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法律家という立ち位置

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ハートマン軍曹にあこがれて(挨拶)。ええと私事で申し訳ないのですが(ってこのblogこそ私事じゃねえかと思わなくはない)ちょっと体調が悪化してまして、にもかかわらず明日(ああ、もう今日か)は朝から晩まで修論の口述審査だったり(全教員の出席による審査ってシステムもどうなのか)、週明けまでに2科目採点を終える必要があったりしますので(私学は学年暦が早くてねえ)、しばらく反応できないと思います。累積債務がたくさんあって何なのですが、そういう次第です。はい。

さて「立ち位置の問題」だが、これはやはり説明しておかねばなるまいと思うところ。mojimoji氏は一連の議論における私(おおや)の立ち位置、責任の引き受け方(あるいは無視のしかた)を問題にしておられるわけだが、私としてはそれはここではひとまず関係ないと言いたい。というのは、「法律家」というものは本質的に他者の権利義務関係を扱う存在であり、従って自らの主体的な立場などというものをその際に露出させてはならないからである。

医師の例を挙げる。個々の医師には彼自身のコミットメントがあり目的があり私利私欲があるだろう。新しい手術法を考案したところ目の前の患者が実に適切な症例であり、しかし従来の手術なら90%くらいの確率で救命できるところ新手術の成功率は海のものとも山のものともわからないとする。このとき、「そういうわけで手術したいのですぐしましょうそうしましょう」と言う医師は、良い医師だろうか。おそらくもっとも良いのは、そのような目的が自分にはあり、従って自分の意見にはバイアスが入っているかもしれないが、事実の問題として成功率はこうであるということを告知する医師である。一方最悪は、事実問題を隠蔽し、自分のコミットメントを患者に強制する医師だろう。前者の対応が、事実問題の予測を行なう専門家としてのスタンスと、医師個人としてのスタンスの区分を前提にしていることに注目してほしい。専門家のスタンスは事実によって検証可能な客観的なものであるか、少なくとも各専門家の意見が概ね一致するような間主観的なものである。

専門家professionalに特徴的な性質は、依頼者とのあいだで情報量と情報から意味を汲み取る能力に大きな差があるということである。医師であれ法律家であれ、仕事の結果が良かったか悪かったかはどんな素人にもわかる(患者が治れば成功であり、勝訴判決を勝ち取れば成功である)。一方、実際に選ばれなかった選択肢を事後に検証することは(現実に発生しなかった以上)不可能であるし、専門家の行為と結果との因果関係を検証することは困難である。手術の甲斐なく患者が死亡したとする。医者はしばしば、「手術は成功しており、死亡はそれとは無関係の結果である」あるいは「手術に成功したからこそ死亡をここまで延ばすことができた」と主張するだろう。そしてこの主張の当否を依頼人が検証することはできない。このような非対称性のもとで、専門家は自分個人としてのスタンスと専門家としてのスタンスを混同させ、自らの利害に一致している行動を取ることがあたかも客観的に正しいかのごとく主張することができる。できるからこそ、やってはならない。真に問題のある「専門家権力」とは、このような立ち位置の混同から生まれる。

そこで専門家としては、専門家としての立ち位置、すなわちその分野の専門家であれば一致してそのように言うであろうところのものと、自分自身の立ち位置とを区別して語るべきだということになる。法律家とは、「道路交通法によれば、あなたはここに駐車してはならない。ところで私はそれに反対である」と何ら矛盾なく述べ得るような存在である(参照・井上達夫「規範と法命題」)。「法とは、裁判官がなすであろうことの予測である」というOliver Wendell Holmes, Jr.の言葉は、このようにも理解されなくてはならない。

さてそうなると(実体としての)法律家の発言の中には、(立ち位置としての)法律家としてなされたものと、彼個人の立ち位置においてなされたものとがあることになり、読者としてもその点を区別して読む必要がある(*1)。私としては「法廷と手続的正義」シリーズのほとんどの叙述は専門家としてのスタンスに立っていると考えており、中にはあえて徹底的に形式主義的な立場を取って書いている部分もあるから、そこから おおや 自身のコミットメントが見えないと評価されればしめしめ、とも思う(*2)(*3)。つまりそれは見せていないので見えないのが当然ですということ。

さてでは、専門家としての立ち位置の影にかくれているはずの おおや 自身の立ち位置とはどのようなものか。ないしょ。……とだけ言うと本気で怒られそうなのでちょっとだけ書くが、この問題についてはまず、事実がどのようなものであったかについては保留という態度である。私自身が何かを実際に見たわけではなく、また私の信頼する権威が何らかの事実を認定しているかというと、あまりそうではないからである。しかし事実であったとしたらどうかと問い詰められれば、責任を感じるし引き受けたいと思っている(*4)。だがその理由は、私自身が自らをなんだか「日本人」か「日本文化」だかいうものの一部として位置付けたいので、その長所を担っているということをclaimするためには負の遺産も引き受けねばなるまいよというところにあり、なんかmojimoji氏や「心情左翼」の人が素直に認めていいものかどうか。もちろん読者はここに、帰属すべき故郷を持たない脆弱な人格が抽象的存在としての「文化」や「民族」にアイデンティティの基礎を求めようとする嗤うべき構造を読み取ってよい。いずれにせよ私個人としてはこの問題に対するコミットメントはそう強いものではないので、限りある資源は別のことに向けたいなあとも思っている。付言すると、支援を必要とする人の存在を知りながら見殺しにすると息苦しさを感じるという人は優秀な専門家にはなれないと思う。目の前に10人の重傷者がおり、しかし2名分しか医薬品がなければ、救命できる可能性の乏しい方から8人をいますぐ楽にしてやるのが医師の倫理である。限られた資源の配分という課題に応えるためには、あとでいくら息苦しさを覚えようが罪悪感に苦しもうが、その場でためらってはならない。やはり専門家というものは――よこはま 氏がかつて指摘したことを思い出すが――ある種のアパシーを前提にしているのかもしれない(*5)。

ところで岡真理さんの『記憶/物語』については私自身も短評を書いておりますので、よろしければご参照ください。はい。

(*1) このような性質が一般に理解されているか、理解されていないとして(広くは理解されていないと私自身は思っているが)それが何者の責任か(法学界のアピール不足が大きいと思っている)という問題はさておく。
(*2) 逆に、従ってこのシリーズの内容がすべてそのまま おおや 個人の信念と一致していると思われると、ちょっとそれは違うと言いたいところもある。典型的に形式主義的な法律家の観点からはこういう評価が必ず出てくるのだから、それをどう批判ないし超克するかということを「民衆法廷」を支持する立場にもそれを支持はしないが問題自体は解決されなければならないと考える立場にも課題として受け止めてほしいので、おおや 個人などという小さい敵を狙ってどうするとは言いたい。
(*3) じゃあ正義と自由をめぐる問題なんかはどうなんだ、と聞かれるかもしれないので答えておくと、私自身は基本的に、「法哲学者」という専門家として言えることを言う場合と、その上で私自身のコミットメントを語る場合を区別している。この点については例えば『思想』論文末尾を参照してほしい。ただしこのblogはまあ正直かなり書き殴っているわけで、論文におけるほどその区分が明確ないし意識的にできてはいないだろうな、ということは自認する。
(*4) ただここでいう「責任」は明らかに法的責任ではない。法的には、その時点で生まれていない私になんらの責任が帰属するいわれも思い付かないからである。「日本国」に法的責任があればそれは結局部分的には私の財布に回ってくるわけだが、それは「国」という主体の財布はみんなで支えましょうという財産的負担だけのことで、責任を負っているということではない(と思う)。
(*5) ところで法律家について私が以上のように言うのは実のところなかなか微妙である。つまり私は「法曹」あるいは職業法律家ではないし、実定法学者ですらもない。本当の「法律家」からすれば私は他者であるが、一方そのような法律家を育てる職務には就いているわけだし、また法律の世界にあまり関係していない「ふつうの人」や他分野の研究者からは「法律家」としての役割を期待されてしまったりもする。まあ要するにコウモリであるので、私が「法律家とはかくあるものである」と言ったからといって安易に信用してはならない。そこにある差異あるいは違和感は、例えば実際に法(2005.01.31修正・コメント参照)を作ったり運用したりする立場にあるbewaad氏からの評(「大屋先生ほど「法」というものに愛情は持っていません(笑)」)にも現われているだろう。とはいえ「法曹倫理とは何をするのか」と聞かれて「弁護士魂をたたきこむのだ」とお答えになった某弁護士よりはきっと法律家の立ち位置というものがわかっているに違いないとも自負するわけではあるが(ときに市民、「大屋先生」とは誰のことですか?(にこにこ))。まあつまり「お前の立ち位置はどこだ」と聞かれるとすごく複雑で面倒なのではある。ああこんなことでは「立ち位置系」にはなれまいなあ。

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 法律家という立ち位置@おおやにき  http://www.axis-cafe.net/weblog/t-ohya/000153.html  専門家としての立ち位置の問題って、そんなに簡単に回避できるんですかね? ====  法律家としての立ち位置がある者には、法律家以外の立ち位置が存在しない、と言うなら... 続きを読む

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よこはま さんのコメント (2005年1月28日 09:27):

以前高橋悠治が、彼の音楽が民俗的なものへ「回帰」してしまったことを批判的に捉える人たちと対談した際、煙に巻くような議論で批判の焦点を結ばせず、浅田彰をして「すばしっこい(=逃げ足のよい)どら猫」といわしめたことを想起しました(うろ覚えなので実際このような表現だったか自信がありませんが)。少なくともいわば「メタ立ち位置」においてはおおや氏は高橋氏より一貫性があると私は思うので、このような連想は失礼かとも考えますが、いずれにしても、(皮肉ではなく)逃げ足のよさも、議論において見所であることを思い出させていただきました。面白かったです。

モジモジ さんのコメント (2005年1月28日 10:13):

ほんとにご苦労さまです。ただ、宿題はむしろこちらの方が多く抱えているものですし、お忙しいのは承知してますので。今回のエントリに対しても、共感と、それでもいいたいことと、多分これに関して言及することが何か生産的な何かをもたらしてくれるだろうという感触(少なくとも僕にとって、とまでしかいえないのが申し訳ないところですが)、を感じていますので、いずれ何か書くと思います。また気が向いたらお付き合いくだされば幸いです。

付言すると、以下の部分、僕は認めて構わないですよ。僕の知る範囲の左翼的スタンスの人たちにしても、否定する人はほとんどいないと思います。

>>
だがその理由は、私自身が自らをなんだか「日本人」か「日本文化」だかいうものの一部として位置付けたいので、その長所を担っているということを claimするためには負の遺産も引き受けねばなるまいよというところにあり、なんかmojimoji氏や「心情左翼」の人が素直に認めていいものかどうか。
>>

さつまいものニョッキ さんのコメント (2005年1月29日 06:38):

超ささいな突っ込みですが。
「実際に法律を作ったり運用したりするbewaad氏」については、「実際に『法案』を作ったり(ry」の誤りであると思われます・・・

でないと、法律に伴う正当性は担保されないのではないかと・・・

bewaad さんのコメント (2005年1月29日 07:12):

やくにん的には、もちろん法律は作るものではなくて運用するものですが、そこから下位に降りれば政令以下は作ったりもしています。「法律」は「法律」以外には解しようがないですが、「法」だと微妙で、さらには「法令」というときには明らかに、これらやくにんが作るものも含まれている、ということを念のため。

その意味で、霞が関の住人にとって法律と政令以下には厳然たる差があるのですが、実際に法令を適用される側の立場の人々や、研究者・法曹の方々にとって、これらはどのような差に写っているのか興味はあります。

ブッカー さんのコメント (2005年1月29日 08:22):

法律家として中立だと言われてもねぇ。
おおやさんはつい先日、「保守主義者」を自認してませんでした? 
言っている内容のほうもそっち寄りに見える。
たとえば「病院」の比喩は、田島さんも言うように、恣意的に聞こえる。
紛らわしい名称をつけると利用者が病院と間違えて入ってくるからよくないと言うのであれば、「女性民衆法廷」を一般の「法廷」と間違えて入ってきた人が居たときに問題視すればよいのでは? いったい、それを一般の法廷と取り違えている人なんているのだろうか。 

それから、おもに「従軍慰安婦問題」を扱う議論なのに、病院の比喩とか、抽象的な「自由」「正義」概念をふりかざして原則論へと解消しようとする。フェミニズムが、なぜコンテクスト・センシビリティを口をすっぱくして言うのかが分かる気がする。

「語り口の問題」も、無視できるとは思われない。太字で「あまえんじゃねえ」とか、「顔洗って出直して来い」とか、ほとんど2ちゃんねる並みの傲慢さだ。

ところで、「イヤでも同意せざるを得ない」ようなものが本当に「自由」なのか? それはやはり強制なのだ。しかしその中に自由がある・・・。循環論法に陥っていることが理解されているのだろうか。けっきょく、形式性にア・プリオリの根拠を求めているだけじゃん。

おおや さんのコメント (2005年1月31日 12:58):

>さつまいものニョッキさん、bewaadさん
すいません。「法案や政令・省令類を作ったり、法令を運用したり」と書くべきようなことを意図していたのです。まあその、「金閣寺を作ったのは誰か?」という問題もあって、作ることを命じ、それを金閣寺としてauthorizeしたのは義満だけど「大工さんが作った」というのも間違いではない……とか言うとどこぞのマルクス主義史学みたいなので訂正しておきます。はい。
「法律と政令以下の差」ですが、どうなんでしょうね。私は実定法学者ではないし、「日本よりアメリカの最高裁判例に詳しい」と揶揄される専攻の人間なのでいまいち感覚が。まあでも、どちらにせよ「誰かが決めちゃうもの」ですかねえ。レコード輸入権問題の時に、法改正が通っても対象の指定をどういう規則でやるかで実際の効果はだいぶ違ってくるという指摘を某研究会(主として経済系)でしたら、それなりに新鮮に受け止められたようではありました。してみると他の人はあまりそういうことを言わないのかなあとか。

おおや さんのコメント (2005年1月31日 13:51):

>ブッカーさん
おお、しっかり読んでいただいている(皮肉でも何でもないですよ)。お答えします。

まず「語り口の問題」ですが、まあ傲慢にうつることは否定しない、というか私「傲慢じゃないですよ」とか言ったことがあったっけ。まあいずれにせよ、2ちゃんねると違うのは私がtraceabilityばりばりの状態で発言していることです。モジモジさんも優しいことを言いつつはらわた煮えくりかえってるかも知れんし、パフォーマティブにどうよという指摘はいなば先生からもいただいているわけですが、そういうことは全部私に返ってきて、私が引き受けるわけです。だから気に食わないなら食わないでほたっとけばよろし。何も首根っこ押さえて読まされてるわけじゃないでしょう。

「コンテクスト・センシビリティ」については、その通り。というか、「従軍慰安婦問題」だろうが「貸した金返せ問題」だろうが一般的な権利義務の関係として論じるしかないというのが法という枠組の基本的な性質で、そうすると被害の態様とか事案それぞれの個別性とかは抜け落ちていく。「規則に従う適用」という性質を持つ限りそれは仕方のないことなので、だから私は「アゴラに行け」と言っているわけです。それは法に期待すべき役割ではないですよ、ということ。

「それを一般の法廷と取り違えている人なんているのだろうか」ってのは、とりあえずVAWW-NET Japanは(前述した通り)むしろそれを上回る権威をclaimしている。それがもうこの社会の全員から笑殺されていますよ、というなら私の取り越し苦労であることを認めるにやぶさかではないですが、まあきっとそうではないし、一定の権威ないし正当性を持つものとして扱えるのではないかと言っているモジモジ氏に失礼ですよ。

スタンスの問題。これは3つお答えしておきたい。
(1) 私個人の政治的スタンスは保守主義です(と自分では分類している。liberalだけど)。ここまでのエントリには法律家としてのスタンスで書いている部分と、私個人のスタンスで書いている部分があり、それが(論文におけるほど)きっちりと区分できていないことは認めますので、まあ気をつけて読んでください。
(2) とはいえ、「法律家としてのスタンス」というものはある種必然的に保守的な要素を含んでいる、とは思います。だって「法的安定性」とか「予測可能性」を保護すべき価値として認めるんだから。もちろん(職業としては)法律家でありながら、この法律学の保守性に飽きたらずにコンテクスト・センシビリティを法に持ち込もうとする人もいるわけですが、例えば性暴力事件の特殊性に鑑みセカンドレイプを防止するために刑事訴訟法を改正しましょう、とやるとその瞬間から新しい刑事訴訟法は一般的な規則として適用され、新法が適用されるであろうという人々の期待を保護するように法律学は働く。これが法律学の逃れがたい性質だということを指摘しているのがデリダだと思いますよ。
(3) ところで法律家個々人には各自のコミットメントがあり、しかし法廷(あるいは法律学の世界)においては一般化・抽象化された言説しか通用しないとすれば、有能な法律家とは、自分の(あるいは依頼人の)コミットメントを一般的・抽象的な言説のみを用いて正当化できる人間のことですな(まあだから「良き法律家は悪しき隣人」とか言われるわけですが)。ブッカー氏の言われるように「言っている内容の方もそっち寄り」だが「抽象的な『自由』『正義』概念をふりかざして」いるように見えるとすれば、それは私が法律家として結構有能であるということか、やっぱり衣装の下が透けて見えるあたりまだまだだということか(後者かな、やっぱり)。
なお田島先生の批判については、あとでそちらにも応答しますが、上記の通り「評価」の二つの次元(「結果として好ましいかどうか」と、「正当化可能な行為かどうか」)を混同していると思います(トラックバックされているotiak氏の指摘も同旨)。実はこれは規則準拠に関する「ウッドハウスのジョーク」と同じ問題なので、ご関心がおありなら「規則とその意味」第5章1節2款をご参照ください。

さいご、「循環論法に陥っている」ところ、そう、その通りです。そこはひとつながりのものとして・ひとつのものとして存在しており、だからこそ「形式性」でとりあえず歯止めをかけてみるしかない。というのは、それが循環しない(どこか外部に基礎となるものがある)という議論はすべて失敗するからだ――というのが私が「規則とその意味」で展開した議論なのです。だからこのご指摘はまったく正しいが、ただ私が「イヤでも同意せざるを得ないという印象を作り出せる」と(ちゃんと)書いていることには注意しておいてほしい。つまりそれは言われた対象がそう思うんじゃないかなという事実的影響の問題であって、そう思わなくてはならないという規範的関係ではないのです。ここでも底は抜けており、我々の安んじるべき基礎は存在しない。

モジモジ さんのコメント (2005年1月31日 16:12):

引用「「それを一般の法廷と取り違えている人なんているのだろうか」ってのは、とりあえずVAWW-NET Japanは(前述した通り)むしろそれを上回る権威をclaimしている。それがもうこの社会の全員から笑殺されていますよ、というなら私の取り越し苦労であることを認めるにやぶさかではないですが、まあきっとそうではないし、一定の権威ないし正当性を持つものとして扱えるのではないかと言っているモジモジ氏に失礼ですよ。」

それは意味が違うでしょう。少なくとも、女性国際戦犯法廷が行われている建物やその結果作られた文書を見て、「本物の法廷と間違える」人はいない。女性国際戦犯法廷の主催者達が求める権威は、そこで述べられていることの首尾一貫性と法との適合性です。全然別物。

「それが循環しない(どこか外部に基礎となるものがある)という議論はすべて失敗するからだ」という点には、実は基本的に同意していいと思うんだけど、それを「法の中だけで循環させる必要」があるのかどうかも論点になるでしょう。(というわけで、「規則とその意味」をコピーしてきます。)

モジモジ さんのコメント (2005年1月31日 16:14):

「女性国際戦犯法廷の主催者達が求める権威は、そこで述べられていることの首尾一貫性と法との適合性です」について補足。

もちろん、「実際に」首尾一貫しているかどうか、法に適合しているかどうか、は別問題です。ついでにいえば、適合していない、首尾一貫していないとして、それがどの程度なのか(トリヴィアルな問題なのか、修正不可能な重大な問題なのか)も測られる必要があるとは思います。

おおや さんのコメント (2005年1月31日 17:22):

>モジモジさん
抜き刷り送りましょうか? あれはコピーするとなると結構分量があるので、必要でしたらメイルでご連絡ください。

モジモジ さんのコメント (2005年2月 1日 09:23):

お気遣いありがとう。でも、もうコピーしちゃいました。1.5cmくらいあるかと。>厚み

学内雑務関係が片付いたら、2月中盤くらいから読んでいこうと思います。

ブッカー さんのコメント (2005年2月 6日 15:53):

あら、ちゃんと議論になってる。「2ちゃんねる」は快く撤回させていただきます。

ところが異論は拭えないので、建設的である限りで書き込みしたいです。

まず、内在的な議論のためにも、おおや氏に習って分かりやすい例を挙げてみましょう。

ちょっと前に「平成教育委員会」という番組がありました。ところがホンモノの「教育委員会」からは(たぶん)何の苦情もこなかった。それは、一見権威ありそうなネーミングでも、だれもホンモノの「教育委員会」だとは勘違いしなかったからでしょう。あの番組は独特な意味で「教育」への批判を意図していたと思いますがね。

ところで、「民衆法廷」も同様に、独特な意味で既存法制度への批判を意図したもので、かつ明らかに法的強制力をもたないものだと考えられます。おおや氏は「いささかも権威性を主張するものでないことが明確にされていなければならない」と主張しますが、もし「民衆法廷」が「権威性」をもつとしても、法的強制力とは関係がなく、むしろ専門性ないし学問的権威に類似したものなのではないでしょうか。そうならば、たとえばここでのおおや氏の場合にも、 「いささかも権威性を主張するものでないことが明確にされていなければならない」と批判されうるわけです。

つまり、おおや氏は産経新聞などの政治的主張に法律専門家の立場からお墨付きを与えているように見えるんです。法律家としての立場を堅持するなら、法的に問題となっている事柄に対して中立的に論じるべきです。フーコーが警告するのは、まさにそのことなのではないでしょうか。あるいは、ヴェーバーのように「政治家」としての立場を明確にするなら話は変わってきます。

もうひとつ、理論と実践という観点もあります。「法哲学」は、法に関する思想史的考察をふくむ限りで「哲学」と呼ばれうると思います。ところがおおやさんの考察からは「法律家としての有能さ」が透けて見えてしまって、theoretischではないように見えるのです。歴史的に観照するなら「コンテクスト」が見えてきて然るべきで、それをいっぽうでは形式性へ、他方では個別性へと還元したりするのは間違いだと思われます。この問題には一般性があって、だからこそ現在において取り上げられているのだろうと思います。つまりは、多くの性的奴隷を生み出してまで戦争をおこなった過去があるということです。措定されたものとしての「法律(Gesetz)」を生み出してきた歴史を無視すれば、すべての法的正当性も崩れるでしょう。いいかえれば、「なぜその法律が制定されたか」という歴史的考察があって始めて法は普遍的に妥当すべきであって、歴史を外部へと放擲しておいて、「外部はない」と主張してみてもダメなわけです。

おおや さんのコメント (2005年2月 8日 01:57):

>ブッカーさん
「平成教育委員会」については、その通り、誰も勘違いしないのと、誰の法益を侵害しているわけでもないというのが許容できる要素だと思います(これを守ったうえで批判をすべりこませるというのがウマいところ)。「民衆法廷」の場合、(1)死者であるとしても現実の人格の名誉に影響を与えようとしていますし、(2)「それ自体が本物」というような表現で権威性を標榜しており、さらに(3)なぜか「判決」をハーグで宣告して「ハーグ最終判決」と称してみたり関係者を「著名な」「世界的な」とことあるごとに強調する一方でクマラスワミ報告のstatusについての情報を出していないなどの情報操作(メディア戦略)が目立つこともあり、同一視はできないと思います。最後の点、事実の評価をめぐる問題ですから違う意見があって当然だとは思いますが、私としては「トンデモ科学の人たちとやってることがそっくりだなあ」とは思います。あの人たちも専門家権力を批判しているはずなのですが、真の権威を標榜するのは好きみたいですね。
話を戻して「『権威性』をもつとしても」以下に対してですが、専門性あるいは学問性に基づく権威を標榜するなら今度はacademicな手続に沿っていなくてはいけないわけです。そして私はそのような手続を経て、例えば歴史学の論文という形で意見を世に問うことはまったく問題だと思いません(むしろそれを代替的可能性として提示しています)。しかしこの場合、もちろん口頭証言を用いることは可能ですがそれは他の証言や資料と突きあわせて検証されなくてはならないわけで、今回の「法廷」がその条件を満たしていないことは明白であると考えます。
私がここで書いている内容については、もちろん論文と同水準の保証はできませんが(そして一層口が悪いですが)、基本的に検証に耐えるものにはしてあるつもりです(まあ例えば判例はきちんと年月日挙げてますよね)。その意味で、専門家として求められる中立性の範囲を逸脱はしていないでしょう。一部、mojimoji氏に答えるために「ないしょ」のはずの内幕を見せてしまったところはありますが。その帰結が外見的に産経新聞の主張に似ていることは若干遺憾とするところですが(読んでないし(給湯室にあるのでたまに見る)。レヴィナスの訃報を載せなかった新聞ですからねえ)、しかし他の情報と突き合わせたところ産経報道に問題があるのではという評価もしていましたし、まあ逆のことを言えば朝日新聞などの政治的主張にお墨付きを与えているみたいになってしまうのでは。つまり重要なのは専門家としての論理の一貫性・純一性integrityであって、結果の政治的スタンスではないと思うのですよ。
理論と実践という論点については、ちとよくわからないです。「多くの性的奴隷を生み出してまで戦争をおこなった過去」というのが本当かどうかというのがまず争点になっているのだと思いますが(「金銭の介在しない同意にもとづく性交渉」以外のものすべてを「性暴力」と呼ぶなら(私個人は広過ぎる定義だと思いますが)、確かに戦争は大量の性暴力を必要としてきたわけですが、もともと男どもというのはどこにいてもそのような意味での性暴力を一定程度必要とするのであって(それがけしからんと言われればご説ごもっともですが)、そいつらを集団で連れていく以上は純粋な強姦で解決するか、金銭を介在させた性産業を認めるか、建前上は「自由恋愛」であるという日本のソープランドのような美しい虚構をあくまで維持するか、の三択でしかないというのは冷厳な事実です)、まあそれはともかく、歴史的コンテクストを重視すればしかし「法は法であるGesetz ist Gesetz」という境界線を、もちろんその法がアゴラにおいて問い直される可能性を認めつつ、維持しておくべきだと思うわけです。適正手続due processというのはむしろ強者の横暴を抑えるための原理として機能する局面が多いわけで、それを放擲したあとに逆襲されたらどうするんだと考えるのが、再び「神々の争い」を迎えつつあるのかもしれない新世紀における歴史的視点ではありますまいか。なお法に関する思想史的考察は通常「法思想史」と呼ばれまして、まあ「法哲学」の一部にもよく分類されますが方法論的にはかなり独立であり、そして私の狭義の専門は「法概念論」という歴史的コンテキストをもっとも欠く分野であります。Wittgensteinに思想史的考察がありますかね。なくはないかな。その私が「法思想史」を講じているのは何かの皮肉です、たぶん。

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