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ものくうわたし
えらいもん作ってもうたシリーズ第二弾。何かというと写真からはよくわからないと思いますが、黒米(古代米)のお粥です。『北京のやさしいおかゆ』に書いてある通りびっくりする味のものではありませんが(白粥と小豆粥の中間みたいな感じ)、すごい量の色素です。まあそりゃ、白米に2割混ぜただけでこんなんなるわけですから、100%古代米ならそりゃこうなるか。なお個人的には白粥か小豆粥の「どっちかにしてくれ」と思うわけですが、さてあと約1合あるでねえ。
というわけで『愛がなくても喰ってゆけます。』、店頭で気になってはいたのだが某紙書評を見て購入。いい話だ。特にそう思ったのは書評でも引用されていたが、主人公の「Yなが」が非常に好条件のオトコをあんこう鍋屋の味の評価をめぐって捨ててしまう、という部分。というか食事というのも人間の非常に基本的な欲望に関連する部分なので、そこのセンスが一致しない人間と共同生活するというのは困難だろうなあと思うわけであります。離婚原因「食生活の不一致」、とか。
まあ私自身は個人の好みというものを認めるので「自分の連れてった店にケチ付けられんのだけは耐えきれん!!」というほどのことはない。というか、「Yなが」にとっての問題というのも結果としての味覚の違いというよりは、「食い始めると物言わぬ人となってひたすら食ってしまう」とか、絶品のレバ刺しを一箸でがばっと掴んでむさぼってしまうとか(おろしニンニクにもあさつきにも注意することなく!)、メインのもつ鍋を「うまかったよ/ここ2、3日ロクなもん食ってなかったから」と評するようなところ、つまり食というものに対する敬意の欠如だったのではないかな、と思うわけである。
上述の通り私は他者の嗜好に寛容だが、しかしこの男と一緒にうまい店に食事に行っていたら怒鳴ってるかもしれん。少なくとも二度と良い店には連れていかないだろう。手間のかけられた料理にはそれ相応の扱いをするものだ(*)というのは私にとっての黄金律であって、もちろんそうでない人が世の中にいることは認めるが、食事を共にしようとは思わない。逆に折角の素材にヘタに手を加えた結果どうにもならなくなっているという飯屋もあり、そういうところに当たると半日くらい機嫌が悪い(もちろん二度と行かない)。ほっこり甘い上出来の南瓜に何も仕事してないマグロなんか合わせんじゃねえ(どこの店か推測しないこと)。
さて、しかしもちろん私の日常のほとんどの食事はそんな店に行ったりしていないわけである。というかほぼ自炊で暮らしていて、男の一人暮らしなので「えらいねえ」とかときどきお褒めにあずかるのだが何ということはない第一に金がないからであり、第二にそうすれば下手なものを食って機嫌を悪くするリスクが最小化できるからである。前は牛スジ肉のコムタン風とかちっとは手間のかかるものも仕込んでいたのだが、最近は忙しいので(そして季節的によくモノが腐るので)それなりのものをそれなりに料理してそれなりの幸せを享受しているに過ぎない。そういう日常食生活の幸せに満ちているなあと思ったのが『おうちでごはん』。
主人公であるカモくんは手料理万能の男子大学生であるわけだが、彼がそうなったのは15歳のある時点からだ——「母親が亡くなって/それからは父親はずっと海外にいて/しょうがないから一カ月ずっとラーメンばっかり食ってた/それしか作れなかったから」。そして彼は「ああ俺やっぱり死ぬまでラーメンばっかり食っていけない…」と悟り、「じぶんでじぶんにごはん作って」やることに決める。彼はまず自分の幸福のために食事を作るのであり、しかしそれが他者に外部効果をもたらすこと(具体的には例えば同じアパートの米田くん♂がうまいうまい言いながら彼の手料理を食べること)からも幸福を汲み取ることができる。
ここでそう悟らない人、悟ったとしても別の解決を探る人というのはいるのだろうなあと、確かに思う。作中では両親共働きでも外食や買い食いで解決してきた米田くんがそうであるし、まったく食欲のなさそうな人というのは実世界にもいる(しかしもう少し考えた方が良くはないかF君)。だが米田くんは旨いものが好きでカモくんの手料理の価値を理解することができ、それに対して相応の敬意を払うこともできる(カレーなら上手に作ることもできる)。カモくんの幸福は、それを贈与される米田くんの感受性に支えられている。つまりこの作品は、他者に幸福を贈与できる人(々)と、その幸福への感受性を持った人々からなるユートピアなのである。そのユートピアに異物が入り込む瞬間がYながのあんこう鍋であり、その根元は敬意の欠如、贈与された幸福の背景にあるものへの想像力の欠如にある。
というような話はともかく読んでると大変に腹の減る二冊だったのであるが(『おうちで』に ゆずごしょう で食べる水炊きが出てきて九州出張の際に本場モノを買い込んできた私としてはすごい勢いで食べたくなってしまったわけであるがこの季節にそんなもん食ったら汗だくんなるわほんまにもう)、私にとっての問題はカモくんと異なり幸福を贈与する相手があんまりいないという点にあり、まともな量の料理を作ると三、四日は同じものを食べる破目に陥るのである。こないだは一週間連続で晩御飯がタイカレーでしたよ。どの口で「食への敬意」とか言うのかこの男も、ねえ。
- ウー・ウェン『北京のやさしいおかゆ: やさしく作れて体に優しいおかゆレシピ』高橋書店、2000。
- よしながふみ『愛がなくても喰ってゆけます。』太田出版、2005。
- スズキユカ『おうちでごはん(1)』竹書房、2005。
(*) この点、私の場合「味」の評価にコストパフォーマンスという観念的なものが含まれており、大量生産の食い物がマズいのには別に怒らない(いやそりゃ旨ければ喜ぶが)。安物はまりまりと喰う、良い物は味わって食べるという使い分けが信条である。もちろんここでいう「安物」は客観的な価格ではなく、志の問題。
カテゴリーに「移動記」を追加しました。何故「旅行記」でないかといえば、privateな旅行にはほとんど行かないからであります。プチ引きこもりだから、という以上の理由があるような気もするのですが。
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心温まる話でした、てゆうか今度、東京に来た時こそご馳走させて頂きたいのですよねえ。最近、開拓地が拡大しているので、素晴らしいものをご期待頂けますです。
なるほど、「幸福を贈与する相手」というのもそれなりに重要ですね。
お住まいが近所でしたら贈与されに伺うところですが。
いや、お呼びでないですな。
わたすの場合,「幸福を贈与する」技能はない上に,その相手もいないということであります.('A`)
>たにぐちさん
え〜そのうちぜひ。
>Otiak氏、おや痔氏
手料理の技能云々を抜きにして、とにかく上等の素材を仕入れることだけを考えてもですな、自分一人だと消費ペースが悪すぎてどうもならんのですよ。肉類はまだ冷凍で我慢するとして、海産物はどう考えても食べ終わるより早く痛んでしまうので。消費人数重要。