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しょぼ。

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多少疲れていて機嫌が悪かったので保険金の算定交渉を超強気で押してしまう。ごめんなさい反省してます、でもありがとう(挨拶)。

さて故あって北田・団藤・浜田対談「『言論』の場をどこにつくるか――ネット・ジャーナリズムの可能性」(『世界』2005年1月号, 岩波書店2004)を立ち読みする。しょぼい。このしょぼさの所以はなにか、としばし考えこむ。

ツッコみどころが少ないというわけではない(以下発言は大意)。浜田「メディアは米大統領選における共和党の不正疑惑について報道しない」とか(その「疑惑」の内容自体が疑問を持たれているわけだし、「ラザーゲート」だってほとんど日本では報道がなかったわけで、マスメディアがすべての真実を伝えているわけではないというのは右とか左とかとは別問題)、団藤「新聞記者は専門家の自負を持っていたが、実際にはそうではない」(専門家だと思っていたっつうのが驚きだよ。というか日本の科学教育の問題点の一つは新聞の科学部にろくな記者がいねえことだってあちこちで指摘されてるだろうが)。しかしこう、そういった個別の問題点はともかく、全体に刺激がないというか、しょぼい。

その理由は、参加者の人たちがみんな、従来の「言論」のヒエラルキーを疑っていない点にあるのだろうな、と思う。例えば団藤氏は、新聞記者のブログをまとめて評価するような「メタブログ」(と団藤氏が呼んでいるわけではないが)を作り、それをさらに『世界』で紹介するというようにヨコの広がりをタテの柱につなげていけば面白いと言うのだが、『世界』なんて誰が読んでるのさ。北田氏も、言論誌でも対立構造に立って相手の主張を決め付けるようなのが『世界』より売れているが「わかりやすさ」への傾斜ってのもどうかとか言っているのだが、稲葉氏も指摘しているように、問題はわかりやすいかどうかではなく、現在の社会で問題になっている対立の構造を捉えられているかどうかではないのか。っていうか対立のない言論って何なのさ。

つまりこの人たちにとっては、愚劣なる一般市民たちの上に「ジャーナリズム」の世界があって、その頂点に輝ける岩波書店(栄光あれ)の『世界』が鎮座ましましているという構図は疑われることのない前提であって、「ネット・ジャーナリズム」の問題というのは「野に遺賢なからしめん」と言うか、一般市民の中にもたまたま制度的ジャーナリズムから漏れた賢者はいるので彼らをどのように制度的ジャーナリズムに回収していくかということなのだろうなと。根元的な変化とか転倒としてではなく、その危険があるということを認識しているでもなく、ひたすらに従来の制度への還元を考えている。そこが言説としての「しょぼさ」の原因ではないか。しかし問題は、彼らが塔の上でああだこうだ言うておるあいだにも塔の基礎はずぶずぶ掘り崩されているので大笑いであるということと、しかしじゃあその「ネット・ジャーナリズム」なら大丈夫なのかというと全然そうではないことだと思う。

まず、言説を作り出す構造を「『事実』の発掘」→「スクリーニング」→「分析・意味付け」と、とりあえず割り切ってみる。個々人の主張する「事実」は本当かどうかわからないし、伝達する価値のあるものばかりでもないので、集めた情報を選別・統合する作業が必要になる。これが「スクリーニング」。「ネット・ジャーナリズム」の一番弱いところはこのスクリーニングではないのか。つまり、「『事実』の発掘」については当事者の発言力増大に期待することができる。もちろん組織的な調査や官公庁・企業の相手は制度的にやってるマスメディアの方が圧倒的に強いわけだが、今までマスメディアが無視してきたような人々の発言がネットを通じて直接可能になったという要素も大きい。「分析・意味付け」の能力というのは、もともと新聞記者あたりにはろくにありゃせんのであって(好例として早野氏をよく槍玉に挙げているわけではあるが)、締切を守るという非常に重要な能力を除けば研究者だの評論家だのの方がはるかに優れている(はず)。まあこの際重要なのはそういう「その道のプロ」がその分野について発言することであって、何のプロでもないbloggerが何人いても役には立たないのであるが、それは措く。いずれにせよ問題なのは、発掘された「事実」のうちどれが重要でありどれが本当のことなのか、その分析のうちどれがプロによる信頼に値するものでありどれがそうでないかを判断する「スクリーニング」なのだが、果たしてこれがネットワークで十分効率的に可能なのかな、とは思うわけだ。団藤氏などはこの役目を「ニュースサイトのニュースサイト」や「メタブログ」に求めるわけだが、もちろんその「メタブログ」の著者が信頼できるのかという問題や、何でどうやって食っていくかという問題がある。ちょうどlibertarianism(特にanarcho capitalism)において「信用」は成立するのかというのと同じ。もしマスメディアに活路があるとすれば、それは「見えないものを見えるようにする」「ジャーナリズム」とかではなく、このスクリーニング機能にあるのではないかなと。

「ネット・ジャーナリズム」とやらをくさしてみたところで日本のマスメディアが擁護できるわけでもないし、一方で日本のマスメディアがダメだということがネットがより良いという保証にもならない。それが本当に可能になる条件は何で、それに対して従来のマスメディアの長所は何なのかということは、もう少し根本的に考えないといけないだろう(もちろんその中には、切込隊長氏の提起した訴訟リスクの問題というのもある)。それにしても出席者3人のうち2人までがブログで問題起こしたところってのは香ばしいというか何というか。

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いなば さんのコメント (2004年12月15日 11:15):

せんせい「対談」ではなく「鼎談」では?

おおや さんのコメント (2004年12月15日 13:17):

正確には「座談会」だそうであります。お詫びして訂正いたします。

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おおや on しょぼ。:
正確には「座談会」だ
いなば on しょぼ。:
せんせい「対談」では

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