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リバタリアンと相続(1)
以前に「リバタリアニズムによる相続否定論」と書いたところ「なんでそうなるのか」という質問(意訳)が来たので補足説明を試みようとしたところ結構めんどくさいので弱る(さらにその途中で余計にめんどくさい問題に気付いてしまいさらに弱る)。そもそも私自身はぜんぜんリバタリアンではないので説明に向いているかという問題があるのだが、まあ責任を取ることにしようと思う。
で、まずなんでリバタリアンじゃないと説明に向いていないと思うかというと、前にもちょっと書いたが、リバタリアンって何なのかがさっぱりわからない点にある。というのは一口に「リバタリアン」と言ってもそれが意図している制度構想(具体的にどの範囲の政府を正当だと考えるか)も、その正当化根拠(なんでその立場を取るかという理屈)もばらばらだからだ。とりあえず基本的な認識としては左図(森村進『自由はどこまで可能か:リバタリアニズム入門』(講談社現代新書 2001)の図を45度回転させたもの。クリックすると拡大表示)に示されているように、人格的自由と経済的自由の双方を重視するタイプの政治思想であるということになる。つまり国家による干渉を精神的な価値観の面でも経済活動の面でも許さないという発想だが、しかしでは国家が不要かというと個々の論者によって結論が異なる。もっとも極端に、すべての機能を市場に委ねることができるとする「無政府市場主義」anarcho-capitalismを取る論者もいれば、レッセフェール的な夜警国家レベルまで許容されると考える論者もいる。はなはだしくは所得再分配を認めるリバタリアンまでいていったい何がリベラルと違うのかわからないというのは前にも書いた。しかし結論としての制度構想が異なるというのが他の思想でも当然にあることなので(例えばリベラルの内部でも「どの程度の差別是正措置を認めるべきか」に対する答はさまざまである)問題とは言えないが、リバタリアニズムの困るのはそもそも基本的発想が異なっていることである。
右図は森村前掲書 pp.22-26 をもとに私が表にまとめたものだが(クリックすると拡大表示)、「なぜリバタリアニズムか」という問いに対して、「自然権としての自由を守るために国家の介入はそもそも許されない」(結果の問題ではない)と考える人、「国家の介入が少ない方が結果としてうまくいく」(必要なら介入しても構わない)と考える人の双方が同居しているのが理解できると思う。つまり根本的な発想が逆なのに看板は同じ「リバタリアニズム」なのだ。おかげで「リバタリアンはこう言っている」とか「言っていない」と主張するためには有名どころリバタリアンをぜんぶ個別に調べて確認する必要があり、そしてたいがいは例外がたくさん見付かって失敗するわけだが、そんなことリバタリアンじゃなきゃやってらんねえよと思うわけである。もちろん主張の前には事実を確認せよというのは研究者として当然の心掛けであるわけだが(たとえ実際にはどう考えてもそれをやってない人々がたくさんいるとしても)、それにしたって他の思想なら——リベラル・コミュニタリアン・多文化主義・マルクシズムetc.——もうちょっと相場ってものがあるわなとは愚痴りたくなるわけだ(*1)。
さて森村によれば、大部分のリバタリアンは私的財産権を尊重するので相続課税に否定的である。これに対し、相続否定論を持ち出してくる論者にはとりあえず2タイプいる。第一は「個人の自由な経済活動を保障するためにはスタート時点の不平等が是正されている必要があるから」というもので、これはもちろん自由の制限にあたるのだが、その方が結果が良くなるから許される(ないと結果が悪化する)と考えるタイプ。理論的背景としては帰結主義が想定されることになる。森村によればゴティエや笠井潔の相続否定論はこのタイプであり、不平等の発生を防止することが目的なので相続だけでなく贈与も否定される(あるいは高率の税を課される)ことになる。
これに対し第二のタイプは自己所有権を基礎とするものであって、森村自身あるいは今回の八島報告はこれに属する。つまり個々人の身体に対する所有権、およびその成果である労働の結果としての財産に対する所有権は自然権であって不可侵だということをリバタリアニズムの根拠とするのだが、死んだらその瞬間に「所有権を持つことのできる主体」ではなくなるのだから、死後の所有なんか保護する必要はないと、そういう展開である。意思のない死者は行為者たり得ないので、自然権の所有者ともならない。従って死の瞬間に彼の所有物(彼自身の身体を含む)は無主物(所有者のいないモノ)になるというわけだ(*2)。注意すべきなのはこの場合、死後には保護されるべき意思を持っている「主体」がいないことが相続否定の根拠なので、生前の贈与についてはそれを制限したり否定したりする根拠がないということである。実際に森村は贈与税を肯定しない。生前の贈与と死後の相続はその源泉となる意思を持つものの存在論的な身分が異なっている、ゴティエや笠井はこの違いを理解していないと、森村は批判している。
ところで問題は、このような議論が本当に成立するかという点にある。次エントリでは上記森村の見解について考えるが、その前に以前のエントリの誤りについて述べておく。同項において私は、殺したあとに財布を奪うのは殺人+占有離脱物横領ではないかという嶋津氏の指摘に対し、八島報告は死の瞬間に遺産の所有権を国家に移転させていると考えた方が良い(結局森村前掲書と同旨)、従って殺人+窃盗ではないかと書いたわけだが(*3)、ちゃんと調べたところ窃盗罪が保護しているのは刑法上の占有(民法の占有権と異なり、現実的な支配を強く要求する)であり所有権ではなかった。すると、たとえ所有権が死の瞬間に国家に移転していたとしても国家の占有があるとは言えないだろうから、窃盗罪は成立しない(「占有を離れた他人の物」(刑法254条)を対象とする遺失物等横領罪になる)と考えるのが適当である。お詫びして訂正する(*4)。ただその、旅館の中に客が忘れた物には旅館の占有がある、電話ボックスの中の忘れ物には電話局の占有が及ぶという考え方(だから誰かが持ち去った場合には遺失物等横領ではなく窃盗になる。ここまでは判例あり)を応用して国土の中の占有離脱物には国家の占有が及ぶんですと八島氏が言い出さないかというのが心配なのだが、杞憂であることを祈る。
(*1) なおこれらのスライドは法学部一年生向けの講義「法と政治の思想」(共同開講)のために作ったものだが授業6回のためにこんなのが60枚くらいあり(さらに配布プリントがA4版で10枚くらい)、作るのたいへんだったのだがそれでも大学教員は仕事していないとか言われちゃうんだなあ、というのももちろん愚痴である。いや確かに仕事してないのいっぱいいるしな。
(*2) なおこの点について森村前掲書は、無主物にする構成も考えられるが政府を維持するための財源として利用した方が良いと述べている。つまり他の税が所有権の侵害をほぼ常に伴うのに対し、相続税は(彼の枠組によれば)単なる無主物の国有化であるから、より正当化しやすいと考えるわけだ。この点については、しかし、「一般的に無主物に対しては先占(先に占有したものが正当に所有できる)が認められるのに対し、何故遺産の場合は無条件に国有化が認められるのか」という疑問があるだろうところ、八島報告はそれに対し先占を無秩序に認めると混乱の原因になるから(eg. 死にそうな人間の周囲で待ち構える連中同士の争いが発生する)と答えており、一定の評価は可能だろう。末節の問題を解決するまえに根本を見た方がいいのではないかとか、心ないことを言ってはいけない。
(*3) 念のために言うと、例えば当初から強盗の意思をもって「無理矢理財布を奪ったあと逃走のために相手を殺害した場合」はもちろん強盗致死であるが、「とりあえず殺したあと財布を奪った場合」、八島報告では死の時点で占有の主体性が当然に消えるので強盗は不能になるはずであり、すると「殺人+強盗未遂+遺失物等横領」が成立するように思われるというのが論点である。何が違うかというと、少なくとも現行刑法を前提とした場合、前者の法定刑は「死刑又は無期懲役」(刑法240条)であるのに対し、後者は併合罪になるが死刑又は無期若しくは5年以上の懲役と、刑の選択の幅が緩やかな方にかなり広くなる。
(*4) 学部を出て10年近くたつと実定法の知識が抜けてしまってですな、というのはもちろん愚痴に過ぎない(というかそれ以前に私は刑法各論を学部で履修していない)。
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いつも楽しく拝読しています。
リバタリアンについて大変勉強になりました。
ところで、
殺害後に領得の意思を生じて財物を奪取した場合につき、
「占有離脱物横領ではなく、窃盗罪を構成するものと解するのが相当」とした判例があるので
(最判昭和41年4月8日刑集20巻4号207頁)、
「間違い」として訂正とお詫びをされたのはかえって正しく無いような気がします。どちらになる可能性もある、くらいがいいと思います。
「死の時点で権利主体性がなくなると考えるなら、財布を奪ってから殺すと強盗致死ですが、殺してから奪うのは殺人+窃盗ですね?」という文脈ですから、殺害と奪取は時間的に密着している場合が主に想定されているんですよね?
だとすれば、上の判例がまさに妥当する場合だと思います。
国を被害者とした窃盗罪が成立しないのは、先生がおっしゃっている通りです。
丁寧なる返答、有難うございました。
私の疑問は常に、「床屋法哲学論」の域を出ない(半分自慢)ので、まあ適当に見ててください。
そういえば「リバタリアニズムは、(国が企業に介入する?ともいえる?)独占禁止法を認めるんやろか」という疑問も持っていたことを今思い出しましたが、このへんは自分で調べてみます。
>おおや先生、naoさん
強盗殺人(240条)の既遂未遂は、死の結果が生じたか否かで判断する(つまり財物奪取が未遂に終わっても死が生じれば強盗殺人の既遂とする)のが判例・通説なのだから、
殺人によって「死の時点で占有の主体性が当然に消えるので強盗は不能になる」としても、殺人+強盗未遂と分けて考えることがそもそも誤りで、端的に強盗殺人の既遂が成立するのではないでしょうか?
>Gryphonさん
ども。いやそれもリバタリアンの中の人によって違うというのが第一のお答えです。方向だけ言うと、帰結主義的な論者は市場の失敗を招くような独占はやはり認められないので独占禁止法を肯定する(従ってある程度の国家の存在を認める)人が多いものと思われ、他方自己所有権論的な論者はやはり介入が私的な経済活動の制限にあたるので否定する可能性が高いでしょう(森村前掲書には肯定する記述はないようです)。
>naoさん
フォローありがとうございます。想定事例はその通りなのですが、八島氏のようなリバタリアンはその最高裁判例の正当性を認めないのではないかと思うのです。このあたり、リバタリアンの主張は明らかに解釈論ではないのですが立法論としても十分ではないというか、現行制度の何をどのようにいじるつもりなのかが判然としないので100%言い切れないところではあるのですが。
ご指摘の最判S41.4.8は「被害者が生前有していた財物の所持はその死亡直後においてもなお継続して保護するのが法の目的にかなうものというべきである。そうすると、被害者からその財物の占有を離脱させた自己の行為を利用して右財物を奪取した一連の被告人の行為は、これを全体的に考察して、他人の財物に対する所持を侵害したもの」になると判示しているわけですが、死の瞬間に主体が消滅するのだからそれ以降の権利能力・意思能力は論ずるまでもなく存在しないとする自己所有権論的なリバタリアニズムにおいては、その想定に反する制度を「法の目的」くらいで正当化することはできないだろうと(と言うと「刑法の窃盗罪の構成要件も変えるのだ」とか言い出しはじめかねない恐ろしさ、というのがあるわけですが)。
というわけでさらに正確に表現しようとすると、「現行法規を前提にし、かつ自己所有権論を徹底してそれに抵触する部分を排除したならば」という前提での議論だということになるでしょうか。いつもこういう話になるからリバタリアニズムって付き合いたくないんですが。
>illさん
ご指摘ありがとうございます。
あ~、強盗犯人が故意をもって人を殺害したときは「240条は殺意ある場合を含まないので236条と199条の観念的競合ないし併合罪」という学説もあるようなんですが(前田『刑法各論講義』によれば滝川(春)=竹内)、通説はまずこれを含むとすると(最判S32.8.1、団藤、大塚)。前者の説からは強盗致死は純粋の結果的加重犯であり、結果的加重犯の未遂は想定できないので、基本犯たる強盗の既遂未遂によって論じることになるそうです。しかし通説からは殺意ある場合を含むのでこれが未遂に終わった場合が240条の未遂であり、財物奪取の成否は無関係だということになる(判例。大判M39.4.16、最判S23.6.12)。となるとご指摘の通り、通説判例の立場からは強盗殺人既遂として評価して良いようなのですが、問題はこの通説判例の論拠に、前述最判S41.4.8のような、自己所有権論に抵触するものが含まれていないかチェックしないといけないという点にあるのです。
この点について、もう自分でやる気力ないので人を頼りにしますが、町野朔「強盗殺人罪における財物の奪取とその意思」(判時939号190頁)によれば、「死者には占有がないという考え方を徹底すれば、はじめから殺害して財物を奪う計画であった(……)事案でも、被害者の死と同時に行為者が金品を取得したと見られるような場合を除き、強盗殺人の未遂と占有離脱物横領が成立するのみである」(前田『刑法各論講義』2版)ということになるようです。しかしご指摘の通り判例通説は一致してこの考え方をとらないわけで、それは何故かというと「『死者には占有があり得ない』という形式的な考え方では、妥当な処罰範囲は導けないから」(前掲書)でしょう。というわけで私としてはこの事例に関する判例通説の立場を、自己所有権論的なリバタリアニズム批判に援用したいところなわけであります。