前の記事: 法廷と手続的正義・続 << | >> 次の記事: 法廷と手続的正義・続々々

法廷と手続的正義・続々

| | コメント(7) | トラックバック(3)

流れ速いなあ。仕事したいんだが……というのがまあ、こういう問題を「まともな法学者」が扱わない理由でしょう。手間がかかるわりに「業績」にはならない。その意味で、前エントリへのコメントで指摘された「エセ科学」問題と同様であるわけです。まあ「戦犯法廷」がエセかどうかというのは今回の論点なので保留しますが、しかし架空請求詐欺のような歴然たる「エセ法律行為」もある以上「一般市民のための法学教育」のような試みは、科学の場合と同様、必要になってくるわけです(すでにプロジェクトとしてやってる人たちもいます)。そういった努力を学会の中でどう評価していくかというのが、やはりキーでしょうね。さて。

取材問題

これについて、mojimoji氏の参照している「当代江北日記」が参考になった。事実関係が正しいとすれば(これは私自身で確認しているわけではないからこう書くので、誤りがあるのではないかという示唆をいささかも含むものではない)、満席なので一般傍聴者としては入れないことと、傍聴者に対して「誓約書」への署名を要求していることは、正当な範囲であると思う。

前者について、会場の物理的制約がある以上、先着順で申し込みを受け付けるという対応は合理的である。実際の法廷の場合は一定時刻で申し込みを締め切って抽選にするわけだが、それと先着順でそれほど差はないし、抽選制が混乱を生む可能性を考えれば十分正当である。傍聴申込書を入手したのが12月6日であるという点に関し、例えば11月12日に送付の申し込みをしたのに返送が差別的に遅らされたというような事情があれば話はまた別であるが、このような記載は記事自体にもないし、「単に桑原さんの記者としてのプロ意識が圧倒的に不足していただけ」(=一般傍聴者としての申し込みが遅かった)という「当代江北日記」の推測も十分成り立ち得ると思う。

後者について、「誓約書」の内容は『正論』記事によれば以下の通りであるという。

「私は『女性国際戦犯法廷』の趣旨に賛同し、傍聴を希望します。傍聴に際しては、主催者の許可なく写真撮影、ビデオ録画、録音をしません。また、『女性国際戦犯法廷』を妨害したり、出席者や傍聴者の権利を侵害する行為をしないことを約束します」

この「趣旨に賛同し」というところ、また「権利を侵害する行為」の指す「権利」とは何かという点が論点としてあるが、文言通りに読めば正当な内容だろう。実際の法廷でも撮影はできないわけだし、他者の傍聴する権利を侵害してはならないというのは(根本的に自由ベースである私の立場からも)正当な要求である。もちろん「趣旨」が「まあこういう試みをやってみましょう」というにとどまらず「特定の結論を出すことについて賛同する」とか、「権利」に「証言者の主張が(法廷内で一般傍聴者から、というにとどまらず)それ以降においても批判されたり客観的に検討されたりしない権利」が含まれるのであれば問題だが、それは上記文言から読み取れるものではない。安倍氏の「公正中立に」という要求について私は文言上は正当であるから、具体的な文脈において圧力を感じさせ、かつその感じさせるということが一般人の観点から妥当でない限り正当性が推定されると主張しているのであるから、同様にこの件に関しても文言を超える制約が実際に存在したことが立証されない限り正当であると言うことになる。

一方、産経新聞を名乗ったあとの対応については疑問が残る。川田マリ子氏報告によると(同様にこれが正しいことは仮定する)、(1) プレス席が2階に80席存在した、(2) 「あらかじめ許可を受けたメディア」は会場1階で取材を行なった、(3) それ以外のメディアは「2階のせまい場所で殺気だった取材合戦」をした*、ことになる。問題は(2)で出てくる許可を受けたメディアとは何か、関連して(3)で「取材合戦」をしたメディアは何かという点にある。

* 「許可を受けたメディア」が1階と2階双方にいた可能性もあるが、便宜上分けて考える。まあ同一人物が両方に同時にいることはできないしね。

(a) 「許可を受けたメディア」とは「合計で143社305人」のことである可能性。たぶん違う。そうであれば取材合戦は1階で起きるのではないか。しかしこの場合、「305人」以外に2階のプレス席で取材を行なえたメディアがいたということになるから、「席はない」という返答は(もしその返答が事実存在したなら、だが)虚偽の可能性が高くなる。

(b) 「許可を受けたメディア」は「合計で143社305人」の一部であった可能性。一部のプレスを優遇したことになるわけだが、これについてうるさく言う気はない。というか305人が1階でうろついたら激しく邪魔で議事進行ができなくなるだろうから、私でも制限は考える(どういう基準で選ぶかはともかく)。この場合、2階のプレス席で「取材合戦」したのは、その許可を受けていないメディア(305人−α)ということになる。

しかしこの場合、αは十分に小さくないといけない。というのはこの数が非常に大きければ制限した意味がないわけだし、225に迫る(つまり305−αが80に近い)ような場合にはプレス席が「狭い場所」ではなくなるだろう。「取材合戦」と呼ばれるような事態も起きないのではないか。とすると、αはせいぜい10人とか20人とかで、その他大勢が80席につめかけたというのが真相に近いのではないか。

もしこの推測が正しければ、だが、「席はない」という発言は虚偽の可能性が強まる。というのはそもそも物理的には80のプレス席にそれを超過する人数の取材者をつめこんでいるのだから、「定員超過」という概念がないはずだからだ。繰り返すが、もちろんこれは『正論』桑原氏の書いたことが事実である場合に限られる。しかしそれを仮定し、かつ(b)が正解だったとするならば、そのような虚偽の背景に差別待遇を想定するのはもっとも自然な仮説だということになりはしないか。

もちろんプレスの登録期間は一般傍聴者とは別にあり、それが『正論』記者の連絡した12月6日には終わっていたという可能性はある。この場合しかし、一般傍聴者とは申し込み方法が異なるのでプレス用のご案内が別途各プレス向けに配布されたと考えられる(まあ普通のイベントはそういうことをする)。となると『正論』の桑原氏の連絡が12月6日になった理由は、(1) プレス用の案内をもらっていたが12月6日まで放置していた、(2) 産経新聞社に送付された案内が社内で放置されていた、(3) 産経新聞社には案内が送付されなかった、の3通りくらい考えられる(もちろんこれらの複合という可能性もある)。(3)だとすれば取材制限はあったことになり、(1)(2)だとすればそうではない。現在見た情報だけではこれ以上しぼり込むことはできないので、ご存知の方がいればご教示いただきたい。

余談だが「名乗り」の問題について言うと、取材を受けたことはないのであくまで「名乗るときの一般論」としてだが、両方言うのがもちろん一番正しいだろう。eg. 「産経新聞社『正論』編集部の○○です」のように。で、ここで法人としての正式名称を使う必要は基本的になく、世間一般に通用している略称で構わない。「国立大学法人名古屋大学の……」とか言わんだろう、という話。となると、産経の正式名称は「株式会社産業経済新聞社」だが、これは「産経新聞」でいいかなとは思う。

で、社名と所属のどちらか片方を名乗る場合にどうするかというと、一般的には社名かなというのが私の感覚。「名古屋大学の○○です」とは言うが、「法学研究科の○○」ですとは、学内を除けば、言わない。まあそりゃ「法学研究科」というのは世間にたくさんあるからという話なのだが、とにかく相手から見たときにわかりやすいかどうかが重要なので、「産経新聞の○○ですが」と名乗ったとすればそれは『正論』ではどこの誰が出している雑誌かわかんねえと思ったのであろう、きっと(笑)。まあ確かにいきなり「『ラピタ』編集部の○○ですが」とか言われたら「どちらさま?」とか聞き返したくなるだろうしな。ちなみに私の愛読している小学館の雑誌ですが。

この件については当該記事が発言を省略なく正確に記載したものではないので(実際には「産経新聞社『正論』編集部の○○です」と名乗ったのかもしれない)あんまりそこに噛み付いてもなという気がするのだが、それ以前の問題としてコミュニケーションなんだから気になったら「どちらの部署ですか?」とか聞き返せばいい話だろうとも思う。新聞屋さんの勧誘だって「産経新聞ですが〜」とか名乗るんだからさ、と。いやウチに産経の人は来ませんが、名古屋じゃ夕刊出てないし

ちなみにウチには引越した翌日から中日新聞が(頼んでないのに)配達されてました。デフォルトらしい。

強制力との結合問題

この点について私の言いたいことは、告発なりアイロニーであるというなら、そういうものであっていささかも権威性を主張するものではないということが明確にされていなければならないし、その理解が社会的に共有されなくてはならないということに、ほぼ尽きる。私はMonty Pythonの法廷ネタとか大好きなのだが、あれがいいのはネタだということが明確だからである。その上でその中に本当の批判を含むからアイロニーとして機能し得るわけ。で、mojimoji氏は「『法廷が開かれていないということ自体を問う』という問題意識を、擬似的な法廷という体裁で表現する」という話をしており、そういうものであればまた別の話とも思うのだが、現実の「民衆法廷」はそういう限定をさっぱりしていないとは指摘しておく必要があるだろう。つまり今回問題になっている「民衆法廷」と、mojimoji氏の擁護したい民衆法廷には(私が問題にしている「民衆法廷」とmojimoji氏の主張のあいだに、でもいいが)乖離があるのではないか。

その上で言うと、「それゆえに公平性[を]欠いている部分については、女性国際戦犯法廷の主催者に帰責できず、責任は日本政府にこそある。」(明確な脱字を補足しました)というのが理解できない。先行する合意がない以上、日本国政府にはそのようなものに付き合わなくてはならないいわれはない。また、「今は彼らを法廷に出席させることができて防御を尽くしてもらった」ということは、起きない。被告人が全員(かな?)死んでいるということにも示されている通り正統な法廷を開始する要件を著しく欠いているので、政権を取ったくらいではダメで、日本国憲法から何から全部変えて、さらに国際法を取り替えて、くらいしないといけない。じゃあそうすれば良いかというと、実際に(作業量が多くて)できないと言うよりも、それをやったらそこらじゅうでえらい問題が起きるからできないのである。これが歴史の重みということ。選択されてきた制度には選択された理由がある。

もちろん「いまこうなので未来永劫変えません」なんてことを言うつもりはない(私は保守主義者ではあるが守旧派ではない)。変える理由が十分にあれば変えるべきである。でその「十分に」というのは、最低でもデメリットよりメリットが多いこと。それを示さずに批判だけをするのなら、前にも似たようなことを書いたが、2500年分議論を積み重ねてからおいで、ということになる。ん〜まあ国際法関係だから300年くらいにマケてあげてもいいけど。

で、「その要件を欠くことで一体何がどのように問題なのかを具体的に示そうとはしていない点が僕は不満」などと述べておられることに対しては、端的に甘えんじゃねえと言っておく。なんで私が法的主体性のイロハも知らないようなシロウトにそこまでサービスしないといかんのか。簡単には憲法の教科書でも通読すればわかる話だから自分で読めということだし、真剣にやるなら論文を一冊分くらい書く必要があってこんなとこでできる話ではない。まあでも、帰結主義的議論については書くと言ったのでちゃんとするが、事実調べがいるのでちょっと待ってほしい。

正義と自由

これについて言うと、自由に基礎となる物質的条件が必要であり、それを保障することは「自由の条件」であるから同意を必要としないということには、ほぼ賛成しても良い。ただまあ、「人間存在の基礎に関わる条件」を保障するというときの「人間」の範囲はどうやって決めたのかね。これは2003年の法理学研究会報告で扱った問題で、まだ論文にしていないので恐縮なのだが、結局それは「同意」に基礎付けるしかないというのが私の考えである。なお「規則とその意味」および「エゴイズムにおける『私』の問題」も参照。

同様に、「同意だけに基づくルールというのは、単に人びとが持っている初期条件を反映したものにしかならず、そしてルールが初期条件を次の段階での初期条件を形作るから、初期条件の格差は広がっていく一方になる」というのも基本的にその通りであるが、問題はその「初期条件の格差」をどうやったら認定できるかという点にある。例えば「基本財」のように個人の持つ諸条件を抽象化すればその多寡を論じることができるが、その抽象化の尺度は誰がどう決めるかというと、やはり「同意」に基礎付けるしかない。結局「同意」を逃れることはできないのである。

じゃあ「弱者」には何ができるのか、と言うと、これは予告の先取りになるが、「実体への合意」を「形式への合意」にすり変えることである。黒人に対して「なんか違うし」といって差別する白人に対し、「あなたがたの共通点として、こういう肉体構造を持っていて染色体がかくかくであるというものがあります。こういう特徴を持つものは『人間』ですね? ところであの黒人たちもそうなのですが」と説得することだ。それでも「いや俺は形式の問題ではなくヤツらが嫌なのだ」という人間は必ず残るだろう。しかし「形式的にはその通りなので、イヤなのだが、それに同意する」という人間も現われるだろう。形式主義の利点は、イヤでも同意せざるを得ないという印象を作り出せることにある。

もちろんこれで勝てるか、と言うとわからない。日本が文明国の一員と認められるのに20年かかり、たとえばアメリカで正式に差別されなくなるまでに80年かかり、今でも実際には差別が残っているかもしれない。そんな気の長い話と言われるかもしれないが、直接実体を変更するための闘争を挑めば、定義上弱者なのであるから、潰されるだけである。「正義の刃」が空から降ってくるのならいいが、現実にそうではない以上、権利への闘争には強者を抱き込む(中に入りこむ・分裂させて取り込む・外から実力を引っぱりこむetc.)ことなしには勝ちようがない。そのための手段として法における形式主義は有効だと、そういう話。

なお「イラクやアフガニスタンの件」、誤解させる書き方になっていたら申し訳ないが、「法的には」正当だということである。その法自体が不当であり拒否権を認めないように法を変更するべきだという議論は、現存する法の外側では十分に正当であり得る。この現存法を前提としてどうかという議論を「解釈論」、現存法自体をどうすべきかという議論を「立法論」と言い、通常「法的には」というモノイイは解釈論を指す。両者を区別するのはやはり法学のイロハであり、私が「アゴラに出て行け」と言ったのも、そこでなら好きにやりゃあいい(私は支持しないが)ということである。

解釈論と立法論の区別が含意しているのは、法廷において正義は「法」の形でしか現前しないということである。それは正義の間接的な処理法であるが、「法」が一般性を持つ規則であるが故に必然的にそのたびごとの具体的な正義と乖離するというのは、デリダ『法の力』の主張であった。デリダの立場は外在する「正義」を(反証主義的な理念としてであれ)想定するので私の主張とは異なるが、しかしそのデリダにおいても、具体的な正義のそのたびごとの実現もやはり「法」ではないとされていたことには注意しなくてはならない。だから私は、たとえその「正義」に同意できたとしてもそのような企てを「法」の名において認めることはできない。そういうことである。


あと念のために言うといわゆる「従軍慰安婦問題」は、通常の意味では、「法の不在」ではない。「従軍慰安婦」の方々の証言が事実であることを仮定すると(裁判で認定された事実ではなく、また疑わしいものも多くあるという主張もあるが、虚偽だとするとこれ以降の話は不要になるのでとりあえず措く)、確かに被害に対する救済は不在である。しかしそれは救済を与える法が存在しないのではなく、救済を与えることを否定する法が存在するからである(時効、除斥期間、個人補償請求権の日韓基本条約等による消滅)。もちろんこの点を争う議論は法的に可能だが(eg. 除斥期間は著しく正義に反する場合には適用されない)、それは「法が不在である」という主張ではない。「法の不在」のことを通常は「法の欠缺」と呼ぶ。その存在を想定しない立場もあるが、あるとしてもそれは普通、立法時に想定されていない事態が発生したような場合のことを指すものである。

この問題に関し、「救済の不在」「正義にかなう法の不在」は主張してよろしい。ただしこれらはいずれも立法論に属し、その解決は法の外側において(すなわち法廷の外側において)為されるべきことである。そうではなく、上述した「正義にかなう法の不在」のことを「法の不在」と呼びたいというならそれは用語法の問題だから自由ではあるが、私は正義と法を区別していませんし、できませんというのをどこかに書いておいてほしい。

Trackback(3)

このブログ記事を参照しているブログ一覧: 法廷と手続的正義・続々

» [nation] おおや氏「法廷と手続的正義・続々」に答える(モジモジ君の日記。みたいな。)~のトラックバック

 気が早いですが、25日のエントリを使います。  「法廷と手続的正義・続々」  http://www.axis-cafe.net/weblog/t-ohya/000150.html  「取材問題」については、やはり排除があった可能性の指摘まで含めて付け加えることはありません。「正義と自由」については、女... 続きを読む

» [justice] 法の外に正義を構想する(モジモジ君の日記。みたいな。)~のトラックバック

 稲葉先生(あえて)には悪いなぁと思いつつ。  法廷と手続的正義・続々@おおやにき  http://www.axis-cafe.net/weblog/t-ohya/000150.html で答え残したところ。「正義と自由」と題されたの一節について。 ==== >> これについて言うと、自由に基礎となる... 続きを読む

» [justice] 漸近する守旧派と保守主義(モジモジ君の日記。みたいな。)~のトラックバック

 出勤してみたら、雪で電車が遅れたせいで試験が1時間繰り下げになりました。時間空いたので、続きを書いてみました。  法廷と手続的正義・続々@おおやにき  http://www.axis-cafe.net/weblog/t-ohya/000150.html  この中でおおやさんが次のように述べて、保守主義... 続きを読む

Comment(7)

いなば さんのコメント (2005年1月24日 11:20):

まああれだ、がんばってください。勉強になります。
だがやはりプロの奉仕活動ばっかりに任せていてもだめなので私なぞはそこで「筋金入りの素人」ちゅかジャーナリズムの出番だと思うのだがしかしこの国は(いやどこの国も以下略)

t.ikawa さんのコメント (2005年1月24日 13:02):

この場合の「法廷」は「科学」よりは定義しやすいので、エセ科学(疑似科学)問題に比べ、エセ法廷(擬似法廷)を認定しやすいように思います。

もっとも、mojimoji氏の議論は、民衆法廷が法廷か否かについて、曖昧(融通無碍)であると思えます。具体的には、擬似法廷であると自覚している議論と、そうでない議論が混在しているように見えます。(リストを作りましたが長いので省略)

おそらく、現在の彼の議論は「民衆法廷は厳密には法廷じゃないけど、大体の要件を満たすので、『民衆』をつければ法廷を名乗れる。『民衆』をつければ法廷との誤認混同も生じない」というものだと思われます。(直近のエントリでは「法廷を名乗るくらいの形式は整っている」とあり、よくわかりませんが)

この議論の前半は、なぜ要件を満たさないのに「民衆」をつければ法廷を名乗れるかわからないし、後半は、なぜ「民衆」をつければ誤認混同を防げるのかわかりません。また、「法廷」とつけたいのであれば、誤認混同を避けうる「擬似」「代用」「模擬(モック)」等ではなく、敢えて「民衆」という用語を使う点も説明できません。

別に法廷に限らず、マーガリンは似てるけどバターじゃないし、(法律や社会の認知や当事者間の合意がなければ)「民衆バター」とは名乗れないし、「民衆バター」では誤認混同が生じると思うのですが。

この「法廷か否か」の融通無碍さが彼の議論を曖昧にしている(ついでですが、これにより、民衆法廷が「法廷の正義を追求しているのか、法廷以外の正義を追求しているのか」に関する彼の議論も曖昧になっている)と思われるため、この点は再度指摘する余地があるように思います。

こう さんのコメント (2005年1月24日 22:46):

初めまして。勉強になります。

やや、「法廷」論争に走りがちなので、少し、聞きたいというか、説明していただきたいのですが、よろしいでしょうか??

おおやさんの言われているように、社会契約に基づく正当性ということを考えるとき、
特定の団体の特定の内部意思・内部決定が、なぜ、特定団体の外部の人間に、正当性を主張できるか??と言うのが根本的な問題なんですよね??

法廷や法と言うものは、「正当性」と言う価値観に裏付けられているからこそ、強制力を持つし、また、その場を利用する者、又は適用される者も、納得(主観的にではなく、客観的意図として)するわけですよね。

翻って考えると、特定の団体内部の意思や決定事項というものは、そもそも団体内部でしか通用しない、言い換えれば、外部の人にとっては関係の無い、正当性の無いものですよね。外部の人とは社会契約があるわけではないので、そういうことになると思うのですが。

結局、さっき書いてた通りの、問題に行き着くと思うのですが??どうでしょうか??

別に、僕は政治学や右・左の人の意見を全部知っているわけでもないし、社会学をやっているわけでもなく、単に法律を学んでいるに過ぎないのですが。

もし、法廷と呼ばれる要件や、法律(あるいは法)と呼ばれる要件というものが、具体的にも・抽象的にもあるとした場合、もし要件さえそろえば、「正当性」・「強制力」が付与される、と言う話と、特定団体内部における内部的意思決定が「法律(又は法)」・「法廷」として正当かという問題が、実際のところごっちゃになってません???

コレを思ったのは、もじもじ氏の日記の
「呼んだけど来なかった」に尽きる。そりゃ来るわけがないの分かってて呼んだんでしょ?と僕も思うが、おおや氏が問題にしているレベルの形式性に限って言うなら、このアリバイだけで十分な反論になっている。
という部分なんですが。

この部分は、明らかに、特定内部の内部的意思決定(この場合では、森総理大臣を弁護士として呼ぶ)が、正当性を持つがゆえに、その団体とは無関係な外部である、首相が来なかったことが、「呼んだけど来なかった」という部分に十分に反論としての価値があると言っているわけですよね??

と言うことは、おおやさんのいう、手続き的正義が、通用しない(本来これでは、いけませんが)、団体の内部的意思決定に、法的議論を丁寧に解説するのでは結局、何ほどの効果もあがらないのではないでしょうか?
どうでしょうか?

おおや さんのコメント (2005年1月25日 00:58):

>t.ikawaさん
ども。ええと、その通りですね。ちょっと次のエントリで議論します。しかしまあ、誤認混同を防がなくてはならない理由に、きっとmojimoji氏は無自覚だろうなと思うと、その点だけ指摘できればいいかなと。

>こう さん
ども。前半、この問題をそういう形(特定の団体の特定の内部意思・内部決定が、なぜ、特定団体の外部の人間に、正当性を主張できるか)で捉えている私と、内部・外部という問題ではなく客観的な正当性があれば強制可能であると考えているmojimoji氏の対立ということだと思います。
で、最後のところ、「手続き的正義が、通用しない(……)団体の内部的意思決定に、法的議論を丁寧に解説するのでは結局、何ほどの効果もあがらない」というのは、その通りでしょう。まあしかし私はここで、mojimoji氏を説得しようとは、実のところ思っていないのです。
議論の中には事実をめぐるものがあって、例えば本件で言えば産経新聞に対する取材制限があったかどうかという論点ですが、これは材料を出しあうとまあ歩み寄るというか、結論についての一致に近付くものです。今回もまあ、そんな感じですね。
一方 こう さんご指摘の対立は、結局「正義・正当性とはどのようなものか」という、まあ価値観とかモノの見方のスタンスに関わる問題です。できちゃった価値観はそう簡単には変わらない。もしかしたらまったく変わらないかもしれません。
じゃあなんでこういう文章を書いているかというと、mojimoji氏と私の文章を見比べる「読者」に、どちらの議論に説得力があるか、魅力を感じるかというのを示そうというのが、私の場合はメインの動機です。だから法的議論を丁寧に解説することがmojimoji氏の考えに何程の変化をもたらさないとしても、読んでいる人たちが何らかの価値をそこに感じてくれるなら、それで私は良いのです。

こう さんのコメント (2005年1月25日 01:23):

なるほど。そういう意図だったんですね。分かりました。

でも、客観的正当性というのは、結局、社会契約によって付与されているわけですから・・・ま、、別にこの点は、おそらく、このエントリーを見ている時点では、おおやさんの言っていることの焼き直しに過ぎないので省略します。

ありがとうございました。

モジモジ さんのコメント (2005年1月26日 13:41):

このたびは、お付き合いいただきありがとうございます。語り口の問題が他所で提起されてもいますが、少なくとも僕個人としてはまったく気にしていません。むしろいろいろ手間かけていただいて感謝してます(これはほんとの本心から)。手間かけさせついでに、1つ確認させてください。本エントリの以下の部分。

>>>
自由に基礎となる物質的条件が必要であり、それを保障することは「自由の条件」であるから同意を必要としないということには、ほぼ賛成しても良い。ただまあ、「人間存在の基礎に関わる条件」を保障するというときの「人間」の範囲はどうやって決めたのかね。・・・結局それは「同意」に基礎付けるしかないというのが私の考えである。
<<<

この場合、「人間」の範囲を同意によって決めたとします。その場合、人間の範囲に入らなかった人が何をしようとそれを法に問うことはできない、という意味で理解してよろしいのでしょうか?あるいは、法に問えるとして、その場合にはどのような根拠によるのでしょうか?

おおや さんのコメント (2005年1月26日 17:56):

>モジモジさん
え〜すいません口調については多分に芸風ですのでご寛恕給わりたく。ご質問の件、「人間」に入っていないものの行為について、その(民事・刑事)責任を、本人に問うことはできないということにはなります。
例えば我々は犬に法的人格性を認めないわけです。すると犬が私に噛みついたとしても、犬に対する損害賠償請求が認められたり、犬が刑事裁判にかけられて刑罰を科されることはありません。その意味で、犬は刑事責任を免れている、とは言えます。
ただ一方、法律的には「人」(ひと・所有の主体)でなければそれは「物」(もの・所有の客体)です。「物」には所有者がいるか、もしくは無主物です。所有者にはその所有する物の管理責任がありますから、その所有者の法的責任を追求することは可能です(参照・民法718条1稿)。無主物(eg. 捨て犬)であればそれは不可能ですが、逆にその犬をどうしようが誰の権利を侵害することにもならないので自由だということにもなります。また、所有者は所有物に対し(法令の制限内において)自由に処分ができることになっています(参照・民法206条)。通常は従って、所有者は生殺与奪の自由を持っていると考えます。
西欧中世のVoegelfreiという概念がこの無主物のようなもので、一定の「自由民」のことを指すのですが、鳥のごとく何事をなすも自由であり、一方彼らに対して何事をなすも自由であるという、自然状態のような意味だと言われています。
もちろん「ひと」性は必ずしも「あるかないか」ではなく、制限された主体性を想定することもあります。ローマ法における奴隷もそのようなもので、権利能力に大きな制限を受けている一方、通常人が負う責任を免除されている部分も多くありました。現代においては「未成年者」がやはりそのような存在で、責任能力が制限される代わりに刑罰が軽減されたり、刑事手続が異なったりする。彼らの行為に対する責任は代わりに「所有者」的存在が負うことになるわけで、管理責任を実効性あらしめるために「家父長権」があり、法の外にある「家庭の秩序」が行使されることになるわけです(まあこれは、現代では限定的ですが)。

# 経済に言及したらはるかにもっとすごくツッコまれるだろうことしか言えないことを自分で知っているのでそんなことは書かない私。ちなみに「近代経済学」で不可をいただくという輝かしい戦歴が。自分でも何やったんだかわかんないんですが。

Write Your Comment

August 2009

Sun Mon Tue Wed Thu Fri Sat
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31          

Recent Comments

おおや on 法廷と手続的正義・続々:
>モジモジさん え〜
モジモジ on 法廷と手続的正義・続々:
このたびは、お付き合
こう on 法廷と手続的正義・続々:
なるほど。そういう意
おおや on 法廷と手続的正義・続々:
>t.ikawaさん
こう on 法廷と手続的正義・続々:
初めまして。勉強にな
t.ikawa on 法廷と手続的正義・続々:
この場合の「法廷」は
いなば on 法廷と手続的正義・続々:
まああれだ、がんばっ

Monthly Archives