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法廷と手続的正義・続々々

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なんかだんだん「パイプのけむり」みたいになってきましたが(挨拶)。とはいえ私としてはほぼ論点は出尽くしたと感じているので、まあ議論に新味が出なければ(予告しておいた帰結主義的正当化の問題を除いて)これで終わり、かな。

さてさて、まずこの点。

僕が質問してるのは、「一般的に認められている適正手続のプロセスの根拠は一般的にはなんですか」という教科書レベルの話ではない。「民衆法廷という強制力を行使しない(そして、後から知ったところによれば「限定的な範囲の判断しかしない」)法廷に対して、正統な法廷と同じレベルの適正手続を要求する根拠は何ですか」という話。そういう話も教科書に載っているというのなら申し訳ありませんが。

ってあなたそりゃあ、基本問題がわかってないのに応用問題は解けんでしょう。とはいえここにはある重要なスタンスの違いが現れている。つまり、私は基本的にまず正統な法廷の理念から出発し、しかし国家法に基づく法廷でないとすれば許容できるのはどこまでかという視点で考えている。一方mojimoji氏は「民衆法廷」の目的に対して必要な適正手続は何か、と考えている。いわば私は引き算であり、mojimoji氏は足し算。

で、私はやはりここで足し算をしてはいけないと思う。VAWW NET Japan声明は、例えば以下のように述べ、「民衆法廷」が真の権威を有すると主張している。

「国家の法廷」のように「国家」に権威の源泉があるのではなく、大国やエリートの道具だった国際法を市民の手に取り戻し、被害者を置き去りにしない正義の実現を目指し、「国家の権威から無縁」であることによって得られる「普遍的正義」を明らかにしようと、民衆法廷の開催を決意した。(……)繰り返すが、女性国際戦犯法廷は民衆法廷であり、模擬法廷ではない。

これについてVAWW NET Japanのモノイイと、実際の「女性国際戦犯法廷」のねらいや性質のあいだにズレがあるのではということをmojimoji氏も感じられたようだが(追記分)、ここのところ私はVAWW NET Japanの主張内容も実際のそれもダメだとは判断している(とはいえどうも実際の「女性国際戦犯法廷」はある程度ちゃんとしていたらしい、ということは認めなくてはならない)。

第一に「プロパガンダとしての民衆法廷」については、上記の通り、「自覚と周囲へ周知するための努力を前提として」というのがまったくなっていない。どころかむしろその逆で、「女性国際戦犯法廷」が慎重に限定したところをすべて隠蔽して伝えている、そここそが彼らの「プロパガンダ」になっていると思う。この点は、まあ誰に批判する資格があるかというmojimoji氏の問題を留保してもいいが、明確に批判されるべき点だろう。

第二に実際の「女性国際戦犯法廷」だが、mojimoji氏の引用する判決文は「少なくとも、被告人に恥を与えることができる。(……)公式の司法的、あるいは法的な手続が不在である中で、歴史的事実を公に広めるのである」と述べている。つまり直接的な強制力ではないが、被告人の社会的評価を低下させるという効果を生じさせることを目的として掲げており、そして社会的評価は一般的に保護されるべき法益である(なお参照、刑法230条、特に同2項)。他者の権利を侵害するのに当人の同意を含む手続的保障が不要だとする感覚は、まあそう言わないとこの「法廷」が成立しないのだが、やはり理解しがたい。

これについては、処罰し得るとしたらどのようなロジックにおいてかを示すものなので、「法廷」の判示内容を読者が各自判断して社会的評価を下げるかどうか決めれば良いという反論があるだろうが、しかしだからこそ「法廷」と名乗ってはいかんというのが私の主張である。というのは法廷の決定には一般的に権威が認められるからであり、そして「権威」とはそのような検討をしなくていいということだからである。

例えば日本の法廷の確定判決は、日本国内において「最終」finalである。それはつまり、その判決の内容は、判決を導いたロジックとか訴訟指揮の事実関係などを考慮することなく、とにかく真実として信頼して行動して良いということを日本国が保証するということだ。このように、「その人が言っている」「そのようなものである」ということだけで、内容を吟味することなく、それを信頼する・できるというのが「権威」の機能である。

だから「女性国際戦犯法廷」がそのような権威をclaimせず、むしろ内容を吟味されることを望むというなら、それは「法廷」と名乗ってはいけない、あるいは「模擬法廷」ときちんと名乗らないといけないのである。そこを逆に真の権威があるかのように言う点がプロパガンダの源泉になるのであり、私からは認められないところなのである。


Amicus Curiaeの扱いについてはmojimoji氏のご説明で理解できたところがある。おそらく「女性国際戦犯法廷」では本来の意味で、つまり手続法的な正当性を第三者として議論するという扱いだったのだろう。その主張内容に私は反対だし、いやそれ日本法じゃないしとは思うが、そうであるとすれば確かにAmicus Curiaeではある。しかしVAWW NET Japan声明は明らかにこの点、Amicus Curiaeが弁護人に代替し得るかのように書いており、ここは彼らの主張に、あるいは意図的な、問題があると考える。

細部。「除斥期間」についてはその議論ではダメだが、乗り越え可能。ダメというのは、戦前だって国家を被告とする訴訟はもちろん想定されていたわけで、だからこそ「国家無答責」法理(国家の権力的作用に対しては損害賠償請求が認められない)があったわけ。しかしこの点については、除斥期間が徒過する原因を作った者に対して適用して良いものかという批判があり、実際に除斥期間の適用を排除する判決が日本の法廷から出ている(まあ問題は、中国の場合でも国交がなく実質的に権利行使が不可能であった時期というのは日中国交回復でとりあえず終了してしまうわけで、そこを起算点にしてもすでに除斥期間が徒過しているケースが多いことだが)。あと、個人請求権が消滅していないという議論は解釈論としては、アリ。ほぼ確実に通らないが。ただし「損害賠償」と「損失補償」は異なるので注意されたい。


この問題に関連して梶ピエール氏に問われた問題について述べておくと、ご指摘の通り「より高次の『正義』の存在をナイーブに仮定する姿勢」をこの問題の背景に感じているし、それに理論的にも帰結主義的にも苛立ちを感じるということである。中国法については私は聞きかじりくらいの知識しかないのだが、挙げられた「東史郎裁判」の孫歌氏の主張には「正義」の実体視と逆転したオリエンタリズムの結合という雰囲気を感じる。やはり逆転したオリエンタリズムだと思うのだが、季衛東氏のように西洋近代の法を脱構築するポストモダンを中国法に見出すというような主張もあって、やっぱりポストモダンってプレモダンに一致しちゃってるだけなんじゃねえかとは思うわけである。

私自身の乏しい発展途上国滞在経験からすると、しかし、「法」についてそれらの国々と例えば日本を分けるものは、法がどのように遵守されているかという点にかかっていると思う。これは「ハノイの速度」で述べたところなのだが、つまりそういう国々で人々に法を遵守させているのはむきだしの権力と直接的な監視である。人々はいま・この状況で法を遵守するのとしないのとでどちらが得策かということを意識的に判断して行動しているのであり、つまり「法」というものに対する信頼、一般的にそれが尊重されるべきものであり、遵守することが社会にとっても自分にとっても有利なのだということへの信頼が存在していないということだ(この点は、宮台真司『権力の予期理論』における「法」の捉え方(信頼に対する信頼というメタ信頼)と同様)。

私の考えでは、この法に対する信頼を基礎付けるものは、「法とはそのようなものである(そのようなものであるとする)」という人々の信頼であり、振る舞いしかない。法廷の決定を、それに自分がどのようなスタンスであろうとも、とりあえずはfinalなものとして尊重する。そのことによって、他の人々も同様に法廷の結論を尊重するであろうと信頼することが可能になる。そして人々に「法廷がそのように尊重されるべきものである」ということを示すのは、少なくとも目で見てわかる手続的保障しかないと思う。外在的な「正義」を想定しないことと、手続的保障に敏感になることのあいだには、このような関係がある。


ところでNHKに「改変前と改変後の両方を放送してくれ」と主張してる人たちがいるそうで、まあ本当はどうだったのかってのをみんなで検証するのはいいことだと思うのだが、合計84分連続で見るってのもツラくないすか。どこが違うのか忘れそうだし。

両バージョン収録したDVDを売るとか(これならゆっくり比較できるからね)、あるいは「追加部分」「削除部分」とか画面スミに表示する両者の融合バージョンを放映するというのはどうか。『TRICK 2』のDVDがたしかこんなだったような。

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kaikaji さんのコメント (2005年1月25日 03:31):

梶ピエールです。私のいかにも素人っぽい問題提起に真面目に反応していただき感謝に堪えません。東史郎裁判およびその後の論争にはずっと大きな引っ掛かりを感じてきたのですが、その引っかかりのかなりの部分は「法と正義」の問題に関係しているということが今回よくわかったので、今後も機会があれば素人ながらに考えていきたいと思います。季衛東さんの文章は何度読んでも結局何が言いたいのかさっぱりわからないという印象がありましたが、おおやさんのコメントを拝見して、そもそもわかりやすい議論をしようという姿勢が初めからないのかも、という気がしてきました。東裁判の時も、本来なら彼のような知識人が何か発言してしかるべきだったとおもうのですが、中国政治・法関係の専門家は見事にこの問題をスルーし続けました。なぜこの業界にはおおやさんのような方がいないのか(以下自主規制)・・長々と失礼しました。今後もよろしくお願いします。

おおや さんのコメント (2005年1月26日 00:32):

>梶ピエールさん
ども。法哲学の利用可能性について、広報活動に余念のない私です。そういう関連性を感じていただけたのは非常に嬉しいところです。季衛東氏などの議論について、例えば中国法プロパーの世界でどのように議論されているかはわからないのですが、法哲学の世界に漏れて来るところで見るとやはり理論的にはちゃんと批判されていると思っています。というか私の印象もそういう方々の努力に依拠しているわけで。ただ、じゃあどうするかというのはまた難しく、単純なモダニズムというのも確かに西欧中心主義ではあるわけです。
逆転したオリエンタリズムというのは、私の師匠の井上達夫が「アジア的価値論」を批判したときの枠組を借用しているのですが、その批判が正しいということはリベラリズムが正しいということを必ずしも意味しない。リベラルな権利保障が経済発展とか自由な政治社会を生み出すことができるかは、まだ示せていないではないかというのが私の疑問であり、数多い私と師匠の対立点の一つです(なお最大の対立の一つは、師匠と私のどちらがうるさいかという点であり、お互いに「相手の方がうるさい」と主張して譲りません)。
ただまあ、東裁判事件のように現実的にヒートアップしている問題に取り組むといろいろ厄介でしょうから、あんまり深入りしたくないんだろうなとは正直。まあ皆さん、私のようにあほおではないということでしょうか。
今後ともよろしくお願いします。

takaya さんのコメント (2005年1月26日 00:51):

NHK「圧力」問題から始まって「民衆法廷」の正統性まで話が広がってますね(挨拶には挨拶)

ところで,社会理論の教科書のように「人を従わせるような作用一般」と権力を定義すると,「民衆法廷」は権力としての(あるいは権力志向の)存在ということになるので,少なくとも国家機関と同じくらいには安全装置が必要ですね

まぁ,ポストモダンなアナーキストの子分その一としては,名のりについておおや氏の主張を肯定し支持しつつも,「法の密猟」の実践だぁ,もっとやれやれ,と「民衆法廷」を応援することも可能かと

…と,通りすがりにボソッ

おおや さんのコメント (2005年1月26日 16:53):

>takaya氏
「密猟」はほら、取り締まらないと定義上「密猟」にならんですよ。ポストモダンなアナーキストの戦略は、実はかえってモダニズムの権威を必要とするのではないかしらん。

田島正樹 さんのコメント (2005年1月26日 17:18):

前略
 大屋氏の議論の進め方に座視できぬ違和感を覚えますので、思ひつく論点をラプソディックに書いてみます。
 かってにに病院と称して営業してはいけないのと同様、民衆が勝手に法廷を開いてはいけない、といはれる。
 病院として信頼できるかどうか見抜くのに困難があるのは、医学の専門性が高いからである。しかし、法廷に関してどれが信頼性が高いかを判断するのは、一般の正義感覚であり、法学者に独占されるものではない。法学者もこの感覚に基づいて判断するのであり、また一般の判断を大むね正当化するやうに理論化する事が求められるのであり、法学がそれを権威付けるわけではない。つまり、医学の権威(その真理性は医学そのものの内部にある)と法廷の権威のあり方(その妥当性は一般の判断に基づく)は違ふ。法学はただ議論の交通整理をするだけ。もし、権威ある法廷とない「法廷」がただ混在するだけであれば、問題はないだらう。人々はただ権威ある法廷に従ふだけであるから、権威ない法廷が開かれてもまったく無害だらう。この問題が大屋氏など権威ある人々の真剣を神経を逆なでしてゐるのは、「権威ある法廷」が実際にはその責任を十分に果たしてゐないと感じ、挑戦を受けてゐると感じてゐるからではないのか?
 しかし権威はどこから来るのであらう?大屋氏は、ここでは、にはか法実証主義者になってになってゐるのであらうか?その権威は、長いスパンで見ればおおむね適切な判断を下してゐるといふところにしかないだらう。実定的裁判所が下した判例であっても、社会の問題を実際解決するものと実証されなければ、権威を失ひ、やがて無視されていくだらう。「従軍慰安婦問題」は国家も裁判所もこれまで解決いえてゐないからこそ、民衆法廷の試みが必要ともなってくるのである。それは戦後処理問題と向き合ふ一つの試みなのだ。試みである以上、もちろん失敗もありうる。
 この際、この試みの可能性や手続き的瑕疵を吟味し、その成功への条件を助言することこそ法学者の役割ではないか?ところが大屋氏は、「法廷の権威というものを信頼しそれに依存した商売をやっているものとして」商売の独占領域を荒らすなといふさもしい批判を繰り出すのである。アゴラで語られる言説は、法とは無関係なのか?アゴラで語られる言説は、プロパガンダしかないのか?アレオパゴダの丘で下された最初の判決は民衆法廷ではなかったのか?
 民衆法廷の試みは、けっして人民裁判とかプロパガンダに終はってはならないが、そのためにも大屋氏のやうな専門家の助言が有効でありうるのに、大屋氏の議論は教師が正義を教えてやるといふ不遜なものになってしまってゐるのは、見苦しい。

 以上、用件まで            草々

いなば さんのコメント (2005年1月26日 17:54):

逆に下手な保護よりも取り締まりこそがポストモダンなアナキズムの質を高め繁栄させるといえるか? 
これだけでは単なるシバキ主義だな。

わーいタジマ先生だ。お久しぶりです。

こう さんのコメント (2005年1月27日 17:06):

すみません。初学者が僭越的にも疑問をもっているので、たじまさんでも、おおやさんでも良いので、お聞かせください。

医者の免許制度が行われている社会では、病院で信頼できるかどうかは、まずは、病院の医者に免許があるかどうか、次に、自分の病気を適切に判断し、処置してくれるかどうかだと思うのですが・・・

医者の免許制度が無い社会では、確かに、病院として信頼できるかどうかは医学の専門性が高いか、どうかに帰着すると思います。。。

「「権威ある法廷」が実際にはその責任を十分に果たしてゐないと感じ、挑戦を受けてゐると感じてゐるからではないのか」
聴きたいのですが、たしか、この民衆法廷は、確か、「国家のエリートから法廷を取り戻し云々」と言うことをいっていて、「自己が正当な法廷であって、国家の法廷は法廷ではない」と宣言していたような気がしたのですが???
この部分は、たじまさんの議論の前提と、民衆法廷の人の議論の前提がまったく異なるような気がするのですが?

「権威はどこから来るのであらう?」
僕は民事訴訟法のときは、「手続き保障と自己責任」刑事訴訟法のときは、「人権保障と自己責任と、真実発見」と習ったのですが・・・つまりは、判決の正当性から、権威はくるのではないでしょうか??
決して、社会問題を適切に解決するから判決に正当性があるとは教えられては居ないのですが・・・

「従軍慰安婦問題」は国家も裁判所もこれまで解決いえてゐないからこそ、民衆法廷の試みが必要ともなってくるのである。それは戦後処理問題と向き合ふ一つの試みなのだ。

法律的な話でないのが、申し訳ないのですが、
日本はいつまで戦後処理をしつづけなくてはならないのでしょうか?
自己責任・全体責任等、責任を負うという法律的な議論を聞いていると、よくよく思うのですが、戦後30年以上して生まれた人間にも戦後処理は責任として負わなければいけないのでしょうか?
個人責任・団体責任、故意責任・過失責任など、さまざま責任概念を学んでまいりましたが、それらのどこにも、「自分の所属する国家の責任はいつまでも負いつづけなければならない」という説明書きは聴いたことが無いので。

別に、議論をどうこうするつもりは無いのですが、戦後責任と言われて、税金から賠償を負わなければならないのでしたら、すでに、税金を払っている戦後世代の人に、分かりやすく説明してもらいたいです。
「いつまで日本は責任を負わなくてはいけないのか?」
これが見えてこないうちには、戦争責任を果たす気には、ある意味では、ならないので。(自分の子供の世代に果たせとは、僕は強制する気はないので)

もしそれが、道義的な責任なんであれば、それは仕方が無いかと思いますが、「法的な責任がある」と民衆法廷の方は述べてますので、教えていただきたいのですが。

田島正樹 さんのコメント (2005年2月 2日 01:36):

前略
 行きがかり上、この場をお借りして、出された疑問にお答へします。(この場を提供された大屋氏に感謝!)

1)「日本はいつまで戦後処理をし続けなくてはならないのか?」
 我々の政治的意志と無関係に、戦争責任があるとかないとかが「客観的」に決まってゐるものではない。我々がアジアにおいて何者であり、また何者であらうと意志するか、つまりはどのやなヴィジョンと戦略で我々の意志と権力をアジアや世界に及ぼしてゆくのかといふ展望の下で、はじめて我々の過去に対する責任と切断が具体的な形で問題となるのだ。
 戦争責任や戦後処理問題は存在しないといふ主張にも、理由はいくらでも見つけられるだらう。しかしさうすることで、我々は自己自身を政治的に一定の存在として定義することになるのであって、自覚しようと否とにかかはらず、ずるずると過去の亡霊を引きずり、将来の我々自身の政治的選択肢を狭隘化してしまふのである。
 我々がもし我々の憲法的価値(アメリカ革命に始まる自由と人権の伝統)を引き受け、それをアジア諸国に及ぼし、その下でアジアの広域的安全保障を創出するイニシアティヴを発揮しようとするならば、そのために果たさねばならない決断が、我々の過去との決済である。
 我々がアジアにおいて何であるか──この問題をネグレクトしてきたことは、戦後冷戦状況と旧日本帝国の権力エリートの責任追及をあいまいにしたGHQの方針によって、外的偶然から規定されてゐた。冷戦が偶然わが国にもたらした経済的恩恵は大きかったが、同時にそれは我々の政治的構想力の衰退といふ犠牲を伴ってゐたこと、しかも冷戦終結以後このコストがますます無視し得ないものになってゐることにかんがみるとき、アジアにおける政治的主体性の確立が、歴史に対する決済と不可分であることを理解せねばならない。それは、過去の罪や負ひ目にどこまでも呪縛されることであるどころか、それと決別して新たな権力意志を立ち上げることである。それは国益に反して仕方なく果たされるべき道徳的義務ではなく、極東での我々の権益拡大のための必須の条件である。

2)「権威はどこから来るのか?」について、
アレオパゴス(アレオパゴダは誤記)への言及の含意を説明することで答へたい。
 アレオパゴスはアテナイの旧い実定的裁判制度の一つであるが、アイスキュロスの悲劇オレステス三部作は、この制度の縁起を述べることで終結する。つまり、アトレウス家の血讐の連鎖といふ無政府状態(部分的自然状態の回帰)に終止符を打つ解決を、オレステスを裁くアテナイの民衆法廷が成し遂げた事が、この旧い法制度の起源である事が示されるのである。
 このエピソードの法哲学的含蓄は、それが法実証主義の「根本規範」や社会契約説のアポリアを解決してくれる点にある。もし、社会契約が自然状態で結ばれるものだとすれば、その契約が規範的妥当性を持つのは何故か? 自然状態では敵を出し抜くためのあらゆる策略が許されるはずだから、この契約をもマヌーヴァーの一つと見なしてならぬ理由はないだらう。丁度、約束といふ制度を可能にする為に、約束は守るといふ約束をするやうなものである。
 また、法実証主義が、法の権威をより上位の規範からの授権によると見てどこまでも遡るとき、「根本規範」の存在をめぐって、カントの(第四)アンチノミーのやうな問題に突き当たるだらう。「根本規範」といふ無制約者が存在するとしても、存在しないとしても不合理なのである。
 これらの諸点は、大屋氏には先刻ご承知のことであらうが、にもかかはらず啓蒙的教科書のやうに「国家の強制力も社会契約といふ本人の同意によって形成されたものだ」などと、のうのうと書かれてゐる。また、大屋氏の根元的規約主義の立場からは、「解釈論」と「立法論」の峻別も厳密にはできないはずである。ここでも大屋氏は、(大衆向けの)顕教と(エリート向けの)密教の二枚舌を使ひわけてをられるのである。私がもっとも遺憾に思ふのはこの点である。
 ちなみに、アレオパゴスの法廷は、アテナといふ神的存在から授権された権威を持つと考へるわけにはいかない。ホメロスの読者なら誰しも気づくやうに、ギリシアの神々は戦場で英雄たちに影のやうに寄り添ふ神であり、決して権威の源泉として呼び求められる存在ではないのである。
 戦場が膠着状況の時、突然に戦局がどちらかに傾く事がある。両軍とも全力を傾けて闘ってゐて戦力も拮抗してゐたはずなのに、戦局が傾くときは急激で突発的である。このとき、ギリシア人は神の助力を見る。手にした成果が、投入された人力を超えたものと感じられるためである。それゆゑ、全身全霊で闘ふ者のみが、神的なものに触れる事ができるといへよう。さうでなければ、勝敗は高々能力の問題としか感じられないだらう。
 一般に、海の泡からアフロディテが生まれたやうに、無秩序の海の中に意味が発生するときには、かかる原因と結果の非対称性が現はれる。ギリシア人が時の運(テュケー)を見るのはここである。女神アテナとは、アテナイの民衆法廷が奇跡的に達成した法創造の栄光に対して、ギリシア人が与へた名前に過ぎない。

3)今般問題となってゐるのは、権力自体の機能不全・戦後処理をめぐっての問題解決能力の欠如・ならびにそれに伴ふ権力の権威の崩壊に、いかに対抗し、補填するのかといふことである。
 それは、権力の空白を放置すれば、そこを必ず恣意的なマフィア的暴力が横領してきて、自然状態の荒廃を回帰させてしまふからである。この空白(法の203高地)をめぐってマフィア的暴力と革命的(法創造的)左翼が、常に陣地争ひをしてゐるのだといふことを自覚せねばならない。
 法の普遍的支配に信頼を寄せるリベラル社民勢力が、歴史の中で常にマフィア的暴力に敗北してきたこと(ドイツ革命、チリ革命など)には理由があるのだ。彼らの世界観が、暗黙のうちに質の悪い唯物論的包括理論に依存してきた点も問題だが、ここでは省略する。いづれにせよ、いまや社会の隅々で展開されつつある陣地戦は、革命的左翼と匿名的暴力との闘争である。それは、実定的法秩序がいたるところでばかばかしいまでにインポテンツを露呈した自然な結果である。
 ここで私が「左翼」と呼ぶのは、当面の政治状況が左右の敵対性に引き裂かれていることをすすんで承認するやうなメタ的パースペクティヴのことである。それは、政治的公共性や政治共同体(国家とか民族など)へのコミットメント(パトリオティズム)を否定するものではない。むしろこの視座からは、既存の制度の中に広がる空洞化・無政府状況に抗して、公共性を奪取し更新することによってのみ、それを保守し救済する事ができると考へられるのである。したがって、公共性の解釈をめぐってすでに敵対性が存在し、公共性を既存の中立的制度と見なすことは、すでに右翼的なのである。(パリサイびとの目から見れば、「よきサマリアびと」とパリサイびとの立場に差異はないが、イエスの目から見れば、そこにこそ決定的な対立があるやうなもの)

よこはま さんのコメント (2005年2月 2日 07:07):

おおや氏の応答を待つべきですが、抗しきれないので一言感想のみ記させてください。田島さんの議論に対し、単に1や3の状況認識の枠組みの相違や法の権威概念(法の権威の根拠ではなく)の適否を争うことは(実際には非常に重要だが)本質的ではない、と私は思います。一番の核心(で私が一番面白かったの)は、3の権力の空白において、いわば公共性を僭称しそれに寄生して恣意的な暴力を行使しようとする者たち(「マフィア的暴力」)と、彼らから公共性を奪取するため、既に実際には無力である実定的法秩序に閉じこもるのではなく、公共性が(少なくとも潜在的には)常に革命的法創造に開かれていることを承認し、法の生成の根源的な偶有性を受け入れていくべきと考える者(「左翼」)との闘争があるのだ、という権力観です。その上でいうと、既存の法体系のポテンシャルを活かす形で社会改革を行う可能性に期待して、法の権威すなわち遵法責務の存在を認め、また同じ期待から市民的不服従をも根拠付けうると考える私の観点から見て、このような状況で、時に実定的法秩序の「廃墟」に立てこもって(外装に過ぎないとしても)その実効性の外装を最後の最後まではがされないように頑張ることも、闘争の一つの形態と理解できるし、少なくとも戦略的には有効でありうる、と思います。

こう さんのコメント (2005年2月 3日 02:45):

なるほど。田島先生・大屋先生、ありがとうございました。非常に、勉強になりました。

本当に、ためになります。

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