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唯一者と他者
Piled Higher and DeeperというComic Stripを半日読みふけってしまう。え~なにかと言うと略称がPhDと表記されるあたりで想像が付くかと思うのだがアメリカの大学院生(Grad)の話であり、しみじみと哀しい。といいつつ私自身はいまだかつて大学院生であったことがなく、つうかどうせ「博士が100にんいるむら」(via 日曜社会学)にそもそも入れてさえもらえないわけだが。くそう。
先日トラックバックされた きはむ氏がシュティルナーに関心を抱いているようだったので先方のblogに押しかけ、コメントで住吉雅美「交渉するエゴイスト」を薦めるついでに自分の論文を宣伝しておいたところ、本当に読んだ上に反論まで書いてくれてわあい。いや私あの論文はいったい誰が読んでるのか本当に心配でねえ。
ありがちな誤解についてだけ最初に書いておくと、結論として私に同意できない、あくまでもエゴイズムによる正義論を目指すというのは、いいんじゃねえ? というか私が共有したり宣伝したりしたいのは問題であって(それが成功しているかは措く)、結論ではない。むしろ結論に完全に同意されてしまうと議論の相手が減ってしまうわけでつまんない。うっかり説得されたりしないで挑戦しておくれ(と書くと偉そうだな俺。つうかこれで私が「書き方が挑戦的だ」とか怒ったらあちこちから石が飛んでくるに決まってるんだぞ、ずっと人様に喧嘩売ってきた人間なんだから。罪なき者まず石を投げよ。むむむ)。
あと住吉先生の正義論は私が大好きであるところのものなので、そこも誤解しないで欲しい。結論にはほぼ同意しないのだが、しかし同意できないのは私がその議論の帰結とか社会的影響とか実現可能性とかを顧慮してしまう小人物であるからに過ぎず、むしろ理論というのはかくあらねばならんのではないかと思うところもある(こう褒められてご本人が喜ぶかというのも措く)。まあこう書くとエゴイズムは実現可能な正義構想たり得るという反論が予想されるわけだが、それこそ今後証明されるべき事柄であると思うのでがんばってくれい。
まず単純な方から。13頁の記述に関する批判があるが、誤読である(と私は思うという趣旨であり、客観的にこの読みが正しい・多数派のはずだという主張は含意しない)。私の論文の
という部分に関し、きはむ氏は
大屋氏は、「私」と認められる資格要件と「まさにその資格要件」を区別せず同一視しているようであるが、ここで言われている「まさにその資格要件」とは、人間とは何かについて我々がすでに受け入れている一定の前提と読み取るほかなく、もしそうであるならば、人間とは何かについての一定の前提と唯一者として認め「ざるを得ない」際の条件は全く異なるものであるので、引用部の論理は歪められており、その帰結は妥当とは言えない。
と批判しているが、ここで問題にしているのはそのような論法、つまり定義(資格要件)を操作することによって結論を左右するような論理展開である。そして、この段落の直前に「エゴイズムが『私』と認められる資格要件について語ることは原理的に不可能なのである」という文章があること、そもそも前段落が「『私』であると認められるものの資格要件の妥当性はいかにして保証されるのか」という主題を持つことから、前記の私の文章で問われているエゴイズムが語り得ないものとは「私」(唯一者)の資格要件であり、前掲部分の主張はエゴイズムは唯一者の資格要件を語り得ないため、その定義を操作するような言説に対して無力である(唯一者が人間であるかどうかは不知)と解されるべきである。
次に他者の問題。きはむ氏が「得体の知れない外部者としての存在、「異邦人」としての「他者」と、自分以外の唯一者という存在は厳密に区別するべき」と主張しているが、まったく正当である。しかしそれを区別していないのは住吉論文であり、拙論12ページの議論(白河法皇を例とする部分)は住吉=シュティルナーのエゴイズムにはそれらを区別する基準が存在しないという批判である。従ってその議論を持ち出して大屋はそこが区別できていないと判断するのは失当だろう。同様に、「ここで用いられている「対立」という言葉から、自分の意のままにならぬ存在、自己の意志に逆らい続ける部分を我々は自分以外の「この私」(他我)として受容せざるを得ないのだという論理を読み取ることは、おそらく許されるだろう」(大屋p. 12)について きはむ氏は「敢えて言う。その読み取り方は許されない」と言うが、それに続く何故許されないかの説明は、内容的に誤っているという趣旨である。大屋は「住吉はこう言っている」とここで述べているのだから、「そうは読めない」と批判するなら、例えば住吉某所の記述は明らかにそれと異なる論理に立っているとか、シュティルナー某所がその論理と矛盾するとか、そういう根拠を挙げなくてはならない。そしてこれに続いて大屋は「だが、それは間違っている」と主張しているのだから、内容的な検討をしてもそれが大屋に対する批判にはなっていない。実際、きはむ 氏の批判のうち「まず、当然のことであるが」から「概念的議論上では区別が必要である」の部分に対し、私はまったく異論がない(そういう点に無関心なのが住吉の問題だ、というのが拙論の趣旨だから。というか私も「個人的には人間以外の存在を唯一者として認識することは十分有り得ることであると考える」ので、住吉エゴイズムがそれを肯定するのか否定するのか、いずれにせよその論拠が何なのかが問題だと指摘しているわけだ)。きはむ氏は論文を読む際に、どこが誰の言っていることなのかにもう少し注意するべきだというのが(私の文章力を棚の上に挙げたうえでの)私のアドバイスである。
さてそこで問題は氏の言う「異邦人としての『他者』」から「唯一者としての他者」を切り出す・認識する規準は何かという点に移る。ここで きはむ氏は「大屋氏は「この私性」として、一個人からあらゆる属性を一つずつ取り去っていって、最後に残された何かをイメージしているように思われる」という指摘をする。これはその通りである。そして氏はこれに対し、「むしろ多様な属性とアプリオリな固有性を併せて抱え込んだ個人が特定の環境とプロセスの中で育んだ総体こそが「この私性」と呼ばれる決定的個別性である」という説を唱える。これは対案として成立するだろうと考えるが、しかし問題はその「アプリオリな固有性」なるものは何であり、その有無をどのように認識できるのかという点にある。その固有性が(私にとっての「この私」の固有性はともかく)他者の場合には自明ではないからこそ、唯我論が登場するわけだ。つまり問題は他我認識の規範性、ある存在を他者(唯一者としての)と認めなくてはならない根拠は何なのかという点にある(この点、脚注13において問題は事実性ではなく規範性の次元にあると注記しているところである)。
そして私には、きはむ氏が(そしてレヴィナスを引用して論じる住吉が)この問題を、いわば後期ロールズ的な(あるいはローティによるロールズ解釈的な)歴史への退行によって処理しているように思われる。いったい、「「他者」だった存在は「頭のてっぺんから爪先まで唯一者」として現われ「ざるを得ない」」という「ざるを得ない」とは何なのか。誰かの権利への闘争に対して私が「あれは故障であり、修理されるべき誤りである」という態度を取ったとして、それを否定する根拠は何なのか。「ざるを得ない」と言うことで きはむ氏は、違反者(そうしなかった存在)に対してどのようなことが起きると言っているのか。
解決は概ね二つ考えられる。第一に、「私と私の周囲に存在している多くの唯一者はおそらく人間としての属性を自らに認めている」と言うように、それは(必然的ではないという意味で)偶然の産物であるが、そのような偶然なしには一定の秩序が存在し得ないので幸福な偶然であったと言う。そして「そのような偶然がどうも存在しなかったらしい社会の人々に対してはどうするのですか?」という問いに対しては「東は東、西は西」と嘯いて肩をすくめてみせる。第二に、それは闘争によって勝ち取られるべき成果だと定位する。結果として彼が十分に強ければ私は彼を私以外の唯一者として承認することになる。だがもちろん逆の場合も想定し得るのであり、結局いかなる存在が〈この私〉であるかという私秩序は事実の問題だということに(第一の選択肢同様)なる。
結局、エゴイズムは唯一者の資格要件を語り得ないため、その定義を操作するような言説に対して無力であるという冒頭の問題に戻ってくることになる。そのような理論が正義論たり得るか、というのは正義論の定義如何によるところだが、とりあえず「で、エゴイズムによれば堕胎の権利は認められるのかどうなのか」とでも聞いておこうか。
補足を二点。第一に、とはいえ私の議論がシュティルナーや住吉への誤読でないとは言わない。というか(参考文献を見ればわかるように)私は英米系の分析哲学の流れにいる人間であって(と信じている)、その枠組から住吉の議論を見ている。それはレヴィナス的な他者論への態度にも現れていて、ああいう議論で倫理を語るのは別に構わないが、「他者とはこのように現われる存在である」という事実命題から何で規範命題が導出できるのかと思っている。で、他からこう見られるよということを意識するのは有益だと思うのだが、そればかり見ていると自分の系譜での議論が進まないので、あまり気にせんでポジティブな主張の構築をがんばった方がいいと思うということ。
第二に、これどうなのかなあと思うところはあって、つまり君が将来論文を書くとして、ここで私が言ったことをどう扱うのか。まあ以前から研究会とか学会とか口頭で議論することは当然あって、そこでの相手の発言を論文で扱うということもないではない(どこそこでの私的な発言による、とか注記してね)。しかしやはりそれは相手の主張を活字でトレイスできない場合の例外的な措置として位置付けられてきたと思う。で、こういうblogってのはどうなるのかと。まあ私は私だと言って書いてるので引用されても参照されても仕方がないと思うけど、誰なのかはわからんケースも多いわけだ(きはむ氏も私にとってはそうだしな。いやblogってのはそれで良いと思うので責めてるんでも何でもないよ)。そういうtraceablityの低いところで論文のマジな話をしていいもんだろうかと、ちょっと迷うところはある。まあ研究会と(あるいはそのあとの懇親会と)同じと思えば、そうややこしく考えることでもないのかもしれんけど。
結論。がんばれ〜。
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