おいおい。
毎度毎度の「ポリティカにっぽん」(新渡戸の心を忘れたくない)。他にないのかと思いつつ、やっぱりこの人が抜群にアタマワルイので仕方ない。若宮論説主幹の文章(*1)なんかは、わりとうまく揚げ足を取られないように書いてあるんだけどね。
え〜と、国連安保理の常任理事国を目指すこと自体について、私には特段の意見はありません。個人的にはどうでもいいような気がするんだけど詳しくないので、なんか意味があるのかもしれない。早野氏の結論は「いかがなものか」なんだけど、それはまあそういう意見もあろう。問題なのは、その結論を導くためのロジックにある。
中程に、ユネスコの事務局長になった松浦氏の選挙のときの話が出てくる。
でまあ大変だったけど機構改革を実現して成果を挙げましたという話。ふむ。で、これが常任理事国入りの問題につながると、こうなる。
新渡戸も松浦氏も外国から信頼されているけれども、日本国となるとアジア近隣の国々を靖国神社参拝で逆なでしたりして、とても信頼されているとはいえない。ちょっと国の徳が足りない。
はて。松浦氏の事例をあてはめると、以下のようになるのではないのかと思うのだが、あなたどう思うか。
ユネスコのケースでは「国際社会には汚ない手を使う相手もいるからクリーンハンドではいられない。しかし地位を得て成果を挙げるためにはそれも必要であり許される」という帰結主義的な見解を示している早野氏は、その直後に「利害の錯綜する国際社会でも『徳』を身に付ければ他国はおのずからしかるべき地位に我が国を薦めてくれる、だから謙譲を保って正道を行くべき」というまったく逆の意見(義務論的見解)を述べている。しかし両者は完全に対立する矛盾した意見であり、この双方を同時に主張するというのがわからないところである。きっと早野氏は小泉総理の意図を批判したかったのだろうから、だとすればその立場と矛盾するような松浦氏の事例には言及しないか、あるいは批判的に扱うしかないはずなのではないか。いったい彼はこの文章でどのような立場から、何を主張したかったのだろうか。
繰り返すがこの対立する見解いずれを採るかは難しい問題で、私個人は何とも言いにくいところがある。前者の方がリアルであるという気はするが、生き馬の目の抜きあいをするにはそれなりのスキルが必要になるので、その覚悟がなければ後者に立って泰然自若とするというのもまた妥当。なんとなく『負け犬の遠吠え』(未読)っぽいという気もするが、勝敗は気のもちようというのも阿Q正伝以来の伝統的解決だからねえ。しかしいずれにせよこの対立構造を踏まえた上でいずれを採るのかを、あるいは双方とも取りにくいという苦衷を、書かなくてはなるまいと思う。矛盾・分裂していることにすら気付かなかったので同時に両方使ってみましたというのはオポチュニズムですらないよねえ。
誰か止めたげなさい>朝日新聞の中のひと。
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