前の記事: 東京法哲学研究会に行ってきた。 << | >> 次の記事: チラシの裏

生存報告

| | コメント(0) | トラックバック(0)

出張前に朝昼兼用の食事を駅の吉野家で済ませ株主優待券で支払う私はプロレタリアートでしょうかブルジョアでしょうか(挨拶)。というわけで相変らず校務で居所確認の入る状態ですが東京に出かけて他の用事をしていたりして生活が荒れております。研究会の内容はあとからフォローするとして、雑感。

朝日の夕刊で矢作俊彦氏がセキュリティの問題について書いていた。目の前で銃弾が行き交っているわけではなくとも、我々が先進国の快適な生活を送るための負担が発展途上国の戦場を作っているという意味において日本はすでに「後方」なのであり、それを守りたいというならそれにふさわしいセキュリティへの意識と取り組みが必要になるという話、だと私は読んだ。もちろんそこには矢作氏の、(1)アメリカやイギリスで現に行なわれているような治安対策をスタンダードとして捉え、それ比べて日本人・日本社会のあまりの意識欠如に苛立つという側面と、(2)しかしそのようなスタンダードを必要とする選択自体に批判的な観点から英米の現状に苛立つ側面、というのが同居していて興味深い。

この範囲での議論にほとんど異論はないのだが、しかしアメリカのある意味で過剰反応とも言えるセキュリティ対策として、南米からのトランジットの際に無理矢理入国させられそうになり、しかも指紋・眼紋を採取するという話なので拒否したところ危うく国外退去処分になるところだったと書いてあってどうなのかそれは。

というのは、まずアメリカの入国手続で採取しているのは「眼紋」(というのは虹彩認証・網膜認証などのことを指して言う言葉らしいが)ではなく、顔写真である(cf. 外務省「米国政府による外国人渡航者からの生体情報読み取り措置について」)。ちょっと離れたところにあるカメラからの撮影という段階で、それで虹彩読めたらすげえと思ってもいいのではないかと思うがどうか。眼鏡をかけたままでもOKだし。もう一つ、国際線・国際線のトランジットの際に入国手続なしの乗り継ぎを認めるか、一旦入国させるかというのはおそらく国によってポリシーの異なる問題で、特に9・11以降のアメリカは必ず入国させる(i.e. 入国審査を行なう。ただし中国のように入国抜きのトランジット手続があるのだがビザのチェックと審査を行なうという国もある)というのは相当広範囲に知られた事実だと思われる。セキュリティへの取り組みというのは結局、国民ひとりひとりが意識を持って「空振り」の可能性とコストを承認することだ、と正しく指摘しているわりにはご自分のセキュリティ管理がいい加減じゃねえですかと、まあそういう話。


実家に帰ると読売新聞なのだが、土曜日の夕刊でトフラー夫妻がマヌケなことを書いていた。アメリカでのブログブーム、医療に対するアカウンタビリティの要求、政治経験を持たない候補者の公職への当選といった現象を一括して、既存の権威への疑念と自己権威化と解説していたのだが、(1)権威にふさわしい価値の内実があるかを問い、ない場合には権威として認めないという「権威の問い直し」と、(2)従来ある権威に必要であるとされてきた価値の正当性を認めないタイプの「非=権威」を無自覚に一緒にしてはダメだろう。

医療のアカウンタビリティというのは「問い直し」の例であって、従来は医師免許というのがその能力証明として機能していたのだが、医療の高度化・専門化によってそれが十分な証明とは見做されなくなった。だから専門医の認定制度や治療成績の公開によって「専門家としての権威にふさわしい」ことを証明せよという流れである。高度な教育・訓練を受け、能力が身に付いていれば専門家としての権威を認めるというロジックには変化がない(もちろん、「医師」という専門家の権威が生き方の決定にまで及ぶものではなく、治療方法の選択は最終的に本人に委ねられるべきだという考え方も同時に存在する)。

一方、政治経験を持たない政治家を選ぶというのは「非=権威」的な振る舞いで、従来の権威の源泉、例えば国会議員の場合なら地方議会での政治経験や官庁における行政経験、研究者としての高度の学術知識といった能力証明が考えられたわけだが、それらが政治家としての能力や信頼性に結び付くということ自体を否定してしまう。結果的に人気や知名度のみで選ぶようになれば完全に「非=権威」的であってトフラー夫妻が心配しているような事態になるのだろうが、例えば「専門的な能力よりも被治者との共感可能性の方が大切である」というロジックで「普通の人」を選ぶような場合は「問い直し」の側面が強くなってくる。先程の生き方の決定の問題同様、両者が複合する局面はあるのだが、だからこそその概念分けをきちんとしておかないと、極めて正常な権威の「問い直し」までもポピュリズムに押し込めることになってしまうわけだ。

で、ブログブームはどうかと言えば少なくともそれを自己権威化と片付けるのは間違いだと言っていいのではないか。何故かといって従来のマスメディアの関係者と、例えばここでこうしてブログを書いているこの私と、従来の権威の基準に従ってどちらが専門家に近いのか。もちろん分野によるのだが法学・政治学の問題について言えば多分私の方だろう。きっとそうじゃないかな。段々不安に襲われてきたがまあそういうことにしてほしい。問題を鉄道事情に限定すれば私の方が素人だろうが、新聞記者より専門家度の高いアカデミシャンや実務家がどこかでブログを書いていそうである。一般的にある特定の問題についてマスメディアの中の人より専門性の高い人は必ず存在するのであって、彼らはいわば究極の素人である。他にない特徴があるとすればそれは(1)カバー範囲の広さと、(2)情報を発信するという行為に対する専門性、だったわけだ。

何故マスメディアが権威として成立していたかと言えばそれは、第一に広範囲への情報発信の手段が限定されていたためにあらゆる専門家が直接受信者たちに情報を伝えることができず、第二にそこで中継者としてのマスメディアが専門家たちの発言を選別・要約・代弁してきたからだ。情報を需要する人々から見えるのは、長い間マスメディアだけだったのである。ところが現代において情報発信手段は万人の手に解き放たれ、あらゆる専門家が直接に語り得るようになった。人々の目から見たとき、専門家の直接の語りとマスメディアによる代弁が比較可能になったわけで、そこで前者を選ぶ人々が増えるというのは不思議でも何でもない。そこで疑われているのは情報発信のアーキテクチャという偶然の事情に由来していた偽の権威であって、権威それ自体でも、それを支える価値でもない。

ではマスメディアにはもう意味がないのか、という点には(もちろん)留保が必要だろう。つまり前掲の(2)の点はほぼアーキテクチャ依存的な偶然の産物だったが、今でも広範囲に同一の情報を伝えるという行為の重要性がなくなったわけではない。また、(1)に由来する情報の位置付けや論点整理といった行為の必要性は、発信される情報の総量が増加したこともあって、より増している。マスメディア独自の価値というものがあるとすればそれらの点なのではないか、とは以前にも述べたところである。

瑣末な点。政治経験のない候補者が選ばれた例としてアーノルド・シュワルツェネガー(カリフォルニア州知事)、ジェシー・ベンチュラ(前ミネソタ州知事)に加えて日本の石原慎太郎都知事の例を挙げているのだが、まがりなりにも国会議員歴27年の元環境庁長官・運輸大臣だぜおい。「作家が都知事に選ばれた」というだけで誤解したのだと思うが、読売の中に誰か止める人はいなかったのか。

Trackback(0)

このブログ記事を参照しているブログ一覧: 生存報告

Write Your Comment

November 2008

Sun Mon Tue Wed Thu Fri Sat
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30            

Recent Comments

Monthly Archives