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だからダメなんだよ(2)・ポラライズ
さて前のエントリのつづき。すでにおかしいと批判した価値判断だが、その点を中心的に扱っているのが「考え」の次の項目である。
「絶対に安全が守れる」方法などない、というのはまったく正しい。しかしそのことから直ちに「だからそれは無意味だ」を導くのは、選択肢を二つしか用意せず、その片方を否定することでもう片方を肯定させようとする「ポラライズ」、すなわち典型的な詭弁の手法である。
「侵略される可能性はあるのではないか」という問いに対して提案者は次のように答えようという。
ステキです。火山学とか全否定です。2000年の有珠山噴火の際には素早い避難で死傷者ゼロを達成したわけだが、その背景には北海道大学の観測所による継続的な監視、ハザードマップの作成など事前の避難計画の充実、火山噴火予知連絡会の迅速な判断など多くの人の努力があった。だが提案者はもうそんなことは一顧だにしない。まあ確かにがんばっても噴火は止められないし、町や村の建物・道路その他の被災はあまり軽減できないわけだが、そこで全否定。提案者にとって「町や村」とは建物・道路のことであって住民の生命などどうでもいいことなのだろうか。まさにポラライズの好例だと言えよう。
現実的な話をすると、軍隊があっても侵略時の死者をゼロにできないのは当然のこと。しかしまあ、確率的にはおそらく被害を軽減することが可能だし、そもそも抑止力によって被害自体をなくすことも可能かもしれない(火山と違って敵の軍隊はこちらの備えを見て行動を変える存在である)。「イラクがすぐに降伏していれば、市民の犠牲はほとんど出なかっただろう」(idea)と主張しているが、これは相手がアメリカだから成立する議論である。ヒトラーに対して抵抗するどころか諸手を挙げて歓迎したオーストリアでユダヤ人がどうなったか、言ってみるがいいさ。それとも、それは戦争の犠牲者じゃないって?
「軍隊が守るのは国民の生命ではなく、国家権力であり、それ以外ではない」(idea)と言う。こういう人々は往々にして沖縄戦の悲惨さを強調する。軍隊は市民を守ってくれない、というわけだ。だがそれは当然のことである。軍隊が守るのは集合としての市民であり、個々の市民ではない。集合としての市民の生存確率を最大にしようとする際、個々の市民は犠牲にされることがあり得る。沖縄戦は戦場に留まって犠牲にされた沖縄の市民にとっては悲惨だったが、彼らをその一部として含む日本の市民全体の観点からは、そこで抵抗を続けたことによって本土における犠牲が低下したのだと、おそらく言わなくてはならないだろう(その計算が合っていたのかは、また別の問題である)。
逆のことも言える。軍隊がいても個々の市民を守ってはくれない。では軍隊がいなければどうなるか。満洲である。軍隊が逃げ出して(それ自体ひどく情無い話ではあるが)無抵抗に置かれた在満邦人がどのような惨禍にあったか、「平和教育」を掲げるなら知らないはずはないだろう。それでも抵抗しなければ市民の犠牲は出なかっただろうと言うのである。54万人を不法に抑留し10万人を死なせたソビエト連邦を相手に。
さてこの項の言いたかったのはこういうことである。提案者の議論((A)ある軍隊が侵略者・防衛者になる確率は等しいという事実判断と、(B)侵略する可能性があれば軍隊を廃止すべきという価値判断)は、いずれも無理に無理を重ねない限り成立しないものである。逆にそこからは、そうまでしても「国家としての良心的兵役拒否」(小田実)を結論として導きたかったのだと見ることもできるだろう。ではその結論はどのように評価できるのだろうか。つづく。
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おおやさんのご批判は,左翼への熱いエールだと思っています.