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東京法哲学研究会に行ってきた。

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というわけで校務から逃避して久しぶりに法哲学者らしいことをしに行ったら地震でエレベータが止まってボアソナードタワーに閉じ込められました。俺が何をした(挨拶)。さてと。(2005.07.27記)

クリプキと規則準拠の問題を語る前に知っておいた方が良い5つのこと

1) クリプキによるウィトゲンシュタイン解釈と、ウィトゲンシュタインの考え方は異なる。

『ウィトゲンシュタインのパラドックス』において、クリプキは『哲学探究』の一節を糸口とする議論をウィトゲンシュタインの解釈として(つまり自分自身の主張とは必ずしもイコールでないものとして)提示している。しかしそこでの考察がウィトゲンシュタイン本人の考えと一致しているかについては、議論があったものの通説は否定的である。つまりクリプキの著作は、ウィトゲンシュタイン解釈としては誤っている。

しかし、だから無価値かと言えばそうではなく、内容的には示唆に富んでおり、たとえウィトゲンシュタインに帰せないとしても独立に検討される必要があるということも、多くの論者の一致した見方である。すると『ウィトゲンシュタインのパラドックス』の内容について正確には(例えば)「クリプキがウィトゲンシュタインの主張としたが実はそうではない議論」とでも呼ぶべきであり、しかし一々こう言うわけにもいかんよな、という考慮が「クリプケンシュタイン」という呼び方の背景にはある(従ってそれは揶揄を含むことがあるが、必ずしも常にそうではない)。特に規則準拠の問題については、クリプケンシュタインウィトゲンシュタインのどちらを論じているのかを明確に意識しておく必要がある(なお以下では上記の「クリプキが……議論」をクリプキのものと略述する)。

2) いわゆる「生活形式」論とウィトゲンシュタインの考え方も異なる。

とは言え、クリプキの「共同体」による解決(懐疑的解決)と、ウィトゲンシュタイン『哲学探究』における「生活形式」(Lebensform)の議論のあいだには共通性があるように思えるのも確かである。ウィトゲンシュタイン自身が「受け入れられるべきもの、与えられたものは生活形式である——と言えよう」と述べており、ここから彼が、一定の「生活形式」を正誤の基準を与えるものとして(従ってその前提として懐疑の彼岸にあるものとして)考えていたという主張が出てくる。ここではそれを「生活形式」論と呼んでおこう。

だが問題は、この「生活形式」論もウィトゲンシュタインの解釈としては疑問が大きいという点にある。『哲学探究』においては、「規準」(Kriterium)すなわちある事態の成立を判定するための定義が、規則準拠に必要なものとして常に想定されていた。それが「生活形式」であり、従ってそれ自体は探究の対象にならないというのが前述の立場である。だが最晩年の著作『確実性の問題』に「規準」は登場しないし、そこで彼は探究の枠組を流動的なものと考えている——「経験命題のかたちを具えたいくつかの命題が凝固して、固まらずに流れる経験命題のための導管となるのである。この関係はときに応じて変化するのであって、流動的な命題が凝結したり、固まっていた命題が逆に流れ出したりする」。だとすれば疑いを免れた「基盤」(bedrock)としての「生活形式」など存在しないのであり、「生活形式」論は——少なくともウィトゲンシュタイン理解としては——誤っているということになる。もちろんこれはその議論独立の価値を否定するものではないが、クリプキの場合と同様、両者を区別して論じなければいたずらな混乱を招くことになるだろう。ちなみになんでこんな区別をくだくだしく論じるかというと野矢茂樹(およびそれを受容する私)はクリプキ解釈でも「生活形式」論でもないところにウィトゲンシュタインの可能性があると考えており、解釈的にも内容的にも誤っている(と私は思う)それらを「ウィトゲンシュタイン」と呼ばれるとすげえ迷惑だから、という事情がある。

3) 懐疑的パラドックスと懐疑的解決は独立の問題である。

さて次にクリプキの議論について。彼自身は、『ウィトゲンシュタインのパラドックス』前半で提示された懐疑的パラドックスを、懐疑的解決で処理することができると考えていた。すなわち「意味を理解しているならば、言葉を正しく使う」をその対偶「言葉を誤って使うならば、意味を理解していない」に転倒し、かつある使用が正しいかどうかは共同体によってチェックされるという議論によって、パラドックスは無害化されると考えたのである。パラドックスが存在しなくなる・その存在が誤りだったということが判明するのではなく、存在するとしても意味がない・我々の行為に影響を与えないことが判明するということから、彼はそれを「懐疑的解決」と命名している。

ところでこの懐疑的解決が誤っている(成立していない)ことも、議論はあるが通説であると言って良いと思われる。問題は、だからパラドックス自体が誤りであるということにはならない点にあり、むしろ懐疑的解決を否定すればパラドックスは解かれるべき問題として存続することになる。懐疑的解決や「生活形式」論に問題があるからといって(あると思うが)、パラドックス自体を棄却することはできない。

4) 懐疑的パラドックスの重要性は、権力行使の正当化問題にある。

ところで懐疑的パラドックスが残ると何が問題なのか。それはこの問題が他者に対する権力行使の正当性に関わるからだ、というのは少なくとも私が指摘している(規則とその意味)。例えば2+3=5が必然的に正しいのであれば、「4」と言っている他者に「5が正しい」と言い切ってもバチは当たらないだろうし、それを強制することも許されるだろう。よく分かっていない子供に教え込むことも、むしろ正義にかなった振る舞いだと言えるかもしれない。しかしそうでないかもしれない・2+3=5だと必然的に証明できないのであれば、我々がその結果を他者に強制するためには、何か別の正当性根拠を必要とするはずである。

クリプキはこの問題を懐疑的解決によって処理しようとしたのだが(「正しさ」自体が共同体によって定義される)、前述の通りそれは失敗しており、従ってこの正当化問題が残存している。ここでそれが正当化不能な・多数者による少数者への強制だという議論に持ち込みたいのなら、むしろ懐疑的パラドックスの成立を否定してはならない。

5) 懐疑的パラドックスをメタ化により解決することはできない。

さて、懐疑的解決が失敗する理由の一つは、それがメタ化を含むことである。「68+57=?」という問いに対して「125」と答える私に対し懐疑論者Aが「いや、5かもしれない」と問うというのがクリプキによるクワス算の設例であった。この懐疑が(例えば)「いや、青かもしれない」という形で先取りされ得るために自己破壊的であるというのはその通りである。しかしそれを指摘された懐疑論者Aはおそらく莞爾として「ね、複数の解があり得て決定できないでしょう」と認めるだろう。必然性を否定することを通じて権力行使の正当性を否定することこそが彼の狙いだからだ、とは上に書いた。

ところで懐疑論者Aの懐疑はもう一つ別の意味で自己破壊的である。クワス算の例においても、「2+3=?」という演算に対してならば懐疑論者Aと私は「5」という答で一致し得るのであり、その限りにおいて共同体は破綻していないように思われる。だがそこに懐疑論者Bが登場し、「いや、『一致している』という言葉は『フイッチしている』という意味ではないのか?」と問うたとする。懐疑的パラドックスを否定しない限りこの懐疑もまた有効であり、従って「共同体の一致」という懐疑的解決は失敗する。問いの地平に対して、そこで準拠されている規則を記述するメタの次元を構成しても、メタの次元における記述にも懐疑的パラドックスが成立してしまうために問題が解決できないのだ。

その意味において、「68+57=?」の解が「5でも125でもあり得る」というメタの次元を示すことでパラドックスを認識させようとする懐疑論者Aの方法が出口につながっていないというのは正しい。問題はむしろ、自然に5と答える人自然に125と答える人がいたらどうするかという点にあるというのも正しい。だがだとすればなおのこと、その問題をメタ記述によって解決しようという試み自体の問題性に気付く必要があると思われる。「5でも125でもあり得る」という記述を、ある世界の内部にいる懐疑論者Aがすることの問題性を問うなら、概念束を見ている私は世界のどこにいるのかについてもまた問われる必要があるだろう。


ということで、ひとつ。しかし相変らずよこはま さんの書く私は私より良いこと言ってる気がするなあ。ええと、もう一つの報告については、丁寧なサーベイで勉強になって素晴らしかったと思います。しかしきっと私にはそういう根性がないので今後も手を抜こ***DELETED for the Security Reasons***

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Comment(2)

はなの さんのコメント (2005年7月28日 09:28):

こんにちは、はなのです。拙稿について詳細なコメント(だと勝手に判断しました)、どうもありがとうございました。おおやにきはちょくちょく拝見しており、以前学会報告で行為の帰責点問題を論じた際、おおやにきのwinny事件に関する記述を取り上げさせていただきました。あのご指摘はおもしろかったです。

私の(研究会ではあまり言えなかった)考えはよこはまさんの所とmixiの自分の日記上で書いたとおりです。1)には同意します。
2)についても、mixi上でもちょっと書きましたがおそらくそうであろうと言うことと、それとは別に、そう取る方が議論としてもおもしろいと思っています。今回はとりあえず、仮想的な批判対象としてああいう書き方をしてみましたが、今後そういう視点を取り込んでゆくつもりです。

はなの さんのコメント (2005年7月28日 09:29):

3)については、「パラドックス自体を棄却することはできない」という点については同意いたしますし、拙稿でもパラドックス自体が消失してしまっている、とは議論しておりません(そういう風に「落としてしまった」とは書きましたが、それはあくまで「しまった(それでいいのか?)」ということですので)。
これは4)と関わることですが、おおやさんがおっしゃる「何か別の正当化根拠」を「生活の形式」や「共同体」に探すことは、容易ではあってもマズい、というのは分かります。別のところ私は、当該正当化根拠はコミュニケーションの継起から生起知る一定の分布=創発にしか求め得ない(つまりどこかに正当化の準拠点があるわけではなく、しかし結果的に正当化がなされているかのように作動している)と書きましたが、このあたりが問題の一つの焦点になると思います。今のところ、私はこういう見解を取っています。
5)について、「懐疑論者Aはおそらく莞爾として『ね、複数の解があり得て決定できないでしょう』と認めるだろう」というのをクリプキの議論から読み取るのは私は無理があると思います。Aはむしろ自説に固執し、「ね、複数の解があり得て決定できないでしょう」と読むのは論者または読者の水準で、とすべきではないでしょうか。でなければAの「懐疑」は単なる規則解釈の多義性の問題へと矮小化される恐れがあるように思えるからです。メタ記述については、誤解があるようですので一言書けば、あのベン図等々はメタ的な記述と言えばそうですが、「あらゆる意味での全体を見渡せる視点」として仮構したもので(「ある種の行為」という規定)、従ってあの視点からさらに同様のパラドックスは生じ得ないようになっています。というかあれはそういうモデルとして提示しています。従って、「概念束を見ている私は世界のどこにいるのかについてもまた問われる」とのご質問に関しては「拙稿でも書いたとおり、あれは理解のためのモデルでしかありません」ということになります。つまり、ベタに論じるのもメタ的な視点で論じるのも難しい問題として、じゃあとりあえずモデルで理解してみようか、ということです。今回の報告にはまったく書けませんでしたが、全体的な視点を持つモデルから見れば、内的な視点における概念の内包ー外延の(ひいては規則随順の仕方の)時系列での変動が見て取れ、そこから、2)でご指摘の「流動的な命題が凝結したり、固まっていた命題が逆に流れ出したりする」さまもモデルとしてですが、見届けることができるのではないか、と考えています。「モデルじゃマズいんだよ」というご指摘もあるかと思いますが、現時点ではとりあえずこのあたりまでで、今この後を考えている最中です。

以上、すごく長くなりすみませんでした。今後ともどうかよろしくお願い申し上げます。

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