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フォロースルー(3)

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帰国しました。いま成田のホテルからこれを書いています。なぜ成田にいるかというと、ここから明日の昼にアメリカに向けて出発するからです。日本滞在約16時間、モンゴルから目的地(ニューヨーク州)までの時差は11時間です。こわれる。まあどちらも寒い時期なので気温差がないぶん昨年のモンゴル→ベトナム→モンゴルよりは楽でしょうか。はっはっはっはっは、はあ。なおモンゴル滞在についてはあとで補完しますが、本気でメイルの読み書きすらできなかったのでいろんなことが今どうなってるのかさっぱりわかりません。本文の大半はウランバートルのホテルで書いたわけですが「ブラウザ? 何それ?_」環境なので誰がいつどこでどう言ったとか具体的なチェックは一切していないぞえへん。まあその、そのつもりでひとつ。

さて「フォロースルー」という表題は、まあゴルフのボールに当てたあとのスイングとか野球ボールを手から離したあとの振りとか「あとしまつ」的な意味で使っているわけだが、同時にもう最低限のフォローだけしたらあとスルーしちゃうもんねという宣言でもある。というわけで誰が何を言っていてもあんまりもうやる気がないのだが、念のために大きく二点のみ付言しておく。

第一に、mojimoji氏のロールズ批判(やや正確に言うと『正義論』に典型的な原初状態による仮想的社会契約モデルに対する批判)は非常に拙劣なものである。いや私個人は別にロールズのこの議論がそう筋が良いとも思わないのだが(歴史的な価値は別として)、しかしこんな批判を受ける筋合いもないよねえと思うのでここは擁護しておかねばなるまい。

原初状態において人々が一定の社会のルールに合意したとする。ロールズの主張ではそれは「正義の二原理」になるはずであり、その中には格差原理(不平等な取り扱いはもっとも恵まれない人々の待遇を改善する場合には正当化される)が含まれるのでそのもとで最低限の生活基盤を奪われた人々というのが発生するかどうかが疑問になり得るが、格差原理に基づくと回復の見込みのない瀕死のガン患者に対する資源の移転が無制限に正当化されてしまうのではないかというような典型的批判に対して彼自身が正義の二原理は分配の基本構造をめぐる議論であって個別具体的な分配を正当化するためのものではないとしているので、とりあえず不問にしよう。さてmojimoji氏によればそのような人々は、原初状態でいかなる合意を行なっていようがそれを破棄し、自らの生存基盤を確保しようとするだろう、だから原初状態論に意味はないというのである。

だがこれは規範の次元と事実の次元を混同した批判である。なるほど事実としてはmojimoji氏の主張するようなことが起きるであろう。私はそのことを認める。だが重要なのは、ロールズがここで、そのような行為は不正である、正義にかなっていないと主張し得る点にある。つまりロールズは、ここで想定されたように闘争に入る人々も、彼らに生存基盤を保障しようとしない人々も同様に「正義」との一致を主張するのだから結局「正義」に関する主張に意味はないとしてペシミスティックに弱肉強食的な現実を肯定する通俗的な相対主義を批判するために、「正義」「不正義」について客観的に議論し得る基盤が存在するということを原初状態論によって証明しようと試みたのである。事実がどのようであろうとも対話の基盤は存在しており、正義をめぐる議論は有意味であるというのがロールズ正義論の根幹であり、従ってmojimoji氏の「それは現実を無視している」という批判はまったくの的はずれである。

しかもそれは自己破壊的である。ロールズ的な議論の有意味性を否定した場合にどうなるのかを考えてみよう。もちろんmojimoji氏は生存基盤を保障されていない人々の正義の主張を正当なものと考え、それにコミットすべきだと主張する。しかし問題は、例えばイラク戦争期のイラク人たちがおそらくそのような主張を行ない、mojimoji氏がそれに対する共感を感じるであろう一方で、その状態をまさに生じさせているアメリカ人たちも同様に「我々の生存基盤が保障されていないのだ」として自らの正義を主張していたという点にある。すなわち正義に関する「神々の争い」という状況が生じ、そしてそれを批判し得る視点(の一つ)はまさにmojimoji氏自身が壊してしまっている。いったいどうするつもりなのか。

この点、mojimoji氏は正義の順位に関する合意は具体的に形成していけばよいという主張をしており、それがいかに合意形成のコストという問題を無視しているかという点についてはすでにbewaad氏の指摘されるところである。私としてはさらに「あなたはそういう主張をしないでしょう?」というmojimoji氏のレトリックは発言主体の個人的良心を議論にからめて属人的な要素を持ち込んでいるので言説の一般性を保証すべきアカデミズムの議論としては拙劣かつ卑怯なものであると思うわけで、もちろんmojimoji氏にはアカデミズムの枠内で議論しているつもりはないという反論が可能であり、私としてもそういうレトリックがレトリックとして有効であることを認めるわけではあるが、やっぱり「じゃあ大学出てけ」とも思う。またその議論は、実際にアメリカのように「自分たちこそ弱者なのだ」として我々が普通に考える弱者の主張を抑圧するために利用する勢力というのが実在していることを考えれば、話にならないほど愚劣だと評価せざるを得まい。かつて長尾龍一は、ロールズ的な正義の有効性を肯定する井上達夫などの議論について「坊ちゃん嬢ちゃん法哲学」であるという趣旨の批判をしたことがある。その伝でいくとmojimoji氏の議論などは「盆と正月が一度に来た社会理論」とでも呼ぶべきであろうか。いわく、おめでたいことこの上ない。なお何故「盆と正月が一度に来た法哲学」と言わないかというと、こんなもの「法哲学」と呼びたくないという私の個人的コミットメントのなさしめるところであるので読者諸氏は無視してよい。

なお私はもちろん以上で述べたようなロールズ原初状態論の価値を否定する立場である。ここで目指された「客観的な議論可能性の保障」などには何の意味もない。何故なら規範と事実の次元を截然と分離することなどできないし(cf. 「規則とその意味」)、とにかく正義を主張して争うことも、対抗的な正義の主張を行なうことも、他者の正義への訴えを無視することもすべて根元的な自由に含まれていると考えるからである。つまり、mojimoji氏の批判は実はその破壊的な側面において私の立場と一致している。違いはしかし、私がそこで生じ得る「神々の争い」に枠を嵌める(少なくとも各当事者の認識と理解において制約を加え得る)原理として「手続的正義」を一貫して提示している点にある。

つまり私は9・11のごときテロリズムを手続的正義に反する不法の暴力として批判する一方、それに対抗するものとして発動されたアメリカの実力についてもそれが手続的正義を逸脱する場合には批判するのであり、しかもそれらすべてにおいて一貫した形式的中立性を標榜し得るのである。この点、「人間として扱われること」が保障されていない事例として何故mojimoji氏が「グアンタナモ」と言わなかったのか、それが指摘できずに「実質的」なる議論に逃げ込んでしまったあたりにも氏の能力的限界を感じるところである。これは法的な主体として扱われるというdue process of lawの保障がまさに奪われている人々の事例であり、まあ「犯罪」でも「戦争」でもない第三類型としてのテロリズムにおけるdue processがまだ確立していないというアメリカの主張にも三分の理を感じなくはないが、じゃあさっさと確立させろと思う方が大きい。従ってグアンタナモ問題を指摘すれば私もそこでは正義が奪われており抵抗を非難し得ないことを(少なくとも私は非難しないということを)肯定せざるを得なかったわけであるが、その可能性は氏の拙劣な防御によって失われたわけである。

また、mojimoji氏には形式性の持つ力というものに対する認識が欠けているとも批判されるべきであろう。それを示す一例としては一連の展開それ自体を挙げることができる。つまり私は当初「戦犯法廷」の公開性には大きな問題があるという主張をしていたが、mojimoji氏および「当代江北日誌」氏の挙げられた事実に接してこの点の評価を変えるに至った(一定の留保付きであれ)わけである。仮に私の内心に(ブッカー氏に疑われたように)産経新聞的なコミットメントがあったとすればきわめて不本意な態度変更を強いられたことになるが、それを私に強いたものが何であるかと言えば「形式的な中立性を守る」という制約である(なお実際には私は別に産経新聞・週刊新潮的な保守派ではなくてold liberalであるので、この態度変更は「いいこと聞いた」くらいのものであってむしろ感謝している)。個人としてのコミットメントを隠蔽しつつ形式的に中立の議論を組み立てるのが法律家の腕なのだという話はすでに書いたが、しかしそれにも一定の限界があるのであって、形式性の枠内ではどうしても主張し得ないことというものがある。逆に弱者の戦略としては強者が意識的にあるいは無意識的に駆使する形式性の暴力というものを逆手に取り、彼らが客観性を標榜するならばこれを否定し得ないという形で自らの権利主張を行なうというものがあるだろう。現実に成功した権利主張とはおおむねこのようなものであり、「代表なくして課税なし」というアメリカ革命のスローガンにせよ、肌の色が選挙権の得喪に何の関係があるのかという公民権運動の主張にせよ、それは権利の有無はその行使に実質的関連のある要素によって決められるべきだという一般的原理の適用を主張しているのである。逆に、自分が与えられたものであることを前提として奪われたものへの同情とコミットメントを主張するmojimoji氏の議論には、悲惨な失敗に終わったナロードニキ運動と同じ思い上がりを感じもするのである。


第二の問題として、梶ピエール氏の挙げられた「ラディカル・オーラル・ヒストリー」的なものと法システムの関係を取り上げておきたい。まず私は、そのような試みが有用であり必要であること、また法システムにおいても有益なものもしくは時に必要不可欠なものであることを認める。というのは、例えばある犯罪が行なわれたとして(それが外形的に犯罪に当たる行為であることは前提とする)しかしそれが被告人本人の内的論理においてどのような行為であるのか、どのような意味を担っていたのかということを理解することなしに彼の「更正」が有効に為し得るだろうか、というような疑念は確かにあるからである。もちろん私としてはここで、いかに良心的に、また内的論理に寄り添ったものとして行なわれたとしても、それがなお他者による行為理解である以上代弁の暴力性というものが入り込む可能性については指摘しておくべきだと考えるが、しかしなおそのような努力が必要であるということを認めたいと思う。

だが同時にそのことは、そこで発見された「ラディカル・オーラル・ヒストリー」、あるいはその本人にとってある行為がどのようなものとして理解され位置付けられたかという「過去物語り」が、それを根拠として権利義務関係を論ずることはできないものだということを明らかにしている。何故ならそこで見出される「過去物語り」が彼の内的な論理に従って形成されたものである以上他者の内的な論理と整合的である保証はなく、そして法的紛争というのは一般的に、ある行為なり事象なりの理解が複数当事者の間で一致しないために発生するものだからである。

つまり、中立性を否定して当事者にあくまでも寄り添うことにより「過去物語り」を見出したとして、それがその当事者のよりよい人生の理解とか積極性の根源とか、まあつまり「癒し」として機能する場合には、そのことに価値があると言って良い。また、とりあえず一方当事者の主張として、他者に対する適用可能性、あるいは他者に対する強制可能性を標榜せずに主張される限りにおいては、その機能を認めることができる。しかしそれを根拠にしてただちに権利義務関係を論じることは、それらが必然的に他者への影響を含んでいる以上、不可能ないし著しく不公正であると言わなくてはならない。我々は当事者それぞれの「過去物語り」が対立している場合に、それをさまざまな基準――例えば物理法則との一致、物証との一致、当事者以外の人々の「過去物語り」との一致――に照らして評価し、その優劣を論じてそれらを一つの、社会的に構成され公認された過去としての「歴史物語り」に編成しなくてはならないのである。そしてそれこそが法廷においてなされていることであり、すなわち「裁き」とは必然的に個人の「過去物語り」の特権性を否定して中立性・客観性によるチェックにさらすことに他ならない。ある個人の内的問題にとどまる「癒し」の問題と、社会的に共有される権利義務の問題を論じる「裁き」の問題を混同してはならない。野家啓一が指摘した通り、歴史とは「ジャスト・ワン・ウィットネス」の特権性を否定することによって初めて成立するものなのである。なおこの部分に関して参照、「規則とその意味」および野家啓一『物語の哲学』。

従って、いわゆる「従軍慰安婦」の人々が金銭ではなく「裁き」を求めていると主張するならなおのこと、彼女たちの主張の特権性などを認めてはならない。ここでもmojimoji氏の主張は自己矛盾を引き起こしており、そしてそのことに無自覚な点に彼の限界を私は見るものである(私としてはここで、そのように個人の「過去物語り」の特権性を「裁き」の場に持ち込もうとする愚劣な行為の愚劣さを隠蔽しているものが、そこで非難されている一方当事者がすでに死亡しており彼らの「過去物語り」を対抗的に提出できないことだという点にも注意を喚起しておきたい)。少なくとも過去のトラウマなるものに対するスタンスの取り方を自らの主張の補強証拠として引用するなら――単に文脈の違いに無頓着にコピーしているのみであって議論との関連性も明確ではないし、そもそも著作権法の定める適法引用の要件を具備しておらず違法行為とされる可能性が濃厚であるが――アメリカにおいて不適切な精神分析などによる「作られた過去」が社会問題化したことを考慮すべきではないか。その論理を認めた場合の社会的インパクトに盲目であるという特徴は、この場合にも一貫している。

さて私としてはもちろん当初からmojimoji氏に法的な、あるいは法哲学的な議論を行なう専門能力があるとは認識も期待もしていなかったわけではあるが、しかし一応学者と称するからには専門分野に関する能力は十分にあることが認められているのであろうと想定していたところである。しかしながら当該PTSDの取り扱いなどに関するエントリを見る限り、なんぼブログではあっても著作権法の基本的な理解というか、アカデミシャンとしての基本的なマナーについて欠陥があるのではないかという疑問を持たざるを得ない。まあ何が言いたいかというと、誰か周りの人止めたげなさい特に煽った人はねということである。しかし梶ピエール氏は親切であることだなあ(詠嘆)。

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神無月久音 さんのコメント (2005年3月 2日 00:47):

 はじめまして。
一連の流れを楽しくヲチさせて貰っておりました。
これで終了というお話ですので、僭越ながら感想をば。

 一連の流れを見ていて、mojimoji氏の発言から
「どうしてこう正邪の判断を付けたがるのか」と
思っていたのですが、先程、良い表現をしておられる
サイトを見つけたので、ご紹介をば。

isaの知・拉致等ダイアリー(03/09/14以降)
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Soseki/1731/tiratira03.html

<<引用開始>>

この「疑似論理的洗脳術」は、当時、どの左翼でも使っていた。
「三里塚(成田空港反対運動)弾圧を見て見ぬふりをするのは、権力に荷担することだ」
 とか、
「無関心は加害と一緒」
 とか、要は、
「敵でなくても、自分と違えば敵と同じ」
 ということだ。
 とにかく、自分たちが敵だと見なす相手Xに対し、自分と同じアンチXという態度を取らなければすなわちそいつもXと同じだという「疑似論理」である。これがなぜ「論理」ではなく「疑似論理」なのかと言えば、XとアンチXを分ける線引きが全く恣意的なものでしかないからだ。

<<引用終了>>

 こちらの論に従えば、今回のmojimoji氏の発言は、
まさしく「疑似論理」そのもので、
氏が何故に「本質」「実質的」などをよく口に出すかも
納得いく説明がされており、大いに得心しました。

 元「従軍慰安婦」(に限らず虐げられている弱い人)を
救いたいという気持ち自体は否定されるものではありませんが、
それにしたって、この論法では世間の人の共感は得られないのでは?
と思うのです。

 特に、今回のような民衆法廷、及び、従軍慰安婦の件のように、
問題の正当性自体が疑わしい以上、その辺がはっきりするまでは
支持も不支持も決めかねる、という人にとって、
「支持しない人間は正義にもとる。選択を保留するのも同じだ」と
言わんばかりの発言は、相手の反発を招くだけではないでしょうか。
(つか、目の前でこんな事言われたら、普通、ヒキますよ。
大体、こういう「選択の強要」って変なカルト集団とか
悪徳セールスの手段なんだし)

 そこら辺、普通の社会人的な感覚があれば、
大体わかるもんだと思うのですが、そこであえて
強引な手段(発言)をするのはなんでかね、と。
問題自体が知られておらず、認知が先決であるならともかく、
散々問題になってきて、今回も大いにネタになった話を
わざわざ煽るような形で書くのは何故なんでしょうかねー。
メリット(同意)よりもデメリット(反発)の方が
目立つんじゃ意味がない気がするのですが。
(「いや、同意の方が多いはずだ」と言われりゃそれまでですが)

 個人的には、せっかくおおや先生が話に乗ってくれたのだから、
「現状の法制度下で元従軍慰安婦を救済するには
どのような手があるか」について、新たな知見を得られる
チャンスだったかもしれないのに、勿体無い、と思いました。

 結局、すり合う事もなく(”正義”なんか持ち出してきたら
すり合わせなんぞできるわけもないのですが)、
話が終了してしまったのは残念でしたが、
大筋としては、非常に面白い話を読む事ができ、
おおや先生やmojimoji氏、その他の方々に大いに感謝する
次第であります。お疲れ様でした。

おおや@Ithaca さんのコメント (2005年3月 3日 23:33):

>神無月久音さん
ども、ええ、まあ、そういうことでしょうな。個人的には彼がどこまで行ってしまうのかということに興味がなくもないのですが、いい加減多方面から(主に仕事をしろと)怒られているのでこのへんで。

らせせらすい さんのコメント (2005年10月10日 19:28):

従軍慰安婦など半島の妄想である。
国益を害する在日は死ね。さもなくば祖国に帰れ。
売国奴も同様だ。心の祖国に帰ってくれ。迷惑だ。
いい加減東京リンチとWGIPに関連する支那鮮の謀略にはうんざりである。
いい加減貸した金を返せ。
さもなくば(足りないと思うが)在日の資産を没収する。
これぐらいは言ってほしいものである。
右翼といわれようがかまわん。右翼の何が悪い。

おおや さんのコメント (2005年10月11日 00:01):

>らせえらすいさん
いやあなたそんなことあたしに言われても。相手として適当な方は他にいろいろいるんじゃないですかね、知りませんが。
ちなみに私は右翼じゃないですよ。リベラルだし。

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