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これはいけません。

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温泉禁止令(挨拶)。いやなんか耳が痛痒いなと思っていたら外耳炎だそうで、朝晩二回耳の穴の中に抗菌剤を垂らしてじっとしています。なにせ見えない場所なのでややこしいですな。ところで風呂・シャワー可、海・プール・温泉・サウナ不可ってのは何が基準なんでしょう。不特定多数との接触かな。

さて、内田樹先生が再び憲法について論じておられるのだが、これはいけません。

引用されている文章の方は、同意はしないが筋が通っている。ただ「常に法律を意識しなければならないということは、その法律が適用されている国民にとっては不幸な事態であると俺は思う」と言われるとその法律のことを常に考えている・考えざるを得ない法律家のことは無視ですかそうですかとスネてみたくはなる。まあ、本来は統治権力の正当性の源泉であると同時に統治される存在であるはずの国民一般が、しかし現実問題としてそのことを意識してはいないというのは確かである。しかしだからといって、その現実を正面から正当化することは、統治の実際に携わり法を扱っている法律家・官僚たちを「他者」として疎外し、本当は自らも統治権力の暴力性の一翼を担っているということの忘却につながるのではないか。これは非常に個人的な印象であって根拠など何一つないが、私としては最近評判の悪い裁判員制度の導入に疎外された法律家たちのうめきを聞くような気もするのである。「殺せ、殺せ!」と煽り立てる観衆たちに囲まれた剣闘士の孤独、とも言おうか。

話を戻す。内田氏の主張は、


  1. 「現行憲法についてはほとんど無数の批判が存在するが、「テクスト内部に論理的不整合がある」という批判を私は聞いたことがない」
  2. 「第一条を改訂せよ(そして「天皇制を廃止せよ」あるいは「天皇親政」に戻せ)と主張する「押しつけ憲法論者」に会ったことがない」

という二点に基いている。

第一点。もちろん現実と憲法条文に整合性があることは重要でないと主張する人がなぜ憲法条文内部の整合性を重視するのかという批判もあるが(*1)、それ以前の問題としてこの主張自体が信じられない。というか私は、むしろ「(内容はともかく)日本国憲法は論理的整合性のある良い法文だ」という主張を見たことがない。いわゆる護憲派の人々も「(具体的な条文の出来はともかく)日本国憲法は内容・主張が素晴らしい」と主張しているように思われる。

思う、というだけでは説得力がないので具体例を挙げてみる。憲法41条は「国会は、国権の最高機関であ」ると定める。しかし国会は主権者でも統治権者でもなく(つまり名目的に「最高」の存在ではない)、また解散権と違憲立法審査権によって内閣と最高裁判所の抑制に服している。もちろん国会も両組織を抑制しているわけだが(それが三権分立ということだ)、実質的に三者は同格で並列しているということだからやはり「最高」ではない。結局この「最高機関」という文言は意味不明である(*2)。41条と69条・81条のあいだには論理的不整合があると、正直には言うべきであろう。

また、66条2項は「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない」と定めている。ところで通常「文民」とは現役軍人でない者のことを指す。例えば「戦時における文民の保護に関する1949年8月12日のジュネーヴ条約(第4条約)」第2編の被保護者(=文民)は住民全体からジュネーヴ第1条約と第2条約の被保護者を除いた範囲であるが、両条約が保護するのは(基本的に)「紛争当事国の軍隊の構成員及びその軍隊の一部をなす民兵隊又は義勇隊の構成員」である(第1条約13条1号)。すなわち、過去に軍人であったとしても退役しすでに構成員でなくなっている場合には「文民」に入ることになる。さて、だとすれば66条2項は何を定めた条文なのだろうか。憲法9条2項によって「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」のだから戦後日本に現役軍人は存在しないのであり、だとすれば66条2項はやはり無意味ということになる。ここでも憲法条文は論理的な不整合を犯しているのである(*3)。

さらに言う。あるテキストが雑に書かれたかどうかの目安になるものとしては不整合だけではなく、「書き落とし」つまり書くべき内容が脱落していることや、曖昧で意味の不明瞭な部分も挙げられるだろう。こちらの例は憲法に相当の数があるのだが、いくつかを挙げてみる。

(a) 国会には議院規則制定権(58条2項)、最高裁判所には規則制定権(77条1項)が認められているが、これら規則と国会の制定する法律の優先関係が明らかではない。後者については刑事手続について憲法31条が「法律」で定めることを要求している点との関係も問題になる。

(b) 条約の締結は「事前に、時宜によつては事後に、国会の承認を経ることを必要とする」が、内閣の権限である(73条3号)。だが、その承認が得られなかった場合(議案が否決された場合)に当該条約が有効になるのかが明らかではない。

(c) 衆議院が内閣不信任決議を可決した場合、内閣は衆議院を解散することができる(69条)。しかし、それ以外の場合における解散が許されているかは明らかでない。

前二者については学説上も争いがある。(c)については芦部信喜も「この問題は、そもそも憲法の条文の不備に由来する」と認めているが(『憲法 第2版』岩波書店, p. 46)、天皇の国事行為について定める3条の「内閣の助言と承認」には実質的決定権も含まれているので7条3号「衆議院を解散すること」を内閣の責任において行なえるという理解が通説である(7条説)(*4)。

他にも法人・外国人の人権の有無とその限界、公務員の人権制限の根拠など、書いてあっても良さそうというか書いておくべきなのに書いていないことは多数ある。日本国憲法の条文それ自体が論理的整合性の高いものだなどとは、到底言えないのである。

念のために言うと私自身は憲法学者ではなく、以上に書いたことは憲法の教科書を読んで得た程度の知識である。しかしでは何故、内田氏にはその知識もないのか。それは、はっきり言えば氏が日本国憲法そのものを語る憲法学ではなく、その成果を取り込んだ・一般向けの憲法しか見ていないからだろう。

どういうことか。もちろんあらゆる法律の文言は抽象的な規則であって、具体的な事例に言及しつくすことはできない。予想外の論点や曖昧な部分が必ず発生する。そこで法律家は、一方でこれを「解釈」によって埋めようとする。法全体は整合性を持っているはずであるという前提のもとに、他の法令や過去の判例、あるいは外国法や理論を参考にし、法の意味は確定的であるという外観を作出するのである(解釈論)。その一方、解釈によってはどうにも処理できないとか、あまりに不適切であるという場合には法令自体を変更することによって曖昧さをなくそうとする(立法論)。従って法学は、外部に対しては「法の命ずるところは明確である」と説く一方、内部においては法の意味が不確定であり操作可能であるということと、その操作の技術を説くという二面性を持っている(顕教密教論)。だから、どれだけ不出来な法文であろうが、法律家の外向きの言説だけを見れば「法に整合性がある」ことになるのは当然なのである。

例えば高校で教えられるのはそのような外向きの言説である。だから現代社会の教科書には内閣は衆議院を解散することができると書いてある(たぶん)。しかし憲法学は、実は憲法にはそう書いていないから我々が議論して落ち着けたのだということを教える。だから私は、入学してきた学生に対して、やや挑発コミではあるが「高校までで習ったことは全部ウソだ」と言い放っている。教えられたことを信じるのが高校であり、信じられべき内容を作り出すのが大学である(*5)。内田氏には、普通の憲法学の教科書を一冊読むことを強くお薦めしたい。もったいないから。

第二点。

つ【三島由紀夫】

以上(*6)。


(*1) この点については、整合性の有無は「憲法が雑に作られたかどうか」の基準として有効だと考えているに過ぎないという理解が可能だと思われる。

(*2) 通説はこの点、「国権の最高機関」とは政治的美称である(=意味はない)と解している。もちろん不必要な部分があるというのは完成度の低さを物語る一つの指標だろう。

(*3) この点について政府は従来、「文民」とは「職業軍人の経歴を有し、しかも強い軍国主義思想の持ち主である者以外の者」を指すという解釈によって空文化を防いできた。第一次小泉内閣において元自衛官である中谷元氏が入閣したことから66条2項の解釈が再度問題となったが、内閣は「文民」とは「国の武力組織に職業上の地位を有しない者」を指し、現役自衛官もこれに該当しないという解釈を示した(衆議院議員平岡秀夫君提出憲法第六六条第二項の文民規定に関する質問に対する答弁書)。

(*4) この点については実際に訴訟で争われた(昭和27年8月28日に吉田茂内閣(第3次)が憲法7条を根拠として衆議院を解散したことに対し、違憲無効であるとして地位確認と歳費の支払いを求めた事例、最高裁大法廷昭和35年6月8日判決)。多数違憲は解散の効力は裁判所の審査権の及ばない「直接国家統治の基本に関する高度に政治性のある国家行為」であるとして上告を棄却した。

(*5) 念のために言うと、外部において確定的であるかのように語られる内容を作っているのが専門的な議論だという性質は別に法学特有ではない。三角形の内角の和は180度に決まっていると数学者に言えば苦笑するだろうし、フランス革命の原因はブルジョアジーに政治的権利が認められていなかったからだと歴史家に言えば頭を抱えるだろう。

(*6) いやちゃんと読んでいないので確言できないのだが、三島は憲法の内容はGHQの意向だと考えていたし、天皇を中心とする国家体制の樹立を唱える明確な改憲論者だった。内田氏の挙げる条件には十分合致していると思うが、もちろん氏には「私は三島由紀夫に会ったことがない」と主張する自由がある。

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Comment(3)

truely_false さんのコメント (2005年5月11日 23:42):

内田先生が、どこかしら、この手の問題に、頑なにおなりなのは、おそらく、先生のブログの、4月23日のエントリーに、余計なコメントを入れてしまったこともあるかもしれません。どうしたものでしょうか。(しかし、“明治憲法”は、「すでに存在する憲法」ではないのでしょうか。「天皇」は、そこから引っ張ってきたのだといえると思うのですが。ただ、先生としては、あれは、「憲法史的「模範解答」」と呼べるものではないのでしょう。まあ、まったく間違ってるわけではないのですがw)

おおや さんのコメント (2005年5月13日 00:18):

>truely_falseさん
いやあたしゃ内田先生じゃないんで内心は何とも想像しかねるわけですが、コメント一発で平常心が揺らがれるほど修行のできていない方ではなかろうと思いますよ。たぶん。まあ何か思い入れがおありになるんでしょうから気にしないでいいと思いますが。
コメントの内容については別エントリで。

truely_false さんのコメント (2005年5月13日 10:49):

たしかに、先生は、そんなお方ではないと思います。ただ、翌4月24日に、(直接ではないものの)かなり拙コメントを意識されたと思しきエントリーがなされていたので、少々ビビった次第です。

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