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他者の歓待

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保守を自任している人物に向けて「生活保守主義的」と言うことが批判として機能するのかどうか(挨拶)。「進歩的じゃない!」とか言っていればみんな畏れ入ってひれふした時代じゃないんだからさあ、つうか。

さてどうしようかなあと思っていたところ別の議論を呼んでいたりするようなので軽く応答しようと思う。「反戦ビラ訴訟」(シャノアールカフェ別館)の件。まず誤解があるといけないので言っておくと私に価値観がないわけではないし、「価値観は排除して書きます」と宣言していることもないはずである。法学者には(1)「とにかく先例や理屈からするとこうなるでしょう」という専門家的な予測の次元と、(2)「ところでそれに対して私はこう思うのです」という個人としての意見の次元が常に存在するので難しいかもしれないが、本件に関する限り私は憲法学上の通説である「二重の基準論」を批判しているので(1)の次元にとどまっていないことは明白であると思われる。というか何で「あまり関心がない」と形式主義的な立場で論じていることになるのかはよく分からない。この方、この種の決め付け的な誤読が目立つので困ったものだなと思いながら議論を進める。

まず私が明らかにしているのは、価値ないし表現の序列を公的に想定すべきでないという考えである(個々人が尊重する価値に差があるのは当然)。だから「二重の基準論」の一般的な解釈を批判し、政治的表現と商業的表現で区別すべきでないと主張している。これは別にと言うか全然と言うか世間一般の、あるいは法学者一般の価値観ではないから、私の価値観に基づく主張は潜在的どころか明示的なものである。さてこの点につき黒猫房主氏は賛成してくださったのだが文句を付けた人が先方にいて、誰かと思えばmojimoji氏である。なのでこのように書くところもあるのだが、しかし変わってないですな。

さて何故表現の高低を認めない方がいいかと言えばすでに述べた通りそこから少数者の切り捨ての危険が生じるからである。無罪論を組み立てるにせよそれは違法性でなく構成要件の問題としてやった方が良いというのも同様であって、「可罰的と言えるかどうか」という価値の問題にしてしまうと多数派なり有力者なりにとって有利であり、少数者に不利に働く危険性があるからだ。構成要件というより客観的な次元の問題として構成することは、少数者保護のための手段なのである。なおデリヘルを見え消ししているのは私の価値観の反映というより(その場合見え消しでは意味がない)「大学の教員が風俗営業を肯定的に評価するとはけしからん」とかわけのわからん批判をしてくるかもしれない第三者への対策であり、このあたりも一応は無駄に的を増やさないようにしつつ言いたいことを言うための手管なのであるからこの程度の春秋の筆法は理解していただきたい。

話を戻して違法性の評価に関してだが、まず「他者の歓待」とか言う人がたはその他者が扉をぶち割って侵入して家族を一寸刻み五分試しにしながら「これが私の政治的思想の表現なのだうはははは」と高笑いしていてもその他者を歓待して刑事責任を問わないと、そう断言されるのであろうかと聞こうかと思いつつ「はいそうですが何か?」としれっと言われたらどうしようと恐れていたところ、一応は侵襲的であることの程度の差を肯定しているので安心したようでもあり、一方で「抗議権/抵抗権として、上記のいずれの場合も肯定する」(反戦ビラ訴訟2)と書かれていてダメなようでもあり。容認できる他者の訪れ方と容認できないそれがあること、どこかにその線を引かねばならないということを認めているとすれば、その際にたとえ望まれない(あるいは拒否が明確にされている)思想であろうがそれを彼の目に触れさせる可能性は保障すべきだという立場を取ったとしても(私自身はそれを否定したことが一度もないはずなのだが)、そのために犠牲になる権利は最低限に限定されるべきであって、だとすれば「相手に意見を届ける」という目的に対して明らかに過剰である住居通路部分への侵入と個別住居へのポスティングという手段をどうやったら擁護できるのかが論点だろう。この件に関して「集合ポストへの配布」と「個別住居のドアポストへの配布」を区別せずに論じている人間は全員失格と私が考える所以である。

これに対しとりあえずmojimoji氏は「明らかに暴力的であったり、数による示威的な振舞いがあったりなど、不穏当なやり方があるならば、それは「その暴力的振舞いを根拠として」摘発されるべきである。」(政治ビラと商業ビラ)と書く一方、共用部分への侵入についてはそのような暴力性がないと論じている。だがこれについて、第一に法律的には住居侵入罪に関する判例は新住居権説であり、保護法益は事実上の住居の平穏ではなく「住居に誰を立ち入らせ、誰の滞留を許すかを決める自由」と解されているので通らないと指摘しておこう(参照、最高裁昭和58年4月8日判決)。ただし最高裁前掲判決までは平穏説が判例においても採られていたので、そのような主張ができないというわけではない。

しかし第二に、自由でなく平穏を根拠にすると損をするのは少数者である。例えば、いつだったか忘れたがエルサレムの神殿の至聖所にローマのユダヤ総督が立ち入ったことがあった。総督としてはユダヤ教の聖地に敬意を表すために訪れたのであって、もちろんおとなしく中に入って見学しただけのことである。しかしこれはユダヤ人にとっては許しがたい暴虐な行為であって、というのは至聖所に立ち入りを許されたのは(彼らの見方によれば)大司祭ただ一人だからだ。もちろんユダヤ人たちは抗議したことだろうが、ローマ人にはよく理解できなかったのではないか。つまり彼は平穏に立ち入っただけであって、至聖所の権威を損なうような意図はまったくなかったからである。拒否の意思ではなく態様が根拠になると言うならば、ある態様がどのように評価されるかにおいて強い影響力を持つのはやはり多数派の認識なのである。少数派の自由と価値観を守るためには、従って、理由はともかくイヤだと言う自由を守る必要があるのだ。つうか公民権法が人権侵害に対する連邦裁判所の訴訟管轄を認めた理由とか、ちょっとは勉強してください。

加えて第三に、仮に平穏説を採ったとしても個別ドア付近への立ち入りが「平穏」だというのはこのご時世に脳天気すぎやしないかと思われる。何度も指摘している通り、他者に自らの意見を知らせるビラを撒きたいという目的のためには集合ポストまで立ち入れば十分である。それ以上の立ち入りに拘泥することは、この目的が真実のものであるとする限り無意味である。では立ち入られる側からはどうかと言うと、集合ポストまでの立ち入りと共用部分への立ち入りには大差があると考えられる。つまり後者によって余計な情報と機会が与えられるからだろう。

例えば電気メーターを確認し、個別ドアに耳をつけて中の様子を伺えば、在宅の有無を推定することができる。さっきまで政治ビラを撒いていた人間が懐から「バールのようなもの」を取り出して侵入盗に変貌する可能性についてはどうか。個別ドアの近くには配電盤もあるだろう。その中にある電話回線に取り出した機器をすばやく取り付ける可能性についてはどうか。これらはいずれも共用部分への立ち入りを許すことによって特有に生じる危険である。というか民間のマンションがどんどんオートロック式になってるのはなんでだとこの人思ってるんだろうと、侵入盗被害者の一員としては疑うわけである(僕は犯罪被害者という弱者なんです! 帰宅したらまた部屋が荒らされているんじゃないかという恐怖が脳裏を去らないんです! 私という弱者の心の平穏のために、強者であるビラ撒きは排除されるべきなんです!(爆笑))。

従って実はこの論点に関する限り平穏説を採っても結論は同様であり、つまり処罰に値する平穏侵害の程度は建物の目的・用途などによって異なるところ(前田・刑法各論講義は「個人の住居であれば侵入に該たる行為でも、デパートの売り場やホテルのロビーであれば侵入に該当しないことは多い」と平穏説の立場から指摘している)、上述の通り他者の表現を受け入れるという目的からは集合ポストまでの立ち入りを許せば十分なのであるから、それを越える程度の侵入を・しかも管理者および一部住人の明示的拒否の意思表示にも関わらず行なえば平穏の侵害と評価せざるを得ないと考えられる。

念のために言えば、今回ビラを撒くために立ち入った被告たちに侵入盗だの通信傍受だのの目的があったとは思わない。しかしそれは本人たちが「そのつもりはありませんでした」と言っているからではなく(当たり前で聞けばどんなピッキング犯だって「そのつもりはありませんでした」と供述するに決まっている)、事後の警察の捜査でそれに該当するような機器・器具の準備が出てきていないからである。別の言い方をすれば、「ヘッドフォンをはずして「足を踏むな」と言うのは正当だ」(mojimoji氏)、だから相手のヘッドフォンを奪いましたという話なのだが、その相手が足を踏んでいるというのは誰がいつ確認したんですか、そう思っているのは自分だけじゃないんですか、注意するためにヘッドフォンを外したという目的は誰によっていつ確認されたんですかという話である。

変わっていないというのはこういう点で、つまり当人の主観的認識としてどうかという問題と、それを他の人が見てどう思うか、当人の主観的意図が伝わるかというようなことが区別[されていない|できない]のである。もう一つ、自分が使った手段は相手も使ってくるだろうということを予期[していない|できない]のも不思議な点であって、いいですか、世の中には「同性愛者が一つ家に暮して何をしているかということを想像するだけでもおぞましく、私の心の平穏が大きく害されるので、彼らの存在は私の基本的人権を侵害しています」とか真顔で主張する連中というのが本当にいるんですよ? 足を踏まれたら怒りにまかせて胸ぐらを掴むくらいのことはあるかもしれないし、それは抵抗権として肯定されるなどと言ったら彼らが嬉しそうに何をすると思ってるんですか? で、一人一殺で戦うとどちらが残るんですか? (この点、黒猫房主氏の「そのほうが、多数派の価値基準によって少数派の意見や主張が差別・排除される可能性を防御できる」という認識の方が正しかろう。)

さらに言えば、とにかく「他者の歓待」とか言う人がたに限って前述のような暴力的な他者を想定しない傾向があるのは不思議でならない、というのは単なるレトリックであって理由は判然としており、つまり根元的な他者が暴力によって、というのは典型的には近代国家の集中され独占された暴力によって、排除されたあとの世界にいながら、そのような暴力に自分は加担していないし恩恵も受けていないと思い込む、あるいはむしろ根元的暴力について何一つ考えていないからであろう。この、近代国家の上で近代国家を否定するという身振りのいかがわしさについてはリバタリアニズムとも共通する、と私自身は考えているところだが、まあそれは余計。ついでに他者論からベンヤミンで結論がそうですか、はあとも思うが、これは愚痴であるので説明は拒否する。まあ出たら読まれれば良いだけの話。

ついでにカントについて言及すると、彼の「理性」Vernunftが無制約でいられるのは、第一に意思(Wilkuer)の内容に外的制約を加えれば他律が発生するからだし、第二に実践理性としての意志(Wille)が原理の能力の次元であって法則の実質を欠いているために外的行動に表示されないからでしょう。だから外的行動の次元は「法」の問題であって、形式的な規範への合致である合法性Legalitaetが問われるわけですよ。「法とは、ある人の選択意志が他人の選択意志と自由の普遍的法則に従って調和させられ得るための諸条件の総体である」『人倫の形而上学』。経験的な意思には「法」によらなければ相克する可能性があるわけですな。カントは「法的占有」には人格と対象のあいだの意思的結合だけでなく、それに対する万人の承認が必要であるとしている。それは法の次元には矛盾可能性が含まれるからです。

すると自衛官たちは理性においてどのように考えていようと法において命令に従属せざるを得ないのであって、かつ選挙の投票の場合を除いては自ら政治的運動を行なうことも禁止されているのであるから、彼らに対して政治的働きかけをすることは(自ら書かれている「どのようにすればより効果的に相手に伝わるか」という有効性の次元において)無意味ですな。それを当の自衛官もわかっているから、命令主体に抗議してくれという話になるわけで(この部分、私が意訳しましたが主語は自衛官ですよ。私が禁じるの禁じないのという話ではない。彼らが苦慮するし、私もその苦慮は理解できるというだけの話です。さらに念のため言うと上述の通り私は受忍限度内の表現の存在を肯定しています。個別ボストでのビラ撒きはその限度を越えていると判断しているだけの話です)。

「理性」Vernunftにせよ「悟性」Verstandにせよ、カントの定義は日常用語と相当に違う概念なので、それを勝手に同一視して論じてはいけません。そもそもここで論じられてる政治的意見なんて、せいぜい悟性の領域でしょうが。つうか私「法思想史」担当教員でロールズ「カント的構成主義」の訳者でもあるんですが(いやまあまだ出てないけどな)、こういうお説教されちゃうわけですか。はあ。

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http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20051221 http://d.hatena.ne.jp/kuronekobousyu/20051224/p1 関連 黒猫さん 反戦ビラ問題についての、TBやメールありがとうございます。 この問題についてわたしは下記で発言... 続きを読む

Comment(4)

おおや さんのコメント (2005年12月24日 19:08):

というわけでもう一度踏んでみましたが私もたいがい人がいいなという気はします。>どこか
つうか師走なんだよ! 師は走らないと仕事が終わらないんだよ! 今月だけで東京出張が3回あるんだよ!(まだまし。去年は5回だった。) つうわけであんまし返事はしない方向で。
あとロールズの翻訳が出てない件について的確すぎるヒント出すの禁止。>別のどこか

いなば さんのコメント (2005年12月25日 16:17):

あたしゃ「コンサバで日和見」といわれました。

いなば さんのコメント (2005年12月25日 16:18):

つまりは「他者萌え」ですなあ。

黒猫房主 さんのコメント (2005年12月25日 17:53):

ご批判その他、貴重な時間をさいていただき恐縮しております。たぶん、ご無用だと思いますので今後はいちいちTBしませんが、おおやさんからの批判の「宿題」を少しずつ考えていきたいと思います。本日その1回目をアップしましたが、TBしておりません(微笑)。
なお「誤読」の件については、多少僕の「皮肉」が含まれています。
ご指摘の<というか何で「あまり関心がない」と形式主義的な立場で論じていることになるのかはよく分からない。>という部分は、「イデオロギー的には荷担しない」という程度の意味でしたが、法学的に誤用であるならば訂正いたします。
また、<(この部分、私が意訳しましたが主語は自衛官ですよ。私が禁じるの禁じないのという話ではない。彼らが苦慮するし、私もその苦慮は理解できるというだけの話です。さらに念のため言うと上述の通り私は受忍限度内の表現の存在を肯定しています。個別ボストでのビラ撒きはその限度を越えていると判断しているだけの話です)。>の主語が自衛官であり、おおやさんでないことは充分に承知していますが、個別ボストでのビラ撒きはその限度を超えていないというのが僕の判断なので、おおやさんにも疑義をだしたのです。
まあ~お時間があればですが、「宿題」の回答を添削していただければ幸甚です(まあ、そこまでボランティアすることもないでしょうが! 微笑)。
それから、ロールズ「カント的構成主義」が刊行されましたら、ぜひ読ませたいただきますね!

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