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外耳炎は治りました(挨拶)。さて『論座』6月号で憲法を論じた諸論文が物議を醸しているようでめでたい。我が師匠・井上達夫の論文にbewaadさんが疑問点を指摘しておられ、「再反論をお伺いできれば幸い」とお書きなのだが師匠のTech levelを考えるに本人は読んでないのではないかと推定されるので、及ばずながら代参というか、補足を試みる所存である。本当はこの辺りの論点で対立しているところもあるので良い代弁者であるという自信はないし、内心を忖度する部分が多いのであとから本人に「そんなこと言ってないぞ」と言われる危険性も高いのだが、まあいいか。その程度のつもりでお読みください。

第一点。「押し付け」批判論者が憲法の押し付けは問題にするのに「押し付け農地改革」の正統性を問題にしていないとの井上主張に対し、「憲法だからこそ自らを縛るという手続が重要なのであって、結果がよければそれでよしとすることができる法律以下の下位法令とは同一視できない」と指摘しておられる。そういう立場は成り立つだろうと思うのだが、おそらく井上はそれを取らない。それは、農地改革が対象としていた土地の所有秩序は単なる政策対象ではなく、民主制プロセスのあり方を根本的に規定するような基礎的存在だという判断があると思われるからである。なんかマルクス主義みたいで恐縮だが、井上はかつてから「自己尊厳の基盤としての自己所有」という言い方をしており、財の次元における自立性を保障しない限り民主制プロセスも自己決定権も有効に機能し得ないと主張している。消極的自由の保障は、その自由を行使し得る最低限の財の供給という積極的自由を要求すると指摘している点(*1)も、この解釈を強化するだろう。平等の対象問題においてセン的な潜在能力の平等ではなく、あくまでも(前期ロールズ的な)財の平等を支持する点にも、このような判断がある。

第二点。「押し付け」論以外の改憲論者を対象にできていないというのはその通りであって、まあ紙幅の制限とか話がボケちゃうからとかではなかったかなと推測する。今後の展開が期待される。

第三点。護憲論者の絶対的平和主義批判について、「つ【チベット】」とご指摘である(*2)。ご指摘は正しいが、しかしそれが井上への批判として機能するかは疑問である。つまりこれは絶対的平和主義が政治的実効性を持たなかった実例であるが、一方でそれなりの実効性を持ったケースも挙げることができる(マハトマ・ガンディーや、ベトナム戦争期の平和運動の一部が想定できよう)。従って、絶対的平和主義が機能するためには、抵抗の事実が相手国内で報道され得ること、相手国の政権が国内世論に対してvulnerableである(民主政が機能している)こと、抵抗している人間と相手国の国民のあいだに共感が成立することといった数々の偶有的な条件が必要であるということになろう。であるとすれば、ある時点においてそのような条件が揃っているかどうかは相当に条件依存的であって偶然の問題なので、そのようなことを硬性憲法に書くなという井上の主張はむしろ裏付けられることになろう(*3)。

また、そもそも井上が絶対的平和主義をどのように評価しているか、というのも論点になり得る。つまり本稿で井上は口では絶対的平和主義を唱えつつ現実的な負担を甘受するつもりのない護憲論者の偽善を、本当の絶対的平和主義者を対置することによって批判したわけだが、その含意はおまえらできないだろと挑発するところにある。従って必ずしもそれは絶対的平和主義を支持・尊重するものではない。

この点、まず統治原理としてそれを憲法に規定することについては、文章上の典拠を挙げることはちょっとできないが井上は否定的なのではないかと思う。もちろん(それが政治的実効性を持つかどうかはともかく)絶対的平和主義を実践する個人は現実に少数であれ存在しており、井上もそのことを認めているであろう。他方、憲法において絶対的平和主義を規定することを想定した場合、問題はそれが他者に強制し得るものかどうかという点にある。井上の正義論によれば、法によって他者に強制可能なのは(1)その他者が同意していることを民主制プロセスによって想定可能であるか、(2)正義にかなうものに限られ、かつ(2)が(1)に優先すると考えられる。仮に真正の絶対的平和主義者が運動に成功し、軍備・自衛権を完全に放棄するような憲法改正が成立された場合、しかしそれが全員一致での決定ではなかったとすれば、問題は(2)の基準をパスし得るかという点に移るだろう。ここで井上は、絶対的平和主義は(『共生の作法』第2章でいう)「正のエゴイズム」であり、その道徳的価値は肯定できる(人もいる)が正義原則には適合しないと考えているのではないか。正義原則から肯定されるためにはその論拠が普遍化可能なものに基づかなくてはならないが、「私はいやだ」という固有性に基づく以上の議論を絶対的平和主義は提供できるのか。その一つの試みが非暴力抵抗が政治的に有効たり得るという主張だろうが、それは上述の通り可能性として存在はするが常にそうだとはとても言えないという水準のものである。だとすれば絶対的平和主義を憲法において強制する余地はない、と考えているのではないかと。

だがこれは、統治原理ではなく個人的信条として何を選択するかとは別の問題である。本論文において井上は、平和主義という原理を採択したとしてもその達成のために最適の方法は状況依存的に変わり得るからそれを硬性憲法から外し、政治プロセスにおける決定に委ねるべきだと説いた。ということは、その後にどのような立場が選択されるべきかという点については述べていないということでもある。正当化可能なのは絶対的平和主義と徴兵制だけだという主張を彼はどこかで書いていただろうか。その根拠は生命への危険を生じさせるかを決定する者とその危険を引き受ける者の乖離が生じないから、という点にある。徴兵制をあえて言挙げするのは、それを忌避するものの中にある安全のみを享受してそのために必要となる危険を回避する偽善性を告発するためだが、それ以外の唯一の選択肢としての「全員一致の絶対的平和主義」を憧憬しているところも、どこかにある気がする。「殺すな」という道徳を生命より優先しようとしている(ように思える)この点に、長尾龍一によって「坊ちゃん法哲学」と呼ばれた性質が現われているようにも思われる(もちろんそのことの評価はまた別問題である)。

ちなみにこの議論展開は私と意見の異なる点である。徴兵制を採用したところで、政治プロセスでのstakeholderと現実に戦場に行って銃弾に当たる人間は一般的に別である。そういう危険を人間が回避しようとするかといえば、日露戦争前の世論が示しているように、むしろ現実に戦争の危険を引き受ける破目になる人間の方が積極的であることも珍しくない(これはトクヴィルが『アメリカの民主政治』で指摘した点でもある)。また、社会を維持するために誰かが引き受けなくてはならない危険は何も戦争だけでなく、消火活動や治安維持活動だってそうだが、これらは別に徴兵制のような全員の確率的負担で行なわれるわけでもない。そもそも現代の戦争を前提とする限り、徴兵制はコストが非常に高いわりに非効率であって現実的ではない(このことは前にも書いた)。であるならば我々のすべきことは、我々の必要とする危険を引き受ける存在に対してそのような存在としての正統性を保障し、かつ自発的選択によってそのような存在が供給されるように待遇面や制度面での整備を行なうことである。彼らは「殺されるくらいなら殺す(でもできれば殺したくないな)」という我々の都合のいい欲望の産物であり、我々の一部である。少なくとも私自身は、道徳より私の生命を優先する。軍隊も警察も私の一部の疎外であり、私の外部としての対象ではない。疎外した自らの欲望を憎悪する偽善を告発しようとする点において私は井上達夫を支持しており、しかしその後に我々の立場は分かれる。それは我が師が善人であり、私自身が悪人であることの帰結である。煩悩無数誓願断/法門無尽誓願学。


(*1) 参照、井上達夫「講義の七日間--自由の秩序」井上達夫他(編)『岩波新・哲学講義七 自由・権力・ユートピア』岩波書店1998。

(*2) 「形式を某お弟子さんにお借りして」とあるが、某掲示板などにおいて非常に一般的な表現であって私の独自性などはないことを注記しておきたい。

(*3) つまり井上の議論は部分肯定なので、反例を一つ挙げても否定されない。この点、ある条件を満たす改憲論者を知らないという全面否定を主張した(従って反例一つで反証される)内田氏の議論とは異なるところである。

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大屋氏が、『論座』6月号における井上達夫氏他の憲法論を取り上げたbewaad氏のエントリに「某弟子」として応じている。当該論文は未読であるので、詳しいところはよくわかっていない... 続きを読む

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よこはま さんのコメント (2005年5月22日 18:12):

おおや氏は、「井上は、絶対的平和主義は(『共生の作法』第2章でいう)「正のエゴイズム」であり、その道徳的価値は肯定できる(人もいる)が正義原則には適合しないと考えているのではないか」と述べていますが、『論座』のエッセイに、「絶対平和主義は〔「正義より平和」と言う諦観的平和主義と違って〕、一切の戦争を不正とすることによって正義理念にコミットしている」(21頁)とあるので、つまり絶対平和主義はいわば平和こそ正義であると主張するものであるので、井上において絶対平和主義は正義にかない、他者に強制可能である、ということになると思います。

おおや さんのコメント (2005年5月22日 19:36):

>よこはまさん
同論文が手元にない状態で書いたので読み違えをしている可能性は多分にあるのですが、正義理念にコミットしていること(正義原則への一致を標榜していること)と、実際に正義原則にかなっていることは異なるのでは。『共生の作法』で、人間が他の動物を食べることを「知性の面で優越しているから」と根拠付けするタイプの議論については反転した場合(人間より優れた知性体が現れて「なのでお前を食う」と言い出した場合)にそれが適用されることを受容していない限り類的エゴイズムにとどまる(i.e. 正義にかなわない)と主張していましたから、単に形式上普遍化可能性があるだけではダメで、実質的に正当化される必要があると思われます。
今回想定されていた絶対的平和主義は(つまり異なるタイプのものがあり得ることは押し付け論に基づく改憲論者のケースと同様ですが)、その方が政治的実効性が高い・国民の生命財産をよりよく保障し得るという点に根拠を求めるものですから、それが正当化されない限りは「偽装された(正の)エゴイズム」に留まるのではないかと思います。
……まあご本人にお聞きするのが確実なような気もしますが。

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