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リバタリアンと相続(3・完)
さて前エントリで指摘した問題に対してあり得る一つの対応は、笠井批判を撤回することである。自己奴隷化の否定は笠井的な主体喪失の論法によればよく、最低限のパターナリズムについては撤回するか、別の根拠から正当化を試みることにすれば良い。いずれにせよ自己奴隷化の論点において結論は一致しているのだから、森村の理論体系にとってそれほどの痛手ではない、ようにも思える。たとえ主体が最後のその瞬間まで存在していたとしても、履行されるときに存在していなければその意思は保護されない。主体なき行為は不能であるということに決めるのだ。
もちろん、問題はただちに考えつく。例えば我々はしばしば、自分自身を受取人とした生命保険を購入する。もちろん三途の川で受け取りたいという趣旨ではなく、自己の相続財産に加算してほしい(遺言相続・法定相続の対象にしてほしい)という意味である。このような契約は上記のスキームでは不可能になるだろう。私は死後に受け取れるという期待を持っているが、死の瞬間にその期待は保護されなくなるのだから、保険会社が保険金を支払わなくてはならない理由はなさそうである。契約が無効になるのなら私の支払った保険料も原状回復で払い戻してもらえそうだが、やんぬるかなそれを請求すべき私はもう死んでいる。そもそも死後にそうなることは判明しているのだから原始的不能ではないかという気もするわけだが。
この点については、まあ、自己を受取人にすることをやめて特定の受取人を指定するようにすれば良いことである(*1)。しかし、では債務の場合にはどうするか。住宅ローンの債務者である私が死亡したとして、現在では私の家族が不動産とともにローンの債務も相続するから、銀行は債権が回収できることを期待できるだろう(*2)。しかし相続を否定し、(例えば)相続財産は国有に帰するとした場合に、このような債権はどうなるのか。無担保の債権の場合にはどうか。森村は相続を認めるべきとするリバタリアンたちが主として家族による相続の場合(従って生活保障を考える必要性の高い場合)を想定しており、他人や福祉団体などに遺贈されるような場合を考慮していないと批判しているのであるが、同様に森村も財産の相続のみを想定しており、負債を考慮していないのではないかと疑われるところである。
一つの対処は、相手方の期待保護という要素を導入することである。死者の意思を死後において保護する必要はないが、債権者は生きているのだから、その期待は守られなくてはならない。だが、すると死因贈与は生前に締結される契約であり、死後になっても贈与される相手方には保護されるべき期待があるから、認めざるを得ないことになろう。しかし遺贈・遺言相続については、それが生前に表明されていたとしても死後においてその実現を期待する主体(単独行為であるので当の遺言を残した者)が残っていないのだから、保護する必要はない。これではどうだろうか。
可能な反論は、仮に遺言が公開されていたらどうかというものである。この場合、財産を相続できるだろうという相続人の期待があり、彼はまだ生きているのだから、その期待は保護されるということにならないか。仮にこれを認めるとすれば、あるいは何らかの論拠に基いてそれを否定したとしても(*3)死因贈与の有効性を認めるのであれば、死後に財産を有効に移転し得る一定のスキームが存在するのだから、合理的な人間はすべてを国家に所有されてしまうくらいならそのスキームを利用する方を選択するだろう。従って法定相続ではなく遺言相続、秘密証書遺言ではなく公開された遺言、相続より死因贈与へと人々の選好がシフトするという効果は発生するだろうが、それらの手段を講じずに相続財産を国有に帰してしまう迂闊者はそう現われないだろう。
上記の通り、死の時点で財産の行方が明示されていないと国有にしてしまうぞという脅しがあれば、合理的な人間はそれを避けてより早期に・明示的に財産を移転するようになるだろうから、資産の有効活用やトラブルの減少が期待できる。それが「そのような制度が現実に使われなくなることを期待して導入される自己否定的な制度として構想される」ということの意味である。ところがすでに述べた通り森村は、相続否定によって発生する無主物を国家運営の財源として期待している。従ってこのような抜け道の生じる対処を取ることはできないようにも思われる。相続否定論はいったいどこへ行くのか。
おそらくはこれが、帰結主義的な笠井のリバタリアニズムが贈与税を肯定する(相続と贈与に大きな差を設けない)理由である。だが森村は、正当化根拠を自己所有権に置くとともに、生者と死者の存在論的差異を主張したのだから、その道を選ぶこともできない。個々人の合理的行動を信じるリバタリニズムと自己所有権論は実は相性が悪いのではないかというY先生の学会会場における疑問は、このように明らかになる、のではないか(*4)。
(*1) 特定人物を指定した場合に、彼が自分より先に死んでしまったらどうするか(まあ指定し直してもいい)、同時死亡の場合にどうするか(順位付き指定を導入する?)などの問題が生じるが、とりあえず無視する。
(*2) 一般的には、不動産に対する担保権設定に加えて支払い能力を持つ者を生命保険に加入させ、死亡の場合には保険金による回収を見込むのが通常らしい(遺族に不動産を残すことができるから)。
(*3) 例えば、債務の場合と違って相続は言わば「棚からぼたもち」であるので保護するに値しない期待であるという論法が考えられる。もちろん問題は、老後の世話をしていたとか医療費を実質的に負担していたとか、その補償が相続財産によって行なわれるだろうことを正当に期待して良い負担を担っていた場合をこの論法で否定できるのかという点にある。死因贈与や遺贈が負担付贈与であった場合も同様。
(*4) 実は時間流モデルの代わりに無時間モデルを取ることによって上記の議論はもっと本質的な部分からやり直す必要が生じると思われるのだが、それは現在絶賛執筆中であるべきところのA君の論文が公表されてからの話なのである。
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長文お疲れ様でした。
これくらいの講義をロハで聴講できるのは
ネット社会の恩恵と感謝しつつも
対価はどうなっているのだろうと
資本主義経済の矛盾を感じたりもします。
ところで話は変わりますが、
本日某A紙のみやたら騒いでいる裁判の控訴審で
逆転有罪の判決が下りました。
以前おおや先生がお書きになった
http://alicia.zive.net/weblog/t-ohya/archives/000133.html
と同じく私もこの事件自体にはさして興味ありませんが、
某A紙の狂いっぷりのみならず、
法学者ら百人余が「検察は控訴するな」と喚くに至り、
高裁で判決がひっくり返ったら単に愉快だなと考えておりました。
よろしければこの自称法学者百人余への泣きっ面への蜂の一刺しと申しますか、
死人への必殺の鞭の一撃をお願いできますでしょうか。
「匿名希望@ばれたら冗談抜きでやばい」さんと同じく、「蜂の一刺し」をキボンヌ。うけけ。
私自身は好きで書いてますから勘定は合っています。それで楽しんでいただける人がいるなら、まあそれがネット社会におけるプロシューマ化の外部効果というものでしょう。ちうことでリクエストには続いてお答えいたしました。はい。