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絶対的平和主義をめぐって

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睡眠3時間 + 講義4コマ + 会議2時間 = ⊂⌒~⊃。Д。)⊃ (挨拶)。さて珍しく師匠を擁護したわけだが、いただいた反応のうちまとめて応答した方がわかり良い話題があると思うのでこちらで書く。というのは絶対的平和主義が実効的であり得るのかという問題。bewaad氏からは「本当に今まで有効な絶対的平和主義運動は存在したのか」と問われ、一方きはむ氏からは軍隊が自己防衛のために有効なのか、「国家は国民を保護する為に整然と自らを解体する必要に迫られるケース」があるのではないかと問われていてはさみ撃ちである。まあこう、リベラルの宿命というか何というか。

しかしまあこの点に関する私自身の意見はシンプルであって、きはむ氏の疑問にはYesと答える。私が国家の存在を認めるのはそれが私自身の目的(とりあえずは生存)に役立つ範囲であって、国家自体の自己保存欲求など認めない(もちろんそういうものが事実として生じがちであるということは否めない。内乱罪は今・ここにある政府the governmentへの反逆を禁止するものだが、我々に必要なのはある政府a governmentであって、それがいま現在「日本」と呼ばれているものではない。もしその方が私の生命財産がより良く保護されるという保証があるのなら、明日から日本をやめてアメリカの51番目の州になるとか(*1)、企業連合体による統治にしてしまうとかしても構わないと思う。だがこれは理論上の話である——という意味は後述)。だから軍備を捨てて絶対的平和主義を取った方が間違いなく生命財産の保全に役立つなら、そうすれば良いと思う。

そこで問題はbewaad氏の(そして同エントリ・コメント欄における「推定無職」氏の)ご指摘につながる。つまり前述の通り私は私自身が絶対平和主義を取る可能性を理論上は否定しないのだが、現実的に採用するか、その実効性が他の手段より高くなる場合があると見積っているかというと、ほぼ完全に否定的なのである。

国内の政治運動と独立運動や外敵の侵入に対する対処を分けて考えるべきか、という点についてはあまりその必要はないと思う。政治運動と独立運動の境界線はあまり明確ではないし、軍隊にせよ警察にせよ国家の実力組織なのであって、問題は組織的暴力に対する抵抗として非暴力が有効であり得るかどうかという点に帰着するだろう。その上で区別をもたらす原因になるのが、前回も書いたが「共感」という要素である。一般的に国内政治運動については抵抗側・鎮圧側とも同国民であって共感可能性が高く、従って非暴力が有効である可能性は高まる(*2)。一方、侵略を受ける場合には逆だろうし、また国内であっても共感が成立するかどうかは(また成立したとしてもそれが強硬手段に訴えることを回避させるほど強力かどうかは)偶発的な事情に左右される。チェコスロバキアが平和的抵抗運動の成功例に当たると言っている人もいて、プラハの春とか思うわけだが、つまりソビエトの軍事力が介入しないという前提の下でしか共感は勝てないということだろう。

もう一つは、非暴力抵抗が成功するためには実力が必要になるという(やや逆説的な)点にある。井上は非暴力抵抗によって「侵略者・弾圧者を非難する国際世論を高揚させる」と言うが、それで何が起きるというのか。ある政策が国際的に非難されている国など山ほどあるのだが(日本もアメリカも例外ではない)、非難するだけでその国々が行動を変えるわけではない。「高揚した国際世論」は侵略者に実際のダメージを与える実力行使、例えば経済制裁や援助削減、さらには(湾岸戦争のように)被害者とは別の国家による暴力の行使に結び付くから有効なのだ。ここには二つの問題がある。第一は、従って非暴力抵抗を訴える者は自身が暴力を用いない代わりに他者の暴力を行使させている(少なくともそれを期待している)のであって、それがfree rideに他ならないということである(だから悪いと短絡的に言いたいわけではない)。第二に、そこで行使される実力の特殊なものとして「参政権」があり、民主主義国家の国内政治運動の場合、あるいは民主主義国家を相手とする紛争の場合には共感に基いて有権者の投票行動を変えることによって政府・政策を変更し得るということである。ヴェトナムの事例は一部これで、南ヴェトナムにおける僧侶の焼身自殺という非暴力抵抗は、アメリカ国内の有権者たちによる参政権という実力行使に結び付いたわけだ。

つまり民主主義国家はそうでない国家に比べて非暴力抵抗運動に対しvulnerableである。これは民主主義国家における政府が、単に政策的パフォーマンス(国民の生命財産の保護・増進)だけでなく、それに対する個々の国民の認識という関連性はあるが別の評価基準を満たさなくてはならないという二重性に起因している。逆に言うと民主政を取っていない国家に対する非暴力抵抗は見通しの暗いものであり、ところで我が国の周辺には*** Deleted for the Security Reasons ***

実例を見てもこのことは裏付けられるのではないかと思う。インドのケースについて「推定無職」氏は「インド独立運動自体が総体として決して平和的(……)な運動ではなかった」と指摘されている。ガンディーの非暴力不服従が有効だったとして、それはデモンストレーションに参加した人々がより実効性のある・暴力的な運動に流入していく可能性に裏打ちされていたのではないか。peoples' powerでもビロード革命でも、非暴力抵抗をしていたらおそれいった為政者たちが勝手に逃げ出したのではなく、それに共感した軍隊(という暴力組織)が銃を逆に向けたから成功したのだ。ここにも非暴力抵抗のfree ridingな性質が現れている(繰り返すが、それは実力の行使についてfree rideしているという意味であって、撃たれるリスクを支払っていることを考えればただちに不公正であるとは言えない)。非暴力で抵抗する私の代わりに実力を行使する存在との組み合わせが、絶対的平和主義には必要なのだ。

さて、というわけで井上達夫は状況依存的に有効になり得る手段の中に絶対的平和主義を入れており、従ってそれを拘束する条項を硬性憲法に入れるべきでないという結論に至るわけだが、私自身はその可能性はほぼないので逆の条項を(つまり軍備を持つことを前提としてその制限条項を)入れるべきだと考えている。その理由はもう一つある。国家として軍隊を持っている状態は個人の非暴力抵抗を許容するが(権利としての良心的兵役拒否によっても、事実としての兵役拒否(と投獄)によっても非暴力抵抗は貫かれる)、国家が絶対的平和主義を選択した状態は個人の実力行使による抵抗を許容しないという非対称性である。この点、国家が「良心的兵役拒否」をしても個人の自衛権は消失しないという立論もあるが、Mutual Assured Destruction……はまだ続いてるのかな。とにかく核兵器の時代において個人の生命身体への具体的な危険は遍在しているのであって、個人自衛権と集団の自衛権を切断しようとする議論は成功しないと思う(*3)。このあたり、書くだけ書いているが煮え切っていないので書きっぱなすが、そういうことである。


その余の点について。農地改革の評価については よこはま さんのコメントをもってひとつ。

きはむ氏の「でもできれば殺したくない」という部分を軍隊は体現していないのではないかというのは、浅いかな。軍隊というのは人を殺すためではなく相手の抵抗力を削ぐための組織だから、無駄に殺せばいいものではない。そのために交戦規定があるし、虐殺は(現実に往々生じ得るとしても)逸脱と位置付けられる。もちろんそれは抵抗力を削ぐためには殺さない方が望ましいという冷たいリアリズムと裏腹ではあるわけだが。何故対人地雷が致死的でない被害を広範囲にばら撒こうとするかといえば、死体は放っておけるけど怪我人を運ぶには2人必要だからでしょ、と。もう一つは、誰かに罪を犯させたくなければ家には鍵をかけておきましょうという話。だから最善の軍隊は使われない軍隊で、それは消防や警察と同じことですよ。「我々の必要とする危険を引き受ける存在」にはそういったものも入ります。政治も外交もそれが有効に機能するためには背景となる実力が必要だし、実力という面において軍隊のような暴力と例えば経済力とは、本質的には違わないでしょう。「金がないのは首がないのと同じ」、経済制裁の方が軍事介入より「きれい」だなんてのは死化粧と同じ偽善ですよ。

もちろんそれは我々が互いに暴力的であることhomo homini lupusを前提にしているのかもしれず、どこかにはそうでない世界があるのかもしれず、本質的な議論というのはその可能性を開示しなくてはいかんわけではあります。まあだから「これとは違う世界」を真剣に模索する人つうのは尊敬するけど、私は今の世界をより良くすることしか考えてないな。

普遍化についてはですね、井上達夫はできると思っているわけですよ多分。民主主義原理や分配的正義については。絶対的平和主義もできると思ってるかもしれん(cf. よこはま氏コメント)。普遍性が知られ得るかというのは師匠と私の最大の対立点(の一つ)だと思うので、これ以上は代弁しません。『共生の作法』読んでくださいな。


明日も講義なんだが……もう寝ます。教授会、起きてられるかなあ。


(*1) 個人的には極めて気が進まない、というかその方が安全だとは思えない。

(*2) あくまで可能性の問題である。クロンシュタットで対峙したのは同じソビエト国民同士だったわけだが、果たして両者に共感が存在したかどうか。

(*3) さらに言うと個人自衛権によって可能になるのは事実としての抵抗であり、合法的な抵抗ではない。交戦権を否認する憲法は、私から捕虜として扱われる権利をも奪う……と書くと最近では組織された民兵も戦時国際法で保護されるというツッコミが来そうだな。しかし私はこの点においてカール・シュミットの強い支持者であって、戦争にius causaを持ち込んで国家から分散させたことが悲劇の始まりだと思うのですよ。

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大屋先生、いつもありがとうございます。「絶対的平和主義をめぐって」@おおやにき個人的にもう少し深めたいのはこの辺りの議論。国家として軍隊を持っている状態は個人の非暴力抵... 続きを読む

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Comment(2)

よこはま さんのコメント (2005年5月25日 11:36):

ここに記すべきコメントかどうか少し自信がないですが、ガンジーの「市民的」不服従の場合、それを評価する側がよく持ち出す話は、国家の暴力行使そのものに対峙する非暴力、という文脈だけではなく、むしろ刑罰に服することなどにおいて植民者たちに、不服従運動が(フェアプレーの精神をはじめとする)植民者にとって基本的な原理にコミットしていることをアピールしたことであるように思います。不服従の場合まず第一に、統治者あるいは権威から、自らが異議申し立てを行う立場ないし資格のある存在として、あるいは共感に値する存在として認知されることが必要であり、その点でイギリスから「帰ってきた」者であるガンジーの非暴力抵抗は(「啓蒙的」、あるいはあまりに「卓越主義的」と批判されることが多くても)有効であったといいうるのではないでしょうか。

もう一つ、井上が「状況依存」的に絶対平和主義が有効でありうるとした動機の一つに、長谷部氏の『憲法と平和を問いなおす』で示した、「戦争」=「地獄」観(141-146頁以下)があると推測されます(法律時報1997年5月号18-19頁に同旨の話があります)。つまり状況認識が「チキンゲーム」的である場合には、戦争という地獄を避けて、侵略者に対して武器を投げ捨てて屈従するのが合理的、ということになる、という話です。(但し首尾一貫非暴力屈従を選択する当事者に対しては、侵略することが合理的になるおそれがあるので、侵略のインセンティヴをコントロールする別の手立てが考えられる必要がある(その道筋を長谷部氏は、個人主義の徹底による徴兵制の禁止、敵前逃亡の許容などに求めている。)
しかし実際に絶対平和主義が実効的な戦略だったことはあまりなかった、あるいは少なくとも現在そのようには考えられていないのは、多くの人々が「戦争=地獄」観をとっているわけではないからなのかどうか(きはむ氏のエントリには戦争=地獄観が見え隠れしているように私は思う)。もう少し考えてみます。

悪の平和主義者 さんのコメント (2005年6月19日 20:21):

 悪になれ、悪になれ平和のために悪になれ!

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