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裁判員と陪審(1)
金曜・土曜と研究会報告のために出張、今日も公務のために出勤でしたが何か(挨拶)。私の休日はどこだ、つうか我々は労働者になったのではなかったろうか。さて裁判員制度の話に関連してbewaad氏が再論しておられる(裁判員がめんどうで何が悪い)。コメント欄でも私の見解が扱われていたりするので応答と余計事を若干。
この問題についてそれほど強いコミットメントはないのだが、大筋としては皆様ご理解の通りに考えているというか、率直に言って「まあそれでよきゃあええがな」という感じである(*1)。少なくとも現代における徴兵制のようにパフォーマンス確保の面から見て有害無益(と言い切ってしまおう、とりあえず)な制度とまでは言えないと思う。個人的には「他者を裁く」という行為に権利として参加し義務として負担せよと言いたい気持ちはあるが、それだけを徹底させれば徴兵制もまた導かれることになろう。両側から考えると、まあ許容範囲か。
立法経緯からすると、とにかく裁判に国民が参加するのが「正しい」のだという理屈で当の国民がそれを望んでいるかどうかに関わらず推進しちゃった人と(もちろん国民はやってみたら気に入るかもしれないわけで、だからただちに悪いとは言えない)、しかし一定のプロフェッショナリズムは必要だという理由で抵抗していたけど国民の裁判批判とかもあって仕方ねえかと思っちゃった人との同床異夢という気はしていて、それが「裁判ごとに選出される参審制」という珍しい制度を作っちゃった原因かなと、あまり根拠なく思っている。まあ対立する意見を折衷したら立法思想がよくわかんなくなっちゃいましたというのは、ありがちな事態ではある(*2)。
ただ、もともと裁判はプロフェッショナルのものか・ものであるべきかというと留保すべき点がおそらくある。ひとまず単純に区分するが、裁判で特定の帰結を導くためには(1)何が起きたのかを確定させる事実認定と、(2)それを法律・規則などにあてはめる法適用の二つの次元が必要になる(*3)。我が国の裁判官たちが(2)のプロであることに私はまったく異論がないが、しかし(1)においてもそうかは端的に疑問である。もちろん例えば証言の真偽について証言者の態度から見抜くような訓練や経験は積んでいるだろうと思うが、だが別に心理学や精神医学の専門家というわけではない。医療過誤訴訟に携わる裁判官が医師免許を持っているわけでもないし、交通事故訴訟の担当判事が大学で教えられるレベルの力学や機械工学を理解している可能性は低い。
それでも良いのだと、少なくとも多くの裁判官たちは考えてきたように思える。いわゆる知財高裁設立論議の際、知的財産をきちんと技術的に評価するためには技術者たち自身が判決形成に参画する必要があるとして「技術判事」制度の導入を主張した工学関係者に対して、専門知識は鑑定人の活用などによって十分確保できるので従来の通りの——月並みな表現を使えば——「文系」裁判官で構わないと、法曹界(特に裁判官)は主張したのであった。つまり裁判官の役目は事件の真相を自らの眼で見抜くことにあるのではなく、両当事者や中立の専門家たちの提出した意見や証拠類の信頼性を評価し、それに法規範を適用して結論を導くところにあるというわけだ。いや、これはこれで真っ当な話だろう。自ら専門知識を持っている必要があるなら医師を裁けるのは医師だけになってしまうだろうし、法哲学者を裁けるのは法哲学者だけだ。まあそういう次元の問題もあるが(例えば業績評価についてはやはり専門性が必要であり、だからピアレビューの考え方が主流である)、裁判にそこまでのことは必要ないと、まあそういう話。
だが、だとすればただちに、その「意見や証拠類の評価」つまり事実認定を行なうのが職業裁判官である必要も特にないのではということになるだろう。もちろん職業裁判官が蓄積している経験やノウハウ・判断力をあらゆる個人が備えているかと言えばそんなことはない。しかし一人の目ではなく何人かを集めて相互に議論したとすれば、その結果得られる集団的な事実認定力が一般的な裁判官に必ず劣ると言えるだろうか。まあこれが陪審制度の発想でもある。英米の裁判においても陪審に委ねられるのは基本的に(1)事実認定であり、その結果に(2)法規範を適用するのは職業裁判官の仕事である。事前手続の段階で訴訟自体が不適法だと判断されれば陪審審理なしで却下されるし、陪審評決が出たにも関わらず裁判官が事実に関する争いはなかったと判断すれば評決と反対の判決を下すことも可能である(judgement notwithstanding of the verdictjudgment notwithstanding the verdict (6/27訂正))。ヨーロッパの参審制や日本の裁判員制度の場合このような分業が明確に存在するわけではないが、しかしやはり法解釈における専門性と事実認定に対する「素人」の関与あるいは国民の共感可能性の確保という二つの要素を考慮しているとは言えるだろう。まあその考慮が有効に機能するのかという点は(そのために必要なコスト負担に国民が納得するかという問題も含めて)やってみないとわからないと思うので、現段階では特に何を言う気もない。
ところで裁判員としての負担を引き受けるか最高10万円の過料を引き受けるかは等価なオプションであるという点に関しbewaad氏は「前世紀後半ぐらいから、「法と経済学」という学問領域が提唱されていて、これは異なる考え方をとります」と書かれており、これ自体が間違いではないのだが、しかし契約を破る自由というのは英米法にもっと前からある考え方なので補足しておく。樋口範雄『アメリカ契約法(アメリカ法ベーシックス)』弘文堂 1994 ではこれを「効率的契約違反の法理」doctrine of efficient breachと呼んでいるが、そこで紹介されている通り契約は履行と損害賠償の支払いのいずれかを保障するに過ぎないという考え方はすでにOliver Wendell Holmes, Jr.に明示されているという(O. W. Holmes, The Path of the Law, 10 Harv. L. Rev. 457, 467 (1897))。実際、英米法では強制履行を認め得る場合が非常に限定されており(伝統的には売買の目的物が唯一である場合)、また意図的な契約違反であっても損害賠償金額が市場での調達価格と契約価格の差に限定され、精神的損害に対する賠償(慰謝料)や懲罰的損害賠償が認められなかったから、彼らがそれをどう理解していたかはともかく、損害賠償と履行が事実として等価なオプションだったという状態は長く続いてきたことになる。
効率的契約違反の法理を「法と経済学」に直接に結び付けることの不具合というのも、別にある。上記の通り「法と経済学」は20世紀後半に提唱された議論だが、同じ頃、効率的契約違反の法理はその適用範囲が限定される傾向にあったのである。1952年に制定された米国統一商法典(UCC; Uniform Commercial Code)(*4)では強制履行を命じ得る場合に「またはその他の適切な場合」が追加されており、対象が唯一のものでなくとも代替品が調達不能な場合が含まれるようになったという。その分「契約を破る自由」は制限されることになったわけだ。
というわけで、もちろん何故かという問いにはいくつかの仮説があり得るのだが、(1)もともとコモンロー上の訴訟で与えられる救済は原則として金銭賠償のみに限られ、強制履行はエクイティによる特別な・例外的な救済と位置付けられていたという歴史的な理由がまずあり、(2)「法と経済学」によってその現状に対する合理的説明が後からなされたと考えるのが妥当だろうかと思う。もちろん(1)が現状として維持されてきたからには彼らなりにそれを合理的だと考えてきたのだろうが、いずれにせよ正当化理論の端緒と法理の起源にはズレがあるだろうと、まあそういう話である。
(*1) 「裁判員の参加する刑事裁判に関する法律」(平成16年5月28日法律第63号・未施行)第15条が就職禁止事由(裁判員の職務に就けない)を列挙しているのだが、第15号に「学校教育法に定める大学の学部、専攻科又は大学院の法律学の教授又は助教授」とあり、つまり私自身はそもそも対象外なのではないかと思っているのも一因である。もちろん問題は法哲学って法律学ですか?という点にあり、いまひとつ自信がない。
(*2) これは日本人だけに帰責できる問題ではないが、国会運営を含む立法システムが大陸型の議院内閣制を元にアメリカ型の三権分立制を加えた結果として混乱しているというのもこの一例だろう。参照、大山礼子『国会学入門』三省堂。
(*3) もちろん事実認定の対象になるのは法適用の際に意味のある・結論を左右する事実に限られるのでその段階が法規範と無関係に存在できるわけではないが、何が要件事実かの整理は(2)に含まれると考えれば一応このように整理できるだろう。
(*4) 「統一」といっても連邦法ではなく法案のモデルであり、各州がそれぞれ州法として採択することにより事実上の法統一を行なうことを目的としていた。フランス法の影響を強く残すルイジアナ州(部分採択)以外の49州が採用したため相当の成功を収めたと評価されている。
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わざわざ拙文を受けてのエントリありがとうございます。事実認定にはプロも素人もないという陪審制の理屈と法解釈にまでタッチさせる参審制(ないし裁判員制)とは、素人参加という見方をすれば類似制度ですが、哲学的には相当異なるのだろうなぁと思います。
裁判員が弁護側にのせられて裁判官の意見とは異なる法解釈を採用したところで、どうせ高裁や最高裁でひっくり返せるからいいや、むしろ事実認定から裁判官が排除されるのを防ごう、というのが最高裁の動機だったのかなと勘ぐっておきます(笑)。
僕もよく間違えますが、judg"e"ment notwithstanding "of" the verdict の e と of は不要です。
あと、「契約を破る自由」は伝統的には契約の話なので、それを行政法・刑法に拡張するのは、わりにシカゴ的な気がします。無論、その背後には、大陸法に比較して私法と公法を峻別しない英米法の伝統があるのかもしれませんが。
>bewaadさん
ども。一つには英米法における陪審が国王裁判権に対する抵抗の手段(現代的に言えば権利保障の手段)と捉えられてきたのに対し、大陸法ではそうではなかったという違いがあるのでしょう。後者における裁判官は法律の忠実な適用機械であり、権利保障は立法の時点で組み込まれているべき価値であると、まあ理念型としてはですが。もう一つ、治安判事のような非法律家裁判官も英米にはいたわけで、そもそも人々が納得すればいいんだという反プロフェッショナリズム的な傾向性は、確実にあるのでしょう(司法取引なんかもわりとそういう感じ)。このあたり、もちろんある法体系の制度がすべて一つの思想に還元できるわけでもありませんし、第二次大戦以降のアメリカ化というような現象もあるので簡単には言えないのですが、歴史的に蓄積されてきた違いというのが相当あるとは思います。
事実認定を任せたくないというのはきっとあったでしょうが、まあちょっと続きを書きます。
>t.ikawaさん
え、略記するとjudgment n.o.v.だからoがいるんじゃ……と思って確認したらjudgment non obstante veredictoの略なんですかそうですか orz。この中途半端にラテン語とかフランス語とか使うあたりが何ともはや。ええ、お詫びして訂正いたします。ご指摘ありがとうございました。