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縄文時代
うわははは。憲法前文に「縄文の昔から、生けとし生けるもの一木一草に至るまで畏敬の念を抱いてきた」(bewaad.com経由、当代江北日記)ってあんた。徳島新聞によると自民党の憲法起草小委員会による文案にはそういう文面があるそうな。でまあ、当代江北日記のJonah_2氏いわく、「縄文時代から日本的“国民性”があったとする立場と立憲主義というのは非常に食い合わせがまずいと思う」と。ごもっとも。
まあしかしあれだ、立憲主義の祖国(の一つ)であるイングランドでも、あるべき、そして実際にある「法」とは「王国の一般的慣習」であり、またそれが人民の合意したものだと言うていた人はいるわけです。以下、グランヴィル『イングランド王国の法と慣習についての論考』Tractatus de legibus et consuetudinibusregni Anglie qui Glanvilla vocatur、序文からの引用です。1187年頃の著作。
国王は、理性によって導入され長く維持されてきた、王国の法と慣習とによって導かれており、もっと称賛すべきことは、自己の権威に服する者であるとはいえ、知識において王国の法と諸慣習とに最もよく精通し、その性格の沈着さと優れた叡知と雄弁とによって万人に卓越していることを知っている人々の助言によって導かれることをすら斥けようとはされないからである。また、彼らに都合がよいと思われるところに従って、時には厳格に時には寛容に振る舞うことによって、正義を媒介者として判決を下し、争論を解決することを、理性をもって最も迅速に行うことを知っておられるからである。(……)「君主の嘉し給うものが法の効力を有する」のである。その法は、疑問とするところを長官連の助言により、またそれに同意する君主の権威によって評議会において解決することによって、公布されたものであることが知られているのである。
ここで注目すべきなのは、国王を主権者とする主権者命令説、理性に基づく自然法論、裁判官を中心としたエリート支配、そして人民の同意に基礎付ける民主政原理という、通常は対立するものと理解される法の正統化原理が四者とも、予定調和的に一致すると考えられていることですな。そのすべてが「王国の一般的慣習」に由来するのだからそれぞれのあいだに対立や矛盾など生じるはずがないという自明の真理。これですよこれ、時代は予定調和(*)。わはははは。
まあちょっと真面目に言うと、ここにあるのは遡及的な正統化とも言うべき手法であります。つまり表面では「それは慣習であるから」という理由で尊重すべきものだと言われるわけだが、実はその「慣習」とは実際の「昨日の法」ではなく、そのように基礎付けられる現在の決断なわけです(州裁判集会や国王評議会という場が、エリート支配と民主政を結合させる場として機能しているわけ)。しかしそれは今日誰かが作ったものではなく、すでに存在していたものを「発見」したのだ、という形で過去にいわば投げ込むわけです。で、それが現在の我々に対して規範的に働く。そういう「歴史」があったということにしよう、それと現在の我々の行為とのあいだで整合性・純一性integrityが保てるようにしようという提案なわけですな。
つまりその、ホブズボームではないけど伝統などというのは後世に創作され、歴史の内部に遡及して投影されるものなのであって、だいたい「我々はかくのごとき民族です」と自分で宣言している内容が周囲から見ても真実であった例などあまりないわけですよ。縄文の昔から云々というのも我々は自分たちをそのような存在として理解し、そのような規律に従って自ら行為したいと思いますという宣言なんでしょう、たぶん(**)。それが現実にも多様な人々・文化の混合種であり、これからさらに多民族化していくことになるだろう(私自身はそれを積極的に推進する施策に結構反対しているわけですが、まあ事実認識としてはね)日本の「めざすべき自己理解」として妥当かどうか、というのは知りませんがね。
(*) え〜まあ冗談ではなく、この「予定調和」というのは(カルヴァンの予定説を見ても)西欧思想を理解する上での一つの鍵概念だろうとは思っており、今年の学部「法思想史」は自然法論を講じるのでそこでも検討する予定ですが、私自身はまだぼんやり理解しているような気がする、という感じかなあ。
(**) まあ言うたかてね、成文憲法を作ってそれが全国民に規範的に働くという発想自体、現実にその憲法制定時にまだ生まれていなかった人々にとっては同意なき支配に他ならないわけで。それでアメリカの原意主義originalismの人たちは「死者による支配」だと言って批判されたわけですが、そもそも立憲主義と民主政原理自体にも食いあわせの悪いところっつうのはあるわけですよ。予定調和説はこの難点を免れているわけで(だって必然的なんだから他者による支配じゃないよねえ)、やっぱりこれからは予定調和だという話なわけです。レッツ予定調和。
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まあ言うだけ野暮ですが、その予定調和が、一方でコンベンショナルなものこそが理性の法であると主張するコモンロー法理学(コーク)と、他方でコモンローの「理性」なぞせいぜい裁判官の間でしか通用しない「秘伝」でしかないと批判するホッブズとに分かれてしまったのが、不幸(あるいは堕落?)のはじまりというわけですね。
はじめまして。トラックバックありがとうございました。
最後のパラグラフに関してですが、徳島新聞によれば(手元にないので記憶を頼りに書きますが)「我々の先祖は東西南北よりこの島に集まり、統合の象徴として天皇を戴いた」云々という文案も提出されているようです。
もともと混合種だからこそ、ニューカマーも日本人に同化できるはずだ、という構えなんでしょうか。日鮮同祖論みたいなものですが。
>よな さん
ども。あほおな文章でTBしてすいません。おっしゃる通り、なんか日鮮同祖論とか「五族共和」みたいなのを想起させてぞっとしませんな。
まあ所詮「国民」などフィクション(擬制)なわけですし、このままだと天皇家も絶えることですから、いっそ国民統合の象徴として天皇陛下を戴くのだがその天皇は永遠に不在であるてなどうですかね(不謹慎)。不在を知りつつあえてコミットするあたり擬制の極致っぽくていいかなと思ったんですが今のご時世でこんなこというと刺されるかな。
広告批評に引用されている自民党広報資料によると
前文を美しい日本語で書きなおし
1. 国民誰もが自ら誇りにし, 国際社会から尊敬される「品格ある国家」を目指す事を明記.
2. 我が国の歴史, 伝統, 文化等を踏まえた「国柄」についても言及.
3. 環境権や循環型社会の理念も書き込む
など
だそうです
また中曽根氏の私案には
「我ら日本国民はアジアの東, 太平洋の波洗う美しい東アジアの島々に歴代相承け, 天皇を国民統合の象徴として戴き, 独自の文化と固有の民族生活を形成し発展してきた. (後略)」
との文があるようです.
美しき文学青年.....
>小僧さん
ども。いえね、私も今の日本国憲法は文章が良くないので内容はともかく改正したほうがいいという立場なわけですが、そのね、私の言う「きれいな文章」ってえのは
「太平洋の波洗う美しい東アジアの島々に」
つうのではないわけですよ orz。「美しき文学青年」てえ表現はまさに、ですな。
「環境権や循環型社会の理念」ってのは、まあ単なるエクスキューズだという批判もあるでしょうが、何をどう盛り込むかという問題もあるでしょうが、肯定的に捉えたいとは思うのですね。つまり私はそれがいかにフィクションであろうが憲法というのは国民全員が読んでわかるようなものであるべきだという理念は守りたいので、なんでもかんでも「憲法13条が根拠である」という状態はやはり直したい。
こういう合理的・理性的な見直し論と、品格がどうこういうロマンティックな傾向が同居してるあたりに問題は感じますねえ。まあ逆の護憲論もそのあたりは同様なわけで、「憲法を変えれば世界が変わると思ってるあたり結局右も左も憲法フェティシズムじゃねえか」という指摘は正しいような気がしますねえ。
浪漫主義が個人の願望でしかなかったり
自然主義が私を語るだったりするのは日本文學の内だけにして欲しいと思います。
閑話休題
The constitution なんだからもう少し現実を整理して
構成的に議論できないのは改憲派にしろ護憲派にしろ不幸だと
思うことしきり
という物言いは整理したコメントを投稿できない私が
言うセリフではないですね。
Europe in 12 lessons: http://europa.eu.int/abc/12lessons/index_en.htm
(日本語版 「EU を知るための 12 章」 http://jpn.cec.eu.int/data/current/5-3-1.pdf )
の日本版とそれが憲法がどうつながるかを書ける力量を持つ会派はないんでしょうか。
>小僧さん
いやその通りだと思いますが会派すなわち政治家たちだけの問題ではなく学者たちの力量が*** DELETED for the Security Reasons ***