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法哲学会レポート(1)
某学校法人出身の私が来ましたよ(挨拶)。え〜わかる人だけ笑ってください。というわけで日本法哲学会ですが、なにしろ名大のシンポジウムに重なっていたり、そのシンポジウムの2時間で終わる予定のセッションが45分延長されたりしたので分科会報告以外まともに聞けていないわけですが。
で感想なのだが、内藤報告はおそらく集団と個人の関係という問題を扱おうとしており、つまりそれは「集団」を実在的に捉えればその権利や利益を名目にして個人への圧迫が生じる一方、非=実在的に捉えるとすべてが「個人」の問題に還元されてしまうので一定の場合に生じ得るような制約を正当化することが難しくなるという、昔ながらの問題なのだと思う。で、内藤氏はそれを進化生物学を根拠に・外務省公電事件などを素材に検討していたわけだが、後者は「集団」と「個人」の対立問題として扱うには不純要素が多すぎるように思うので、もうちょっと良い例はなかったのかなあと思う。また解くべき問題が施報告と同様であるとすれば、そのような理論背景で良かったのではないか、進化生物学って結局不要だったのではないかという疑念なしとしない。
一方、施報告はこの問題をナショナリズムとリベラリズムの関係という面から具体的な論者の紹介を通じて扱ったもので、法思想史的な関心(どこの誰がどういう状況でそういうことを考えたのか、という文脈的な関心)からの質問者とどうもそこらへんで若干すれ違っていたような印象はあるものの優れた発表だと思った。いや施さんにとって重要なのは議論の中身であって文脈じゃねえんじゃねえのかな、と私には見えたもので。ただ問題は、「集団」という場合にそれが、アイデンティティ的な帰属抜きに成立するような単なる移動困難なグループであれば良いのか、何らかの精神的紐帯が必要なのかという点にあるように思われる。国家を単位とする政治制度の正当化理論として、仮にあらゆる人・モノの移動を自由にしてしまえば「富んでいる」ということになった国に多くの貧困者が殺到してその富を消費してしまう結果、世界全体で富の蓄積が阻害されてしまうだろうから(従って国家間のヒトの移動を——不可能ではないにしても——困難にして、各集団に所属する人々が「富んでいる」集団への移動よりも自集団を富ませることを選好するようにする必要がある)という程度の話はすぐ考え付くわけだが、これが正当化するのは任意の集団の存在までであり、その集団に個人が帰属意識や忠誠心を保っていること、集団の他の成員に対してシンパシーを抱いていることはまだ含まれていない。ナショナルなものにはどうも精神的紐帯までも含まれているようであり、その正当化も(例えばシンパシー抜きには社会保障が受容されないというような形で)試みられているが、どこまでがrationalなもので正当化できるのか、どこからemortionalなものが必要とされるのかという点は、もう少し腑分けされると面白そうだと思う。
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