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法哲学会レポート(2・完)
ちなみに何故いつもより早い時期に書いているかというとコメントに促されたからではなく、今年は正月がなさそうだからです。しくしく。
さて八島報告だが、リバタリアニズムによる相続否定論というのは別に構わないのだが、遺贈はどうするのかという質問に対して「考えてませんでした」(超訳・だが「将来の課題として」ってのはそういう意味だよな)と答えられた段階で「ありえねえ」と本当に声に出して言ってしまった私を誰が責められよう(反語)。私自身が質疑において指摘した通り、権利主体性の終期がいつなのか、権利消滅後の無主物と国家との関係も不分明である。所有者の死によって無主物となったものを国家が管理するというのだが、従って所有権は消滅していると考えると、残された家族が自宅などを再取得するために国家に金銭を支払うとすることの根拠が不明である。おそらく金銭を念頭に置いているのだろうが、無主物となった死者の財産を一定の条件で国家が消却できると想定している点からも(金銭以外の有体物は「消却」したって消えるわけがねえのでどうするつもりなのかというのも大変に気になるわけなのだが)、結局ある時点で国家が所有権を取得していると考えるよりなく、するとその時点を死後一定の期間が経過したところに求めるのも不自然なような気がするので(まさか四十九日で国家に移転するのだとか言うわけでもねえだろう)、死の時点で「無主物になる」と言いつつ実は国有に帰すると考えるのが妥当な解釈ではあるまいか。「死の時点で権利主体性がなくなると考えるなら、財布を奪ってから殺すと強盗致死ですが、殺してから奪うのは殺人+窃盗ですね?」という私の質問に対しては嶋津会員から占有離脱物横領ではないかというツッコミが入ったわけだが、以上のような次第で所有はあると考える方が慈悲の原理にかなっているのではないかと思う。無主物と国有財産の区別がついていないのではないかという根本的な疑問からは目をそらすことにして、と。
全体的には、確かに自己所有権論からの議論としてはあり得るがこれはリバタリアニズムではないという感じであって、それが何故かというと一定の制度が存在した場合にさまざまな私的主体の活動がそれを前提に発生するだろうということを考慮していないからではないかと思った。一例として自立支援金という制度提案を挙げるが、これは相続否定の代償的な性格を持つ制度であり、つまり新成人が自律的な人生を構築するために必要な最低限度の資金(x円)を成人(例えば20歳)の時点で国家が支給するというものである。ところで人生の構想によっては成人まで待たずに早めにまとまったお金を手にする方が合理的であり、そのために例えばn年早く支給を受けることを選択できるが、その場合支給額はxの(20-n)/20倍になるとする(本来の定式化によれば、つまり国家が年ごとにx/20円を積み立て、受給を選択した時点の残高を受け取れる(ただし積み立て上限は20年)とする)。ところで私の疑問とはこの早期受給制度は必要なのかという点にあり、だって受け取りたくなった時点で彼はn年後に履行期の到来するx円の債権を持っているわけだから、これを担保にして融資を受けたり、現在価値に割り引いた額で債権を売却することができるのではないかと思う。まあ死亡リスクがあるよねえという話を考えてもいいが、いずれにせよ生命保険の買い取り業者が現実に存在するように、債権を扱う民間業者が発生しそうなものである。
実は相続否定論というのも、普通はそのような考慮を前提に登場するものだと思う。つまり相続の時点まで財産を持ち越すと国家に没収されてしまう場合、合理的な人間であればできるだけ生前贈与によって財産を移転させようとするだろうから、財産移転の早期化・財産の有効活用が促進されるだろうと考える。つまり相続否定というのはそのような制度が現実に使われなくなることを期待して導入される自己否定的な制度として構想されるのだ。念のために付言すると八島報告では合理的な人はリスクを考慮するので生前に全資産を贈与するようなことはしないとされていたが、私なら(例えば)子供に不動産を売却し、代金として終身定期金を受け取るような契約を結ぶだろうから、移転が抑制されるかどうかは疑問である。
ところが八島報告はそのような自己否定ではなく、実際に相続否定にひっかかって人々の財産がどんどこ国家に入ってくるように、またその財産を国家が消却したり分配することによって人々に還元するように、制度を構想するのだ。結果的に八島報告では国家を縮小するためにではなく、ばりばり拡大するために自己所有権が活用されているのであって、やっぱりリバタリアニズムではないような気が、非常にする。それによってリバタリアニズムと自己所有権のあいだにある否定的な関係があぶり出されたのだとするならば、それは確かに学界への貢献であり得るのだろうけど。というわけで私自身は「まあ経済の人だしな」と遠い目をして解決したことにしようと決意したのであるが、他の方々がどう考えるかは知らない。
綾部報告は、いや、良かったんじゃないですかね、ええ。いや本当に。あんまツッコミどころもないのでいいことだよなと。
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http://www.axis-cafe.net/weblog/t-ohya/archives/000253.html#more ちょっと旧聞に属するが、このレポートに さて八島報告だが、リバタリアニズムによる相続否定論 なる一節がある。 まともに勉強して 続きを読む
遅くなりましたが、お返事をば。いったい、ここでどんな砲撃を喰らうことになるやら、と内心はビクビクしておりました(苦笑)。
報告後にMせんせえにご感想を伺ったみたところ、みごとにM砲の直撃を食らってしまいました。あうあう。個人的に思うに、報告の最後で、法実践から「(社会学的)相互行為」論へ逃げてしまったことなどが問題だったのでしょう。
先日の査読の結果、「補正の上で掲載」ということになりました。査読コメントや上記の批判などに答えられるよう、頑張りたいと思います。