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続・DQNアトラクター
動員解除(挨拶)。だと思う。そう信じる。きっとそうじゃないかな。まあちょっと覚悟はしておけ。orz いや夏前の校務の続きで帰国後すぐに拘束されて(正確にはハンガリーでプレゼンテーション作ってメイルで送ったりしていたわけですが)、えんえんとデザイナだか営業だかわからん仕事をしており、今日は東京まで日帰り出張する羽目に陥ったわけですが、とりあえずこれで終わりなので俺は研究者に戻るんだとそういう話。ハートの時代と違って現代の戦場は霞ヶ関にあるよなと、本当に弾丸が飛んでくるわけでもないのでこういう不謹慎な表現をしてはいかんのですが、しかし勝たないと研究を続けられなくなるという問題は現実にあるわけですよ。勝っちゃった場合の後始末については考えないことにしてと。
ええと、「DQNアトラクターとしての憲法」にいただいたfromage氏のコメントに対する応答ですが、長くなったので別エントリに起こします(というわけで ですます体)。いや別にご不快じゃないんですけどね、書いてるうちに興奮されてきたかなとは思う。まあいいや。
あのですな、仮にあなたが物理の教師だったとして、学生が「質量保存の法則は成り立たないので、永久機関は作れると思う」とか言ってきたらどうされますか。とりあえず正気を疑うというオプションもあると思いますが、まあ根拠を聞きますわな。何で質量保存の法則が成り立たないのか、そう思う具体的な根拠があるのかと。
それに対して学生が、「とりあえず根拠はない。実験データもむしろ法則が成立することを示している。しかし仮に成り立たないとすればどうすれば永久機関が作れるかを問題提起することは有意義だと思う」って返答したらどうされますか。私はこれに対して「そうか、ぜひおやんなさい」と答える人間には教育に携わる資格がないと思いますがね。無駄だから止めろ、少なくともまず質量保存の法則が成り立たないのではないかという疑念を裏付ける証拠探しから始めろ、しかしそりゃ世の中絶対ということはないが99.99999999……%無理だと、そう言ってやるのが人の道かなと思うわけですが。
でですね、あたしゃ自分のことを教育者の端くれだと思ってますから学生ならそう言って諭してやりますが、「先生」と呼ばれるような、社会から一定の尊敬をもって見られる可能性のある人がそういうことを抜かしたときには指さして笑ってやるのが正しいと思ってるわけです。議論の中身を検証する能力のない普通の人というのは彼の持つ権威の故に内容も正しいと誤信する可能性があるからで、そういう危険から社会を守ることは専門家の責務ではないかと。まあもちろん本当に正しいのはあちら側で、私が世間様から指さして笑われる羽目に陥るかもしれませんが、それについては覚悟の前でないと学者稼業なんざできないね。
しかしもちろん問題は、「質量保存の法則は成り立たない」というのが指さして笑うべきトンデモだとして、「憲法59条から今回の解散は許されない」ってえのがそれと同じ程度のトンデモ学説なのかそうでないのかという点にあるわけです。仮に「解散権行使に際しては59条が規定する法案処理手順を履践するのが原則であるのだとすれば」、そりゃ59条の要件を満たしていないときに解散権にどのような制約が生じるかを考えることは有益だと思いますが、前提が偽ならそれ以降の考察は無意味なわけで、そこをすっ飛ばして問題提起の是非を論じても仕方がない。
でその点、まず傍証から挙げると、仮に今回のような解散が許されない可能性が憲法解釈から少数説であれあり得るとすれば、良心的な我が国の憲法学者たちの誰一人としてその可能性を指摘しないのは何故なんですかね。彼らの全員が体制に籠絡されているとか、権力批判的な言説を出版するメディアが存在しないという可能性は、経験的検証から明らかに偽でしょう。では残された可能性は何ですか。
もうちょっとちゃんと書くと、まず59条は衆議院での再審議・再可決(2項)あるいは両院協議会の開催(3項)ができるという規定であって「しなければならない」という規定ではありません(このことはお認めいただいているようですが)。次に衆議院解散については、不信任案可決あるいは少なくとも上程など内閣の信が積極的に問われている要因のない状態で解散した先例はすでに多数あり(1952年8月18日の「抜き打ち解散」、1955年1月24日の「天の声」解散、1963年10月23日の「所得倍増解散」、1972年11月13日の「日中国交正常化解散」、1986年6月2日の「死んだふり解散」など)、最初の一例については「解散は憲法69条に規定された内閣不信任案可決の場合に限られており(69条説)、違憲である」という訴訟が起こされましたが、最高裁判所に退けられています(最大判昭和35年6月8日、民集14巻7号1206頁)。
この69条説はトンデモとは言えないと思います。現にそういう制度を採用している国もありますし(e.g. ドイツ)、前述最高裁判例が出るまである程度有力な学説でもありました(ただし現在ではほとんど支持されていません)。憲法7条を根拠とする現在の通説は「天皇の国事行為に対する『助言と承認』を通じて内閣に実質的な権限がある」とする、まあそのつまり憲法に明文上そうできると書いてあるわけではないものですから、「はっきり書いてなければできない」という解釈もあり得るでしょう。
しかしこの69条説を採った場合、そもそも内閣不信任決議が可決されていない今回のケースで解散したことは一見明白に違憲ですから、59条の解釈を論じる意味はなくなります。というか、解散が焦点になっていない場面で法案を参院否決・審議未了のまま廃案にしたケースなど無数にありますし、仮に今回そうしていれば野党は大喜びだったでしょう。それは野党の政治的勝利であり得るかもしれませんが、一定の法的効果を生じさせる内閣不信任決議とは明白に異なるものですから、参院否決後の手続履行の云々は合憲性にいっさい影響を及ぼしません。
つまり、「(7条があるから)明示的に書いてある場合以外でも解散は可能」という立場に立っても、「明示的に書いてない限り解散は不可能」という立場に立っても、59条の解釈を持ち出す必要性はないのです。今回の訴訟をトンデモと位置付ける所以であります。
で、ですな。前述の通り69条説に立った訴訟は最高裁で退けられているわけですが、その根拠はいわゆる統治行為論にあり、つまり高度に政治性のある国家行為については法律上の判断が可能であっても裁判所の審査権の外にあり、その判断は政治部門や国民の判断に委ねられるというものですから、「決断が妥当であったかどうかは直後の総選挙における「民意によって示される」」ということです。この統治行為論についても、その適用範囲が広くなりすぎる危険性を指摘する憲法学者は多数いますが、本件判決における適用を批判する論者は、ほぼいないと思います。何故なら憲法を含むあらゆる法律の権威の源泉は、人民の自己決定にある(人民の自己統治理論)というのは、近代憲法体制の根本理念だからです。
そもそも法律というのは、個々人の信じる正義を実現するための手段ではなく、人民の合意に従って社会を運営するお約束ですから(個々人の信じる「政治的ドクトリン」の重なり合う部分=「重合的合意」だ、と言うと後期ロールズっぽい)、特定の場合に適用できるような法律がない場合に勝手に裁判官が自らの良心に従って判決を下してはいけない。裁判官は人民の合意によって与えられた権限を行使するのみであって、自らが権力の源泉ではない。だからこそ、「できないことはできない」、「何とかしたいなら政治によって我々に権限を与えてくれ」と言うべきだというのがむしろ広く共有された理解ですし、実際にそのような言及をしている判決の例もあります。
逆に言うと「とにかく政治は何でもあり」(基本的人権を不当に制約するような自由があるかというのは難しい問題ですがまあ除いておくとして)というのは当然のことであって、法律学の無力でも何でもない。そもそも憲法自体が、政治を通じて人民の合意により正当性を認められたものに他ならず(日本の場合にそう言っていいかというと現実的にはごにょごにょあるわけですがまあその理念的には)、すべての法律の権威はその憲法に由来するのですから、政治の優越を認めることは民主主義下の法律学の基本条件です。だからこそ私は、政治家であるにもかかわらず自らの主張を政治的に実現しようとすることを放擲して(あるいはその試みが失敗したということを否認して)トンデモ法律解釈に頼ろうとする原告の姿勢を許せないと考えるわけです。すべての問題を、現実には裁判官の解釈するところによるほかない自然法だの正義だのに基づいて判断していいというのなら、お前いますぐ議員辞めろと。
ちなみに内閣の解散権について、もちろん決断に対する政治的責任は生じるものの法的には無制約であるとするのは、まあ私も全部調べたわけじゃないけど普通はどの憲法学の教科書でも「通説」と位置付けている見解だと思うので、高等教育云々とご大層なお口をお聞きになる前にちっとはお勉強なさってはいかがかとお勧めする次第であります。どっとはらい。
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制度説を採れば59条の解釈を問題にする余地があるかな? と思って考えてみるが、「国民の信を問う必要性」という観点からは(1)「別に理由もないとき」→(2)「内閣の権力基盤の確立・強化など政治的な必要性があるとき」→(3)「衆議院で可決した法案が参議院で否決されたとき」(内閣が両院の支持を得ているかに疑義が生じた場合)→(4)「内閣不信任決議が可決されたとき」というような感じで強まるのかなと思うところ、(2)の状態では特段の手続なく解散が認められるのに、より信を問う必要性の強まった(3)の状態でのみ衆議院での再審議ないし両院協議会の開催という追加的な手続を求めなくてはならないことになるので失当かと。なお(4)の場合に解散が認められるのは69条より自明、(1)の場合に解散権行使が認められるべきでないのは各説とも肯定(ただし(1)か(2)かの判断はそれこそ選挙により政治的に為されるべきとの立場)。