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というわけで
週末は広島で開催された日本法哲学会に出席しておりました。詳しくは後でまた書きますが、ハズレもほとんどなくて良い学会でした。ついでに宮島で鹿と猿を見てきたり(前日に行ってきたので学会をさぼったわけではないですよ?)。厳島神社はやはり先頃の台風で相当大きな被害を受けたようで、参詣はできるようになっていましたが建物一つなくなって土台だけだったり、能舞台も背景から床からやられていたので復旧には相当かかりそうでしたね。
ところでわたくし、「本当に狭い法律だけの世界で生きてきた」らしいですことよ、奥様(いま茶を吹いたやつが何人かいるな、きっと)。いやgoogleって面白いですねって話なんですが。
インターネットのような手段を通じて個人の情報発信能力が拡大すると創作者の数自体も発信される情報も増大するわけですが、一方(1)受信者の観点から評価すると発信される情報の質に大きな差があること、(2)我々の情報受容能力には大きな変化がないことから、似たような見解・趣向を持つ人々が相互に情報を発信・受容する小規模なクラスターに分離することが予想可能なわけです。これを言論空間のバルカナイゼーションvulcanizationbalkanizationと呼んだりする。人々の「自らが見たいと欲する現実しか見ない」(J. Caesar)傾向は加速され、異なる意見を持つもの同士の接触が失われることによって民主政の健全さを支える討議の可能性もまた失われる。確かSunsteinはこういう傾向が民主制を危機に陥らせると評価していた。
しかしまあgoogleのような横断的な検索装置があると、それを使うことによって見たくない意見を見てしまう可能性が強まる。それに対して自分はどのように応答するのか、その自己の意見に基礎はあるのかという問い直しへの機会が提供されるわけですね。自閉へと向かうクラスターを開放する機能と呼んでも良い。googleが「人々の評価」を基礎にするシステムであって、Amazonの「おすすめ」のように過去の自分の評価に忠実ではないところが、この強制的な開放効果の源泉でしょうか。まあただ問題は、与えられるのはあくまでも「機会」であって、自らの正当性を確信して出会った他者の見解を一方的に断罪していてはなあんにもならないという点にあるわけですが。
まああんまり書くとまたディスコミュニケーションを放置できない実存の脆弱さが露わになっちゃうから(いえこれっぽっちもそのことを否定しませんが)いい加減にしておきますけど、印象批評はハズしたときのダメージが大きいですよ?くらいの忠告はしておくかね、かりにもかつて教官であった者としては。いや批判されるのはおおいに結構なんですが、他者への批評が明らかにするのは実は自らの器です。「権力者」とかぺろっと言っちゃう時点で宮台権力論の「み」の字も理解してないことがまるわかりになるんだけど、と言ってもわかんねえのかなあ。まったくもう。
「学問のさびしさにたへ炭をつぐ」(山口誓子)、と。
(2004.11.18 修正: バルカナイゼーションの綴り間違えました。vulcanizationはゴムなんかの加硫処置のことだそうです。知らんがな。)
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「士郎正宗なんてごみ漫画家のファンだったり、押井守の最新のただの映画もどきをもちあげてたり」というとこは同意。「もちあげてない」という反論は却下。(「ダメな子ほどかわいい」という心理が理解できない人のことはさておいて。)
>いなばせんせい
士郎正宗のファンであることと押井監督の映画を屈折しながら持ち上げている点については争いません。趣味が悪いと言われようが私は悪趣味である自由を擁護します。まああれが「映画もどき」だというのは正しいようですが、しかし私は自らを「映画ファン」だの何だのと称したことはありませんから、integrityの問題は生じないですな、呵々。
お疲れ様でした。報告にははずれはありませんでしたが、シンポジウムの盛り上がりはいまいちでしたね。質問もprovokingなものが少なかったこともあると思いますが、パネルも(一部)やや守りに入っていた印象もあります。それはともかく宿でおおや氏に出くわしたのには驚きました。情報の入手経路が重なっているんでしょうね。