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法廷と手続的正義
おおう、トラックバックされてしまった。というわけで「NHK「圧力」問題」で言及していたのはこの方のblogでありました。真面目そうな人なのでちゃんと返答する(いや、true believerとは話できんからね)。
公開性の問題
まず一般傍聴を認めなかったことに関して、暴力的な介入が発生する可能性があり、それを排除することは(物理的・資源的に)非常に困難であったという主張。これは議論のスジとしては認めることができる。通常の法廷でも暴力をふるう人間の傍聴は認められない。裁判所にはそういう事態が生じたときに排除すべき「廷吏」の人がいるわけだが、そういう暴力装置を欠く「民衆法廷」では事前排除しか方法がないというのは理解できなくはない。
しかし産経新聞報道によれば、同紙記者による取材申し込みを断わっている(しかも会場の所在も教えていない)。これは上記の一般論では正当化できない対応だろう。「会場がいっぱいなので」という理由がまだ考えられなくはないが、そういう理由で断るならむしろ、国民の「知る権利」を実質的に保障するためにもプレスの入場は優先的に認められなくてはならない。
また「記録が公刊されている」というのは、ちょっとあえて徹底した形式主義から説明するが、ダメ。それでいいなら通常の裁判についても記録公開で十分で、一般傍聴を認める必要はないということになる。実際にはむしろ逆で、被害者のプライバシが問題になるような性暴力事件でも法廷は公開してきた(公開し過ぎだという批判もあり、平成12年刑事訴訟法改正で若干妥協措置が導入された)。何故かというと「書証は赤面せず」という法諺で簡単には説明する。発言の持つ意味や信頼性は文字に表現できる要素だけではなく、発言の文脈や雰囲気、そのときの発言者の態度その他とともに評価する必要がある。それらを欠く「書証」は、他に代替手段がない場合(eg. 証言者がすでに死亡している)を除き、採用できないというわけ。この点は後述する代理人の問題にも関わる。なお参照、日本国憲法82条2項但書(但し、政治犯罪、出版に関する犯罪又はこの憲法第三章で保障する国民の権利が問題となつてゐる事件の対審は、常にこれを公開しなければならない。)。
また、一般傍聴が制限されている以上、公表された記録が「時系列にそって一言一句を丁寧に記録している」かどうかの検証もできない。逆にこれも「公開できている」という主張の決定打にはならないということになろう。
前提事実が覆されれば再考するが、やはり公開性は欠いていたと評価するしかないだろう。
弁護人の問題
「これについては、『呼んだけど来なかった』に尽きる。」と述べておられるが、あ〜これでいいなら日本は竹島を取り戻せるなあ(笑)。ええとご存知かどうか、国際司法裁判所で審理を行なうためには当事国双方の同意が必要で、日本は付託しようと提案しているのだが韓国が拒否している。それなら韓国の負け、にはできないわけ。
もちろん日本の民事裁判であれば、「呼んだけど来なかった」ら敗訴になる。それは何故かというと、民事訴訟法159条3項で当事者が口頭弁論の期日に出頭しなかった場合は「その事実を自白したものとみなす」(同1項)ということになっているからである。そして何故この規定が有効かといえば、日本国民はその全員が制定された法律に同意している(少なくとも、国会で有効に制定された法律が自らに対して強制力を持つということに同意している)からである(ええと、そういうことになっている)。しかし国際法の世界や、まして「民衆法廷」については、「来なかったら始めちゃいますよ」というルールに対する先行的合意がないわけだから、そのようなルールの正当性を主張することはできない。
関連して、主催者側であるVAWW-NET Japanから出ている、「アミカスキュリエ」によって被告側の弁護を取り入れたという主張についても論じておくが、まずAmicus Curiaeの意味が違ってねえかこれ。「裁判所の求めに従い、裁判所に対し事件についての専門的情報または意見を提出する第三者。英国の制度で、弁護人がいない場合、市民の中から弁護人を要請できるという制度。」って書いてあるけど、まずアメリカにもあるし、Amicus Curiae briefとしての意見提出自体は自由なんじゃないかな。連邦控訴審手続規則だと、それが訴訟に採用されるのは(1)両当事者の同意がある場合、(2)裁判所が許可した場合、(3)裁判所の求めによる場合、そして(4)連邦・州その他が提出した場合、になっている(FRAP 29。ただ私も英米法の専門家ではないので間違いがあったらご指摘希望)。英法は知らないけど、そもそも英米法では資格のある弁護士以外には法廷弁論権が(本人でさえ)認められないから、「市民の中から弁護人」なんてあり得ないと思うが。まあいずれにせよ、Amicus Curiaeはなにか権威のあるものだというわけではないし、弁護人の代替になるものではない(「裁判所から依頼されたAmicus Curiae」には一定の権威があるが、それはもちろん法廷の権威に由来している)。
弁護人は公正中立客観的だったり、彼なりの利害関係を持つ第三者ではない。例えば犯行を否認している被疑者の弁護人が、偶然に彼が真犯人であることを知ってしまった(つまり否認は嘘だった)ということを知ってしまったとする。弁護人はどうするべきか。自分の知った真実を検察・警察に通報すべきなのか、それともあくまで被疑者の主張の代弁に徹して真実については沈黙するのか。これは法曹倫理の問題で難しいところもあるのだが、とりあえず日本で大方の弁護士さんが支持する対応は「黙って弁護人を辞任する」というものである。つまり弁護人は公正中立な第三者ではない。日本法では依頼者と弁護士の関係は「準委任」であるとされている。仕事を頼むのだから「委任」だが、通常の委任と異なり具体的な行動の支持を与えることは実質的にほぼ不可能であり、弁護士のプロフェッショナリズムを信頼しなくてはならない。だから「準」だと。しかし委任である以上、委任した本人が「もうイヤだ」と言えばその瞬間に契約は終了する(民法651条1項)。弁護人を弁護人たらしめるのは、本人による信頼である。
英米法ではもっとこの関係は密で、「信認関係」fiducial relationだと言う。どういうことかというのは議論があるのだが、言われたことをするだけでは当然にダメで、本人が十分な情報を得ていたらしただろう判断をするだけでもダメで、本人が十分な情報と理解力を持っていたらしただろう判断を代行すると、まあ一応いいけどさらに本人の利益を最大化しなくちゃならんとか、まあそんな感じである。「まるで親のようだ」とか思うわけだが、それは正しい。もともと信認関係というのは信託(trust)から発展したわけで、それは子供に渡すべき財産を親(とか信頼できる第三者)が管理するための仕組みだったからだ。そしてその背景にあるのは、通常のコモンローcommon law的な契約を超えた、宗教的な信義誠実という理念である。
念のために言うが「宗教的な」というのも誇張ではない。信託は英法の二系統のうちのエクイティequityにおいて成立したが、エクイティとはコモンローで実質的救済が与えられない場合に、宗教者でもある大法官lord chancellorが「良心への呼びかけ」として救済を命じたことに由来するからである。
つまり弁護人の機能とは単に法律家としての能力があることで成立するものではなく(いやもちろんそれは前提になるのだが)、加えて本人に対して「信義誠実」であるということが本人によっても、社会によっても信頼されている状態が必要になる。Amicus Curiaeにそのような要素はまったくないから、それで代替され得るという主張は誤りだということになろう。というかお前らAmicus Curiaeが何かわかってないだろ(また言ってる)。
で、代理人がいないとどうかというと、単に「法廷」が被告人に対して不公正だというだけでなく、その「法廷」の事実認定全体がゴミクズということになる。事実認定の基礎になるべき証言の検証をしていないんだから、結論に信頼性がない(信頼すべき理由がない)。普通の裁判で、判決の事実認定を当事者が受け入れざるを得ないのは、それが防御を尽くした結果だからである。だから審理に参加していない第三者に対して判決の効果は(基本的に)及ばない。そして当事者が防御を尽くしたことを前提として、我々はその事実認定を「十分に審理が行なわれた結果」として間接的に信頼することができる。その条件を欠いているものを何事か我々が尊重すべき理由は、まったくない。
形式と正義
なんかVAWW-NET Japanの声明ってのに目を通してどっと疲れたのだが、その理由は上述した点なんかにもある。つまり、法律の世界で特定の意味が決められている専門用語を、勝手に別の意味で使っているのだ。普通の人には意味が違っているということはわからないし、それなりに専門用語っぽく見えるから始末におえない。これははっきり言うが、この点に私は生理的と言っても良い嫌悪感を感じている。
「当時の国際法を『慰安婦』問題に適用するとどうなるかなあ」というのを考えてみたかった、というのは良い。しかし法廷としての要件を具備できないなら、別にそんな形式を取る必要はなく、論文で主張するなり議論するなりすれば良かったはずだ。事実認定はどうすると言われるかもしれないが、反対尋問もないクズ審理をやるくらいなら、やはり歴史学者なんかが論文で議論すれば良かったはず。にもかかわらず、最低限の体裁を取りつくろうこともできないのに、何故「法廷」を僭称したのかと言えば、それはその「法廷」という言葉の持つ権威にタダノリしたかったのだろう。それで私はそれを許す気はない、ということだ。
さて最後に、上述の欠陥が事実であったとして、しかし「正当な法が機能していない」からなお許容される余地があるという主張についてだが、まあこの点は反論しても不毛かな。つまり上記主張は「この場合に機能する法が存在するべきである」ということを示す正義が、評価対象となる法とは独立に存在することを前提している。しかし私は「正義は(主に法的な)手続きを通じて構築される・示されるものである」として独立した正義の存在を認めない立場であるから、そもそも前提を共有していない(なおVAWW-NET Japan声明も「普遍的正義」とか言及している。しかも「民衆法廷」で明らかにできるそうな。素晴らしい)。
で。「じゃあお前のその立場を正当化しろ」と言われれば私としては「『規則とその意味』をお読みください」としか言えない。手続的正義よりも「実質的正義」を優先することが望ましい結果をもたらさないという帰結主義的正当化については若干やる準備があるのだが、えらいこと長くなったので、とりあえずまたこんど。しかし私も出張先のホテルで何やってるのか、いったい。
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出張先にも関わらず、懇切丁寧なお返事、感謝。 http://www.axis-cafe.net/weblog/t-ohya/000148.html おおや氏の応答を受けて僕の思うことは、整理すれば次のようになる。「正統な」法廷というのは、「強制力を発動させるに至る論理を示す + その発動を実際に開... 続きを読む
法廷と手続的正義 より、 「正義は(主に法的な)手続きを通じて構築される・示されるものである」 って、すごく重要な一言だからなんかの間違いでここに来た人は心のどこかに とどめておいてほしいな。と思います。 法を学んだ人ならだいたいの人が共有している認識だ... 続きを読む
3ヶ月ほど前からここのブログを読んでいましたが、
今回学校で習ったような気がすることを思い出すために
トラバさせてもらいました。
本日の
>法律の世界で特定の意味が決められている専門用語を、勝手に別の意味で使っているのだ。普通の人には意味が違っているということはわからないし、それなりに専門用語っぽく見えるから始末におえない。
もそうですし、19日分の
>プロパガンダならアゴラに出て行け。 法を、あるいは「法」という言葉を、そのために利用するな。
もそうですが、これは科学・技術系の人間が「エセ科学」に対して感じるものと同じだと思います。
そして、エセ科学が常に幅を効かせ続けているのと同様「エセ法廷」が幅を効かせるのかもしれません。
> 日本法では依頼者と弁護士の関係は「準委任」であるとされている。仕事を頼むのだから「委任」だが、通常の委任と異なり具体的な行動の支持を与えることは実質的にほぼ不可能であり、弁護士のプロフェッショナリズムを信頼しなくてはならない。だから「準」だと。
委任は法律行為の委託を目的とする契約(民法643条)で、準委任の「準」は、法律行為以外の事務を委託する契約に委任の規定を準用する(民法656条)ことから来ている、と債権各論の講義では教えているはずです。ってどうでもいい指摘ですね。すいません。
>刑部郎中さん
はじめまして。ええと、ご指摘の通り準委任は法律行為以外の事務を委託する場合であって、弁護士への依頼は基本的に委任と見てよいが準委任を含むこともあり得るということでした。お詫びして訂正いたします。
しかしこう、私以外には見えないんであれですが、そのメイルアドレスはいくらfakeとはいえ趣味悪くねえすか。