうるはずだと、私には思えます。

この点、どのようにお考えでしょうか?


さて、私は「電気用品安全法の概要」それ自体の内容からは、中古品の業としての売買は「電気用品安全法の概要」でいう「販売」に含まないと理解したほうが、より自然だと思います。ですから、他の資料が一切なければ、電気用品安全法上の「販売」に中古品は含まないとする根拠として、十分な説得力を持つと思います。

しかし、第一に、「電気用品安全法の概要」にいて「中古品は販売に含まない」としない解釈も不可能ではないと思います。それは、「電気用品安全法の概要」においては、中古品を業として売買する業者の手に移った後は、中古品は「電気用品安全法の概要」でいう「製品流通前」の状態に復帰すると考えることによって可能になります。

第二に、「電気用品安全法の概要」は「概要」に過ぎません。概要とは、なにか対象となる作品なり、法律なりがあって、そのおおよその内容を伝えるものに過ぎません。

ある映画の概要にその映画の中で自分にとっては一番大事なシーンが触れられていなかったとして、「その概要は、できの悪い概要だ」ということはできても、それが他の部分ではその映画のおよその内容を伝えている限り、それをその映画の「概要」と呼ぶことができない、ということにはなりません。

ですから、「電気用品安全法の概要」は電気用品安全法の一部しか触れられていない、ということはありえることです。つまり、「電気用品安全法の概要」でいう「販売」に中古品が含まれていないとしても、電気用品安全法上の「販売」に中古品が含まれていない、ということはできません。

以上の第一の点では、「電気用品安全法の概要」の「販売」に中古品を業として売買することが含まれない、とは断定できないと私は述べました。第二の点では、仮に「電気用品安全法の概要」の「販売」に中古品を業として売買することが含まれないとしても、それをもって電気用品安全法上の「販売」に含まれないとは断定できない、ということを私は述べました。

(加えるならば、省庁の行政解釈は法律の解釈においてとくに権威を持つものではない、少なくとも限定的なものである、ということもいえますが、この点はおいておきます。)

この二点、いかがお考えになりますでしょうか?


最後に、

> >「新品だけに限定されており中古を含まない『販売』」の用例があれば話は変わって
> きますが。
>
> つまりは、他のPS法の運用例(ガスコンロやベビーベッドなど)が、これにあたる訳で
> す。

> これは前のレスで指摘した「販売という概念が、中古を含まない」という例です。電気
> 安全法以外では、中古は規制されませんし、すべての用語は同一コンテキストにありま
> す。

という部分ですが、「通商産業省関係の基準・認証制度等の整理及び合理化に関する法律」附則の第五条(移行特定製品に関するもの)、第十八条(移行液化石油ガス器具等に関するもの)、第五十条(移行電気用品に関するもの)、第六十一条(移行ガス用品に関するもの)をみると、「通商産業省関係の基準・認証制度等の整理及び合理化に関する法律」施行によって(それぞれ以前の法律による表示がある限り)現時点では中古品の流通も制限されていないように思えます。私は「通商産業省関係の基準・認証制度等の整理及び合理化に関する法律」を精読していないので、曖昧ですが…

従って、「『販売』に中古品が含まれてるとすると規制されているはずの中古品」というものは、以前の法律による表示がないものを除いて、現時点では存在しないことになります。そうすると、以前の法律による表示がないものを除いて、「『販売』に中古品が含まれてるとすると規制されているはずの中古品」の流通が電気安全法以外では認められているという運用例も存在しないように思えます。

すると、K様がおっしゃられていることは、以前の法律による表示がないベビーベッドが流通しているということでしょうか?

補足です。

私は、ノーマルな法解釈論としては、電気用品安全法上の「販売」が業としての中古品の売買を含むと考えています。行政庁の判断が法の意味を規定するかのような議論に賛成できません。行政庁の判断が法の意味を規定することを広く一般に認めてしまうと、様々な問題がでてきてしまいます。

しかし、電気用品安全法に関して言えば、「悪法は法ではない(従って、守らなくてよい)」とか、「法であっても、それを守ることが正義に反する場合には、守らなくてよい」とかいう例外的な議論が当てはならないかと言えば、当てはまらないと言い切る気はありません。そして、そのような議論のうえでは、経済産業省の「電気用品安全法の概要」が市民に与えた影響、「電気用品安全法の概要」によって市民が法に関してもった予測、というのは十分に顧慮に値すると思います。

さらには、また「悪法は法ではない」とか、「法であっても、それを守ることが正義に反する場合には、守らなくてよい」とかいう例外的な議論が、法解釈論にフィードバックされ、例外的な場合の法解釈論というものがありえないわけではないと思います。

ただ、今回は、よりノーマルな法解釈論に絞らせていただいた次第です。

人様の掲示板なので、議論は簡単にさせていただきます。ご了解ください。

>「商法上の販売」とはいえないものですので、前回のような質問をさせていただきました。

私のレスで商法と書いたのは、より広義な概念のつもりだったので、言葉として適切ではありませんでした。たとえば「再販価格維持制度」では販売という概念に中古を含みません、というくらいの意味です。

>私は「電気用品安全法の概要」それ自体の内容からは、中古品の業
>としての売買は「電気用品安全法の概要」でいう「販売」に含まな
>いと理解したほうが、より自然だと思います。

これについてコンセンサスが得られれば十分です。
条文のテキスト解釈において、私はみずすまし氏(おおや氏)を否定するものではありません。
ただし経産省の解釈はそうではない、なので大屋氏の発言は中古店についての言いがかりに過ぎないと言ってるだけです。
附則の削除に意図を見いだせるなら、映画の出来の悪さ、それも流通後の規制として販売規制を記載しないなどという致命的な失敗にも、
何らかの意図が見いだせるはずです。

>以前の法律による表示がないベビーベッドが流通しているということでしょうか?

そういうことです。

>経済産業省の「電気用品安全法の概要」が市民に与えた影響、「電
>気用品安全法の概要」によって市民が法に関してもった予測、とい
>うのは十分に顧慮に値すると思います。

「できの悪い映画」がある以上、原作に内在する中古業者への意図を察するのは困難ということですね。つまりこれもまた中古業者の勉強不足を指摘する根拠の脆弱さを示す認識だと思います。

>行政庁の判断が法の意味を規定するかのような議論に賛成できません。

そうかも知れませんが、その出来の悪い映画が強制力を持っている
わけです。たとえば名古屋大学でのバザーですが、誰かこの掲示板を読んで経産省に通報しようと思うかもしれません。
そうなると名古屋大学のバザーは経産省の法解釈に権威があろうとなかろうと、もうソープランドなのです。そうした状況下で、大屋氏は自分の言葉に責任を持ってバザーを許可できるでしょうか?
脳内で議論されるのは自由ですが、その法のグレイゾーンに入った者にとってはただ「権威を認めません」で片付けられる問題ではないでしょう。

最初の問いですが、削除に秘められた意図については私なりの意見はあります。が、長くなる上に推論の域を出る事はないので割愛します。その代わりに7年前の審議録へのリンクを貼りますので、立法意図をご自分で御確認ください。何度となく「製品流通前」の規制という言葉が飛び交うことから、明らかに7年前の立法時において、中古流通は想定されていなかったことがわかると思います。

http://www.shugiin.go.jp/itdb_kaigiroku.nsf/html/kaigiroku/001014519990611017.htm

おおや様

前のコメントに対するレスを頂く前になってしまいますが、先に進ませていただきますね。

さて、先の私の質問に対するおおや様の苦笑の理由は、ひとつには、「言論の自由」や「学問の自由」が保障されている(100%とは言いませんが)世界ではある日、突然、法哲学を論じることがグレーな世界に閉じ込められてしまうことは、まずありえないからでしょう。
また、そうならないように、そこでは相応の歴史を持つ「団体」も機能している。おおや様自身も努力している。
というのは、しごく理解しやすいですが、それは先にも書いたように、法律や政治に敏感であろう人達が集まった世界のことでもあります。

他の業界も同じように、とはなかなか行かないでしょうが、自分達のためなのだから、そこは頑張れ、というエールをおおや様は送ってくださる。それはそれはご親切に、なのですが、ただ、音楽関係者を例に出しての「「していない」という判断や批判をする気はさらさらないのでそれぞれの社会の内部の方に自問していただければ結構なのですが、問いたいところです」」のくだりとなると、当事者としてどうにも受けとめようがなかったりする。オマエラに自問を促せばオレは満足、だけで畑に踏み込まれても、邪魔くさいだけですから。
問う前に調べろよ。問うたからには答えを待てよ。そして、評価判断しろよ。とはなりますね。もしくは、そこまでしたくないんだったら、すっこんでろ、と。

話を戻すと、ほぼシロである世界においては、そういう団体が形成され、機能することは相応の努力で可能であろう。それは良いとして、では、すでにグレーな世界にあって、そこでも同じように「団体」が形成され、機能することが可能であろうか? ということを考えると、そんなことよりも個々の業者、あるいは個人がいかにグレーと親和するか、具体的に言ったら、「おめこぼし」といかに付き合うかといったことにエネルギーが向けられるのが実情でしょう。
299には「おめこぼし」について、警察の取り締まりの限界、的な非常に単純化された解釈が述べられていますが、そこに生きる者にとっては、はるかに神経をすり減らす、デリケートな問題であるはずです。おめこぼしにはおめこぼしの代償が必要になる。もちろん、それは限りなく濃いグレーに染まらざるを得ないでしょう。

ここらへんの話のデリケートさが、私の「グレーな生き方を強いられる中で、シロクロをつけるためのアクションを起こすのは難しいんだよね」という一文にも関わってくるわけですが、とりわけ、PSE問題においては、昨日まで誰もがシロと思っていたことが、明日からグレーに染まるのです。例えば、今春、リサイクルショップに就職する予定の青年にとっては、それは晴天の霹靂だったかもしれないし、それに対して彼が何が出来たのか?ということを考える時に、いや、だから「団体」が形成されていなかった、機能していなかった、などと、説かれたところでねえ。

このあたりに関連して、幾つか、さかのぼって、おおや様から私に向けられた言葉を引用しつつ、書かせていただくと、

>そういうのを「グレーの度合いも受け入れて、それを選び取っているはず」と一刀両断できる理由がよくわかりませんね。

とありましたが、これは一刀両断、などというつもりはまったくなく、そもそも、私の「グレーの度合いも受け入れて」という言葉は、その直前にある、あなたの「法の外側であることに耐え」とほぼ同義です。私は「耐え」よりもむしろ軽い「受け入れ」という言葉を使っていますので、法に触れる、あるいはぎりぎりの、グレーな世界であることは知りつつそこにいる、ということを言っているだけと考えられる。売る側も買う側も含めですね。
また、「「グレーの度合いも受け入れて」の前にある「そういう人達」の「そういう」は「それを愛する人、それこそが人生である人」を受けていますので、これもまたあなたの「胸を張って言いたい・言える当事者」とほぼ同じことを言っているといい。大学で教鞭を取るような方が、このくらいも読めないのは非常に不思議です。
これで、もし私が何かを一刀両断しているのなら、あなたも同じでしょう。

もちろん、この部分はより多くのデリカシーをもって考えれば、「苦界に落ちる」などという言葉も、ほぼ死語とはいえ、なくはないですから、そこで働く人々のことを考える時には、誰もが職業選択の自由の範囲内で、風俗産業の持つグレーの度合いを受け入れること選び取っているとは限らない、という指摘はありうると思います。その点は、私もやや不用意であった感はありますね。が、私が何よりも気にかけているのは、その次におおや様も提議している、受け入れる、受け入れない以前に、「グレーな生き方を強いられる」人々を考え合わせた時の問題です。

「グレーな生き方を強いられる中で、シロクロをつけるためのアクションを起こすのは難しい」と、私は3/18の時点で書いているのですから、おおや様に性同一障害の方々の話をふられる以前に、「強いられる」人々がいることが考えの中にあったことは、お分かりいただけますね。
この一文に対しては、

>「グレーでも実質的な支障がないからいいじゃん」「クロに出たらどうするのさ」というような反応がどうしても出てくるから、というご趣旨でしょうか。そこから「『グレーで粘れる』ことを指摘すること自体がアクションの邪魔になる」というご批判だとすれば

という仮定が書かれていましたが、どこをどう読んでも、誰かへの批判であるわけがないでしょう。3/18に、おおや様との論戦材料となることを想定して、これを書いていたとしたら、私は予知能力者です。まあ、3/25のBLOGの「冗談じゃない」発言とあわせて、批判と受け取られたのかもしれませんが、これを書いた時点ではただ、難しさを嘆いているだけです。

この「強いられる」ことの中には、おおや様が指摘するように、性同一障害者の問題などもあると思われ、それは職業選択の自由、の範囲内で、グレーから脱することが出来る人々の例とは、一線を画して、考えるべきものに思えます。
それとは別に、今、ここで考えねばならないのは、昨日まで誰もがシロと思っていたことが、明日からグレーに染まる。それが強いられる時に、その新しいグレーの中で、慣れないグレーの中で生き始めねばならない人々のことでしょう。PSE法の問題はまさにこれですね。この場合、それはある種の政治的な人災、ともいうべき色を帯びてきたりもする。

>グレーなものと一緒にするなというモノイイは、理解はできますが、そういう人々に対して失礼であるとは今でも思っています

とありましたが、私は「グレーなものと一緒にするなというモノイイ」などしていないですよ。「グレーなもの」すべてを乱雑にひっくるめて、発言などしていない。とりわけ、性同一障害者の方々の問題には過去には触れていませんので、勝手にそれを含められては困ります。私はフーゾク、ソープランドという言葉しか使っていないのをご確認ください。それをグレーという言葉を使って指す場合には「営業」という言葉を添えていることも。

「一緒にするな」ということを私が言うとしたら、そこにある「グレーなもの」が、グレーなりにある程度の期間、ある程度は安定して存在していて、多くの人は特別に強いられて、そこにいるわけではない場合(その一例として風俗産業)と、ある日、シロがグレーに変わり、多くの人が望む望まざるにかかわらず、慣れないグレーの中で生き始めることを強いられる場合(その一例としてPSE法本格施行後の電気製品の修理業)を一緒にするな、ということなら、言いたいと思います。
ちなみに、この前者には、私自身が長く関わっている風営法違反(あるいはぎりぎり)で営業している深夜のクラブも含まれますので、この「一緒にするな」が差別的だというならば、私は私自身を差別していることになりますね。

逆に私がおおや様に対して疑問に思っていたのは、そういう時、「強いられた」人は何をしうるか? あるいは、「強いられた人」に対して、第三者が投げかけられるのは何か?ということをおおや様がどれだけのデリカシーを持って、考えられてきたか、ということかもしれないですね。「そういう人達への失礼」を気にかけてくださるおおや様ですから、「そういう人達」が上記のような、シロからグレーへの変化を強いられる人々である場合にはどうなのか(どうだったのか)?

今更ながら、ここに戻りますが、

>お目こぼしになる方法を考えるとか、規制を潜脱する方法を編み出すとか、あとは摘発されて罰金だの何だのを払ってももうかるだけの利潤を上げるとか、いろいろ対処法というのはある

などと、グレーになってからのウマく振舞う選択肢をアドヴァイスされたところで、あなたが私の質問に苦笑したのと同じように、多くの当事者からは苦笑しか返ってこないでしょう。そんなことは、当事者はまず最初に考えていますって。反対運動などは多くの当事者にとっては二の次です。私自身もそうであったのは、BLOGを読んでいただいたなら、お分かりでしょう。

学者などに教えられなくても、経済に生きる人々はそんな対処はする。黙ってやるのです。とりわけ、おめこぼしの受け方、その代償の払い方、なんてことは。
しかし、グレーになってからでは、様々なことが敗者復活戦の様相を帯びてきます。
「グレーな生き方を強いられる中で、シロクロをつけるためのアクションを起こすのは難しい」はそのことを指してもいます。団体の必要性、など説かれても、グレーになってからでは、「おめこぼし」の牽制作用によって、それぞれが身動きできない場合も多いでしょうし。そう考えると、「PSE問題を考える会」はうまいタイミングで滑り出したようには見えますね。今や、経産省は「考える会」の言いなりにも見えたりしますし。

いずれにしろ、PSE問題はまさに今、グレーに染まるボーダーラインにある。と考えると、シロクロつけたいオレとしては、冗談じゃない、こんな場所でぼやぼやしているなんて、ということになりますので、そろそろやめに致しましょう。といっても、あと一点だけは次の機会に譲りますが。

すみません。上記、コメントの
性同一障害→性同一性障害
の表記ミスです。謹んで、訂正させていただきます。

>BB(高橋健太郎)さん
まず簡単に済む点から。

第一に言説戦略の妥当性に関する評価については、BB(高橋)さんの評価はそのようであるということは理解しましたし、反省するところもあります。「斜めに読み飛ばす人」についてはその方が悪いといいたいところもありますが、しかしその存在を念頭に置くべきだというのは事実でしょう。
第二、渡辺さんの記述については確かに「中古販売は対象外だったのではないか」ということを問題のレイヤーとしてしてしておられるだけですね。ただ、これは「対象外と経産省は考えていたのではないか」であればまともな問題として成立するのですが、「法的事実として対象外なのではないか」だとほぼ正当化不能である。この部分の記述のみからは前者らしいのですが不確定だと思います。「論陣を張っていたわけではまったくない」とのことですので、そのような人の範囲からは除外させていただきたいと思いますが、しかしこのBlogのコメント欄等をごらんになればおわかりの通り、「中古は法的に対象外」と主張していた方が多数おられたのは事実としてお認めいただけるのではないかと思います。
第三に、mixi日記に対する部分につき、「どこをどう読んでも、誰かへの批判であるわけがないでしょう。3/18に、おおや様との論戦材料となることを想定して、これを書いていたとしたら、私は予知能力者です。」とお書きです。まず当該部分が3/18にmixi日記に書かれたものだということは承知していますが、BB(高橋)さんご自身で「言いたいことを手軽に補足するために」と書かれている通り、その文章をその段階で引用することには一定の意図があるはずです。それが私へのご批判ではないかという趣旨でありそれ以外には取りようがないと思いますが。

さて長くなる話の一つめ。「一刀両断」の件について、私が指摘したかったのはBB(高橋)さんが自認されたとおり、「より多くのデリカシーをもって考えれば(……)そこで働く人々のことを考える時には、誰もが職業選択の自由の範囲内で、風俗産業の持つグレーの度合いを受け入れること選び取っているとは限らない」ということです。たとえ現状については受け入れているとしてもそれが自由な選択の結果だとは思えないし、また「職業選択の自由、の範囲内で、グレーから脱すること」のできない人だっている。そういう人が「ソープランド(……)そんなグレーな場所」という表現を読んだときどう考えるか。この点に関して、上で言及したMixi日記(3/18)で「グレーな生き方を強いられる中で、シロクロをつけるためのアクションを起こすのは難しい」とお書きですから、「強いられる」人々のこともBB(高橋)さんの念頭にあった、ということは十分認めて良いと思います。しかしそれが反論になるなら、いささか奇妙なことになるでしょう。
つまり、まず本件の発端である「雑感」において私が問題にしたのは「日本シンセサイザープログラマー協会」という団体のみであり、個々人については疑問を呈してはいるものの直接の批判対象ではない。リサイクル業界に至ってはほとんど言及すらしていない。「私がこう思っていた」が文章解釈の根拠になるなら、多くのコメントは「誤読」であり、私は「勝手にそれを含められては困ります」と答えればいいことになります。
さてしかし私はそれらの方々に回答するために「フォロー」を書きました。これについてBB(高橋)さんが「冗談じゃないよ」とお書きになったわけですが、すでにご自分で認めておられるとおりその際の解釈は私が書いた文脈と違うものでしたから、やはり「誤読」と言うことになるでしょう。「そう読みたくなる根拠があった」とおっしゃいますが誤読は誤読である。それで終わりなのではないでしょうか。
もちろん私自身はそう思わないからここまでいろいろと書いてきたわけですが、それは「確かに私自身の意図とは異なっているが、そういう読み方をすることにも一定の正当性がある」と考えるからです。著者と読者が文脈を共有しないことはあって、しかし読者には自分の文脈に引きつけて読む自由がある。もちろん限界はあってお引き取りいただいた方も出ましたが、さまざまな文脈の読者の読みに対して応答する必要が、著者にはある。おそらくこう言われればBB(高橋)さんも同意されるのではないかと思いますが。
さて、そうなると重要なのはあくまでも3月25日にBlogにおいてどう書かれたかであり、それが人々にどう読まれるかなのではないでしょうか。第一にBB(高橋)さんご自身が指摘されているとおり、「文章、特にネットにおいてのそれを書くにあたっては、斜めに読み飛ばす人や、前半だけ読んでどっか行っちゃう人のことなども考えて構成しないと」いけないのでしょうが、第二にこの場合、根拠となっている文章が載っているのはBlogの過去の部分ですらなく、Mixiという別の・閉ざされた空間ですから。
そこで元の文章に戻れば、そこでは「ソープランド」は端的に一緒にしてほしくない対象として使われています。「「一緒にするな」が差別的だというならば、私は私自身を差別していることになりますね。」というご反論もありましたが、差別的な表現というのは多くの場合その差別性に気付かないことがまさに差別なのだし、被差別者ほど「自分たちとどこかで違う」さらに少数の被差別者を作り出そうとする傾向があるものだ、とは指摘しておきます。

二つめ、「そんなことは、当事者はまず最初に考えていますって。」あるいは「学者などに教えられなくても、経済に生きる人々はそんな対処はする。黙ってやるのです。とりわけ、おめこぼしの受け方、その代償の払い方、なんてことは。」とお書きですが、第一にこのBlogの展開を見る限り、コメント欄に来られた皆さんはどうもそうではなかったらしいということはお認めいただけるかと思います。「某古物屋」氏の引用している「『元』一古物商」氏などは当事者に違いないと思いますが、その証言が事実であるとすれば「グレーになってからのウマく振舞う選択肢」を考えたりせずに在庫を売り払って大損されたようです。あるいは「通行人A」氏の引用された自営業者の方なども、担保価値の下落について怒ってはおられますがそれに脱法行為等で対処しようとしているようには見えません。つまりBB(高橋)さんによれば当事者が当然考えているはずの対処・やっているはずの対応をしていない人というのはいくらも実在するようですし、「この問題で騒いでる人の多くは法律をきちんと守る意志のあるいい人なんだろうね。」(299)という私の言葉は、そういう「学者など」が考えつく程度のことすらしていない人に向けられているわけです。
第二に、「学者などに」という表現からはまあ学者などというものはそういうグレーな領域には関係ない、「グレーな領域で粘ったことのない人間」だというBB(高橋)さんのご判断が示されていると思うのですが、それはどのように確認されたのでしょうか。というのは、まあまず学者一般についてあるいは「本を読んで本を書いている人・授業もしている」くらいの印象を元にお話しなのかなと思いますが、すでに述べたように学会の取り組みなどもあるわけです。そういう説明が最初からあれば理解しやすかったというご指摘はその通りかと思いますが、しかし続いて「ほぼシロである世界においては、そういう団体が形成され、機能することは相応の努力で可能であろう。」と書かれる。これはどういう根拠に基づかれた判断なのかという点が気になります。
一つは私自身が書いた通り支援対象国などにおいては「シロ」ではないことがありますし、そういう国々と私が無縁でいられるわけでもありません。法整備支援事業のために現地駐在されていた専門家の方から、公安警察に監視されて尾行もついていたという証言をお聞きしたこともあります。留学生の研究指導などにおいても気を使う点で、もしかすると我々が下手なサジェスチョンをしたせいで彼が濃すぎるグレーに踏み込んだ論文を発表してしまったり、その結果どこに行ったかわからなくなってしまったりする可能性がある。これなどは直接自分に生じる危険ではないですが、だからこそより慎重に扱わなくてはならない問題です。自分の発言で自分が捕まるならある意味本望ですが、弟子が行方不明になったりしたら悔やんでも悔やみきれないでしょうから。
もう一つ、例えば続発する科学研究関係のミスコンダクト(データ捏造や研究費不正)に対処するための行動規範作りというのが今進められていますが、これが不正を押さえ込もうとするあまり学問研究の自由を制約するような内容になっているという危惧が研究者側からは示されており、日本学術会議において政府方針を覆すために動いている研究者たちがいるわけです。「不正はダメなんじゃないか」と言われるかもしれませんが、例えばさまざまな研究費や補助金が国の単年度主義の影響で2月から6月まで使えないというような実情がある一方、ちょうどその時期に学生の卒業研究をやらせる必要がある。表にはとても出せないような方法で研究費をプールしておかないと学生が卒業できない、という理系の先生たちだっています。(研究者としては)正しいことが(法律では)許されていない、下手をすれば失職するだけではなくて手が後ろに回る、それをどうするかというグレーな領域の処理は、学者なら多かれ少なかれやってるんじゃないかと私は思います。そもそも学者というのは研究者・教育者であるだけではなく大学という組織の運営者でもあります。本学だと構成員2万人ですか。それだけの大組織の運営に関わっていて「グレーな領域で粘ったことのない人間」なんかいないだろうと思いますが。
あるいは、不景気や大学業界全体の縮小傾向の影響もあるでしょうが、「昨日まで可能だったことが明日からできなくなる」話などごろごろしていまして、「全国国公私立大学の事件簿」(http://university.main.jp/blog/)などをご覧になれば、不当解雇や不当労働行為がどれだけ発生しているか、それに対して学問の領域と環境を守るために研究者たちがどれだけ活動しているかということがおわかりになろうかと思います。これらを見てもBB(高橋)さんは「学者など」「グレーな領域で粘ったことのない人間」だと、言い切れるのでしょうか。私の「苦笑」は「突然、法哲学を論じることがグレーな世界に閉じ込められてしまうことは、まずありえないから」ではなく、その可能性をなくすために我々がしている努力を知りもせずに・調べもせずに、我々のことをそんな想像もしていない人間だと決めつけられたことに対するものです。「問う前に調べろよ。問うたからには答えを待てよ。そして、評価判断しろよ。とはなりますね。もしくは、そこまでしたくないんだったら、すっこんでろ、と。」というBB(高橋)さんのお言葉は、ご自分には向けられないのでしょうか。
さらに言うと以上は学者の一般論であり、私個人がどのような人間かはまた別問題です。おそらくBB(高橋)さんは私と個人的に会ったり、私の経歴について詳しく知る機会などなかったと思いますが、にもかかわらず「学者など」「グレーな領域で粘ったことのない人間」だとおっしゃる。すでに書いたとおり「俺は野暮じゃない」と主張するほど野暮なことはないというのが私の信条ですし、過去をひけらかすような趣味もありませんのでそれ以上は言いませんが(もちろん以上はすべてハッタリであって私は本当に本を読むしか能のないただの学者である可能性も十分にありますが、少なくともこの年齢で研究科長補佐を務めている人間を「ただの学者」と呼んだら、まあ、笑われるのはそう呼んだ方でしょうな。野暮な話ですが)、BB(高橋)さんの議論は「学者」にせよ「経済に生きる人々」や「当事者」にせよ頭の中で作り上げたステロタイプに依拠しているのではないかと、正直に申し上げてそう思います。

さて、しかし私としてはステロタイプに基づく批判を向けられたことをさほど損とは思わないところもあって、というのは以上のように自分では当然と思っていることを説明し直したり、そのために考え直したりする機会になるからです。そもそも一般的に「批判してくる人」というのは一定の社会なり運動なりにとって歓迎すべきもので、それはその人が少なくとも興味を持って働きかけてきているからです。完全に無視されたり、カーテンの向こう側でくすくす笑われているのに比べれば実ははるかに好意的であり、説明や説得によってこちらの支持者に変えることができるかもしれない存在です。そこまで行かなくても「この問題とはつながりを持った」と感じる人がいることが、潜在的にどこで機能するかわからない。だから運動を進めようとするなら、不当な批判や無知な反応であっても拒絶するのではなく対応しなくてはならない。これは私個人の信条であり別に押しつけようとも理解させようとも思いません。まあ、少なくとも社会運動的なものを見て分析し続けてきた人間はこう言っているくらいに思っていただければよろしいかと。
それでもそういった反応が「そもそも、運動をしている人間、そこまで行かなくても、真剣に現実の行方を考えている人間にはノイズでしかない、ということにもなり、コミニュケーション自体が何ら有益ではない。」とお感じになるなら、正直に言えば、それこそフォロー(1)で書いた典型的な失敗パターンにはまっていると、私なら言うことになります。その指摘もノイズだと言われるなら別にもう何も申しませんので、ご自由に活動なさってください。
最後に、いま「冗談じゃない、こんな場所でぼやぼやしているなんて」というのはその通りだと思いますから、「あと一点」にせよ反応にせよ反論にせよ、お急ぎにならなくて結構ですとは申し上げておきます。

おおや様

返答をありがとうございます。ようやく、説得力のある言葉をたくさん得られて、嬉しくも思います。
以下、インラインでの議論に限らせていただきますが、

>しかしこのBlogのコメント欄等をごらんになればおわかりの通り、「中古は法的に対象外」と主張していた方が多数おられたのは事実としてお認めいただけるのではないかと思います。

この点ですが、どうも、おおや様は自身のBLOGのコメント欄を、社会一般の判断材料にされ過ぎているように思います。
もちろん、多数いたのは事実でしょう。
が、私の指摘は、私がネット、あるいは、その他のメディアをチェックしている限りにおいては、「中古は含まない」法解釈が趨勢を占めているようには見えなかったのだが?ということです。
もっとも、そこで、経産省の対応は「中古は含まない」を前提にしていなかったか?と言っているだけの方々まで、「中古は含まない」という法解釈をしていると、話をごっちゃにした場合は、印象は違って来るかもしれませんが。
渡辺氏のBLOGに対する、おおや様の最初の反応を見ると、どうも、そういう傾向を感じざるを得ません。

>それが私へのご批判ではないかという趣旨でありそれ以外には取りようがないと思いますが。

つまり、このコメント欄への引用は、おおや様への批判に援用する目的ではなかったか?というご趣旨ということですね。
それは違います。
まず、私はおおや様だけに向かって、ここで文章を書いている訳ではなく、読まれる方々のPSE法にまつわる問題点の整理、理解などにも繋がったら、ということも頭に置きつつ、書いています。
少なくとも、件の文章を引用した時点では、それは話の整理に役立つ、グレーゾーンというような話をするにあたっての、私の考え方を示している文章が過去にあったのを思い出して、引用したに過ぎません。その時点では、おおや様がそれに対して、どういう反応をするか分かりませんし、もちろん、反応次第ではそこから激しい批判の応酬などになりうることもあるでしょうが、同意が得られて、別の有意義な話に進むことも可能性としてはある。ですので、引用の時点では、ただ読んでいただきたい、という以上のことはありませんでした。
別の言い方をすれば、挑発したつもりはないですね、この引用に関しては。

>「一刀両断」の件について、私が指摘したかったのはBB(高橋)さんが自認されたとおり、「より多くのデリカシーをもって考えれば(……)そこで働く人々のことを考える時には、誰もが職業選択の自由の範囲内で、風俗産業の持つグレーの度合いを受け入れること選び取っているとは限らない」ということです。

これは申し訳ありませんが、「一刀両断」の言葉がある元のテキストからは、そうは読めませんでした。そう読めたのであったなら、私が「より多くのデリカシーをもって考えれば」以下の文章を書くはずはないでしょう。
おおや様がそもそも、それを言いたかったのであれば、「ソープランドにも「職業選択の自由、の範囲内で、グレーから脱することのできない人」だっている」という指摘をシンプルすべきと思われますが、実際は性同一性障害者を例に出して、話を拡散させてしまいました。
元のテキストにおいても、おおや様は「「正義の抵抗運動」と思っている人」、「「必要としてくれる人がいる」「社会的に必要とされる財を供給している」と胸を張って言いたい・言える当事者」には言及していますが、「職業選択の自由、の範囲内で、グレーから脱することのできない人」には言及していません。
言及はしていないが、視野には入っていて、そこを趣旨として「一刀両断」のくだりを書いた、と。そうですか。

当初のテキストでそこまで言及できなかったのは私も同じでしたが、そこに一定のデリカシーの不足を認めた私と、そういう自戒をした時点で、私が先に言葉にした「職業選択の自由、の範囲内で、グレーから脱することのできない人」(あくまでソープランドにおけるですよ)をもって、そうそう、それがそもそもの趣旨であったと、後出し的に趣旨説明に使われるおおや様をどのように見比べるかは、ここをお読みになっている方々に任せましょう。

>もちろん私自身はそう思わないからここまでいろいろと書いてきたわけですが、それは「確かに私自身の意図とは異なっているが、そういう読み方をすることにも一定の正当性がある」と考えるからです。著者と読者が文脈を共有しないことはあって、しかし読者には自分の文脈に引きつけて読む自由がある。もちろん限界はあってお引き取りいただいた方も出ましたが、さまざまな文脈の読者の読みに対して応答する必要が、著者にはある。おそらくこう言われればBB(高橋) さんも同意されるのではないかと思いますが。

これには基本的に同意致します。

>そこで元の文章に戻れば、そこでは「ソープランド」は端的に一緒にしてほしくない対象として使われています。「「一緒にするな」が差別的だというならば、私は私自身を差別していることになりますね。」というご反論もありましたが、差別的な表現というのは多くの場合その差別性に気付かないことがまさに差別なのだし、被差別者ほど「自分たちとどこかで違う」さらに少数の被差別者を作り出そうとする傾向があるものだ、とは指摘しておきます。

では、私の3/25のBLOGの文章に戻りましょう。話を拡散させないためにも、後出しであったmixi日記からの引用などは忘れましょう。
読んで頂ければ分かると思いますが、もともと、それは「個人的な話」として書き出されています。そこに出て来るのはハイファイ堂、清進商会といったオーディオショップとソープランドだけですね。となると、それらと私個人の関わりは、売る側ではなく、買う側しかありません。
つまり、客として、扉をくぐる時の気持ちが同じになっちゃうのは嫌だ、という個人的な思いを私は吐露しているわけですが、そこでも「職業選択の自由、の範囲内で、グレーから脱することのできない人」が問題になるでしょうか?

それから、せっかく元の文章に戻ろうとならば、3/27以後のおおや様とのやりとりの後に出てきた「「一緒にするな」が差別的だというならば」をここで持ち出さないでいただきたいところです。また、話が拡散しますからね。
「「一緒にするな」が差別的だというならば」という文章は、あくまで「グレーなものと一緒にするなというモノイイ」というあなたの言葉を受けてのものです。私は元々の文章ではソープランドという言葉しか使っていないので、グレーなものすべてを乱雑にひっくるめて、「一緒にするな」などと言っていない。どうも、それがお分かりにならないようなので、ソープランドの以外のグレーなものを含めて話すのなら、こういう私自身も含まれます、と言っているだけですよ。

あと、「被差別者ほど「自分たちとどこかで違う」さらに少数の被差別者を作り出そうとする傾向があるものだ」というのは歴史の常識ですので、教えを乞うまでもないです。

>二つめ、「そんなことは、当事者はまず最初に考えていますって。」(中略)コメント欄に来られた皆さんはどうもそうではなかったらしいということはお認めいただけるかと思います。

これは最初と同じ問題ですね。
それに私は「黙ってやる」と書いているでしょう? おおや様の挑発的な文章にカッときて、コメント欄ではそういう発言をした人がいたとしても、そろばんは別にはじいていることは多いでしょう。
そのあたり、おおや様はナイーブなのだなあ、とも思ってしまいます。私はもっと意地悪い見方もしますので。

>第二に、「学者などに」という表現からはまあ学者などというものはそういうグレーな領域には関係ない、「グレーな領域で粘ったことのない人間」だという BB(高橋)さんのご判断が示されていると思うのですが、それはどのように確認されたのでしょうか。

まず、基本的な誤認をされていると思うのですが、いつのまにか、私があなたを(あるいは学者一般を)「グレーな領域で粘ったことのない人間」と決めつけたように言われますが、「どうも私は「グレーな領域で粘ったことのない人間」であるらしいです(にこにこ)」というのは、読んでの通り、あなたの推測ですよね。
私のもともとの文章は、「「売春防止法の正当性を認めない立場からするとソープランドというのは法律という相手方の建前を逆手にとった正義の抵抗運動」なんていうのは、グレーな領域で粘ったことのない人間の言葉遊びにしか思えません」というものです。
これは読んでの通り、「・・・なんていう」あなたの言説戦略に対する批判です。
自分はよく知らないと自認する世界を例に出して、当事者が読んだらどう思うかも分からない、そんな机上の論理を組み上げるくらいだったら、自分自身に関係する世界で(自分自身のことではないにしても)、こういうグレーな粘り方もある、ということを説いた方がよっぽど説得力がある、とは前にもさんざん書きましたね。
いやいや、「「俺は野暮じゃない」と主張するほど野暮なことはねえですから」ですか、そうですか(にこにこ)。

だったら、なぜ、ここに来て、学者の世界における「グレーな領域での粘り方」を急に力説され始めのか?
野暮だったんじゃなかったっけ?

というのは意地悪に過ぎるとは思います。おおや様も「そういう説明が最初からあれば理解しやすかったというご指摘はその通りかと思いますが」と書かれている訳ですから。
上の質問についていえば、答えは私の挑発に乗ってしまったから、ということになるでしょう。「「売春防止法の正当性を認めない立場からするとソープランドというのは法律という相手方の建前を逆手にとった正義の抵抗運動」なんていうのは、グレーな領域で粘ったことのない人間の言葉遊びにしか思えません」は明らかに挑発です。それは私も認めます。
が、結果、おおや様から外側の人間にはなかなか知ることの出来ない、学者の世界でのグレーな領域について、お教え頂いたので、有意義な挑発になったようには思います。

>しかし続いて「ほぼシロである世界においては、そういう団体が形成され、機能することは相応の努力で可能であろう。」と書かれる。これはどういう根拠に基づかれた判断なのかという点が気になります。
一つは私自身が書いた通り支援対象国などにおいては「シロ」ではないことがありますし、そういう国々と私が無縁でいられるわけでもありません。

文脈がよく分かりませんね。私が「ほぼシロの世界」について書いている推測に対して、シロではない世界のことを反証に上げられても。
それとも、おおや様はおおや様が関わる世界(あるいは、学者一般が関わる世界)すべてが「ほぼシロの世界」である、と私が考えているとお思いなのでしょうか? 
それは上記の挑発に乗り過ぎです。
しかし、それ以下のお話はとても興味深い、というよりは、真剣に受けとめざるを得ないお話でした。

>これらを見ても BB(高橋)さんは「学者など」「グレーな領域で粘ったことのない人間」だと、言い切れるのでしょうか。

いいえ。だから、言説戦略に対する批判であった、と言っているでしょう。
「学者など」については後述致すことがありますが、「グレーな領域で粘ったことのない人間」は元の文章では、あくまで、おおや様個人の言説戦略に対する批判であったことも、覚えおき下さい。

>私の「苦笑」は「突然、法哲学を論じることがグレーな世界に閉じ込められてしまうことは、まずありえないから」ではなく、その可能性をなくすために我々がしている努力を知りもせずに・調べもせずに、我々のことをそんな想像もしていない人間だと決めつけられたことに対するものです。「問う前に調べろよ。問うたからには答えを待てよ。そして、評価判断しろよ。とはなりますね。もしくは、そこまでしたくないんだったら、すっこんでろ、と。」というBB(高橋)さんのお言葉は、ご自分には向けられないのでしょうか。

ようやく、私の真意がご理解頂けてきたようで、嬉しく思います。

>さらに言うと以上は学者の一般論であり、私個人がどのような人間かはまた別問題です。おそらくBB(高橋)さんは私と個人的に会ったり、私の経歴について詳しく知る機会などなかったと思いますが、にもかかわらず「学者など」「グレーな領域で粘ったことのない人間」だとおっしゃる。すでに書いたとおり「俺は野暮じゃない」と主張するほど野暮なことはないというのが私の信条ですし、過去をひけらかすような趣味もありませんのでそれ以上は言いませんが(もちろん以上はすべてハッタリであって私は本当に本を読むしか能のないただの学者である可能性も十分にありますが、少なくともこの年齢で研究科長補佐を務めている人間を「ただの学者」と呼んだら、まあ、笑われるのはそう呼んだ方でしょうな。野暮な話ですが)、BB(高橋)さんの議論は「学者」にせよ「経済に生きる人々」や「当事者」にせよ頭の中で作り上げたステロタイプに依拠しているのではないかと、正直に申し上げてそう思います。

これも同様です。
私もあなたとこんな議論をして暇をつぶしてしまう人間ですので、そこにおいて、「頭の中で作り上げたステロタイプに依拠」するような傾向はあると思います。そうしなければ、ロジックを整理することが出来ないこともままありますし。
が、少なくともこの議論において、自分のよく知らない世界を舞台に、「頭の中で作り上げた当事者」を積極的に作り出したのは、どちらであったかは、読んでいる方々の判断にお任せしましょう。

しかしながら、「学者など」という表現については、あなたを揶揄しようとするあまり、学者一般にまでその矛先が向いてしまった軽卒な表現であったことを認めます。「学者などに」という形容はなくてもなりたつ文章でありましたし、実はその五文字は揶揄を目的に最後に書き足したのですが、余計なことをしましたね。この五文字は、謹んで撤回させていただきたい、と思います。

>さて、しかし私としてはステロタイプに基づく批判を向けられたことをさほど損とは思わないところもあって、というのは以上のように自分では当然と思っていることを説明し直したり、そのために考え直したりする機会になるからです。そもそも一般的に「批判してくる人」というのは一定の社会なり運動なりにとって歓迎すべきもので、それはその人が少なくとも興味を持って働きかけてきているからです。完全に無視されたり、カーテンの向こう側でくすくす笑われているのに比べれば実ははるかに好意的であり、説明や説得によってこちらの支持者に変えることができるかもしれない存在です。そこまで行かなくても「この問題とはつながりを持った」と感じる人がいることが、潜在的にどこで機能するかわからない。だから運動を進めようとするなら、不当な批判や無知な反応であっても拒絶するのではなく対応しなくてはならない。これは私個人の信条であり別に押しつけようとも理解させようとも思いません。まあ、少なくとも社会運動的なものを見て分析し続けてきた人間はこう言っているくらいに思っていただければよろしいかと。

これも私は同意致します。というより、普段からそのように考えております。おおや様はご存知かどうか分かりませんが、2年前の著作権法改正への反対運動において、私が最も腐心したのも、そのことでした。

>それでもそういった反応が「そもそも、運動をしている人間、そこまで行かなくても、真剣に現実の行方を考えている人間にはノイズでしかない、ということにもなり、コミニュケーション自体が何ら有益ではない。」とお感じになるなら、正直に言えば、それこそフォロー(1)で書いた典型的な失敗パターンにはまっていると、私なら言うことになります。その指摘もノイズだと言われるなら別にもう何も申しませんので、ご自由に活動なさってください。

上記の同意を示しましたので、もはやフォローも必要ないことかとも思われますが、その元々の文章は
「説得力など要らない」の「だとすると」、「何ら有益ではない。そういう判断にもなってしまいます」
という構造になっています。もう少し、注意深く読んで頂けませんか?
アンタが説得力など要らない、という姿勢で自己満足のための言葉を投げているだけなのなら、オレはそういう判断もするよ、と言っているだけですよ。
まあ、これも挑発ですね。
しかし、すでにおおや様は「説得力」に関することを含めた「言説戦略」に対しての私の批判をある程度、受けとめてくださっているわけですから、現時点ではもう、そのような挑発を続ける意思は、私にも残っていません。

というところで、今日はビンテージ・リストの検証に行ってこないといけないようです。

おおや様

上記に若干のエクスキューズを加えておくと、読み返すと「挑発」という言葉が多いですが、もちろん、あれは「挑発」です、と言ったからといって、それが主目的であったと言っている訳ではなく、批判をする、質問をする、などにあたって、意図された挑発的表現を含んでいた、ということを言っているだけです。それはご理解いただけたら、幸いです。

おおや様

もう一点。

「ある日、シロがグレーに変わり、多くの人が望む望まざるにかかわらず、慣れないグレーの中で生き始めることを強いられる」ような場合について、私は29日のコメントで多くの文字数を使った訳ですが、上記のおおや様のコメントにおいては、「「昨日まで可能だったことが明日からできなくなる」話などごろごろしていまして」のくだりだけでスルーされてしまったのは、すれ違い感を感じざるを得ないところでした。

私の
>逆に私がおおや様に対して疑問に思っていたのは、そういう時、「強いられた」人は何をしうるか? あるいは、「強いられた人」に対して、第三者が投げかけられるのは何か?ということをおおや様がどれだけのデリカシーを持って、考えられてきたか、ということかもしれないですね。「そういう人達への失礼」を気にかけてくださるおおや様ですから、「そういう人達」が上記のような、シロからグレーへの変化を強いられる人々である場合にはどうなのか(どうだったのか)?

という疑問へのお答えを聞かせて頂けたら、幸いには思います。

で、健さまの頭の中では、ソープランド = 薄暗いグレーなビジネス でFA?

>BB(高橋健太郎)さん
やはり簡単な話から。
第一。「中古は法的に対象外」と主張していた方の多寡に関する評価については、まず第一に評価の文脈が異なることを指摘するべきでしょう。つまり、BB(高橋)さんは(簡単に言えば)運動を進める立場から見て、そういうことをやっている人の中の量で判断している。一方私はこのBlogで寄せられた反応に応答するという文脈で見ていますから、双方の評価に違いがあること自体は不思議ではありません。しかし私が「(応答の対象としている)あなた方はこう思われているのだろうが……」と述べているところに「他の場所ではそうではない」と言われても情報提供以上の意味はないでしょう。「そうですか、しかしここではそうではないですよね」という応答になる。「ここではそうではない」というのは(例えばここのコメント欄については)お認めいただいたようですが。
第二に、「経産省の対応は『中古は含まない』を前提にしていなかったか」という問題は法解釈として中古が含まれるか否かを問う際には意味がない(政治的に同省の責任を問う云々の場合は別)というのが私の指摘した重要な点ですから、この二つの論点の際をきっちりと書いていない記述に対しては点が辛くなります。そのような書き方は短絡的なデマを誘発する可能性が高いからというのもネガティブな評価の理由です。
第三に、BB(高橋)さんの見ている「ネット、あるいはその他のメディア」と私の見ているネットに論調の違いがあるとすればそれ自体が興味深い論点です。BB(高橋)さんご自身が「匿名で、コメントを付ける人の中には見られたかもしれませんが、自身のBLOGなどできちんとそういう主張をしていた人は、あまり見受けられない」と書いておられ、一方私がそういう人が多くいる場所の例としてあげたものの一つは「2ちゃんねる」という匿名のメディアです。つまりまさに私が「お望みの結末?」において言及したことですが、「そういう人々がネットを通じてつながりあい、ヤな感じのスパイラルを作れる」場所のありかというのがこの違いから見えてくるのではないか。念のために言うと直後に私は「PSE反対派の人たちがみんなそういう「他人を見下す」人だとかスパイラルを形成していると言うつもりはなく、」と注記していますから、そのような差異に自覚的であったことはお認めいただけるだろうと思います。
第二。「このコメント欄への引用は、おおや様への批判に援用する目的ではなかったか?というご趣旨ということですね。/それは違います。」とのことですが、それならそれで結構です。しかしその場合には「違います、こういう趣旨でした」で良いはずで、あのような皮肉な書き方をされる必要はありませんでしたね。というのは「読まれる方々のPSE法にまつわる問題点の整理、理解などにも繋がったら、ということも頭に置きつつ、書いて」いるのは私も同様です。私が「こういう批判だとしたら……あるいはこういう批判だとしたら……」という書き方をしたのは、「そのような批判だと引用部分を読む読者」のためにあらかじめ反論を見せておいたものです。BB(高橋)さんは「引用の時点では、ただ読んでいただきたい、という以上のことはありませんでした」とお書きですが、そのことはその時点で明記されていませんから、読者には複数の文脈で読む自由が開かれています。私の反論はそれらの可能な文脈に対する応答であり、「引用することには一定の意図があるはず」というときの「意図」には「BB(高橋)さんが自分のものと思っている意図」だけではなく「読者が、BB(高橋)さんのものだと思う意図」が含まれます(もちろんBB(高橋)さんの意図がその「可能な文脈」に含まれていれば手間も省けることになります)。先のコメントではこの乖離の可能性にBB(高橋)さんが無自覚なのではないかというご指摘をしたのですが、まだご理解いただけていないようですね。最後の部分、「それでもそういった反応が(……)とお感じになるなら、正直に言えば、それこそフォロー(1)で書いた典型的な失敗パターンにはまっていると、私なら言うことになります」という部分も同様、読者の反応を先取りしている仮定ですから、「私はそう言いたかったわけではない」と言われるならそう言えばよろしいだけの話です。

さて「一刀両断」の件について。まず「ソープランドだって、同じように、そういう人達がいるとは思われるわけですが、そういう人達はそこにあるグレーの度合いも受け入れて、それを選び取っているはず」(本エントリコメント)という書き方においてBB(高橋)さんが例外に対する留保のない書き方をされている点はおわかりになりますか? 繰り返しますが、ご本人の意図ではなく表現においての話です。従って私がこれを批判するためにはどのようなものであれ例外の存在を一つあげれば十分です。その例は何でも良い。「「正義の抵抗運動」と思っている人」がいるかどうかわかりませんが(ストリップ業界では少なくともそう主張していた方がいましたね)、いればそれでも良い。それはいそうにないという判断をBB(高橋)さんが示されたのが、それは私の言説戦略に対する批判にとどまっていると言われるのか、とにかく「例外が一例でも示せれば反証になる」という基準がご理解いただけなかったようなので「性同一性障害者」の例を挙げました。これにはビジネスの話をしているというご反論があり(よく見たら上記のコメントではそのような限定はされていないのですが)、その後にようやく「例外の可能性がある」ということを具体的に納得されたようなので、「そうです」と申し上げたわけです。つまり私が一貫して指摘しているのは「なぜそう断定できるのですか?」という点ですね。
次に「買う側」の話しかしていないというご反論がありました。「明示的に除外していない以上『売る側』の人が自分の問題に引きつけて解釈する可能性を引き受けなくてはならないのではないか」「『買う側として後ろ暗い』という記述は『売る側』に対する非難として機能しないか」という指摘がなお可能だと思いますが、しかしそこは「買う側」に限定して読めるというご主張を受け入れたとします。すると私としては別の例を思いつきますが、「買う側」においてグレーなビジネスに頼ることを強いられている人として、障害者に対するセックス産業のレポートがしばらく前に話題になっています。「通常の恋愛を通じたセックス」から疎外されており(少なくともそのように当事者は認識しており)、欲求を満たすために「客として、扉をくぐる」ことを強いられている人ということになるでしょう。これ以外にも想像外の理由で「強いられた」存在になっている人というのがいるかもしれません。デリカシーとはそのような「想像外の存在」に常に配慮しておくことなのではないでしょうか。
逆に言うと、BB(高橋)さんが上記で「グレーの度合いも受け入れて、それを選び取っているはず」とお書きになるその根拠は何なのでしょう。「はず」と言えるのは論理的にそうならざるを得ない・そうでしかあり得ない(eg. 2+2は4になるはず)場合か、経験的にそうであることが証明されている場合のみでしょう。売る側・買う側双方の全員にBB(高橋)さんが直接調査されたところ例外はなかったというわけはないでしょうし、それは端的に不可能ですから、統計調査等によって全体の傾向がそうであることが推測されるというレベルまで証明の水準を落として結構ですが、そのような調査をご自分でされましたか。あるいは、そのような調査を踏まえて上記のように書かれたのですか。
おそらく、そうではないと思います。では何故か、「そのはずだ」という思い込みだったのではありませんか。「強いられた人」の存在を(少なくとも3/16の時点で)意識していたことは確かでしょう。しかし上記のコメントを書く際には、あるは3/25のエントリを書かれる際には、そのような人がこの部分を読んだらどう思うかということが念頭にはのぼらなかった。そのように「考えないこと」が典型的な差別なんですよ、という指摘だったのですが、まだご理解いただけないでしょうか。その余の「3/27以後のおおや様とのやりとりの後に出てきた「「一緒にするな」が差別的だというならば」をここで持ち出さないでいただきたい」というご主張については、元々の3/25エントリの文章が(繰り返して言いますがBB(高橋)さんの主観においてではなく読者の読みにおいて)「グレーなものと一緒にするな」(グレーなビジネスに限定してもいいですが)と読める・そのような読みが不合理ではないという話なのですから、それに対してご自身の意図を持ちだしても反論にならない。仮に「そのような読みをすると私自身が差別対象になってしまう、故に差別的な意味があるとする読みは合理的ではない」と反論されるとしても「被差別者だから差別から自由だという命題は偽であり、従ってそのような反論は成り立たない」というのが「被差別者ほど「自分たちとどこかで違う」さらに少数の被差別者を作り出そうとする傾向があるものだ」という部分の趣旨ですから、それは歴史の常識だと言われるなら(経験的に言うと口ではそういうけれども行動がそれを裏切っている人は多いようです)、ご理解いただけていないのはやはりーーせっかく同意していただけたのですがーー「読者には自分の文脈に引きつけて読む自由がある。(……)さまざまな文脈の読者の読みに対して応答する必要が、著者にはある。」ということであるようです。
次の点、「いつのまにか、私があなたを(あるいは学者一般を)「グレーな領域で粘ったことのない人間」と決めつけたように言われますが(……)読んでの通り、あなたの推測ですよね」というご指摘です。まず原文「「売春防止法の正当性を認めない立場からするとソープランドというのは法律という相手方の建前を逆手にとった正義の抵抗運動」なんていうのは、グレーな領域で粘ったことのない人間の言葉遊びにしか思えません。」からは(1)そのような発言は「グレーな領域で粘ったことのない人間の言葉遊び」に見えるという言説戦略に関する主張、(2)そのような発言をする人間は「グレーな領域で粘ったことのない人間」であるとしか思えないという主体に関する主張の双方が導出可能です。BB(高橋)さんは(1)のみであったと主張されているわけですが(2)を明示的に否定するような文言は書かれず、また「学者などに教えられなくても」というようにやはり私の属性に言及するような表現を使われていますから、仮にBB(高橋)さんの主観においては(1)のみが意図されていたとしても(2)たる解釈に応答する責任がある、とは繰り返し繰り返し書いていることです。念のために言えばその応答とは「いやそういう趣旨ではなかった」でいいわけですが、何故かBB(高橋)さんはそれに加えて異なる解釈をしたことを非難される。しかし結局その根拠は「自分はそう思っていなかった」だけ、ではないですか。「おおや様はおおや様が関わる世界(あるいは、学者一般が関わる世界)すべてが「ほぼシロの世界」である、と私が考えているとお思いなのでしょうか?」というご反問については、そう読むことが合理的な書き方になっていましたよ、と申し上げておきます。
おそらくBB(高橋)さんはディベートがお上手なのだろうなと思います。「グレーの度合いも受け入れて、それを選び取っているはず」と言い切ってしまってから、追及されればいや実は「強いられた人」のことも視野に入っていましたと言い出す(念のために言えばMixi日記からそれがBB(高橋)さんの主観的意図としては正しいことは認めていいと思います)。「グレーな領域で粘ったことのない人間の言葉遊び」と言い切ってから、追及されれば「批判対象になっていたのは言説戦略」と言い出す。「最後まで怒りに任せて突っ走った方が説得力がありますよ」というのもそのようなディベートのテクニックなのでしょう。その場での勝敗(の印象)で決着がつくディベートなら、それで強烈な印象を与えられますから。「そうそう、それがそもそもの趣旨であったと、後出し的に趣旨説明」をされていたのはBB(高橋)さんの方なのではないか。まあしかしその判断はおっしゃる通り、「ここをお読みになっている方々に任せましょう。」
あいにく私が使っているのは、あえて言えばレトリックであって、主張したいことをデータや論理によって主張するための技法です。ですから最初に反応されたソープランドの比喩にしても同一エントリの中でその趣旨を明らかにしていますし、このエントリにおいても「コメント欄で引用された部分(……)だけを取るならば(……)という話なのだが(……)しかし私はそういう評論をする気にならなくて」と、きちんと「自分の本来の意図はどうか」をその部分において明らかにしています。どちらも、途中のレトリックが必要以上に挑発的ではないかという批判はあって自分でも反省するところがありますが、しかし少なくとも個々のエントリをひとまとまりの文章として読解する能力のある人には、私の意図がどのようなものかは明白なはずです。本当にそうか? についてはこれもやはり「ここをお読みになっている方々に任せましょう。」途中で挑発されてしまうので全体の論旨を理解する妨げになった、というのは事実だと思いますし。
「いやいや、「「俺は野暮じゃない」と主張するほど野暮なことはねえですから」ですか、そうですか(にこにこ)。/だったら、なぜ、ここに来て、学者の世界における「グレーな領域での粘り方」を急に力説され始めのか?/野暮だったんじゃなかったっけ?」という部分に関しては、いやはやはっきり書かねえとわかんねえのかわかって書いてるのか、野暮相手には野暮なことしないと通じないから仕方ないって話ですよね。普通は「「俺は野暮じゃない」と主張するほど野暮なことはねえですから」って言われたら何かあんのかなと思って調べるかつっつくのやめるかすると思うし、調べれば学会や大学での活動歴はいくらも書いてるからわかるだろうと期待したのですが、甘かったみたいですね。もう一つ言うと私は一応の社会的立場がある勤め人ですから、たとえグレーな領域に(公私問わず)関わっていたとしてもそれを明言するわけにいかないことくらいご理解いただけるだろうと思ったのですが、やはり甘かったようですね。ここで書いた程度の話でも文科省にツツかれたら面倒くさいのですが、正面から書かないとおわかりにならないようなので危険を冒して書きました。わざわざ「自分のよく知らない世界を舞台に」取り上げたい理由があるとは、お考えにならなかったでしょうか。
そもそも私は研究者ですから(その規範を共有してくれとはお願いしません)、発言内容が普遍的な正当性を持つことを目的にしています。「普遍的」というのは言った人や言ったシチュエーションとは無関係にということですから、言説の内容ではなく言説戦略を批判しても仕方ない(というのは繰り返しますが研究者の感覚です)。それを問題にされる時点で本来の射程を外れてしまっているなと思います。言説の内容については賛成していただいている点、逆に私がBB(高橋)さんの主張内容に賛成している点も多いようですから、挑発的でない言説戦略を使っていればもっと楽だったのではないかと言われればそうだなと思います。
最後に「慣れないグレーの中で生き始めることを(……)「強いられた人」に対して、第三者が投げかけられるのは何か?」ということについては、ちょっと慎重に書き分けます。第一に「第三者が投げかけなくてはならない(義務)ものは何か?」という問題については、「強いられる」ことが本人たちの積極的・消極的な自己決定の帰結であるかどうかで異なるというのが私の立場であり、そうでない場合には支援を提供しなければならないと考えています。例えば法律が文字の形でのみ提供されている場合に盲人が法律の内容を知らなかったために不利を受けたとして、それが本人の自己決定の帰結だとは言えないでしょう。ですから他者たちは彼の不利益を救済する必要があります。ただしこれは「仮にしようと思ってもできない」場合であり、「しようと思えばできたのに、しなかった」という場合とは異なります。後者を「消極的な自己決定」と呼んだわけですが、人間の持つ有限なリソースを別の(本人にとってより有益であると考えられた)選択肢に割り当てた結果は自己決定の範囲内です。
さて、しかしそのような義務について個々人が判断して個別に救済するというのは非効率であり、また差別意識の影響や「取りこぼし」の生じる危険があるから、国家を通じた所得再分配政策によって集団的・包括的に実現するというのが福祉国家の基本的な考え方です。従ってそのような人々に対する配慮は福祉政策によってひとまず実現されている。税金をきちんと払うこと以上の法的な義務(誰かに強制されるような義務)はない、ということになるでしょう。難しいのはそのような福祉政策が失敗しており、「強いられた」人の不利が救済されていないときにそれに気づいた個人がどのような義務を負うかという点で、率直に言って私はまだ迷っていますが、しかし強制し得るとしてもそれは通報の義務(国家に対して救済されていないことを通知する義務)までで、救済の義務ではないと考えています。念のために言うと後者の存在を主張する論者はいますが、典型的には「川で溺れている子供に気づいたら、生命の危機を顧みず助けに飛び込まない限り刑事罰を科される」という制度を肯定することになります。それでいいか、という問題ですね。
しかし今回の事例はそのような議論の対象になりません。五年前に法改正が終わっており、それ以降誰もが「気づこうと思えば気づけた」状態にありましたから、「気づかなかった」というのは消極的な自己決定の帰結であり、社会的に救済の義務が生じるような事例ではないというのが私の判断です(注記しておきますが、第一に気づくチャンスを提供できたのにしなかったという経産省の不適切な行動がありますから、(法的には)救済する義務はないが(政策的には)救済した方が良いと思っています。第二に「個々人が自己決定できる」という想定は実態と乖離していますから媒介者としての「団体」を活性化することによってそれを実態に近づけるべきだというのが本来の論点でした)。従って法的な義務の存否は問題にならず、せいぜい「道徳的な義務」なるものの範疇である。しかし道徳というのは個々人が自発的に遵守するのは自由ですが他者にその実現を強制できないものですから、結局「第三者が投げかけるべき(規範)ものは何か?」という問いに帰着します。
そこでですが、正義に反しない限りにおいていかなる善の構想を抱き、それに基づいて行動しようと自由であるというのがリベラリズムの大原則ですから、まず一般論としては「その答は個々人の決定に委ねられている」とお答えすることになるでしょう。一方、私自身ならどう答えるかという点についてはすでに述べた通り「お節介なリベラリスト」ですから各個人が(実際には「団体」の働きを媒介としてですが)独立した判断主体として自律できる社会が望ましく、かつその中には「違法行為というリスクを背負っても自己決定を実行できる自由」が含まれていると考えています。従ってディスコミュニケーションを通じてであれそのような自由の可能性や「団体」の必要性について人々が認識し、それを元に自己決定できるように何かを言うという選択肢を選んだわけですが、結果からすると私の当初見積もりよりはるかに多くのコストを支払うことになりましたから(それはおまえの言説戦略に由来するのだ、というご指摘を否定する気はありません)、次からは黙って通り過ぎてカーテンの内側で笑うことにしようかな、と思っています。逆に言うと、各個人の選択が自由であるからこそ運動する側にはその相手からリソースを引き出すように誘惑する責任がある(というのは、その結果を引き受けることになるという程度の意味ですが)。もちろん「誘惑」というのは象徴的な表現で、実際の手段は説得でも取引でも挑発でも(とにかく相手が自発的にリソースを消費したくなるようにできれば)よろしい。BB(高橋)さんのエントリ・コメントが、ソープランド関係者を差別したり私の無理解を批判したりすることによって音楽愛好家の結束を図り、それによって彼らからリソースを引き出そうとする言説戦略に立っていると仮にすれば(前者はそうではないというご主張ですが)、それは成功しているのかもしれませんね。

2年前の著作権改正というのはレコード輸入権問題ですよね。それとの関連あるいは類似性も興味深いところですが、もうやめておきましょう(そろそろ新学期ですし、編集さんに怒られているのです)。経産省のビンテージリストについてはもう問題点が指摘されているようですから、そちらの検討が優先課題でしょうしね。

いまさらながらの疑問なのですが、
大屋先生は、この件に関し、立法行政側は悪い、業界団体も悪いとおっしゃっておられますが、「法律家」という方々に対してはいかがでしょう?
弁護士法に「弁護士は、前項の使命に基き、誠実にその職務を行い、社会秩序の維持及び法律制度の改善に努力しなければならない」と書いてあるように、弁護士の皆さんには法律のプロフェッショナルとして、(例え直接の利害がなくとも)法律制度の改善を通じて社会全体を良くすることに努力していただく社会的責務があるんじゃないかと思っているのですが。

>Apricotさん
そういう責務はあると思いますが、弁護士さんたちは基本的に自営業者の集まりでお金のもらえる仕事しないと食べていけませんから、限界はあります。
その限界の中で、例えばゼロワン地帯(弁護士さんがほとんどいない地域のこと)の救済とか、無料法律相談の提供とか、もっと明らかな国の過誤(「不適切」ではなく「違法」の可能性のある行為)に対する行政訴訟とか、大規模な消費者訴訟とか、優先度の高い公益活動(プロボノと呼んだりします)は沢山やっておられます(もちろん個人によって濃淡はありますが)。それを超えて一般的・普遍的な立法の監視をするというのは非現実的でしょうね。第一にそれにはかなり多量の人的リソースが必要になりますが日本の弁護士さんは2万人強と対人口比では非常に低い水準にありますし、現在生じている法的紛争を処理しているだけでも訴訟遅延が問題になるくらいです。第二に、役人の人が万能でないのと同様に弁護士さんも万能ではありません。結局「被害を受ける可能性」に気づくことのできる可能性が一番高いのは当事者(とその作る団体)だと思います。すると社会的な制度設計の次元で言うならば、「気づいて声を上げる」ところまでは当事者に期待して、弁護士さんたちにはその後の問題処理に専念してもらう方が効率的ではないかと思います。
本件に関しては弁護士さんの領域の問題ではなく、責任を問い得るような問題でもないというのが私の意見です。

ご回答ありがとうございます。まだ少し疑問があるので、質問させていただきます。

「気づいて声を上げる」というのは現実的にどこまで可能なのでしょうか?PSE法の件も、法律の専門家以外のレベルでは、条文を見ただけでは中古が対象なのかどうかなかなかわからないのではと思います。結局、本当にちゃんとやろうとすると、業界団体で顧問弁護士を雇って監視してもらうということになるのではないかと思います(既にやっている団体もあるのかも)。
そうすると、結局は弁護士の仕事になるわけで、(弁護士が公益活動として立法の監視をするのと比較して)社会的な制度設計として見れば、単に業界(団体)から弁護士に富の移転をしているだけではないでしょうか?

あと、社会的な制度設計として、構成員の少ない「マイナー」な分野(業界)ほど立法の考慮外になってしまう可能性は当然に高いと思われますが、そうすると彼らは少ない頭数でより多くの問題に対処しなければならない事態にならないでしょうか? そうすると「マイナー」な存在は非常に多くのコストを立法監視に費やす必要が出てきて不利になり、「寄らば大樹の陰」的行動の合理的が増して、社会全体の活力がそがれることにならないでしょうか?

いろいろとたくさん質問して申し訳ないです。編集さんに怒られなければ回答していただけると嬉しいです。

>Apricotさん
怒られる前に急いでお答えします。まず業界団体等の目指すべき達成水準としては弁護士さんのように法解釈を高い確度で推定するところまでは必要でなく、疑念を持って関係官庁に問い合わせることができる、さらに必要がある場合にはその時点になって弁護士さんに依頼しに行くことができるという程度で足ると思います。従って(例えば)弁護士さんを常時雇うことは必要でないでしょう。実際のところ多くの業界団体は内部に法務担当の職員等を置いて監視任務などに当たらせる一方、いざという時のために弁護士さんに顧問料を支払うなどの対応をしているのではないかと思います。
社会的制度設計として見た場合、業界から弁護士に富の移転をしているというのはその通りですが、述べた通りその富がなければ弁護士さんは生きていけませんので、公益活動に期待するならばその分の富を例えば国費でまかなうなどの対策が必要になります(資格独占によって生まれる富は到底そのためには足りないでしょう)。国家が金を出して国家を監視させるよりは、対抗的な立場にある業界等が資金源となった方が効率的なのではないでしょうか。
次に「構成員の少ない『マイナー』な分野(業界)ほど立法の考慮外になってしまう可能性は高い」以下のご指摘については、その可能性は認めなくてはならないと思います。しかし一方、それを防ぐために官僚の「配慮」を徹底するという対策を取るならば、第一に結局我々の自立性が犠牲になるという点、第二に正当化できないような少数者も利益を得る可能性がある点などが問題になってくることもお認めいただけると思います。
従って、ご指摘の可能性を防止するためには幅広い言論の機会の保障を通じて少数者が支援を求める可能性を拡大するとか、最低限の人権保障については司法府を含めた国の責任で行なうことによって負担を軽減するなどの対策によるべきであり、あくまで当事者から声を上げるという構図を維持すべきだと、私は考えています(これはややマッチョな意見かもしれません)。

ご回答ありがとうございます。

私の意見としては、後段の可能性を防ぐために、官僚ではなく、法律家がある程度役割を果たせないかなと思っています。おっしゃるとおり、完全は望めませんので、「責任はないけど(社会的)責務はある」レベルでの、法律家の業界団体による行動が望ましいと思っています。最終的に責任があるのは、国(立法・官僚)と、規制を受ける側だけでいいと思います。

さらに、これまたおっしゃるとおり皆さんお忙しいのでそんなことをしている暇はないという現状の実態もあるでしょうが、現在でもある程度やっていただいていることであり(日弁連のページを見ると、かなりの法律(案)に対する声明や談話が載っていますね)、またこれから法曹人口は増えるらしいので、今後は現状より大きな役割を果たすこともできるんじゃないかと思って(期待して)います。

以上、ただの意見なので、回答を期待するものではありません。執筆活動がんばってください。

おおや様
返信が遅くなりました。なかなか、私は最後までたどり着けないようですね。

>第一。「中古は法的に対象外」と主張していた方の多寡に関する評価については、まず第一に評価の文脈が異なることを指摘するべきでしょう。つまり、BB (高橋)さんは(簡単に言えば)運動を進める立場から見て、そういうことをやっている人の中の量で判断している。一方私はこのBlogで寄せられた反応に応答するという文脈で見ていますから、双方の評価に違いがあること自体は不思議ではありません。しかし私が「(応答の対象としている)あなた方はこう思われているのだろうが……」と述べているところに「他の場所ではそうではない」と言われても情報提供以上の意味はないでしょう。

「双方の評価に違いがあること自体は不思議ではありません」に異論はありませんし、そもそも、私の前エントリーへのコメントは、私が見回ったネット、その他の場所についての情報提供、あるいは、このコメント欄と外の世界は違いますよ、という指摘でしかありませんでした。
が、その後、当エントリーのコメント欄ではおおや様が、私の情報提供した個人のBLOGなども含めて、例に出されていましたので、「このBlogで寄せられた反応に応答するという文脈」から話が広がってきた、という経緯があるかと思います。

>第二に、「経産省の対応は『中古は含まない』を前提にしていなかったか」という問題は法解釈として中古が含まれるか否かを問う際には意味がない(政治的に同省の責任を問う云々の場合は別)というのが私の指摘した重要な点ですから、この二つの論点の際をきっちりと書いていない記述に対しては点が辛くなります。そのような書き方は短絡的なデマを誘発する可能性が高いからというのもネガティブな評価の理由です。

人々は法律家のように「法解釈」を問題にしているのではなく、漠然と「社会問題」として考えていることが多いと思います。法の解釈よりも、社会的な影響を危惧したり、問題の解決方法を探ったりすることを重視して、一般の人はものを書くことが多いでしょう。その意味では、政治的に同省の責任を問う、ことを趣旨としていることが多いと思います。それを明示しているかどうかは別として。
それに対して、法律の専門家が辛い点をつけるのは、、もちろん御自由になさればいいことではあります。
が、「短絡的なデマ」は誰にとっても迷惑な存在ですが、「短絡的なデマ」を時には含むかもしれない様々な言説、議論など、を「誘発する」ような文章についてまで、いちいち、そのような評価を下すことに、どういう意味があるのか? 「短絡的なデマ」を誘発することを未然に防ぐですか? 
少なくとも、PSE法問題についていえば、現時点ですら、多くの人がその問題を正しく認識していない、あるいは法律の存在にすら気づいていない状態ですから、情報提供、議論の喚起、いや、それ以前にまずは興味を持ってもらうことに有用であれ、と考えて、多くの人は素人なりにネットでの発言を行っていると思われます。
外を見回ってまで、そこに辛い点などつけて回るのは、よその庭に素人お断りと張り紙でもするかのような印象はあります。

>第二。「このコメント欄への引用は、おおや様への批判に援用する目的ではなかったか?というご趣旨ということですね。/それは違います。」とのことですが、それならそれで結構です。しかしその場合には「違います、こういう趣旨でした」で良いはずで、あのような皮肉な書き方をされる必要はありませんでしたね。というのは「読まれる方々のPSE法にまつわる問題点の整理、理解などにも繋がったら、ということも頭に置きつつ、書いて」いるのは私も同様です。私が「こういう批判だとしたら……あるいはこういう批判だとしたら……」という書き方をしたのは、「そのような批判だと引用部分を読む読者」のためにあらかじめ反論を見せておいたものです。BB(高橋)さんは「引用の時点では、ただ読んでいただきたい、という以上のことはありませんでした」とお書きですが、そのことはその時点で明記されていませんから、読者には複数の文脈で読む自由が開かれています。私の反論はそれらの可能な文脈に対する応答であり、「引用することには一定の意図があるはず」というときの「意図」には「BB(高橋)さんが自分のものと思っている意図」だけではなく「読者が、BB(高橋)さんのものだと思う意図」が含まれます(もちろんBB(高橋)さんの意図がその「可能な文脈」に含まれていれば手間も省けることになります)。先のコメントではこの乖離の可能性にBB(高橋)さんが無自覚なのではないかというご指摘をしたのですが、まだご理解いただけていないようですね。最後の部分、「それでもそういった反応が(……)とお感じになるなら、正直に言えば、それこそフォロー(1)で書いた典型的な失敗パターンにはまっていると、私なら言うことになります」という部分も同様、読者の反応を先取りしている仮定ですから、「私はそう言いたかったわけではない」と言われるならそう言えばよろしいだけの話です。

「あのような皮肉な書き方をされる必要はありませんでしたね」というのが、どこを指しているのかが分かりません。「つまり、このコメント欄への引用」から「ただ読んでいただきたい、という以上のことはありませんでしたから」までの私の文章には、皮肉や揶揄をこめた部分はありませんが、もちろん、そう感じ取られる方がいたら、それはそれで仕方がないことです。
「読者には複数の文脈で読む自由が開かれています」というのは自明のことですし、当の文章においても、「その時点(書いた時点)では、おおや様がそれに対して、どういう反応をするか分かりませんし、もちろん、反応次第では」と私は書いているのですから、そのことをわざわざ、こんな長い説明をいただく必要はありませんでしたね。

もちろん、著者の意図した文脈と、読者がそれを読む時に持ちうる「複数の可能な文脈」の乖離の可能性、および、そのことに対する著者の無自覚、というのは、当然ながら、私自身もものを書く時に考えねばならない問題です。あるいは、おおや様の文章に対する、このコメント欄での反応、ということを考える上にも、有用でしょう。そこから、同様の指摘をおおや様にぶつけるのは、たやすいです。

が、一方で、「可能な文脈」について、では、読み違い、拡大解釈、言葉尻、といったことと、それをどう分け隔てるのか、ということもあります。これらに対して、「乖離の可能性への著者の無自覚がその背景にあるのではないか?」というような批判をいちいち受け入れていたら、おおや様にしても文章が書くことがひどく難しくなるでしょう。
このことは、後ほどまた、関連してくる事柄があると思いますので、ここではその点を指摘するのみで、次に行きますが

>さて「一刀両断」の件について。まず「ソープランドだって、同じように、そういう人達がいるとは思われるわけですが、そういう人達はそこにあるグレーの度合いも受け入れて、それを選び取っているはず」(本エントリコメント)という書き方においてBB(高橋)さんが例外に対する留保のない書き方をされている点はおわかりになりますか?繰り返しますが、ご本人の意図ではなく表現においての話です。従って私がこれを批判するためにはどのようなものであれ例外の存在を一つあげれば十分です。その例は何でも良い。「「正義の抵抗運動」と思っている人」がいるかどうかわかりませんが(ストリップ業界では少なくともそう主張していた方がいましたね)、いればそれでも良い。

いまだに、上記のようなことを書かれると、果たして、日本語が通じているのか?という疑問を抱きます。
「「正義の抵抗運動」と思っている人」は、「グレーの度合いも受け入れて、それを選び取っている」いる人です。
例外ではありませんので、反証にもなりません。

>それはいそうにないという判断をBB(高橋)さんが示されたのが、それは私の言説戦略に対する批判にとどまっていると言われるのか、とにかく「例外が一例でも示せれば反証になる」という基準がご理解いただけなかったようなので「性同一性障害者」の例を挙げました。これにはビジネスの話をしているというご反論があり(よく見たら上記のコメントではそのような限定はされていないのですが)、その後にようやく「例外の可能性がある」ということを具体的に納得されたようなので、「そうです」と申し上げたわけです。つまり私が一貫して指摘しているのは「なぜそう断定できるのですか?」という点ですね。

上記も同様です。
ビジネスの話、という以前に、私はそもそも「ソープランド」の話しかしておりませんので、「ソープランド」の中で、「グレーの度合いも受け入れて、それを選び取っている」わけではない人をおおや様が例証しない限り、おおや様は私の発言に対する反証を上げたことにはなりません。

このことがお分かりにならないのには、正直、苦笑せざるをえないのですが、私が今や現実には存在するかどうか分からない(存在するとしたら、その背後にはグレーどころではなく、マックロな世界がなくてはならないと思われるので、それはそれでまた例外の例外となってしまうことを考えに含めねばならないでもあろう)「苦界に落ちる」ような例をあげたのは、ここで私に反証をあげて、批判するならば、このような針の穴をつかねばならない、ということを例証して差し上げるためでもあります。
もちろん、それが読めずに乗ってしまったからこそ、あとから、そうそう、それだった、というおおや様は言い出されたわけでしょうが。

それとは別に、では、私がどこまで具体的に、かどうかは別として、「例外の可能性がある」ことを、それぞれの時点において、考えていたか、いなかったか、については、後段に譲ります。

>次に「買う側」の話しかしていないというご反論がありました。「明示的に除外していない以上『売る側』の人が自分の問題に引きつけて解釈する可能性を引き受けなくてはならないのではないか」「『買う側として後ろ暗い』という記述は『売る側』に対する非難として機能しないか」という指摘がなお可能だと思いますが、しかしそこは「買う側」に限定して読めるというご主張を受け入れたとします。すると私としては別の例を思いつきますが、「買う側」においてグレーなビジネスに頼ることを強いられている人として、障害者に対するセックス産業のレポートがしばらく前に話題になっています。「通常の恋愛を通じたセックス」から疎外されており(少なくともそのように当事者は認識しており)、欲求を満たすために「客として、扉をくぐる」ことを強いられている人ということになるでしょう。これ以外にも想像外の理由で「強いられた」存在になっている人というのがいるかもしれません。デリカシーとはそのような「想像外の存在」に常に配慮しておくことなのではないでしょうか。

これは私のそもそもの発言についてのご比判と考えてよろしいですね。
では、その「明示的に除外しなかった」ことが私のデリカシーの欠如であったという批判として受け入れるとしましょう。
しかしながら、もとの私の発言は「個人的な話」として始めたものであり、客の素朴な感想として、A業種の客であることと、B業種の客であることが、同じ気持ちにさせられちゃう(それが法律によって強いられる)のはヤだよ、と言っているに過ぎません。
というような発言に対して、B業種の客の中に含まれる、グレーなビジネスに頼ることを強いられている人と認定しうるかもしれない障害者の方々のことを気にかけていなかった、という批判を加えられる。そういう批判自体は可能としても、となった場合、では、その方々は何によってそれを強いられているのか?という問題も視野に入ってきますし、法律の専門家がそこに言及されるからには、どういうスタンスでそのあたりをお考えの上で発言をされているのか?をお聞きしたくはなりますね。
A業種では法律によって、ある日、グレーなビジネスに頼らざるを得ない人々が生まれようとしている。対して、B業種におけるその問題は、同じように法律の問題であるのか、ないのか? 法律の専門家として、そこにどのようなお考えをお持ちであるのか? というようなことを示しつつでないと、このやりとりの中で、それを持ち出されることは、私への批判に援用する目的だけのため、という色合いを持たざるをえなく、それもまた、本当にシリアスにその問題と向き合っている方々へのデリカシーの欠如を感じさせる、と言えなくない。

私がこの問題についてのあなたの考えを知らないと同じように、「通常の恋愛を通じたセックス」以外の金銭授受をもってなりたつセックスに関して、私がどのような考えを持っているかも、あなたはご存知ない。私が、障害者の方々を含めても、それは社会的に許容されるべき事柄ではない、という道徳観念を持っていることも十分、予想されるのですから、その場合、議論のテーマをそちらに移して、始めなければならなくなるでしょう。
「思いついた」のはよろしいですが、それをもって私の批判材料とするならば、上記のような問題があなた自身にも作用してくる。

他方、これはもともとの私の発言を一般読者の方々にもあらためて読んだ上で、考えていただきたいことに思いますが、非差別者に対するデリカシーの欠如、を指摘しようと思えば、人々の何げない発言の多くは、「明示的に除外しなかった」ことによって、そういう批判の対象になりうるという側面を持ってしまいます。この程度の個人的な感情吐露に、差別的、差別的という批判が繰り出される中では、人々は率直に物を言うことも難しくなる。
ソープランドに遊びに行くとは妻には言って出かけられないが、オーディショップでも見てくる、だったら、別にコソコソする必要もない(少なくとも、これまでは)、という程度のことを誰かが言ったとして、それすらを差別発言として扱うことが妥当であるか、あるいは、そのように扱われる窮屈な社会にあなたは住みたいのか、ということは問いたいと思います。

>逆に言うと、BB(高橋)さんが上記で「グレーの度合いも受け入れて、それを選び取っているはず」とお書きになるその根拠は何なのでしょう。「はず」と言えるのは論理的にそうならざるを得ない・そうでしかあり得ない(eg. 2+2は4になるはず)場合か、経験的にそうであることが証明されている場合のみでしょう。

こういう言葉尻の問題にいちいち付き合うのも疲れてきましたが、日本語の解釈において、上記は同意できない部分があります。
まず、経験的にそうであることが証明されている、のならば、「はず」という表現は必要ない。断定表現でもいい「はず」です。
「はず」をつけるからには、そこには断定を避ける意思がある。というのはお分かりですね。引用を間にはさみますが、次に続く文章として、お読みください。

>売る側・買う側双方の全員にBB(高橋)さんが直接調査されたところ例外はなかったというわけはないでしょうし、それは端的に不可能ですから、統計調査等によって全体の傾向がそうであることが推測されるというレベルまで証明の水準を落として結構ですが、そのような調査をご自分でされましたか。あるいは、そのような調査を踏まえて上記のように書かれたのですか。
おそらく、そうではないと思います。では何故か、「そのはずだ」という思い込みだったのではありませんか。「強いられた人」の存在を(少なくとも3/16 の時点で)意識していたことは確かでしょう。

では、なぜ、断定を避けたかといえば、ご指摘のとおりに、それは類推でしかないこと、それ以前に、そもそも、調査などを行ったとしても、量的に全体の傾向を推し量ること以外、不可能であることである、という前提があるからです。逆にいうと、「はず」は断定してしまった場合には、全体の傾向には含まれない部分、こぼれ落ちる例外があることへの留保として、加えられている。
正直にいえば、あなたが当初、「思いつい」ていなかったのと同じように、私は「通常の恋愛を通じたセックス」から疎外された人々の問題についてまでは思いが及んでいなかったが、しかし、想定外の存在があることは、物書きの習性として、断定すべき時、断定を留保すべき時、という判断において、意識されていた。だからこそ、「はず」がついたのでしょうね。

>しかし上記のコメントを書く際には、あるは3/25のエントリを書かれる際には、そのような人がこの部分を読んだらどう思うかということが念頭にはのぼらなかった。そのように「考えないこと」が典型的な差別なんですよ、という指摘だったのですが、まだご理解いただけないでしょうか。

いえいえ、ロジックとしては理解できますよ。が、私の反論の中で、すでに排除されてきた差別の可能性をふまえるならば、残るは、上記の「「通常の恋愛を通じたセックス」から疎外されて」いる「障害者」の方々のみですね。そうした方々をこの議論の俎上に乗せることの妥当性については、すでに上で書いた通りです。

あるいは、こうして私達が議論を続ければ、別の想定外の存在を思いつくことも可能かもしれない。が、その可能性は、上記の物書きの習性として意識されていたことですし、それが私への批判に用いられることの妥当性は、やはり、上記の例ように検証されねばならないでしょう。何かひとつ、例さえ思いつけば、というような手つきで、人によって意見が分かれるだろう、あるいは立場を表明するのにも苦慮するであろう、差別にまつわる問題を、議論において他人を批判する武器として取り出すことの方に、私はデリカシーの欠如を感じますが、まあ、これもまた読者に判断を委ねた方が良いかもしれませんね。

いずれにしろ、ここまでのやりとりの中で、おおや様が針の穴のような、私の攻めどころを「思いつい」たのはさすがだな、と思って差し上げますが、本当にそれが個人のBLOG上における、個人的な話と断った上での感情吐露の中でも、見過ごすことができない差別的表現であったのなら、なぜ、あなたは最初からその点をもって、私を批判しなかったのか?ということにはなります。

申し訳ありませんが、今回はここまです。上記で後述としたが、言及してきれていない部分は次に譲ります。

>BB(高橋健太郎)さん
一つの齟齬に気付いたように思います。まず私の最初の表現(下線略)、「売春防止法の正当性を認めない立場からするとソープランドというのは法律という相手方の建前を逆手にとった正義の抵抗運動だと言うこともできる。」ですが、禁止の正当性を認めないのですから「本来は売春行為が正当であるべきだ」という規範的主張を問題にする趣旨になっていることはおわかりになると思います。一方、BB(高橋)さんは「「「正義の抵抗運動」と思っている人」は、「グレーの度合いも受け入れて、それを選び取っている」いる人です。」と主張されていますが、ここでいう「グレーの度合い」とは*現にそのように社会的に取り扱われること*(事実)であって(その原因は売春防止法ですが)、*本来そうであるべきこと*(規範)ではありません。
さて今ここに「本来売春は自由であるべきだと信じているが、法改正は困難なので規制を変えることを狙うのではなく、脱法行為としてのソープランドでそれを提供することを選んだ」人がいるとします。この人は売春禁止を規範としては認めていませんが、事実としてその禁止が実行されるだろうことは知っています。この人は「グレーの度合いも受け入れて、それを選び取っている」のでしょうか。
事実としては受け入れているが、規範的には受け入れていないというのがおそらく正確な表現でしょう。もちろん彼には(1)事実に負けて自分の規範的主張の実現を断念する、(2)規範的主張の実現を目指して法改正への運動をする、といった選択肢もあります。しかし(2)が政治的な勢力分布などによって不可能同然であることがわかっている場合に、すべてを諦めてしまう(1)ではなく脱法行為を選ぶことは、「グレーの度合いも受け入れて、それを選び取っている」という評価に値することでしょうか。
ちょっと厳密な言葉遣いをすると、この例は「法規制の正統性を認めているが、正当性を認めていない場合」です。法規制には強制力が付きますから、たとえその正当性を認めなくても事実としてそれが強制されるだろうことは認めざるを得ない。それでもその強制を前提に行為を選択したらグレーの度合いを受け入れているという評価が妥当なのかどうか疑念はかなりありますが、定義問題ですからそういう定義をされるということであればそれはそれで結構です。しかし第一にそのような定義に基づいてもソープランドにおける例外の存在を認めざるを得ないことはすでにご自身が明らかにしたところです。第二に厳密な言葉遣いができないのはご専門でない以上仕方ないことだと思いますが、曖昧な表現をなんとか解釈しようと努力してきた私に対して「果たして、日本語が通じているのか?という疑問を抱きます」などとお書きになるのが適切なのか、どうか。自分の言っていることは必ず明晰に相手に伝わるはずであり、伝わらないのは相手の責任であるという独善的なお考えがないかどうか。まあこれも読者に委ねるべき問題でしょう。
「これは私のそもそもの発言についてのご比判と考えてよろしいですね。」以下の部分については、デリカシーの欠如の指摘に対してその指摘をした人間の問題へのスタンス云々を持ち出しておられるのですが、第一に予想外の存在が存在し得ることを予想するのがデリカシーなのですから特定の問題だけを問うても意味がありませんし、第二に特定の問題に対するBB(高橋)さんの考えがどうだろうがそれは書かれていない以上読者にとっては関係のないことですし、第三に指摘した人間がどのようなスタンスを持っていようが元々の言説の内容には何の変化もないことですからやはり関係ありません。すべて先のコメントで指摘させていただいた問題点ですが、やはりご理解いただけていないようですね。
何気ない発言が差別的になり得るとすれば率直にものを言いにくくなると言う点、そのこと自体はその通りですが、今回はソープランドを例に持ち出してグレーな場所での粘り方を説明するという私自身の言説戦略に対する批判として書かれたと、そうおっしゃっていたのではありませんでしたか。その批判自体の言説戦略に問題があれば反批判されるのは当然のことだと思いますがいかがですか。正直に申し上げて、元の文章が(例えば)「冗談じゃないよ。ミュージシャンやオーディオ・ファンは、ソープランドみたいなグレーな場所で楽しみたいわけじゃない」といったように(私の文章を引き合いに出さずに)書かれていたとすれば、私はそれを見て「デリカシーないな」と思ったかもしれませんが、わざわざ批判することはなかったでしょう。ソープランドの例が挑発的に過ぎたということは私がすでに認めています。BB(高橋)さんも同様に、表現の行きすぎがあったことを認められればいいだけなのではないでしょうか。
「なぜ、あなたは最初からその点をもって、私を批判しなかったのか?」と最後にご反問ですが、私のBB(高橋)さんに対する最初のコメントによる応答にはちゃんと「さてどうも中古業界をソープランドに例えたら愛する人がどう思うかについて私が想像力を巡らしていない、とのご指摘のようであります。(……)わざわざ挑発的にソープランドにしたのはそういう反発をする人の中にある差別意識を露出させたいという意図もありました」と書いてあります。私の誤算は、このくらい書けば「中古業界を愛する人の『俺たちを傷付けるな』という主張自体がソープランドを愛する人を傷付けている(そのような言説に読める)という逆説」に気づいてもらえるだろうと思っていたら、ここまで説明してようやくそれを「針の穴のような、私の攻めどころ」としてお認めいただけるに至ったという点にあります。正直私には大穴に見えますが、デリカシーの感覚は人それぞれですのでそれ以上は申しません。差別の最大の問題はそれに対する人々の鈍感さにある、ということの例証みたいなものですし。
「はず」については細かいことですが、「すべてのAについてBである、従って特定のAについてBである」というのも(その正しさは自明ですが)推論ですから、仮に「すべてのAについてBである」が証明できていたとしても「だから特定のAはBである『はず』」という表現は使えます。そもそも論理的に100%そうなる場合に使える「はず」が経験的に100%のときには使えないというのも変な話です。ただ、一般的に「はず」が出てくるのは*そうでない場合が発生したか、発生する可能性がある*場合ですね(eg. 「2+2は4になるはず」と言うのは、電卓でそうキーを押したら「3」になった、だから「本当は必ず4だ」ということを強調したい文脈)。ですからこれが留保の意識を示しているというのは一応肯定できますが、例えば「だが、そうではない」といった否定がーー直後にも、そのコメント内の別のところにも、別のコメントにさえもーー続かないのですから、その留保は放置されて死んでいると評価するべきなのでしょう。私に指摘されてからその「はず」の存在を持ち出すことが「そうそう、それがそもそもの趣旨であったと、後出し的に趣旨説明」することになっていないか、まあこれはもうやめておきましょう。

そろそろ私としては確認しておきたいと思うのですが、
・BB(高橋)さんのエントリの最初の時点における記述は、正しい規範のあり方を棚上げした文脈で述べた内容を、「おめこぼしがあるんだからいいじゃないか的発言」とあたかも正しい規範のあり方に関する議論のように書いたものであり、不適切であったが修正されている。
・そのような誤解をした背景としては私自身の用いたソープランドの比喩が過度に挑発的だったことがあり、それを用いて一部の人の差別意識を露呈させようという意図はある程度達成されたものの、肝心のPSE法に関する主張が伝わりにくくなるという言説戦略上の問題を招いた。
・BB(高橋)さん自身、そのような差別意識を露呈させたと指摘されかねない文章表現を用いたことは言説戦略上の問題であった。
ということなのではないでしょうか。正直、私自身に何かを言う資格があるかないかというような話はすでに述べた通り主張内容の正否に何の影響もないので、どうにもそこにご関心があるようなのでお付き合いしましたが、(私にとっては)くだらないことです。それがどこまでも重要なんだと言われるなら、まあその、私には言う資格がなくて「心ない批判」だったでいいですから、どっか行ってください。心があろうがなかろうが批判として正しかったのなら私は満足ですし、そもそも(「表現が悪い」以外の)BB(高橋)さんからのご指摘というのも一貫して「批判対象になるものがどれくらいいるか」であって「いたとして批判が内容的に誤っている」というものではない。「正しいとしてもそういう言い方をされて傷ついた」という話なら挑発的に過ぎたことは認めて反省したいと思いますし、「それを言われて傷ついた」ということならもう言わんようにします。それでいいんじゃないですかね?
言葉尻の問題を詰めて考えると疲れてしまう、「怒りを現したいなら、最後まで怒りに任せて突っ走」るようなディベート的手法をよしとするBB(高橋)さんなのですから、表現の一つや二つ不適切でも怒りが伝わればそれでいい、のではありませんか。すでに述べた通りそれは私の流儀と違いますし、正直一つのエントリの中のレトリックも読み解けない方を相手にーーディベートではなくーー議論する価値はないと思っています。逆に、議論者として価値がないことが運動の実践者としての(あるいはディベーターとしての)BB(高橋)さんの問題というわけでもないでしょう。さっさと自分が必要とされる場所にお帰りなさい、というのは利己的・利他的どちらの動機に基づいても言うべきことだろうと思います。
それでも不満だと言われるならコメントを続けられることを止めはしませんが、一点、ご自分の書き込み内容を読み返して推敲されることは要求したいと思います。誤字脱字が非常に多くなってきていますし、日本語として何を主張されているのかわからない文章も散見されます。きっと慌ててお書きなのだと思いますが、議論のためには逆効果以外の何物でもありませんから、お止めいただきたい。とりあえずそれについては、これ以上何かを書かれる前に、申し上げておきましょう。

おおや様

ひとつ前のコメントの冒頭で、私は「なかなか、私は最後までたどり着けない」と書いています。
また、おおや様のもう一つ前の長大なコメントに対して、一度には返答できないこと、後述として言及しきれなかったことがあることもお断りしていますね。
そこに、おおや様から「そろそろ私としては確認しておきたいと思うのですが」以下を趣旨とするようなメッセージをいただいたなら、私としてももはや、省く点は省いて、議論を終えたいと思うところでしょう。
はるか以前のコメントで、私はそろそろ帰りたいが、もう一点だけあとに譲る、ということを言ってもいるわけですし。

が、おおや様は私のひとつ前のコメントに対して、あらたな議論を始めてみたり、質問形の文章を投げてみたりした後に、「そろそろ私としては確認しておきたいと思うのですが」以下を書かれている。
これでは言いたいことだけを言い放って、しかし、反論の機会は封じにかかっている、という形になることにお気づきなのかどうか、たぶん、分かってやっていらっしゃるのだと思いますが、だとすると、ここに来て、随分とアンフェアな話の進め方ではありますね。

少なくとも、議論を終らせたいならば、私に対して、質問形の文章は投げないでいただきたい。
なぜ、私が判断は読者に任せる、とするようになったのか、その意図もお考えいただきたい。
以後、私は話を長引かせる質問形の文章は書きませんので、返答は必要ないことを申し置いた上で、続けさせていただきます。

>一つの齟齬に気付いたように思います。

についてですが、このお話自体は興味深い。
私は「規範」として受け入れる、受け入れないということには触らず、社会の現実として、それが法律に触れる、あるいはぎりぎりであることを人が認知している状態を、「グレーの度合いも受け入れ」たものとして考えています。
そこに「規範」として受け入れるかどうかが問題、と考えるおおや様との齟齬があった。
それが、私が果たして日本語が通じているのか?と訝しく思うくらい、話がすれ違ってきた理由、であるならば、それは納得できるところです。が、同時にそれは、法学者というのは、そういう考え方で厳密性を問うのだなあ、という率直な感想とともに、一般人の言語感覚との乖離を感じるところでもあります。

ちなみに、上記の私の考え方----定義というほど厳密性を持ちうるかどうかは分かりませんが-----を説明した文章は、以前にもあります。

>「私の「グレーの度合いも受け入れて」という言葉は、その直前にある、あなたの「法の外側であることに耐え」とほぼ同義です。私は「耐え」よりもむしろ軽い「受け入れ」という言葉を使っていますので、法に触れる、あるいはぎりぎりの、グレーな世界であることは知りつつそこにいる、ということを言っているだけ」

このコメントの時点で、今回のような指摘をいただいたならば、私としても同じことを繰り返して言う必要もなく、日本語が通じているのか?というような疑問を抱くこともなかったでしょう。

>「これは私のそもそもの発言についてのご比判と考えてよろしいですね。」以下の部分については、デリカシーの欠如の指摘に対してその指摘をした人間の問題へのスタンス云々を持ち出しておられるのですが、第一に予想外の存在が存在し得ることを予想するのがデリカシーなのですから特定の問題だけを問うても意味がありませんし、第二に特定の問題に対するBB(高橋)さんの考えがどうだろうがそれは書かれていない以上読者にとっては関係のないことですし、第三に指摘した人間がどのようなスタンスを持っていようが元々の言説の内容には何の変化もないことですからやはり関係ありません。すべて先のコメントで指摘させていただいた問題点ですが、やはりご理解いただけていないようですね。

まず、上記への反論の前に、前のコメントにおいて、私はそのひとつ前のおおや様のコメントの時系列にそった形で、インラインでコメントしているということをお断りしておきます。

「予想外の存在が存在し得ることを予想するのがデリカシーなのですから特定の問題だけを問うても意味がありません」というのは理解できますが、あなたと私が会話する中においては、あなたが意味がある、意味がない、関係ある、関係ないと判断する文脈のみにそって、その特定の問題が扱われるとは限らないのは当然でしょう。
あなたが話の俎上に乗せたその特定の問題から、私は別のデリカシーにまつわる問題を提議した。それだけのことです。
もしも、あなたが「予想外の存在が存在し得ることを予想するのがデリカシー」という文脈のみにおいて、議論を進めたかったのなら、「特定の例」を思いついたからといって、ことさらそれを持ち出す必要もなかった。持ち出せば、そこから「別の文脈」が発生する可能性は、十分に想像できますから。
あなたが横道をそれる可能性を作ったから、私はそれにつきあって、だったら、こういうデリカシーの問題も考えられますよ、と言ったのです。

そんなつもりで例に出したのではない、と言われても、それはあなたの意図であり、私がそこに何を思い、何を話し始めるかとは関係ない。それを許容しないとすると、あなた自身がこれまで重ねて書いてきたことは何だったのか、ということになりますね。「やはりご理解いただけていない」と私に言うあなた自身が、それを自身の言説に引きつけては理解していないことになる。

実のところ、私への批判に援用する目的だけのため、そのような特定の人々を例証の材料として取り出すことは、本当にシリアスにその問題と向き合っている方々へのデリカシーの欠如を感じさせる、というのは、私の正直な感想です。デリカシーとは想像力の問題である、とすると、この点において、あなたの想像力は十分であるかどうか、という疑問を私は述べているわけです(御返答をいただく必要はありませんが)。

さて、一方で「予想外の存在が存在し得ることを予想する」については、「おおや様のコメントの時系列にそった」ために、上記の「別の文脈」よりも後になってしまいましたが、「はず」という表現にまつわる「断定の留保」ということで、一定のご説明は差し上げています。
一定の、というのは十分でない、と感じている部分があるからですが、それはここでは置きます。

>何気ない発言が差別的になり得るとすれば率直にものを言いにくくなると言う点、そのこと自体はその通りですが、今回はソープランドを例に持ち出してグレーな場所での粘り方を説明するという私自身の言説戦略に対する批判として書かれたと、そうおっしゃっていたのではありませんでしたか。その批判自体の言説戦略に問題があれば反批判されるのは当然のことだと思いますがいかがですか。

当然です。が、だからといって、その反批判が妥当であるか、あるいは第三者への説得力を持つか、は別問題です。

>「なぜ、あなたは最初からその点をもって、私を批判しなかったのか?」と最後にご反問ですが、私のBB(高橋)さんに対する最初のコメントによる応答にはちゃんと「さてどうも中古業界をソープランドに例えたら愛する人がどう思うかについて私が想像力を巡らしていない、とのご指摘のようであります。(……) わざわざ挑発的にソープランドにしたのはそういう反発をする人の中にある差別意識を露出させたいという意図もありました」と書いてあります。

インラインの順番を変えますが、当然ながらこれは、コメント欄を含まない、当該エントリーにおいて「最初から」ということです。ですので、上記は回答にはなりません。
また、上記質問は「見過ごすことができない差別的表現であったのなら」という条件を置いたものです。率直に言わせていただいて、おおや様の言説にはこのように、必要とされる条件を無視するなど、私の文章を一部を自在に切り取った形での引用による曲解、拡大解釈といったものが、しばしば見られます。
ご本人がどうも、それに気がついていない例も少なくないようですが。

>正直に申し上げて、元の文章が(例えば)「冗談じゃないよ。ミュージシャンやオーディオ・ファンは、ソープランドみたいなグレーな場所で楽しみたいわけじゃない」といったように(私の文章を引き合いに出さずに)書かれていたとすれば、私はそれを見て「デリカシーないな」と思ったかもしれませんが、わざわざ批判することはなかったでしょう。ソープランドの例が挑発的に過ぎたということは私がすでに認めています。BB(高橋)さんも同様に、表現の行きすぎがあったことを認められればいいだけなのではないでしょうか。

さて、上記は正直に書かれていると思いますので、私も正直に申し上げましょう。
「ソープランドの例は挑発的に過ぎる」という批判、というか、そりゃちょっとムカツクぜ、オレは、というようなことを言うにあたって、ソープランドという言葉を使わないことは不可能です。
その言葉を使うにあたって、差別の可能性を、明示的な除外などを用いて、慎重に排除することは、不可能ではないでしょう。
が、私のBLOGのそもそもの文章内において、そうした慎重な配慮をまっとうしようとしたら、批判対象に投げかける言葉よりも、はるかに多くの言葉をそこに必要としていたのは、明らかです。
というような場合において、私は慎重な配慮を投げ捨てることがある。少なくとも、今回はそうでしたね。しかし、それは私の目的にそった判断です。限られた量のテキストの中で、伝えたいメッセージを伝える場合には、そこに重点を置きます。
確かに、「怒りを現したいなら、最後まで怒りに任せて突っ走」ることも、私にはあります。

しかしながら、一定の慎重さ持って話す場合には、「はず」で断定を留保する例のように、逃げを用意しておくこともあるでしょう。
さらには、上の方で書いているように、「より多くのデリカシーをもって」、自戒とともに、慎重に排除すべきであった例外の可能性を探すこともあります。
ひとつ前のコメントで、私は「「例外の可能性がある」ことを、それぞれの時点において、(私が)考えていたか、いなかったか」ということについて触れようとしましたが、それは後段に譲るとしたまま、結局、当該コメントの中では書ききれずに終っています。が、「それぞれの時点」によって、デリカシーの量が違っていることには自覚的であったのは、お分かりになっていただけるでしょう。
そのことに対する批判はありうると思います。
が、伝えたいメッセージを伝える、という目的からすれば、そうやってデリカシーの量を使い分けるのが、私の言説戦略である、というのも正直なところです。

というところで、そろそろ、最後に辿り着きたいものです。

上記にひとつ、追加しておきたいのですが、その言説戦略に対する批判、ということを考えた時、おおや様と私の間には、どうやら考え方の違いがあるようです。
言説、そのものではなく、言説戦略なのですから、それは戦略が有効であったか、有効でなかった、において評価判断されるもの、と私は考えます。
戦略が正しかった、と断定されるような場合は量的にそれが有効であったと明らかに認められる場合でしょう。言説戦略の場合はそれは、人々に対して説得力を持った、結果として支持を得た、ということに対する量的判断になると言っていい。
戦略が誤りであったとされるのは、逆の場合ですね。民主党のメール問題は典型的な例になるでしょうが。

私のおおや様の言説戦略への批判は、そこに、上記のような考え方においての誤りがあったという指摘です。
それに対して、おおや様は「肝心のPSE法に関する主張が伝わりにくくなるという言説戦略上の問題」を認められました。「主張が伝わりにくくなる」を問題として認識されているということは、戦略の有効性への私の批判を受けとめらたということでしょう。

一方、おおや様も私への反批判として、「差別意識を露呈させたと指摘されかねない文章表現を用いたことは言説戦略上の問題」という指摘を行った、と言われる。が、これに対しては、私はそういう批判もありうることは認められますが、戦略の有効性への評価判断としては頷けない。
私は場合に応じて、デリカシーの量を使い分けている人間です。それは例えば、差別発言を避けることに神経質になり過ぎたゆえに、物が言いにくくなる。そのためにテキストを消費してしまい、言いたいことを端的に表現する力が鈍る、というようなことを避けるためです。
メッセージをどれだけ伝えられるか、ということと、その傍らにデリカシーをどれだけ置いておくか、ということを天秤にかけている、と言ってもいい。
おおや様の言われることは、どちらかというと、そういう戦略から導き出される言説への批判でしょう。
が、私がそもそも伝えようとしていたメッセージが説得力を減じた、ということが明らかにされない限り、戦略への批判としては機能しないものです。

もちろん、デリカシーの欠如が大きい場合には、それによってメッセージが伝わらない結果に陥ります。こんな差別主義者が言っていることは、ということで、私のPSE問題についてのメッセージが支持されないということはありうるでしょう。が、少なくとも、おおや様はそうではないですよね。どういう人間が言っているか、ではなく、主張内容の正否で判断されるでしょうから。となると、戦略上の問題は、おおや様以外の方々の反応を持って、評価判断すべきでしょうね。

これは法律を論じているのか、政治を論じてるのか、という問題と近しいのでしょうね。法律を論じるならば、それが針の穴のようなものであれ、ロジックに不備があれば、言説戦略上の問題となるのでしょう。が、私のおおや様の言説戦略への批判は、そういうものではありません。

ここまでのやりとりをふまえるならば、上記はもはや、お互いの確認事項でしかありませんね。
ですので、出来れば、私はあとは前々から述べたいと思っていた雑感を述べて、終わりたいなとは思っているところです。

>BB(高橋健太郎)さん
どうも修辞疑問文がご理解いただけないようなので簡潔に書きます。今回の事例は基本的に立場の違いに収束するものであり、従ってあとの判断は読者の方々に委ねるべき問題だと、私も思っています。従って「あとは前々から述べたいと思っていた雑感を述べて、終わりたい」というBB(高橋)さんの意図を尊重しますが、言説戦略についてのみ一点補足します。
それが結局どのような効果を発揮したかによって評価されざるを得ないということ、これは確かでしょう。しかし「効果」については(1)相手が自分の意見に同意してくれるようになること でも、(2)相手が自分の意見を考えに入れて行動するようになること でもあり得ます。ある目的のために人々にメッセージを伝え、その支持を集めようとする場合には――いみじくも「政治」という言葉を使われていましたが――(1)が大目標である。一方、すでに述べた通り私には別にそのような主張はありませんから、(2)が目的であり、それが達成されれば十分であった。言説戦略に対する考え方の違いは、むしろその達成目標の差にあったのではないかと私は考えていますが、ご返事は不要です。
では、どうぞ。

おおや様

>どうも修辞疑問文がご理解いただけないようなので

「修辞疑問文」が「質問形の文章」に含まれないという説を初めて聞きましたが、それはともかく、こういう嫌味を一言でも付け加えないと、何かが言えない癖は、「言説戦略の問題」を認められた後も、治らないのですね。
加えて、話の一部分を切り取って、それに利用する癖も。
私は「質問形の文章」だけを問題にしていたわけではなく、ひとつ前のあなたの文章の構造がアンフェアである、と言っているのですが、まあ、分かってやってらっしゃるのでしょう。

さて、ここまでの経緯を私なりに整理させていただくと、

●あなたは私がソースの確認をせずに、3/25のBLOGの文章を書いた、という想定に基づいて、私および音楽業界全般を批判するこのエントリーを上げたが、その想定自体が誤りであることを私から指摘された。あなたは、アクセスログを元に反論したが、その際に確認ミスをして、傷口を拡げた。
私がソースを確認していたことが分かったので、あなたは謝罪とエントリーの批判文の一部の撤回を行った。
私はソースの公開が出来ないアクセスログを持ち出すこと自体が、永田議員のメール問題のようになってしまう、戦略の誤りであることを指摘したが、以後、撤回された批判文については不問とした。

●一方、私は3/25のBLOGの一部表現について、当エントリーであなたがあらためて説明された、そもそもの発言意図を誤解した点があったことを認め、当該部分を、但し書きつけで削除した。
が、意図に反する誤読は、それが私だけにとどまらないことだったのを考えても、あなたの挑発的な論法に問題があるのではないか、と再び言説戦略への批判を行った。

●それに対して、あなたは、ソープランドをたとえに出した挑発的論法について、当エントリーでのそれについては「過度に揶揄的」であったとして、すでに一部撤回はしていたものの、そもそもの発言は「一部の人の差別意識を露呈させようという意図」にもとづくものだったとし、私の発言にもそれが露呈しているとの批判を行った。

このそれぞれの批判については、立場の違いに収束する面を持たざるを得ないのは、お互いに確認にするに至ったと言っていいでしょう。
私への批判については、それが私の言説戦略への批判だとするなら、戦略上の問題を引き起こしているという認識はないので、頷くことができない。
言説そのものへの批判だとするならば、3/25のBLOGの発言はもともと個人的感情吐露として書いたものであり、限られた条件の中で、常に十全のデリカシーを配して、文章を書けるわけではないので、そこに差別発言が含まれるという指摘を受けることはあるだろう。
というのが、私の立場でしょう。
が、ケースバイケースでデリカシーの量を使い分ける私(というより、ほとんどすべての人はそのようにして日常生活を送っていると考えられるが)は、その可能性があることは意識しているし、個人的感情吐露であることを明記した文章にまで、そうした批判を受け入れていたら、自由に文章を書くことが困難になるので、それは言説戦略上、受け入れられない。ということですね。

次に、上記議論から枝分かれしたことの中で、私が留意しておきたい点には、以下がある。

●挑発的論法への批判の中で、あなた、あるいは学者一般を「グレーな領域で粘ったことのない人」と私が断じたとして、あなたは反論を行った。

これに対して、私は十分な反論を行っていませんが、それは最後に譲ろうとした部分で、関連することを述べようと思っていたからでした。
ひとつ前のコメントにあった、資格がある、ない、というのは、上記の批判に関連してのことかと思いますが、そこは話がすれ違ったまま、最後に至っているようにも思います。(私はそのようなことは問うていません)
また、上のコメントの文中にあった「学者などに」という表現については、私は撤回の意志を表明をしています。

●「おめこぼし」について、警察の取り締まりの限界、的な非常に単純化された解釈が述べられていたことに対して、現実に照らして、それは妥当ではない、おめこぼしの代償は大きい、という批判を私は行った。

これに対して、あなたからの反論はありませんでした。

●自説の保護や、論を闘わせている人間への批判に援用するため、相手の差別的発言をあぶり出すことのみを目的に被差別者を話の俎上に乗せることは、デリカシーの欠如を指摘しうる(差別的とはあえて言わなかったが)、という批判を私は行った。

これに対して、あなたからの反論はありませんでした。

●「一緒にするな」という私の言葉に対して、それは差別的である、という指摘をあなたは行った。が、そこに当然含まれる「一緒ではない」という私の主張に対しては、いや、一緒である、と考えられているのかどうか、その点は結局、明確でない。

これは、「「強いられた人」に対して、第三者が投げかけられるのは何か?」ということに対して、長い回答(それはそもそものPSE法に関するエントリーで、あなたが書かれたことを簡潔に要約したものでもあったと思いますが)を頂いた後でも、結局のところ、よく分からないままでした。

ちなみに、「一緒にするな」の真意には、九回ツーアウトを闘っているところに、外野から敗者復活戦があるんだから、などという声が飛んできても邪魔くさい(敵を利するだけである)。敗者復活戦があることは分かっているが、そこでは不利な条件が加わることをよく知っているので(例えば、風営法に対するクラブの闘いにおいて)、今、ここでふんばりたいのだ、というようなところがあったわけで、そこにはタイミングの問題が含まれる。
それを見過ごされているのか、あるいは問題でないと判断されているのかは分かりませんが、なぜ、あなたの挑発があなたの想像以上に効いたのか、さらに言うと、民よりも権力を利するものとして捉えられたのか、ということの答えも、実はそのタイミングにあるような気はします。
敗者復活戦に入った今なら、ソープランドを例えにグレーでの粘り方を説かれても、たぶん、反応は違うでしょうね。

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さて、上記の整理については、御返答は不要です。

だいぶ以前に、私が書こうと思っていた最後のコメントは、上記の
●挑発的論法への批判の中で、あなた、あるいは学者一般を「グレーな領域で粘ったことのない人」と私が断じたとして、あなたは反論を行った。
に関連します。
これまで触れてきませんでしたが、私にも学者の友人はいるし、たまに大学での催しに招かれることもある。ですので、まったく学問の世界に無縁というわけではない。

そこでまず、「学者などに」という発言については、私が先に撤回せていていただきたい、としていることを再度、確認致しますね。
撤回した後も、おおや様はそれを私への批判材料として使っていますので、撤回は認めない、ということなのかもしれませんが。

それから、私が反論を加えていなかった以下の点。

>次の点、「いつのまにか、私があなたを(あるいは学者一般を)「グレーな領域で粘ったことのない人間」と決めつけたように言われますが(……)読んでの通り、あなたの推測ですよね」というご指摘です。まず原文「「売春防止法の正当性を認めない立場からするとソープランドというのは法律という相手方の建前を逆手にとった正義の抵抗運動」なんていうのは、グレーな領域で粘ったことのない人間の言葉遊びにしか思えません。」からは(1)そのような発言は「グレーな領域で粘ったことのない人間の言葉遊び」に見えるという言説戦略に関する主張、(2)そのような発言をする人間は「グレーな領域で粘ったことのない人間」であるとしか思えないという主体に関する主張の双方が導出可能です。BB(高橋)さんは(1)のみであったと主張されているわけですが(2)を明示的に否定するような文言は書かれず、また「学者などに教えられなくても」というようにやはり私の属性に言及するような表現を使われていますから、仮にBB (高橋)さんの主観においては(1)のみが意図されていたとしても(2)たる解釈に応答する責任がある、とは繰り返し繰り返し書いていることです。念のために言えばその応答とは「いやそういう趣旨ではなかった」でいいわけですが、何故かBB(高橋)さんはそれに加えて異なる解釈をしたことを非難される。

>「いやいや、「「俺は野暮じゃない」と主張するほど野暮なことはねえですから」ですか、そうですか(にこにこ)。/だったら、なぜ、ここに来て、学者の世界における「グレーな領域での粘り方」を急に力説され始めのか?/野暮だったんじゃなかったっけ?」という部分に関しては、いやはやはっきり書かねえとわかんねえのかわかって書いてるのか、野暮相手には野暮なことしないと通じないから仕方ないって話ですよね。

ひとつ目の「非難」というのは、私の「読んでの通り、あなたの推測ですよね」を受けてなのかもしれませんが、そこには非難する意志はありません。あなたはそういう推測を示したが、それに対して、私はその後、何も答えていないですよ、ということを確認しただけでした。
が、私の「学者などに」という言葉もあって、あなたは、私がおおや様を(あるいは学者一般を)「グレーな領域で粘ったことのない人間」と断じた、と考えるに至った。「学者などに」については、撤回させていただきましたが、確かにその撤回前の時点では、それが必要以上の誤読を誘う言葉であったことを認めます。

しかしながら、そもそもの「グレーな領域で粘ったことのない人」発言に限って言えば、それは私が先に認めているように挑発ですから、文章そのものを厳密に解釈すれば、おおや様の言う(1)であるはずだが、挑発に乗って、(2)と取る人もいるだろう、ということも想定して書かれています。そういう意味では、私の意図は(1)にも(2)にもあると言っていい。が、(2)に対しては、ちゃんと読め、と返せばいいように、書いてある。

このような挑発的な書き方には、もちろん、批判もあるでしょう。が、おおや様がそれを批判する姿は、このエントリーの冒頭の文章を振り返ってみる時、少々、滑稽には映ります。
私はおおや様の「お前は園児か」発言に対するものとして、これを書いている。
冒頭の文章の当該箇所を私風に書きかえれば、
「誰かがいつのまにか綺麗に・安全にしておいてくれるはず、なんていうのは園児のおねだりにしか思えません」
となります。
というような発言に対して、私が(2)パターンにはまり、自分を園児と決めつけるのか、と怒り出したら、失笑の嵐ですね。
園児でないことを例証するために、幼稚園には通っていない、毎日、このように過ごしている、などと弁解を連ねたら、さらに笑いが取れるでしょう(あるいは、正気を疑われるか)。
おいおい、問題はそこじゃなくて、「おねだり」かどうかだろう、という声なども飛んできそうですが、という以前にこんな挑発に乗ること自体がカッコワルイですから、当然、私はスルーします。

と書くと、いや、その「園児」発言のすぐ後には、「しかし私はそういう評論をする気にならなくて」というフォローが加えられている。だから、挑発に乗らなかったのだ、とおおや様は言われるかもしれません。
しかし、上記の
「いやいや、「「俺は野暮じゃない」と主張するほど野暮なことはねえですから」ですか、そうですか(にこにこ)。/だったら、なぜ、ここに来て、学者の世界における「グレーな領域での粘り方」を急に力説され始めのか?/野暮だったんじゃなかったっけ?」
の後では、私もフォローをしている。すぐ後に、「というのは意地悪に過ぎるとは思います」と書いて、挑発的表現を否定しています。
にもかかわらず、そこに「いやはやはっきり書かねえとわかんねえのか」以下の文章を返されると、あれえ、フォローが目に入らなかったのか、あるいは、意図的に無視したのか、という話になってしまいますね。

それに続く、
>もう一つ言うと私は一応の社会的立場がある勤め人ですから、たとえグレーな領域に(公私問わず)関わっていたとしてもそれを明言するわけにいかないことくらいご理解いただけるだろうと思ったのですが、やはり甘かったようですね。ここで書いた程度の話でも文科省にツツかれたら面倒くさいのですが、正面から書かないとおわかりにならないようなので危険を冒して書きました。

については、甘ったれ、としか言いようのない話です。
大学運営に支障をきたすような発言があれば、それはおおや様個人だけにふりかかることではないでしょう。挑発に乗せられて、そんなことをされては困る。そこをコントロールしてやるのが、グレーでの粘り方でしょう。
黙ってやらねばならないことは多いのは、どの世界でも同じです。他の世界からはやっていないように見えてもやっていますよ、ということを私は言ってきた。まだ九回ツーアウトを闘っている時に、敗者復活戦での作戦を敵も見ている場所で明かせないでしょう(しかも、この場合には敵は権力側とは限らなくて、同業者であったりもする)。おおや様にはどうも、そのあたりへの想像力が欠けているように思われる。

あげくに、
>「自分のよく知らない世界を舞台に」取り上げたい理由があるとは、お考えにならなかったでしょうか
に至っては、この期に及んで、何、泣き言を言い始めるのか、と思えてしまう。
グレーの部分はあるが、それを公言することはできない「ほぼシロの世界」に生きている自分を守るために、自分のよく知らないグレーの世界をたとえとして出した・・・なんて、その知らない世界の住人からは、いい迷惑、と言われても仕方ないですよ。そんな理由は口になさらない方がいい。

これは上の、
●自説の保護や、論を闘わせている人間への批判に援用するため、相手の差別的発言をあぶり出すことのみを目的に、被差別者を話の俎上に乗せることは、デリカシーの欠如を指摘しうる
とも関係するでしょう。

しかしながら、私がここで「甘ったれ」、「泣き言」といった言葉を使ったのは理由があって、そのような情緒的な言葉を使いたくなる、人間くささがおおや様にもあるのだな、と知ることになったのは、結果、悪くなかったんじゃないか、とも私は思っている。
挑発に挑発で応えるということは、あまり誉められたことではないですが、挑発がお好きなおおや様も、火の粉が自分の方角に飛んでくると、ぼろぼろになったりもする。私なら乗らないような見えすいた挑発に乗って、ヤバイ橋まで渡ってしまう。法哲学者、という言葉が喚起するイメージよりは、随分と人間くさい魅力をお持ちの方だ、というのは、率直な感想です。

そもそものPSE法についてのエントリーのコメント欄を見ていると、あなたのPSE問題についての主張、あるいは、それを説くための挑発的論法とは別のところで、多くの人があなたに対するフラストレーションを感じているように私には見えた。
それはきっと、自分はこのような主張をするけれども、読んでもらって、それぞれの世界の人の自問が促されれば、そこで満足である。だから、それ以上の建設的な提言などは求めないでね、私は観察や分析をするだけの人間だから、といって後ろ姿を見せるあなたに、どこか神経を逆撫でされたからではないかという気はする。
さらに言うと、そういうスタンスから発せられたあなたの言葉が、民よりも権力に都合の良いものとして利用されることを危惧している人達も少なくないと思われる。

正直なところ、私もこういう人は長いものに巻かれるのだろうなあ、と思っていた。
とりわけ、その印象を強くしたのは、アクセスログの確認ミスで、私に謝罪をせねばならない時でした。
当初はコメント欄に現れた私に対して、見下したような態度で荒っぽい言葉を投げていたのが、謝罪後はコロッと態度が変わって、あなたの言うところの「話の通じない人」や「何もしない人」と私を区別して扱い始めた。

>確かにBB(高橋)さんのようにシロと認めさせるために自分で動いている方がそれを不愉快に感じられるだろうということについては理解できますし、お詫びしたいとも思います

というあたりにそれは顕著だが、そう書かれても、私は嬉しくはなかったし、むしろ、そうやって人を分け隔てる卑しさをあなたに感じてしまった。
私が話が通じない人間かどうか、何もしない人間かどうかは、私のBLOGにおけるPSE法に関する主張が、あなたから見ても、大きな異論はないものであったのならば、そこで判断しうることだった。アクセスログ問題とは何の関係もない。
その一方で、私以外にも「シロと認めさせるために自分で動いている方」はたくさんいるし、公に動いていると見える人間だけが動いているわけでもない(私などは声が大きいだけで、実際、たいしたことはしていないと自覚している)。そういう意味では、動いている人、何もしない人、などという二分は、他者がたやすく出来るものではない。
また、「シロと認めさせるための動き方」にもいろいろあるし、私自身、JSPAの動き方には批判を投げていたわけだから、「動いている」でひとくくりにされても困るところがある。
というところからすると、このお詫びは私には理解しにくいものだったわけです。

あるいは、この部分。
>ところでこれは完全に余談ですが「行ったことのないソープランドを形容に使うというところで、そもそもの説得力がない」と批判されるということはーー十分な知識がなければ形容がおかしいという判断もできないはずなのでーーBB(高橋)さんはご利用経験があるということでしょうか。それで「中古をソープランドと一緒にするな」と批判される。なんか終わった後で女の子に「いつまでもこんな仕事してちゃいけないよ」と説教するオヤヂみたいですなあ。いや、そういうオヤヂがいるというのももちろん伝聞ですけどね。ええ。

これはすでに、おおや様が「過度に揶揄的で不当なもの」であったので撤回する、としていますので、もちろん、私としては、そこにあらためて批判を投げるつもりはありません。この発言自体は何よりも第三者によって判断される、あなたの品性、品格に影を落すだろうから、私はそれを笑って見ていればいいものだったりしますし。

が、揶揄ということを言えば、私の揶揄的表現がことの発端ですし、それに対しては、過激な揶揄が返ってきても当然とは、私は認識しています。ですから、アクセスログの確認ミスで、どうして、この発言まで撤回するのか?という点には、私は疑問を感じました。

あるいは、上のロジックが粗雑であったことに気づいて(ディズニーランドに行ったことのない人間が、同じく、行ったことのない誰かが「ディズニーランドのように楽しい」という形容を用いるのを見て、それじゃ説得力ないよ、行ったことのある楽しい場所を形容に用いればいいのに、と言うことには、何ら非合理性はないですから)、「過度に揶揄的」という理由づけで、引っ込めたのかもしれませんが、いずれにしろ、相手との力関係によって、こんなことを言ってもいい、やっぱり、言ってはまずい、というような判断をおおや様はされているということでしょう。

主張内容の正否にしか興味がない、とされるスタンスが、そこではぶれている、と言ってもいいでしょうね。

謝罪していただいたのに、私がおおや様をさらに深追いした理由は、そのあたりにあったでしょう。
去っていく後ろ姿に、火の粉をふりかけに行った、と言ってもいいかもしれない。
そのために、私も多くのコストを支払うことにはなりました。
しかし、学者の世界は学者の世界で、グレーな領域に無縁ではないし、多くのストラグルがある。歴史的に見れば、むしろ、「学問の自由」や「大学の自治」を求める長い闘いがあった。私の世代は実はそれをよく知っているわけですが(大学管理法案への反対デモなど、懐かしい思い出です)、そこに触れていただくことで(自分自身のことを語るのは野暮だというのは分かりますが、先人の残したものを語るのは、野暮でもなんでもありませんよ)、おおや様のそもそものPSE法関連エントリーに対する人々のフラストレーションが中和される部分はあったのではないか、とは私は考えます。

私のBLOGのPSE法関連エントリーを読んで頂ければ分かると思いますが、私は今回の中古電気製品販売規制を音楽関係者への影響だけを焦点に考えているわけではありませんし、古物商だけが当事者となる問題としても捉えてはいません。
その本質は「規制緩和」や「小さな政府」とワンセットになった「弱者の切り捨て」であると、二月の時点でエントリーに書いています。

それぞれの世界で正当な利益集団が形成され、機能することを期待するおおや様の主張は理解できるところですし、今回もJSPAなり、「PSE法を考える会」なり、政治的な問題解決に向けて、一定の働きを残した団体があったことは記憶されるべきでしょう。
が、そうした団体の働きにばかり焦点を当ててしまうと、それは当事者を限定して見せることにもなる。そういう危惧が私にはあります。JSPAの運動、あるいは、そのメディアの取り上げ方に対する私の異議も、それを理由としていました。
おおや様が音楽関係者や古物商、あるいは反対の声を上げた一部消費者だけに自問を促し、自分には関係ない問題なので、そこまでで満足だとして去っていくのだとすると、やはりそれは、当事者を限定して見せる効果を生むと私は考えます。
だから、聞いたわけですね、君んちは関係ないの? この問題に?と。
大学だって困ることはあるのではないか(特に理科系は)?というのは、私の素朴な疑問としてあったりもしますし。

今回のように、30万店舗を持つ一業界が、ある日、グレーに染められてしまうことは、多くの人にとって、常識的にありえないことだったと思われますが、しかし、それが現実に起こった。その原因を考えるには、その背景にある「規制緩和」の在り方、「小さな政府」を標榜しつつ、官僚支配がより強固になっていく国の行方、などを考えねばならないと私は思いますし、そういう意味では、それは一業界の問題ではない。A業界に起こったことは、B業界にも起こる可能性がある。という観点からすれば、A、Bそれぞれの団体の機能だけに期待すればいい、とは思えない。
異業種間の情報共有や共闘などの可能性も見ていかなければ、と私は考えます。

私個人の現実に引き寄せて考えると、私は文筆家の協会に所属していることを思えば、出版業界人でしょうし、放送業界やIT業界にも縁は深い。ソフトやイヴェントの制作もやれば、製造販売業もやっているし、著作権ビジネスも行っている人間なので、身近にある業界は多岐に渡る。そして、学問の世界もそう遠いわけではない。私自身は参加していませんが、JASPM: 日本ポピュラー音楽学会というのも近くにありますしね。
2年前の著作権法改正への反対運動においては、私は音楽関係者の運動を組織する働きをしたわけですが、そこには学者も多く含まれていましたし、音楽というキーワードで様々な業界を縦断した関係者が集まっていたと言っていい。
という経験からしても、学者である自分には無関係である、と言いたげに見えた、当初のおおや様のスタンスには違和感を覚えたということはありそうです。

思えば、上記の切り捨てられる「弱者」の例として、私がBLOGで最初にあげたのは貧乏学生でした。安く生活用品を揃えたかった大学新入生に、5年前に声を上げろ、と言っても、当時は中学生だったはずです。これは私よりも、おおや様に身近な問題でしょう。他にも、大学におけるPSE法の影響は、調査やヒアリングを行えば、それなりに出てくるのではないかとは想像される。
いずれにしろ、「規制緩和」や「小さな政府」とワンセットになった「弱者の切り捨て」で、最も影響を受ける人々は「団体」とは縁遠いところにいることが多いでしょう。
今春、リサイクルショップに就職する青年に、「団体」の話を説いても、ということは上の方で書きましたね。団体の必要性は理解できるとしても、それにすべてが託せるわけではない。こぼれ落ちる人々はいる。それらの人々の声は小さい。しかし、彼らこそは最も影響を受ける当事者であるとしたら・・・。

というようなことも私は考えますが、そろそろ終りに致しましょう。
グレーな中で粘る闘いは始まりました。
ビンテージ・リストに関しては、そのお粗末さを笑っているだけでは何もなりませんので、なぜ、自分達が官僚に無償の情報提供をせねばならないんだ?と若干ムカツキつつも、リストの整備のために、有志が経産省への協力を始めたところです。

>BB(高橋健太郎)さん
まず修辞疑問文についてですが、これは形式として疑問文であるものの、意味としては相手に質問しているのではなく自分の一定の主張のために用いられるものです。従って意味の次元では平叙文と変わらず、応答の必要性も変わらないはずです。しかるにBB(高橋)さんは「少なくとも、議論を終らせたいならば、私に対して、質問形の文章は投げないでいただきたい。」と述べ、形式としての質問形を問題にされました。これが例えば「議論を終わらせたいならば論点を増やすな」のように意味の次元において要求されていたのなら話は通じます。しかし何故「質問形」という形式を特に問題にするのか、応答の必要性なら上記の通り形式にかかわらず増加し得るので、特に形式を問題にする意味が私には理解できませんでした。ここにおいて可能な推論は二つあり、(1)BB(高橋)さんは「修辞疑問文」という形式と意味に違いがある文章を理解できない、(2)BB(高橋)さんは特定の段落の中でさえ整合性が保てないほど破綻した思考形態をしている、のいずれかです。「意図不明な言明は相手ができるだけ高い能力を持っているように読解すべきである」という倫理に基づいて(1)の仮説を採用したのですが、間違っていたようでしたら申し訳ありません。
なお、以下の文章で質問形で書かれているものがあってもそれらはすべて修辞疑問文であり、BB(高橋)さんの応答は期待していない、というよりむしろ無用ですので、その旨念のため注記します。

とはいえ私としてはまだ(1)の仮説に未練があって、というのはBB(高橋)さんが主張の内容と主体を区別していない・できていないのではないかという指摘はすでにさせていただいていますが、それだけではなく主張の内容と形式(ものの言い方、と言い換えてもいいですが)の差異も理解できないことを推定させるポイントが二つ出てきたからです。
第一に、BB(高橋)さんは「だったら、なぜ、ここに来て、学者の世界における「グレーな領域での粘り方」を急に力説され始めのか?/野暮だったんじゃなかったっけ?//というのは意地悪に過ぎるとは思います。」というご自分の表現が、「「園児」発言のすぐ後には、「しかし私はそういう評論をする気にならなくて」というフォローが加えられている」という私の用いたレトリックと同型のものだと主張しておられます。しかしながら後者は*そういう評論をしない*という主張内容の否定であるのに対し、前者は*それは意地悪だ*という主張形式の否定になっている。言い換えれば、そういう形式で述べるのは不適切だが内容の正当性を否定してはいない。この両者が同一だと言えるのは主張の内容と形式を区別していない・区別できない人だけなのではないか。
第二に、3月27日のお詫びのコメント2つにおいて私はアクセスログの誤った解析に基づく誤った言明を撤回したのですが、その余の主張はほとんど変えていませんし、そもそもBB(高橋)さんの誤読であるという主張、またその誤読のレベルが低いという主張を繰り返してさえいます。また、「謝罪後はコロッと態度が変わって、あなたの言うところの「話の通じない人」や「何もしない人」と私を区別して扱い始めた。」とされていますが、このエントリはそもそも「おまえ園児かという話」になる人々と「この方」(=BB高橋)さん)を区別して書かれている。コロッと変わったのは何かといえば、区別の境界線ではなく言葉遣い、表現の形式です。これは変えました。謝罪後だからというのもありますし、「この人は非難に値する」と私が判断した根拠は誤りだったわけですから、である以上その実践性をーー元のエントリの文章に書いてある通りーー評価して丁重に扱うべきだと考えたからです(ただ念のために言うと、BB(高橋)さんが実践的であることは評価していますが、それ以外の方がそうではないと言ったことはーー明示的に「やっていない」「できない」と主張された方以外ではーーありませんから、BB(高橋)さんが*自分だけが別扱いされている*とお考えになったとすれば、その時点で誤読であったということになるでしょう)。しかしそのように私が表現形式を変えたことをBB(高橋)さんは「主張内容の正否にしか興味がない、とされるスタンスが、そこではぶれている」と言われる。それは結局、主張内容と主張形式の区別ができていないからなのではないか。
一点、ご指摘の通り実質的論点になり得るにもかかわらず撤回した部分があり、それは「ところでこれは完全に余談ですが」から「伝聞ですけどね。ええ。」の部分ですが、これは書いた通り「過度に揶揄的」だという主張形式の問題を認めたからです。私は相手によって主張内容は変えませんが主張形式は変えますから、この文脈ではこの表現は非礼だと考えました。形式と意味を区別するならあとで再度持ち出しても良かったはずだと言われればその通り。そうしなかったのは何故かと言われれば、謝罪・撤回した後は基本的にBB(高橋)さんのご主張に反論するという形で議論が進んだからという程度の理由しかありません。利用しながら差別する滑稽さを問題にする以前に、差別になっているということを理解していただくまでにえらいことかかったからという事情も。「過度に揶揄的」なのが非礼であると認めながらまた揶揄的になっているのは何故かと尋ねられれば、まあ、そういうことです。「嫌味を一言でも付け加えないと、何かが言えない癖」とおっしゃっておられますが、この問題において私がいろいろな方にお返ししたコメントでもこの問題の前後のエントリでも結構ですが、揶揄や皮肉を使っている相手と使っていない相手がいることにお気づきになった方がいいのではないでしょうか。
しかし仮説(2)、つまりBB(高橋)さんの言説は同一段落の中でさえ整合性が保証されないという仮説にも捨てがたいものがあります。なぜーーメイルでもあるまいし見にくくて仕方がないのにーーインラインの反論にこだわるのか(もちろん「趣味だから」で結構ですが読者の便宜を考えると迷惑な趣味ですな)、なぜ私の文章を繰り返し「話の一部分を切り取って」利用していると批判されるのか、つまりそれは一連の議論に整合性がなく自己矛盾に陥っていることに自覚的だからなのではないか。念のために言うとそのような言説戦略が一概に否定できるというわけではない。すでに述べましたが「その場での勝敗(の印象)で決着がつくディベートなら、それで強烈な印象を与えられますから」。私は読者の便宜を考えて議論を適宜要約しながら反論を進めるようにしていましたし、それが許される根拠としてBB(高橋)さんが一定の整合的な立場に基づいて主張を展開されていることを前提していましたが、そのような前提自体がご迷惑だったのかもしれません。いずれにせよ私が不当な要約や引用を行なっているかどうか、それはもはや読者の方々の判断に委ねるべき問題かと思われます。
蛇足ながら付け加えます。これはあくまで一般論ですが、危機管理論の基礎として「不祥事が生じた場合の最善の対応は速やかな・徹底した謝罪である。しかし謝罪しつつも相手の誤りがあれば正し、主張すべきことは主張すべきである」というものがあります。「Honesty is the best policy.」とも言います。もちろん誤った行為には謝罪すべきですから道義的にも正しい方針ですが、それを措いて戦術論的に言えば相手の追及可能性を封じるという意味がありますし、さらに、相手がこちらの態度を服従的なものと誤信し、自信過剰になって不当な非難に及んだ場合には、それを反批判することができるというメリットがあります。もちろん以上はあくまで一般論ですが、せっかくの「情緒的な言葉を使いたくなる、人間くささ」というお褒めの言葉(?)が正しかったのかどうか、まあこれはもうやめておきましょう。
もう一点、これもあくまで一般論ですが、永田メール事件の最大の教訓は「不確かな証拠を振り回してはならない」という点ではないと私は考えています。もちろんきちんと確認すればできたはずの誤りを見逃したのは恥ずべきことであり、私がしでかしたミスもレベル的に大差のないものであり、それが問題だというのは間違いありません。しかし仮に問題点が指摘された時点で永田議員が即座に誤りを認めて謝罪し、議員辞職するとか、あるいは懲罰委員会の決定に従う旨を声明していたとしたら、どうだったでしょうか。おそらく事件は民主党執行部の進退問題にまでは行くことなく収束していたでしょう。問題はーーこれは永田議員自身というよりは民主党執行部の責任が重いと思いますがーー誤りがはっきりしてきても「まだ別の証拠がある」「この証拠が誤りであっても実態はあったかもしれない」「なぜ自民党は国政調査権発動に応じないか」といったように、さまざまに言い逃れをしたり責任を他者に転嫁したりしたことにある。誤りを犯しながらそれを糊塗しようとする人間は信用されないというのが、永田メール事件の、その事件固有の、教訓ではないでしょうか。

さて経緯の要約についてはもう違いを確認するということでよいと思いますが、二点のみ補足します。
第一点、「自説の保護や、論を闘わせている人間への批判に援用するため、相手の差別的発言をあぶり出すことのみを目的に被差別者を話の俎上に乗せることは、デリカシーの欠如を指摘しうる(差別的とはあえて言わなかったが)、という批判を私は行った。/これに対して、あなたからの反論はありませんでした。」とされている点、以前に「見過ごすことができない差別的表現であったのなら、なぜ、あなたは最初からその点をもって、私を批判しなかったのか?」とされている点、また何故野暮な説明をしたかという私の説明に対する「甘ったれ」あるいは「泣き言」というご指摘と関連しているかと思います。真ん中の点についての先の私のご返答には満足されなかったようなのでもう少し言うならば、「まともな思考力のある人なら言われなくても気づくはずだから」でしょうか。もちろん「まともな思考力」というのは私の主観ですから、それがまともだという考え方自体が間違っているという主張はあり得ます。しかしそれを留保して言えば、現にBB(高橋)さん同様の反応をされた方々に対して複数の方からそれこそが差別的だという指摘があります(フォロー(4)に対する3/20コメント)。私が追加して何かを言うまでもなく、差別性の指摘はなされていた。しかしながらBB(高橋)さんご自身はどうやらその程度の指摘ではおわかりにならなかったらしいのでやむを得ず説明を追加するに至ったと、そういうことになりましょうか。
最後のご指摘については、「私は「黙ってやる」と書いているでしょう? おおや様の挑発的な文章にカッときて、コメント欄ではそういう発言をした人がいたとしても、そろばんは別にはじいていることは多いでしょう。/そのあたり、おおや様はナイーブなのだなあ、とも思ってしまいます。私はもっと意地悪い見方もしますので」と書かれている方が、学者たちが「黙ってやっている」可能性に思い至らないというのはどうなのか。自分たちが黙ってやっていることは想定するべきだが、相手がそうしていることは想像もしなくていいということなのか。「そのあたりへの想像力が欠けている」のは誰の話なのか。そういう人にもわからせようという情熱のあまりに説明をして差し上げると「甘ったれ」「泣き言」と表現されたり、デリカシーが欠けていると批判されたりする。そもそも読解力や想像力が不足していなかったらデリカシーの問題など生じさえもしないのですがという指摘には、しかし世の中まともな理解力・想像力の持ち主だけではないという反論がありそうです。なるほどその通りであって、だとすれば私にとっての最善策はそういうものの持ち合わせがない人々が誤読していたとしてもカーテンの陰で笑って見ているべきだと、そういうことになりそうです。「自由に文章を書くことが困難になる」ことを問題にする方の意見に従うと表でものが言えなくなるというのは皮肉なものですね。
念のために言えば「学者などに」の5文字を撤回されていることは事実ですしその撤回を私が認めないなどということもありません。全体としての学者に対する批判が不適切だったとして撤回されるだけでは、そこで「学者」に帰された属性を私個人が持っているという主張、およびその属性に対する批判を撤回したことにはならないという程度のこともおわかりにならないのは驚嘆に値すると思いますが、いまさら驚く方が間違っているのかもしれません。また、つっつかれれば厄介なのは確かですがーーこちらに何の問題もなくても聞かれれば返事しないわけにはいきませんからーーすべて防御できる程度の話しか書いておりませんので、ご心配は無用です。逆に言うと、その程度の話なのに「ヤバイ橋まで渡ってしまう」とか表現される方が「まったく学問の世界に無縁というわけではない」と主張される点、せっかくお褒めいただいた部分もあるのに申し訳ないのですが、「少々、滑稽には映ります」と申し上げるべきでしょうか。あるいは私が「危険を冒して」と書けばそこに本当に危険があったのだと思ってしまう「ナイーブ」さと申し上げるべきでしょうか。
第二点、「「一緒にするな」の真意」の部分、タイミングの問題を指摘されるのは。特に言説戦略の問題として捉えればその通りかと思いますが、そこで「敵を利するだけである」あるいは「民よりも権力を利するものとして捉えられた」と書かれている点、あるいは最後の最後に「なぜ、自分達が官僚に無償の情報提供をせねばならないんだ?と若干ムカツキつつも」と非常に素直に吐露されている点などに、私としては「国家と市民の二項対立のみによって描き出された極めて貧困な社会像」(大屋雄裕「情報化社会における自由の命運」『思想』2004年9号、岩波書店)の深い影響を感じざるを得ないところです。「若干ムカツキつつも」経産省への協力を始める、それが必要であり有効であると判断できる人にしてなおこれか、と。
自由論の基本的な枠組は国家・中間団体・個人の三項図式であり、国家の専政に立ち向かうためには中間団体を組織して戦わなくてはならない。一方、中間団体の抑圧に対しては国家の強制力で対抗する必要がある。さらに特定の個人が他の個人に正当化できない被害を及ぼしうることも事実であり、それは国家・中間団体によって抑止する必要がある。「個人の自由」は、三者の困難なバランスのあわいにしかない。そういう主張が二項図式の上にいる人からどう見えるのかということをあらためて確認させてくれたという点において、この一連の議論は有益であったと、そう言うべきでしょうか(これは単なる嘆息です)。「大学管理法案への反対デモなど、懐かしい思い出」と語っていただいたことに冷や水を浴びせるようで申し訳ないのですが、我々が今まさに戦っているものの一部は、その時代のナイーブな運動によってもたらされた副産物です。大学による学生への不当な懲戒に反対する、これは良い。しかしそこで懲戒規定を全体として廃止してしまった結果として大学運営とも政治的主張とも何ら関係ない破廉恥罪を犯した学生をすら処分することができなくなったとか、そのような行き過ぎの是正はーー世代論として言うならばーー我々に回されました。端的に言えば、権力が他なるものを前提にした「反・権力」ではなく、「われら人民」が権力をいかによく運営していくかという問題が重要になっているのだ、それこそが現在の我々の問題なのだと、このように書くと実は同意していただける部分もあるだろうとは思いますが、いずれにせよ「補足」を過ぎて書いてしまったようです。

さて、正直に認めるべきだと思いますが、私は論ずるに足りない低品質な反論は封じ込めたいと思っています。先のコメントで総括を試みたのはもうBB(高橋)さんからはそのような低品質な言説しか出てこないだろうと判断したからですし、現在のところその予想は正しかったと思っています。少なくとも誤字脱字といった低次元の部分で低品質であるという指摘については反論もなくお認めいただいたようで、読者の便宜を図る上でもその程度のものを封殺しようとした私の判断は正しかったものと思います。ただし、ここでの「低品質」というのはあくまで私の価値観に照らした主観的な判断であり、それ自体が批判の対象となり得ることは間違いありません。
ここは皮肉抜きに書きます。以上で私はBB(高橋)さんに論理的整合性の欠如、ナイーブさといった問題点があるのではないかと主張してきたわけですが、しかしそういうナイーブさに由来する人間的魅力というものがありますし、「運動」においては論理的整合性でも議論の構成能力でもなく、率直にものを言う「セレーノ」(明朗さ・快活さ)が説得力をもたらす。文筆の魅力というのも同じで、例えば論理的にミスのないミステリがそうでないものより面白いわけではない。特にコメントの最後でご自身のコミットメントをストレートに語られている部分はとても面白い。すでに述べているとおり私自身には音楽や中古業界に対するコミットメントがありませんからそれによって動かされることはありませんし、「異業種間の情報共有や共闘などの可能性」と独自の取り組みがもっとも遅れている部類の業種の方(これは音楽業界も文筆業界も入るのですが)に言われてもな、と苦笑するところもありますが、しかしだから言っていることが間違いだというわけではないし、目的の重要性を実感できる人々はこのような言葉で動かされるだろうな、と思わせるものがあります。
従って私としてはこの文章をもう一度繰り返すべきでしょうか、「さっさと自分が必要とされる場所にお帰りなさい、というのは利己的・利他的どちらの動機に基づいても言うべきことだろうと思います」と、あるいはもっとはっきりと言うべきでしょうか、「巣にお帰り」と。ここは整合性を欠いた文章を書き散らすことが見逃される場所ではありませんし、運動の論理を振り回せば恐れ入る相手も、ここにはいません。ここは、主張内容の普遍的な正当性と論理的整合性こそが世界でもっとも尊ぶべきものだと考えている奇妙な生き物の巣なのです。主張と視点の相違あるいはすれ違いを確認して、別れるべきときが来たように思います。

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