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どうなのか。

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P1000497.jpg右写真は先日いただいた法哲学会奨励賞の記念盾ですが、本日「学術上の表彰等を受けたものは賞状など受賞の事実を確認できるものを持参して事務に届け出るように」というお達しがあり、わたくしが右写真の盾を抱えて出頭せざるを得なかった件について(挨拶)。「……どうやってコピー取りましょうかねえ」「会計にデジカメがあったからあれで写真撮れば」「電池が残ってるか微妙なんですけど」「……フラッシュたいたら表面が光っちゃって読めませんねえ」「ちょっと斜めから撮れば」「ん〜、これであとは拡大すれば何とか」などなどの会話が展開されるあいだ、事務の人々の困惑の原因を作り出したことに対して申し訳なく思いつつしかし私自身にはこの事態に対する責任など何ひとつないのだと理不尽さに対する憤りを主張しつつ「だから仕方がなかったんですよ」とでも言いたげに卑屈な微笑を口唇に貼りつかせるという微妙な表情を浮かべたまま手もちぶさたに立ち尽くす私。この悲劇を来年は繰り返してはなりませぬ。関係者の方々にはぜひとも改善をお願いしたい。つうか賞状でいいじゃんかよう。

さて立川ビラ配り訴訟の控訴審判決について何か言ってくれといういや撃たれるのは私なんですよ?と言いたくなるようなリクエストが2件ほどあったが、とりあえず私の基本的な考え方はすでに書いた通り、第一に政治的表現活動の自由と商業活動の自由を区別して前者をより「高級」なものと位置付けるようなことはすべきでないというものであり、この点からは(要旨しか読んでいないが)そのような差異への言及を避けた控訴審判決は評価できる。というかこれは「形式性にこだわることがむしろ弱者保護のための戦略になる」というのと同じ話であって、表現の内部に高級であって保護すべきものと低級であって保護されるべきでないものの差異を認めてしまえば、少数者とか被差別者とかを対象とした・による表現に「低級」という烙印が押されるまではあと一歩になってしまう。

第二に、しかし表現の自由も人権として他の人権による制約には一定の限度で服するべきだというものであり、まさか政治的表現のためなら人を殺しても免責されるべきだと言う人はいないだろうから(それとも内ゲバってそういう話だったのかしら、まさかね)、もちろん「一定の限度で」の中身が問題になるのだが肯定されるはずの話である。そこで今回は私生活の平穏とか住居の安全とかが衝突するわけだが、仮に一般的には表現の自由の方が優越すべきことを認めたとしても住居の安全も尊重されるべき価値であることに変わりはなく、だとすればその侵害は他により侵害の少ない手段が存在しない程度においてのみ認められるべきだ(いわゆるLRA (Less Restrictive Alternative)基準)という小倉秀夫氏の指摘は正しいものと思う。この点、今回の事例では建物入口の集合ポストがあるにも関わらず個々の家のドアポストに投函したという点が擁護できないのは当然として、集合ポスト付近までの立ち入りと投函に限定していた場合には表現の自由の優越を認める(従って住居侵入にならない)という趣旨なのか、そのような場合でも住民の意思の方が優越すると考えるのかが、報道されている要旨からは判然としない。いずれにせよ最高裁の判断が待たれるところではある。

ところで本件につき「匿名希望@ばれたら冗談抜きでやばい」氏は「某A紙のみやたら騒いでいる」とお書きであるがこれは誤りであり、東京ではT紙であり私の居住地域では圧倒的な勢力を誇っているところのC紙も大騒ぎだったので、推定するに北の大地で圧倒的な勢力を誇っているところのH紙も大騒ぎだったのではないかと思うがどうか。>居住者

しかしそれらの報道は、良く見て事件の争点への無理解、悪く見れば誤誘導の目立つものだった。というかどちらも政治ビラを配布したことが犯罪として裁かれたかのように報じていたのだが、もちろん犯罪とされたのは同意なく他者の住居に侵入したことであり、それを免責する理由があったかどうかが争点となっていたに過ぎない。朝日新聞は小牧基地関連の反対運動団体に取材して「以前は官舎の前で立ち話している奥さんたちにビラを手渡しするくらい友好的だったのに、そういうこともできない」(要旨)というコメントを載せていたが、もし本当にそう言ったのであればこの問題に関する法的問題をまったく理解していないか、理解する気がないのだろう(この点は、そういうコメントを掲載することを選んだ記者にも該当する)。官舎の前=道路上で何をしようが不法侵入に問われるはずがないだろうからである(道路交通法上の問題点については無視する)。それとも奥さんたちに、本人たちがいやがっているにも関わらず無理矢理ビラを押し付けたいという趣旨だろうか。だとすれば真っ向犯罪行為であって、許容する必要性などまったくないように思える。

問題は結局こういうことである。裁判自体の争点は手段の是非であるが、被告人および一部の報道関係者はこれを目的の是非が問われているかのようにすりかえようとしている。念のために言うと、目的の是非が問題に含まれていることを否定しようとは思わない。ピザ屋やデリヘルのビラ配りが捕まったとは、確かに聞かないからである(もちろん彼らは住民に歓迎される情報を配布している可能性が高いとか、度重なる警告にも関わらず侵入するようなバカな真似をしないからであるという推測も成り立つ)。しかし仮に目的の是非が問われているような文脈があったとして、それを声高に指摘することが得策なのかどうか。そもそも彼らがビラ配りに精を出さなければならなかったのは何故かといえば、彼らが政治的な少数者だからである。社会の大多数が共有できるような目的を掲げていないから、彼らは少数なのである。それが多数の前にのこのこ出ていって、「私たちの目的が弾圧されました、私たちの目的は正しいのだから、私たちは許されるべきです」と主張する愚かさというものに、誰も気付かないのだろうか。いや気付かないからいまこうなんだろうけども

問題は民主政とは何かという点にまで拡散する。それは正しい意見を選び出すものなのか、それとも選ばれた意見に「正しかった」という性質を与えるものなのか。私の意見は明らかに後者であり、それは根元的規約主義の一つの必然的帰結であるように思われる。だがこの点については機会を改めて書かなくてはならない。とりあえずハーバマスきらいということで。

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「問題は結局こういうことである。裁判自体の争点は手段の是非であるが、被告人および一部の報道関係者はこれを目的の是非が問われているかのようにすりかえようとしている。念のた... 続きを読む

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Comment(7)

いなば さんのコメント (2005年12月16日 13:01):

本論の趣旨はわりあいよくわかるのですが、捨て台詞がわからん。
「根元的規約主義」とはどのような意味において言われているのか、またそれはそもそも本気でコミットできるような立場というよりは、「最強最悪の仮想敵」として論及される場合が多いような気がするのですが。
「ハーバーマスは好きじゃないけど骨は拾わないとね」という気がする今日この頃。いやストラウスとかフェーゲリンも読んで頭を抱えてるんですが。

いなば さんのコメント (2005年12月16日 13:05):

あと「二重の基準」論は「どっちが高級・低級か」なんて話を止めてプラグマティックに、「そこにあるのは質的違いというよりは程度問題である」というならばやはり大まかに言えば適切なんじゃないかと思います。

よこはま さんのコメント (2005年12月16日 18:11):

私もいなばさんと同じところでひっかかりました。

既存のルールに基づく推論の適否を判別する「規約」(演繹的推論だけでなく、帰結主義論法も、原理論法も、ドゥオーキンのいうインテグリティも含めて)が適用に先立っているわけではなく、一回一回のルール適用が規約の定立であるのだ、という根元的規約主義の立場に立てば、ひとまず裁判過程における「正解」の存在の哲学的根拠付けは原理的に不可能になります。
しかし立法過程における民主的意思決定で選ばれる意見が「正しい」のか、それとも「正しい」という信憑を与えられているだけなのかの問題は、ウィトゲンシュタイン的なルール懐疑(おおや氏のいう「導出の不確実性」の話)によって扱えるものではないと思います。

そのことに関連して言えば、おおや氏が民主政に対して基本的に「シンパシー」(アイロニックな?)を示す(私にはそのように見える)動機が何なのか、前からとても関心のあるところでした。私のBlogの以前の記事のコメント欄(http://blog.livedoor.jp/futagotou507/archives/13083948.html#comments)に、亀本洋「法的思考の根本問題―ルールとケース」(『法の臨界Ⅰ』所収)の話と関連させて(こじつけて)、おおや氏が、法的推論の合理性としてそれではなく、法的妥当性を付与する制度的条件(権力の分配)におけるそれではあるが、しかしなお(決疑論的伝統における)「賢慮」に対する期待を捨てきれないことが、民主政を「信頼」する一つの背景ではないか、と勝手な推測を記しましたが、どうでしょうか。

よこはま さんのコメント (2005年12月16日 18:22):

訂正:「正しい」という信憑→「正しかった」という性質。すみません。

「北の大地」の「居住者」 さんのコメント (2005年12月20日 23:56):

 どうもお疲れ様です。
 当地在住の自分ですが、熱心な「アカヒ」読者なので、「道新」は読んでいません。ご質問に答えられず、申し訳無く思います。

おおや さんのコメント (2005年12月21日 14:28):

>いなば先生
わかんないように書くから捨て台詞なのであってですね(にこにこ)。某所でお答えしましたが私自身は根元的規約主義にコミットしていますので、私を最悪の仮想的として議論が盛り上がると嬉しいのではないでしょうか(割と本気)。二重の基準論について、まあ何となく直感に合致することは認めるのですが、やっぱりその根拠が重要なのではないかと思うわけです。

>よこはまさん
民主的意思決定によって選ばれる意見が「正しい」か「正しかったという性質を与えられている」のかについては、その相異を観測できる地点がこの世の中にないので問うことに意味がないというのが第一のお答えでしょう。
民主政に対するシンパシーについては、まず合理性の問題ではなく権力分配の問題と認識しているというのはその通りだと思います。さらに「賢慮」に信頼を持っているかどうかは本人にもよくわかりませんが、どちらかというと他の選択肢を信頼していないのが本質的ではないかとも思います。まあつまり、チャーチル的な民主制擁護ですね。

いなば さんのコメント (2005年12月22日 18:28):

「二重の基準」を根源的規約として選んでいる人もいるのでしょうか?

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いなば on どうなのか。:
「二重の基準」を根源
おおや on どうなのか。:
>いなば先生 わかん
「北の大地」の「居住者」 on どうなのか。:
 どうもお疲れ様です
よこはま on どうなのか。:
訂正:「正しい」とい
よこはま on どうなのか。:
私もいなばさんと同じ
いなば on どうなのか。:
あと「二重の基準」論
いなば on どうなのか。:
本論の趣旨はわりあい

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