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え〜フォロー続きですが。前のエントリに対してshuzhaiさんからご指摘をいただきました。調べ直したところ少しややこしい話が出てきたのでエントリを起こしてフォローします。第一に「日本では婚姻によってが変わるか」という問題(これがややこしい)。第二に文化面では大きな断絶はなかったのではないかという問題。

婚姻によって姓が変わるか

まず文字通りに言うと、少なくとも江戸期までこれは「変わらない」が正解であり、私の記述「日本では婚姻によって姓が変わり」は誤りである。その一方、shuzhai氏のご指摘、およびその引かれる加地伸行先生の記述が正しいかと言うとそうでもないようである。というのは「氏・姓」と「苗字」は本来別のものであるが、この点を加地氏は(そこで引用される熊谷開作氏、さらには明治31年民法も)区別しておられない。加地氏は「苗字(姓)」、あるいは「姓がなかった長い間の習慣から、なかなか苗字を唱えようとしなかった」(ともに『儒教とは何か』p. 3)と書き、両者を同一のものとしているが、両者は本来異なるものであったという話が例えば岡野友彦『源氏と日本国王』に出てくる。それによれば、

(1) 「氏」あるいは「姓」はいわゆる源平藤橘などの「天皇が上から与える形式を取る公的な名前」であり、平安時代以降には「父系制的な血縁原理により継承される」。このため「誰と結婚しようと生涯変わることがない」(*1)。

(2) それに対し「苗字」は「北条」「足利」「徳川」などの「私称する名前」であり、「家という社会組織自体の名であり、決して血族の名前ではない」。従って「結婚するまでは生家の苗字、結婚してからは婚家の苗字を名のる」。

結婚により苗字が変わるが氏が変わらない事例としては熱田大宮司家が挙げられている。すなわち同家は尾張国造の系譜を引く尾張氏であったが、11世紀後半に藤原季兼をいわゆる婿養子に取って子を次代の大宮司に就けた。それが熱田大宮司季範であるが、彼の氏は藤原であり、結果的に熱田大宮司家の氏はここで尾張から藤原に変わってしまう。

女性の場合もこの原則はまず妥当し、婚姻によっても公式の場で名乗る氏は変化しない。いわゆる北条政子(平氏である北条家の娘、源頼朝の妻)も同時代の公式記録では「従二位平政子」である。中世の公的な文書において、女性はこのようにほとんどが実家の姓で表記されており、婚家の苗字で記載される(eg. 相馬尼)のは夫に先立たれた「後家尼」の場合に限られる。岡野氏によればそれは、女性が夫の死後にはじめて家という社会組織の代表者として婚家に組み込まれるという中世社会のあり方を示すものである。

尼が婚家の苗字を名乗るということは加地氏も認めている---「夫の家を相続したときだけは夫の家の姓を称した」(p. 4、ただし姓と苗字を区別していない点に注意)。加地氏はそれを「財産権の問題があったから」と言うが、しかし中国において女性が夫の家を相続するということ、さらにその場合に氏を変えるということがあっただろうか。私の記憶ではそうでなかったはずだが、ご存知なら指摘していただけるとありがたい。

さて、ではしかし何故「北条政子」という呼称が定着したのか。岡野氏によればそれは「氏・姓」を持たない社会階層が下剋上により大規模に進出した15世紀以降に、氏と苗字の混同が起きたからだという。その結果、女性は実家の苗字を名乗るようになった。しかしそれでもなお天皇との関係においては「氏」が用いられるというルールは、明治4年に位記・官記などの公文書に姓でなく苗字を用いることが定められるまで続くのである。

さて話を戻す。というわけで私の「日本では婚姻によって姓が変わり」という部分は、姓を苗字に置き換えても正しくないことになる。しかし同時に、従ってこの問題について中国・韓国と日本に同質性があるというのも誤りだということになろう。というのは、第一にこのように区別される「氏」が中国・朝鮮には存在しないからであり、第二に氏でも苗字でも「同姓不婚」の原則が成立していないからである(繰り返して言うが、私の記憶の限りでモノを言っているので誤解があればご指摘いただきたい)。

第一点。上述の通り「氏」は天皇から下賜されるものであり、従って天皇家は氏・姓を持たない。氏を与えられることは、すなわち臣下になって天皇家から外れることである(賜姓臣籍降下)。一方臣下の側では、天皇の指示によって氏を変えることがあった。有名な例は豊臣秀吉であり、下賜された豊臣姓は備中足守藩木下家に受け継がれたという。これらの事情はいずれも中国にはあてはまらない(と書いたが、皇帝が自らの姓を家臣に与えるケースはあったような気がする。ご存知の方のフォロー希望)。

第二点。例えば藤原師輔の妻は藤原経邦の娘である。念のために言うと師輔は北家、経邦は南家だがいずれも不比等に遡るから別系統とは言えない(*2)。紫式部は藤原為時の娘であり、夫は藤原宣孝である。このへんまで来ると系統はよくわからない。下がって鎌倉時代、北条時頼(時宗の父)の妻・葛西殿は大叔父(祖父の兄弟)重時の娘であり、当然同姓・同苗字である。これらは別に特殊な例ではない。日本において同姓婚のタブーは存在しなかったのではないか。

以上二点を考えれば、私の記述が事実誤認なのはご指摘の通りなのだが、しかし江戸期の日本において「夫婦別姓」だったのは結果の一致であり原因の一致ではないということになろう。加地氏は原因を「儒教国における鉄則」であった同姓不婚の原則に帰しているのであるが、この部分の議論は上述の理由で粗雑と評価せざるを得ない。

文化面で大きな断絶があったか

続いて事実誤認というほどではないと評価いただいた諸点。まず最初に、これらが真であるとしても私の主張に大きなダメージはないという構造を指摘しておきたい。つまり第一に、内田先生のエントリをお読みいただきたいのだが私はそこで展開されていた粗雑な同質論を批判しているのだから、同質な部分があっても異質な部分が相当にあれば目的は達成されるのである(その意味で、前エントリが故意に相違の部分を強調していることは注記しておいた)。第二に、しかも私は儒教の特質を文化の一元性に求めているので、中国と共通する文化がある一方で日本独自の文化があったということになれば、むしろ私の主張が強化されることになる。個別に見ていこう。

(1) 科挙について。唐代の科挙は当初貴族以外のものに任官の機会を与えることを目的としており、また貴族の側でも科挙に応じて平民の領分を犯すのは良くないという考えがあったという(宮崎市定『科挙』)。しかし唐代を通じて科挙出身者の出世する割合が高まったことから(玄宗期の宰相31人のうち進士は11人、次代の高宗期には25人のうち15人)、貴族層もその勢力を生かして科挙合格を目指すようになり、かくして科挙ルートへの一元化が成功したという。一方日本では、まず文章生→方略試ルートのウェイトがついにそのような大きさに達しなかったのだが、しかもこのルートへの参入資格自体が特定の家系(三善・菅原)に限定されていく(と読んだ気がした)。つまり試験自体が貴族制に統合されていくので進化の方向性が逆であり、またその後宋代・明代などに接触の機会があったにも関わらず、科挙制度が再度導入されることはなかった(と言い切ると幕臣に対する学問吟味などもあるので語弊があるが)。

(2) 漢詩の存在についてはご指摘の通りである(ただ中島敦については家庭環境の特殊性に負うところが多いのではあるまいか)。一方、和歌については単に現にある民間歌謡の蒐集にとどまらず貴族・文人・武士その他によって積極的に生産されているし、またそれが勅撰和歌集という形で公認され権威付けられていることも重要である。例えば朝鮮半島と比較した場合、古歌について我々は万葉集四千五百首を持つが半島では僅かに25首が伝承されたのみという。これは独自の文学というものに人々がどのくらいの価値を認めていたかということを示してはいないか。また平安時代以降は漢文でなく日本語による文学が生まれており、当初は「男性は漢詩、女性は和歌」のような序列意識があるものの、土佐日記を嚆矢とする男性の手による国文学も存在してきたわけである。比較すると朝鮮において独自の文字が作られたのは15世紀半ばになってからであり、しかも漢字に対して劣るものと考えられたために活用されていない。ベトナムではチュノムという独自表記が16世紀には成立したが、これは漢字を知らないと読み書きできないものであり、独立性が低い(これにはベトナム語がシナ・チベット語族に属する i.e. 漢字で表記しやすいという事情もあるだろう)。いずれの点からも文化には多元性があり統合されていない、とは言えないか。

(3) このことは知識人による政体の理解や漢学の影響という論点につながってくる。前述したが、私は中国文化の日本に対する影響を否定したいのではない。それがいくつかある有力な文化の一つという相対的な地位にあったと言いたいのである。そのことは上記の点に関するご指摘からも読み取ることができる。つまり、現実の政体を覇者や諸侯のアナロジーで読むのは知識人という限られた層であり、政治に関与する者全体ではない。漢学者が政治に影響を与えるのであって、政治家が必ず漢学者なのではない。明代などに町人文化が栄えたのはその通りであるが、まさに書かれた通り、中国においてはその層が科挙を通じて官人層に収斂してしまう。一方で日本の町人・農民はそのまま町人・農民である。身分制があったからだと言われるかもしれないが、御家人株などは売買の対象だったから武士階級が閉ざされていたわけでもない(現に勝海舟は御家人株を買って幕臣になった高利貸の子孫)。裕福な町人や農民にとって武士階級に入るというのは可能な選択肢の一つであるに過ぎず、絶対的な価値観ではなかった。その点が中国文化と日本の違いなのではないか。

さて、というわけで私としてはshuzhai氏のご指摘が相当に正しいことを認めるが、私の主張は維持できると思う。さらに、氏の言われる通りこれが「ここ百年ほどに育った」ものだとしてもーーもちろん文化とは現在から過去を振り返って存在が措定されるようなものであるが(ホブズボームじゃなくてアンダースンだよな、まったく)ーーやはり現時点において同質性など存在しないのだから内田氏の主張する「儒教圏」が今後に向けて短期間に成立する見込みはないことになろう。

……つうか何書いてんだ俺は。ええと、以上でそろそろ原稿に戻りたいわけであるが、事実のご指摘は歓迎するのでひとつよろしくお願いします。


(*1) 正確に言うと「姓」(カバネ)は「朝臣」「宿禰」など、氏のランクを表す名称だったが、古代においても「蘇我大臣」「藤原朝臣」のように必ず氏とセットで用いられており、また「日下部」「馬飼」などカバネを含まない庶民の呼称とともに「姓」(セイ・ショウ)と呼ばれていたという。従ってここではウジ・カバネを含むものとして「氏・姓」という名称を用いた。

(*2) 中国・朝鮮における同姓不婚の原則は姓が同じ者の婚姻を避けるのだが、出身地などによって規定される系統(中国ではどう言うのか知らないが、韓国の「本貫」である)が異なる場合には婚姻が許される(韓国民法809条1項、1997年違憲無効)。ただし加地氏も指摘している通り、系統が違っても文字の上で同姓である間柄での婚姻にはかなり勇気がいるようである。

と書いてからVampire.S氏のフォローが付いていたことに気付く。ええとまあ氏の言葉だけではわからない人に説明すると上記の通りです。つうことで。

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Vampire.S さんのコメント (2005年5月14日 01:32):

すいません、二度手間でしたか。もう少し早くフォローするべきでした。源氏と日本国王、大変好きな本です。ええ、ご存じの通り私の読み方ですから応用分野はおわかりいただけるかと思いますが(謎)。

Vampire.S さんのコメント (2005年5月14日 02:10):

さて、フォローエントリを拝見したのですが……ええっと、どうでしょう。この辺で戦線を整理するか、戦略を策定し直した方がした方が、フィージブルだと思います。

大屋先生の主張は、『儒教圏」なるものは裏付けなき幻想だ』というもので、それを主張する際に「だってあからさまに文化が違うじゃん」と論証しようとして、個別の(歴史だの文化だのの)知識に振り回されている気がします。何しろ清々しいほど私はこの分野無知なのですが、なんといいますか、例えば延喜式、あるいは御成敗式目下での訴訟記録の保存具合など、行政・司法関連の法文化が大陸・半島諸国と日本を大きく分けている点だ、とまず問題を大陸vs日本の通時的な比較法制の問題に限定してから、改めて議論するのはいかがでしょうか。たぶん、問題なく上の主張が言えると思うのです。単一の律令が改定されずに 1000 年以上公法として通用しちゃったり、あるいはなぜか武家政権が極端に地頭の横暴に対して抑制的な、(書類の上では)大変に公平な裁定を下している、とか。

おおや さんのコメント (2005年5月14日 15:44):

>Vampire.S氏
ども。どうすかね、まあ誰かと戦っているつもりはないのでトリビアリズムに耽溺するのも良し、という気もします。そんなことしてる暇ねえかな。
で、政治権力のあり方や国家法制について言うと日中間で相当に、というかかなり根本的に違うというのは当然とも思うのだが、それを言うと内田先生から卑小なるリアリストと呼ばれねえかなと思って文化論やってみました。
しかしそういう射程で書いても迂闊なところにきっぱりつっこまれるわけで、痛いようと思いつつ勉強になったからいいかなと。そんな感じです。

shuzhai さんのコメント (2005年5月14日 17:05):

ふっかけといてなんですが、文化論は厄介ですよぉ。日本の場合、結構主導的インテリ層の中国幻想と、政治的な実態の間にかなり乖離がありますからね…。

日本の苗字と姓の関係については、小生も正確には考えていなかったので、目から鱗が落ちました。
日本の苗字と姓の関係に似たものといえば、中国でも春秋戦国期まで遡りますと、姓と氏というのが別物だったというのはありますね。姓というのが父系の氏族を示す一方で、氏は居住地や父祖の立場、役職名から名乗るというようなことが行われていたようです。例えば『左伝』閔公元年で魏を領地として与えられた畢萬の一族は、のちに魏氏を名乗っていますし、結構多い公孫という氏は諸侯の子孫が名乗っていますね。ただ、姓が中央の王に授けられかというと微妙なところで、部族の呼称がもとになっているような感じですし、漢代ごろにははやくも氏姓は混同されて、宗族的なものになっていったようではあります。
江戸期の知識人が古代における氏と姓とのアナロジーで、自分たちの苗字と姓の関係を理解していた可能性はあります。が、残念ながらはっきりとは存じあげません。家族制の違いについてはおっしゃる通りでありまして、中国や韓国の宗族制のような方向性とは確かに違います。表現上や言い方の点では真似しようとしていますが。
和歌と歌謡については、ちょっとつっこんでおきますと、この場合、和歌活動そのものを中国の民間歌謡とのアナロジーで捉えていたきらいがあるのですよ。これは紀貫之の『古今集』の序あたりからきてるのではないかと思いますけれども。それはたぶん、中国の思想書などを訓読し、解説した(要は日本語訳した)書物にしばしば「諺解」といったタイトルがつけられるのと同じ価値観だと思われます。少なくともそういう枠組みで、自国の文学や言語をとらえようとした考え方はあったということです。我々から見ると、かなり無理のある中国趣味的な理解に見えますが、当時の知識人たちは、たぶんマジだったでしょう。
実質上の違いは中韓と日本の間で、一線をひけるのかもしれません。が、繰り返しますけれど知識人のパースペクティブにおいては「文化圏」への所属感は、やはり相当にあった。これは実質はどうあれ、もうちょい重視したほうがいいかと思うわけです。少なくとも、断絶よりは紐帯を求める意識があった。まぁ、過去形ですけど。(c.f.大室幹雄『月瀬幻影』くらいしか思い出せないけど、まだあったはず。漢籍国字解全書所収『童子通』――寺小屋のポピュラーな教科書なんかが同時代的な例証になるかな?)

実のところ議論の内容については、さほど異存はありません。前のコメントに書いたように論じる資格もないようなもんですので。ただ、最近の中国論ばやりで、こと近代以前の歴史的、文化的な話がうやむやのままイメージで語られているきらいがあって、どーもひっかかっているので、ちょっとごちゃごちゃと書いてしまった次第です。結構皆さん簡単に「昔からそうだった」みたいな、それこそフーコーさんが大喜びで批判にかかりそうなことをおっしゃるので…。先生のように例証をあげてくだされば、「それはどうだろう」といいようがあるのですが、内田樹さんの場合、しばしば大雑把過ぎて逆につっこみようがない。(^ ^;)こまったもんです。結構目を開かされるようなこともおっしゃっているのですが。この場合、トリビアルな話を単純化する、単純化の仕方というのも大事かもしれません。卑怯くさいですが。

最後にどうして「儒教圏」というような思想があって、一部の人間に説得力を持つのか、想像も含めて書いておきますと、(ここまでくると、自分でサイト立ち上げろって話ですが、すいません)たぶん文学にある程度親しんだ人間にとって、中国文化が緊密な存在だというイメージが(小生も含めて)植え付けられているからだと思われます。つまりかつてのインテリ幻想の影響ですね。それにはすでに書いたように、よく読まれている日本の文学者の表現がしばしば、かつての漢学と中国趣味の残滓(というか人によってはそれそのもの)を持っているからでしょう。漱石、中島敦から広げれば、思いつくだけで森鴎外、幸田露伴、永井荷風、芥川竜之介、石川淳などなど、各時代のそうそうたるビッグネームが漢学的教養を持ち、そっち方面に言及しています。そういうところで、なんとなく親近感を抱いている。内田先生は成島柳北を愛読されるような方なので、そういう傾向はかなり根深くお持ちでしょう。その一方で、そんなもんを読むやつは本人が思うより少数派で、世論形成や社会形成にはまず影響を与えねーというのも事実なわけで、そこんところに過大評価が生じる。この辺の発想が、しばしば政治的な判断より強力なバイアスになっている可能性はありうるかと存じます。
あと、欧米での議論についていえば、もしかすると台湾やアメリカあたりに、まだ儒学者というのがアカデミックな世界で生き残っていて、それなりに発言力を持っているということが影響しているかもしれませんね。これについては小島毅氏『朱子学と陽明学』の「朱子学と陽明学の未来」あたりが参考になるでしょうか。儒教再評価を目指す人たちというのが、結構人民共和国以外の中国系学者さんには結構いまして、アメリカの大学で教えてたりしますから…。(最後にいわゆる「新儒教」を批判する立場で登場する、プリンストン大名誉教授の余英時さんも、この本には書いてありませんが根源的なところでは儒教再評価の人ですし)ちなみにこの本を読むと、儒教そのものが実はじぇんじぇん一枚岩ではないという話がもろに出てきて、いろいろと面白いことになるんですがね。
このへんについては全然裏をとっちゃいませんが参考までに書いておきます。(この際なので近いうちにTaub氏の本は読もうかと思っています)

とりあえず、そんなところであります。長々とすんません。ご清聴ありがとうございました。

Seu さんのコメント (2005年5月15日 00:32):

なんか、あちこちでサンドバック状態になっている内田先生の儒教話ですが、僕はここで行われているような文化的差異の探求よりは、内田先生の「大雑把な」議論のほうに一票を入れたい気分ですね。そもそも、中国の専門家でもなんでもない内田先生には専門家ではなかなか言いにくいような暴論をぶち上げてもらったほうが面白いと思うんですが。

さらに言えば、「悪質な居直り」と思われるかもしれませんが、ここでの文化的差異に関する話は、内田先生の「儒教圏」に関する話とかなり位相がずれているような気がします。

そもそも、「文化」なるものは非常にやっかいな概念で、もし仮に東京と大阪の間に深刻な政治的対立が存在したとすれば、その間に存在する様々なトリビアルな差異が両者の共存不能性を示す絶対的な「文化的差異」として挙げられてくることになるでしょう。旧ユーゴでの紛争などはまさにそんな感じだったのではないかと。

他方、中国や韓国との連帯を重視するのであれば、「儒教」なるものの内容は、大雑把であるほうが有効でしょう。政治的なシンボルの内容は曖昧であるほど、おのおの勝手な意味内容をそこに付与することができ、お互いの差異を認識することが少なくなるからです(実は集団間の慣習の差異かもしれないものが、個人的な性格・思想の差異として解釈される可能性が高くなる、といったところでしょうか)。逆に、シンボルの意味を明確にしようとする試みは、しばしば深刻な対立を生じさせることになります。

従って、たとえ実際には大きな慣習や価値観の開きがあったにしても、つまり「儒教」なるものが一枚岩でも何でもなかったとしても、「儒教」というシンボルによってお互いの共通性をそこに暮らす人々が(たとえ幻想であっても)認識できるならば、そのシンボルは統合にあたって重要な役割を果たすことになるでしょう。同じ「言語」を共有していると信じている人びとの間で、実際にはまったく会話が通じないなんてことはよくあることですし。

内田先生の意図をあえてそう解釈するならば、ここで述べられているような慣習の話は全くもって意味がない、ということになります。学問的な厳密性において「儒教」の中身を問うことは、そういう共同幻想を妨げる行為でしかないからです。むしろ、政治シンボルとして「儒教」の中身を曖昧にしたまま活用すべきだ、ということになるでしょう。

無論、そうなるには「儒教」なる概念が政治家やマスコミによって大きく取り上げられ、人びとに受け入れられることが重要なわけです(可能性は低いと思いますが…)。内田先生はTaub氏の本を日中韓の「共通性」という共同幻想を生み出すための「リソース」として読んでいるのかもしれない、などとも思います。さすがにそれは読み込み過ぎかもしれませんが。

おおや さんのコメント (2005年5月16日 14:29):

>shuzhaiさん
ども。ええ文化論は非常に厄介なので、「内田先生雑すぎ」を証明できたらいいかな、と思っています。つうか私自身は文化実在論を採らないので(それは「過去から存在した」と現在の我々が遡及的に措定するものに過ぎんと思うのですよ)、「日本では」とか書いてて結構疲れたんですが。

知識人の理解では連続性があった、あるいは「あってほしかった」というのは事実でしょうね。今でもあるんじゃないですか。昔はあちらが先進国だったからというのが強いでしょうけど、今はどうなのか。反グローバリズムとか反近代みたいな感情を正当化するための幻影なんじゃないかと思うところもあります。我々の分野だと、まあアジア通貨危機の前ですが「アジア的価値論」てのが流行りまして、やっぱり開発独裁という現状を正当化するために「昔からこう」というのを捏造したような議論でした。文化とはそういうものだ、と思いつつ、しかしだからこそそれは現在の正当性とは無関係だし、整合性が重要なんだよ、あまりおおざっぱではいかんよ、という話ですかね。

>Seuさん
ども。ええと、そういう読みと戦略はアリでしょう。しかして (1)内田先生が現実に何を狙っていたのかということはわかりませんが、憲法問題なんかであれだけ事実に反することを堂々とお書きであることを考えると、事実として成立しないにも関わらず「あえて」言った、というよりは単なるうっかりであるという方に一票、かなあ。もちろんこの推定は私の個人的意見です。

(2) おっしゃることはその通りなので、ではなぜ文化擬制論者である私が「あえて」日本と中国・韓国の文化は異なるという議論を展開したかをお考えいただけると(笑)。

shuzhai さんのコメント (2005年5月17日 20:07):

いえ、単に無知と無知、南海の死闘みたいなことをやられても不毛だな、と時代遅れの考証家の見習いが、習慣的思考に導かれて思っただけのこってす。
ただ、だんだん見ていると、どうやら皆さんはそれをやりたいらしい。じゃあ、わかるところはしっかり議論を展開しつつ、あとは考証家に間抜けに見えない程度に大雑把なイメージ戦略で扇動しあってくださいな、という方向に気分的には傾きつつあります。いくら「それは「過去から存在した」と現在の我々が遡及的に措定するものに過ぎん」という考えをお持ちだからといって、反証がいくらでも出てくることを事実として挙げて、自分の意見を補強されても見苦しいだけですから。自分の都合の悪いところはスルー?結構じゃございませんか。どうせ政論か、天気予報でしょう。ただ、本気では読みませんがね。
内田先生の「儒教圏」という考えも、天気予報系風呂桶話としては筋が通っているし、先生やSeuさんが思っておられるよりは、事実としての力を持っているという印象は持ってますよ。ベトナムや韓国のことは存じませんが、中国で書道好きのタクの運ちゃんと書家について話をして、いろいろ便宜をはかってもらったことや、ウェイトレスのおねーさんと中高で論語だの李白だのを習った話をして昵懇になったことが個人的経験としてございますんで。これは紛れもなく「あってほしかった」の残滓としての文化的リソースですからね。幻想だろうが、なんだろうが、未だに何かが共有されている。ただ、その一方で政治やら経済やら社会やらにおいてそんな紐帯をいかすには困難がある。そりゃあ、そうでしょうよ。それに小生のみるところ少なくとも中国大陸と日本ではそういう文化的リソースを破壊する方向にこの百年は動いてきた。それは当面変わりそうもない。それでも風呂桶話かというと――まぁ、もう、どっちでもいいか。小生はこの分野で卑小なリアリストであってもいささかの痛痒もありませんので。
あとは、神々の争いは運命が決着をつけるそうでございますので、神々でない小生は天を見上げるのみでございます。燕雀で結構。鴻鵠の志なんて知りません。

おおや さんのコメント (2005年5月17日 20:26):

……どうしたのかねえ。

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