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おいおい。
週末は出張で留守にしていたので新聞がたまっているわけですが、朝日の30日朝刊付録 be on Saturdayの「読み・解く 国際情勢」で酒井啓子氏が吠えておられる。「英米テロ対策の誤り」と題する一文。
ロンドンでのテロ発生の翌日、私はある地方都市で乗ったタクシーのカーラジオの「解説」を耳にして、卒倒しそうになった。(……)それを受けてアナウンサーが「なんといってもイスラム教徒には、女性が婚前交渉したら焼き殺す習慣がありますからね」。
うっひゃー。夫の死で妻が焼身殉死させられる慣習が問題になったのは、インドのヒンドゥー社会だよ!
どうも日本の国際感覚は、いまだ「海を越えると摩訶不思議な野蛮人の住む社会」的に皆一緒くたにする傾向があるようだ。
つ【スアド『生きながら火に焼かれて』松本百合子(訳)、ソニーマガジンズ、2004】。
アマゾンの内容紹介によると「中東シスヨルダンの小さな村。学校にも通わず、鞭で打たれながら奴隷のように働く17歳の少女スアド。(……)婚姻前の性交渉……そのために少女は火刑にされた」という話。結構有名な本だったと思うのだが、まあ人間知らないということはいくらもあるのでそれは良い。問題だと思うのは、アナウンサーの発言が「女性の婚前交渉」の話だったのに、酒井氏がそれを「妻の焼身殉死」の話の間違いだと何の根拠もなく信じ込んでいる点にある。普通ここまで話の筋が違っていれば「どこかにスレ違いがあるのではないか」と思って調べても良さそうなものなのだが、日本人の国際感覚はダメダメであり自分はその日本人の中に入っていないと思う酒井氏には、アナウンサーの発言には根拠があり自分が勘違いしているかもしれないという可能性は微塵も思い浮かばないようなのである。この「私正しい、あなた間違い」メンタリティは次の部分にも遺憾なく発揮されている。
一貫して日本の中東研究者は、「たまたまイスラム教徒に生まれたふつうのイスラム教徒と、主義主張でテロを持ち込む政治活動家は違う」と言い続けてきた。攻撃的なセクトに加わることと、信仰熱心なこととは無関係で、それは宗教の対立というより、英米の政策に反発する政治の対立なのだ、と。/それが、伝わらない。
このロジック、つまり一部の過激派と大多数の穏健派を区別するとともにその間の関係を否定し、悪の原因を過激派に帰すことによって穏健派を免罪する論理がドイツの戦後責任問題や日本のA級戦犯分祀論と共通しているという点は置いておいて(いや私は別にそれが悪いと言いたいわけではない)、酒井氏などがそう言い続けてきたことは事実だろう。だが、前掲スアド氏の例やアフリカの女子割礼といった大規模かつ深刻な女性虐待は政治の問題ではない。それらを許してきた・続けてきたのは「ふつうのイスラム教徒」が作っているはずのイスラム社会である。
もちろん我々はここで、それが「イスラム教」という宗教に内在する問題なのか、「たまたまムスリムの多いある特定の社会」の問題なのかを慎重に区別する必要がある(日本が仏教社会だとして、しかし我々が風呂好きなのは仏教に内在する価値ではなく日本の気候が蒸し暑いからだろう)。だが、どちらに帰責するかという問題があることに留意したうえで、しかし特に中東の「イスラム社会」には無視できない問題があり、それがテロリズムとも深く結び付いているというような指摘は、日本の中東専門家である池内恵氏などがしているところではなかったか。ここでも酒井氏は、自分の間尺に合わないものを何の根拠もなく排除しているように思える。
そもそも少数派が本当に少数なら、社会の中で孤立し排除されるのではないか。少数の過激派が存続し一定の行動を起こせる背景には多数派の支持と共感があるのではないか。実際にユダヤ人の虐殺指令を出したのは一部のナチス幹部であったとして、しかしそのナチズムが政権獲得していく時代におじいちゃんは何をしていたの?という疑問が戦後ドイツの戦争責任論に対して向けられざるを得なかったように、アルカイダを生み出し、支えてきた社会の責任というものも問われなくてはならないのではないか。その問いから酒井氏が目をそらし続けるなら、その言葉が「伝わらない」のは当然なのではないかと思ったことである。
……だからちゃんとチェックした方がいいんじゃねえのかと小一時間>beの編集のひと。
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テロに加担しない普通の人々(昔なら「大衆」今なら「民衆」)を安易に括り出してしまいイスラム社会の内部にテロを下支えしこれに加担する条件が存在することから目を背けることが、酒井氏などが味方につけていると思っているイスラム社会からも全く遊離している(だから「とどかない」)という指摘は重要だと思いますが、その後テロやナチスの虐殺行為に対する社会の「責任」に論及するところには(おおや氏の従来の議論との整合性から考えても)若干の違和感を覚えます。その「責任」の根拠は何なのか。悪政であるとわかっていて不服従あるいは離脱しなかったなら、それは加担したことになりその政府の統治に対して何らかの意味で有責的であることになるのか(これは政治共同体(≠政府)に対する構成員の政治的責務を認める立場に与する見方のように思える)。その場合「責任」とは実際何を負うことなのか。
おおや氏の話と並行する形で、師匠も選挙において特定の統治者を選出することに関与したからには、その統治に対して選挙民である一般の国民も答責性を持たなくてはならない、という話をよくします。私はこの考え方もどうもしっくり来ません。その基本的な動機は、権力行使に対する答責性の内容や所在を責任を問う制度的条件から離れて無闇に拡張・拡散させることが、むしろ答責性を確保することを困難にしてしまう、と私が考えているところにあります。
やや揚げ足取り的になってしまったかもしれません。すみません。ただ私の最近の研究関心上切実なところだったので、コメントしました。
訂正
・味方につけていると思っているイスラム社会→~イスラム社会の実情
・「とどかない」→「伝わらない」
・やや揚げ足取りに~→議論の本筋から外れて、やや揚げ足取りに~
すみません。
私も朝日の記事を読みました。
酒井啓子氏は、イラク戦争後、見解が変わったというか、テロリスト批判より対米批判に重心をシフトしている感じがしますね。貴重な若手専門家の一人で、地域研究について大変な知見を持っておられると思いますが、政策論に関する最近の意見には私もちょっと違和感をおぼえます。
テロについては、イスラムの問題という視点と同時に、アラブ特有の問題という視点も重要と思います。批判も多いですが、バーナード・ルイスはじめ米国の研究者にはそういう問題意識が強いですね。
古い記事ですが、そのへんにちょっと触れていましたので、TBをさせて頂きました。
>よこはまさん
整合性の問題はあるのですがとりあえず率直に書くと、私はそういう意味での政治的責任は存在すると思っています。政治的共同体を実在として想定するわけではなく、その存在と行動という擬制に対して異を唱えなかった場合には第三者たちが私を「共同体の一員」として見るだろうし、その結果は引き受けなくてはならない(引き受けさせられる)ということですが。従ってこの「責任」は制度的なものではなく、事実的な問題だと思っています。
それにより答責性が拡散しないかというのは問題ですが(まさに「一億総懺悔」の話ですね)、自己が加害者の一員たることを認めたくないために外部としての他者に同一化して無制限の暴力としての権力批判を解放しようとする人々がかくも多いことを考えると、むしろ警戒すべきなのはそちら(暴力性からの自己疎外)ではないのかなと思ったりもします。
>やじゅんさん
ども、ええと、そういう話ですね。日本の専門家にはスンニー派人脈の人々が多いのでクルド・シーアに関する分析が十分でなく、現状では過度に反米的な情報に偏っているという批判もどこかで目にしましたが、私に当否は判断できません。個人的にはイラク問題は穏当な出口のない構造的失敗であって、そりゃアメリカの単独主義介入がいいとは思わないけど現実的な代替選択肢なんてなかったでしょ、と思っています。つうかここまで押し詰まった問題を作ったのは誰ですか、国連? フランス? ロシア? という話ですね(もちろん他にもいるわけですが)。
イスラムとアラブの区別というのも重要で、東南アジアのムスリム社会には中東ほどの問題はないような(まあタイやフィリピンはありますが)。トルコはクルドの問題もあるけど基本的に民主主義国家であって、と思うとイランがあったりして難しいです。そういう難しさにあまり日本人が自覚的でないと酒井氏が言うなら、それはそうなんですけどね。
>どこか
というわけでこのエントリの置かれるべき文脈というのはわかる人には自明なのであって(と書いた人間が言うのも説得力がないけど)、つうか政治思想におけるイスラムという段階で人権・民主主義の普遍性という問題と読まんといかんのではないか。要努力。話題の本の方向性くらいは押さえといた方がいいぞといかにも薄汚い大人らしいアドバイスをしてみたり。