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共同体

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「耳が痛むんです」と医者に行ったら「痩せろ」と言われました(慨嘆)。補足すると実は炎症は耳ではなく咽頭で起きており、それが耳の下のリンパ節まで広がっているので耳が痛いような気がするだけだと。で、治療法は薬とうがいと、肉が付いて咽頭が狭いから息苦しくなるのでつまり痩せろ、ということでした。土曜日に講義4コマ(すべてロースクールの補講)、月曜日に講義4コマと真面目に働いているのにどうしてこのような目にあわなくてはならないのでしょうか。そうやってのどを酷使するから治らないんだという話もあるわけですが。

さて前のエントリ田島先生よりトラックバックをいただく。東アジア共同体論を安全保障という見地から考えるというご趣旨であり、議論の細部に異論がないではないが(*)全体的には首肯できるところの多い議論である。ただ、一点だけ理解しがたいことがあり、つまりその、それって「共同体」なんですか?

いやもちろんコトは定義問題なので「はいそうです」と言われればそれまでではあるのだが、田島氏が指摘しているのは(1)アメリカの相対的パワーが低下していること、(2)アメリカと日本の安全保障上の利害は相違し得ること、(3)従って極東の安全保障の枠組を再編する必要があり、かつ日本の独自性を発揮する必要がある、ということである。ここまでの議論は実にその通りであり、特に(2)は前に述べた通り、私がケリー氏よりもブッシュ氏を支持する理由であった。つまりミサイルが飛んできたり難民が渡ってきたりするのはアメリカではないからだ。ここで田島氏は進んでNATOのような多国間安保に組みかえることを想定されるのだが、果たしてそれは可能なのだろうか。可能となる理由を共通の価値観とかいう代物に求めれば結局内田氏の議論に帰着するので、ここでは純粋に安全保障上の問題として考えるが、その場合の敵はどこなのか。NATOが成立した背景には仮想敵としてのソヴィエト連邦があり、その進攻が行なわれた場合に欧州のどの加盟国も単独では対抗し得ないという現実があり、その上で統一指揮権の構築(それに対応する各国指揮権の制限)が実現したわけである。もちろんドイツをどう抑えこんでおくかというのもNATOの一つの大きな目的だったが、その結束が外部の敵の存在に多く由来していたことは事実だろう。まあ、同盟とはそういうものでもある。

さて東アジアではどうか。共通の敵となり得る存在がないわけではないのだが、それはつまり北朝鮮である。皮肉な話だが日中韓が六者協議という多国間安全保障の枠組にまがりなりにも集っているのは北朝鮮という共通の危険のおかげであり、ということは内田氏が予測するように統一朝鮮なるものが登場したとすれば即座にその団結は崩壊するだろうということでもある。

もちろん田島氏はNATOのようなというのが語弊のある表現であり、軍事的緊張の緩和を目的とする相互の軍備制限や軍事交流を促進するというのが主眼だ、と言うことができる。だがそれを実現するのに「共同体」のような緊密な関係あるいは国家の上位にある主権団体は不要だろう。なにせその程度のことなら冷戦期のアメリカとソヴィエトだってやっている。結局東アジアは適当に緊張したり緩和したりしながら経済的関係を維持していけばいいのであり、国際関係というのは基本的にそんなもんだと思うわけではある。まとめなくてはならない必然性もないのに緊密な友好関係とか「共同体」とか言ってみる感覚というのは、そうすれば何かいいことがあるかなと思ってとにかく合併してみる企業のようだ、と思ってみたりする。知らんけど(**)。

(*) たとえばイラク戦争についてアメリカが新たな安保理決議を断念したことについて「戦争のための最小限の公共性さえ断念した」と表現されているが、この点については仏・露の抵抗と両国のフセイン政権へのコミットメント、さらにはoil for food programに関する国連内部の腐敗という事情を考慮する必要があろう。
(**) あと、アジアの多国間安全保障の枠組を作る必要はあるとして、その編成原理として中央枢軸を考えるのか遠交近攻政策を考えるかっつうのはあるよな、と思ったりもする。ところで我が国の法整備支援対象国は***Deleted for the Security Reasons***

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東アジア共同体構想について書いたことについて、いろいろなご意見をいただいた。  私自身、このような話題について、せいぜい素人の意見の域を出ない事しか言えないにもかかわら 続きを読む

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Comment(5)

梶ピエール さんのコメント (2005年6月22日 13:58):

こんにちは。「それって「共同体」なんですか?」という話は実は経済の領域でもいえることで、域内の経済統合とか通貨スワップとかの具体的な得失に関する議論をしていたはずなのに、いつのまにか途中の過程を抜かして「共同体」の話になっている、というようなすっきりしない感覚を私なども常に抱いています。有名な論者では、渡辺利夫氏が『中央公論』6月号「東アジア共同体論の危うさと怪しさ: 幻想を吹きとばす反日地政学」のなかでそういうスタンスから共同体論に関する不信感を表明されています。個人的には、「共同体」という議論の枠組みを認めるかどうかがそのまま一種の政治的なスタンスの表明とされる、ということになりそうな昨今の風潮がなんとも不愉快なのですが・・「靖国」についてそういう色分けがなされるならまだ納得できるんですがね。

Vampire.S さんのコメント (2005年6月22日 19:07):

やっぱり、梶ピエールさんの仰るとおり中華人民共和国が複数通貨圏に首尾よく分割されたら、『東アジア共同体の共通敵』は陝西・山西・河北省連合とかになるんでしょうかねぇ。上海・南京・香港となぜか東北三省が『こっち』サイドで。

やじゅん さんのコメント (2005年6月25日 15:02):

>おおやさま
こんにちは。いつも楽しく拝読しております。

少し古い記事なのですが、東アジア共同体についての卑見をTBさせて頂きました。

東アジア共同体の目指す安全保障システムがあるとすれば、それは同盟というよりは集団的安全保障(collective security)かと思います。集団的安全保障という概念そのもののfeasibilityは別として、国連のグローバルな制度を補完する位置づけとして、地域的集団的安全保障の制度を追求することには、それなりの意義が認められると思います。冷戦後、非民主国家がマージナライズされていく国際環境、テロ戦争への対処という文脈において、その意義は高まっていると考えられます。

ただ、問題は、中国が自由と民主主義の価値観と制度を確立している段階にはないということだと思います。集団的安全保障のシステムに取り込むことには、やはり限界があるでしょう。軍事の透明性すら保障していない国と本当の意味での軍事交流などできはしませんし、だからこそアジアにおける集団的安全保障制度に最も近いARFにおいては、信頼情勢措置のレベルにとどまらざるを得ません。また、東アジアの安保の議論をする上で、最も強力なプレイヤーである米国を蚊帳の外に置くことは決して現実的な考えとは言えないでしょう。東アジア共同体の議論が、中国を外に向けてオープンな方向に誘因し、信頼情勢や軍事の透明性の向上につながる意義はあると思います。南沙諸島の問題解決につながることはあるかもしれません。しかし、それ以上の期待は、今後の中国の体制の変革(近代国家としての成熟)にかかってくる部分が大きいと思います。

いずれにしても私の考えはおおやさんに近くて、TB記事で述べた通り、東アジア共同体は無駄なこととは言わないまでも、高い期待は見込めませんし、米国との関係に気を付けながら、淡々と機能的協力を積み上げていくことしかできないと思います。それが田島先生の言う中国の取り込みにつながることは、まったくその通りですし、私もそうあるべきだと思います。

(枝葉末節の部分ですが、米国の衰退論については、おそらく結論めいたものが言えないところとは言え、こと安全保障について言えば、むしろ状況は逆で、米国のスーパーパワー化を認識する方が個人的には自然かと思います(米国一国の力でイラクをあれだけ圧倒的にねじ伏せたことは、10年前には考えられない事態でした)。だからこその一国主義化(特に欧州無視)ではないでしょうか。ただ、それがテロ戦争の解決につながらないところが難しいところだと思います。)

六者協議については、北朝鮮の核開発問題の前から小渕総理が提唱していた通り、北朝鮮問題にとどまらない北東アジアにおける多国間安全保障の枠組みとして利用できるポテンシャルはあり、米国高官(ケリー前国務次官補など)の発言などを見れば、米国にもその利用価値があるという認識が共有されていると思います。ARFから余分な肉を取り除いた機構としてとらえれば、地域的機構として高い効率性を見込むことができます(国連軽視、FTA、津波支援などから見ても分かる通り、こういう小回りの利く実効性の高い制度を米国は好みます)。ただ、北朝鮮問題の解決という状況が想定できない現在においては、現実味のある議論ができませんから、あまり真剣に考える必要もない論点かとは思います。

おおや さんのコメント (2005年6月30日 13:50):

コメントフォロー中。

>梶ピエールさん
ども。そうなんですよね、「共同体」言いたいだけと違うんかと小一時間。誰か吉野家コピペでも貼ればいいのに。

>Vampire.S君
間島地方がどこに入るかで血まみれになりそうな気もします。知らんけど。

>やじゅんさん
ども。基本的に貴見の通り、信頼醸成措置はもちろん必要なのですが、軍事情報がきちんと出てこない国家、というかそもそも政府内でさえきちんと文民統制と情報管理ができているのかわからない国家みたいなものを相手にそれがどこまでできるのかというのは問題だと思います。とはいえ、相手のウェイトを考えるとそれでも一定のシステムに関与させ続けることの重要性というのは否定できないわけですが。
アメリカの地位というのは難しくて、純軍事的にはご指摘の通り、唯一のスーパーパワー化しています。背景には冷戦の崩壊があり、敵対勢力がソ連からの継続的支援を受けられなくなったという事情があるでしょう(中国はまだ残っていて、という話がスーダンあたりで問題になっているようですが)。一方、それを支える経済的基盤(戦費の調達)と正統性の調達という点になると、やはり他国に依存する部分が強くなってきていると言えるのではないでしょうか。軍事的対抗者としてのソ連がいなくなったということは、守ってもらうためにアメリカにとにかく追随する必要、というのも消えたことを意味するわけです。

さんのコメント (2008年6月10日 03:45):

遅レスさんですぅ。
近世哲学で共同体といったらそれはギリシア的都市国家やその連合体を念頭に置く地域・文化・宗教等々を共有する政治集団のことなので、そして田島先生はスピノザ的政治共同体(res publica)を念頭においておられたようなので、田島提案の共同体はやはり田島先生のターミノロジーの中では「共同体」と呼ぶしかないのではないでしょうか。あるいはある政治=社会構想を共有することがそのまま「共同体」の創出であるというプログラムなのかも知れません。ずいぶんロマン主義的だなとは思いますが、考えてみればロマン主義はスピノザ萌の時代でもあった。

現代日本の社会科学者の共同体とそれは違うのかもしれませんが、なので、わたしにはそれほど違和感のない表現でした。違和感を持つ人がいるということはこのエントリで初めて気づきました。もちろんそれが21世紀の国際秩序にそのまま適応できる概念なのかちうことは別のお話であるというならそうなのかもしれませんね。

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