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最後の理性
沖縄の米軍ヘリ墜落事故について、在日米軍司令官がヘリ乗員の操縦を「被害を最小限に食い止めるためにとても功績があった」と述べたそうで(asahi.com)、それに対する沖縄側の反応が夕刊には紹介されている。
「発言が事実とすれば言語道断。大学を狙って落としたということなのか。」(沖縄国際大事務局長の発言、朝日新聞2004年8月27日夕刊より)
そういうことでしょうねえ。
ちょっとmapionで周辺の地図を見てみると、現場周辺には保育園が1件、小学校が1件、病院が1件、ガソリンスタンドが3件。それ以外の場所も地番が細かくふられているところを見ると住宅地の可能性が高い。もちろん基地まで飛ばせればそれに越したことはないんだけど、この状況でどこかに落ちなきゃいかんとすれば、そりゃシーズンオフの大学に落とすわなあ。巻きぞえの発生する可能性が一番低くなるだろうから。「私たちとは認識が全くずれている」(同上)って、ズレてんのはあんたの頭だよ(いや、まあツッコまれた側としてはアタマに来るというのは理解できるけど)。
住宅地のそばに基地があるのが問題だというのはもちろん正しいけれど、そんなことヘリを飛ばしてる兵士に言っても仕方ないわけで。沖縄県基地対策室の室長氏は「こんな認識で、米軍とかみあった安全対策の議論ができるのだろうか」とコメントしているけど(出典は上と同じ)、まあ噛み合わないんだろうねえ。悪い結果のなかから最善をそれでも選ぼうとする人間と、「そもそも選択肢が悪い」とか墜落寸前のヘリの中で叫びそうな人間とじゃ。基地返還が進まない理由が垣間見える気がして、米軍の中の人がちょっと気の毒になってきました。
「普通に演技すれば金メダルをとれる状況で、最後の選手は無難に終わらせてもよかったが、とても難しい技を選んで演技した。その心意気は在日米軍の隊員と同じだ。」(在日米軍司令官、同上)
……いや、それはまあなんだ、違うと思うけど。うん。
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この場合は沖縄国際大の反応よりは、現在の状況で上記のようなことを言うことがどのようなperformanceを有するかについて鈍感な司令官が、やはり救いがたいと思う。
それはその通りだと思います。まあ内部向けの立場とかあるんでしょうけど。(ここから8.31追記) ただ、両者のダメさは独立の問題ではありますね。
この話は、地元からすると、「当然に事故が起こりそうだ」という構造的問題としてかなり長きに渡って問題にされてるんですよ。僕の知る限りでも20年は文句言われつづけてる。で、それを無視しつづけた挙句に、いざ事故が起こったときに出てくる感想が「今回の事故に話題を焦点化」した内容だから、「この期におよんでそれですか」と地元が思うのは至極当然だと思う。それを「両者の」と称するのは、この問題を事故が起こったときだけの問題として受け止められる人の感じ方だろうと思うし、それは犯罪的に一面的に過ぎるだろう。と思いました。
まぁ、ことさらに「大学を狙って落とした」ことに怒ってみせる言い方は、アホか、と思うのは理解できますが。多分、その場で適切な言葉がでなかったんだろうと思います。怒るところ間違えてるっていうか、なんというか。
>しゃっくりさん
いらっしゃいませ。うん、「この問題を事故が起こったときだけの問題として受け止められる人の感じ方」だというのは、まさにその通りです。私は沖縄に行ったことすらない人間ですし、住民の方々の気持ちや体験が理解できるなんて言うつもりは毛頭ありません。
しかしながらそれはほとんどの日本国民にとって普通のことだし、また当然のことだろうとも思います。我々の時間と認識能力と善意は有限です。自分の周囲で起きていない出来事については、たまたま情報が入ってきたときにのみ焦点化するに過ぎないのだということを正面から受け止めた上で、どうやってそのような「普通の人々」をこちらの側に巻き込んでいくかという方法論が、当事者には求められる。それは当事者にとってどれだけ深刻な問題であるかということとは無関係の、単なる過酷な事実です。
そういう観点から見たとき、上記発言については「あほか」、と脱力せざるを得ない(しゃっくり さんも「理解できます」とおっしゃっている通り)。この問題を本当に解決したいのなら・してほしいのなら、もっと違うアプローチがあるんじゃないの、と。問題が20年も続いた背景にはそういう技術的な拙劣さというのがあるんじゃないのか、そのことを自覚できているのか、そうは問いたいのです。
もちろん沖縄が本来はこの日本の一部であるにもかかわらず、多くの日本人にとって「周囲」だと思われていないのがそもそもの問題なわけだし、その背後には基地を「日本の問題」ではなく「沖縄の問題」と定式化しようとする人々が(多分政府の側にも反対の側にも)いるのでしょう。これにどう対抗するかというのは一つの課題であり得るでしょうが、第一にまあ普通隣の県はヨソになってしまうだろうと思うとひっくり返せるのかどうかわかんないし、第二に外部性自体が沖縄の資源の一つである(観光とかね)ことを考えると、そうした方が有利なのかどうかも難しい。いずれにせよ自らの背負う状況をどのように定式化していくのか・問題化していくのは当事者にゆだねるべき問題だというのが私のスタンスなので、犯罪的に一面的に挑発することはしても、同一性とか共感を詐称することだけはすまい、と思うわけです。
丁寧なお返事、ありがとうございます。
重ねて質問させてください。
「いずれにせよ自らの背負う状況をどのように定式化していくのか・問題化していくのは当事者にゆだねるべき問題だというのが私のスタンス」ということなんですが、2つ疑問があります。
1つは、そこで言われている「当事者」になぜおおやさん自身が含まれていないのか(文脈から言ってそうですよね)。ここでは暗黙のうちに、「その状況を通じて痛がっている人だけが当事者」とみなす前提が入り込んでいます。それはなぜなのか。「その背後には基地を「日本の問題」ではなく「沖縄の問題」と定式化しようとする人々が(多分政府の側にも反対の側にも)いるのでしょう」とおおやさんはおっしゃいますが、おおやさん自身がそうなのではないですか?おおやさんの振る舞いはそうなっているんじゃないですか?ということ。
いま1つは、「私のスタンスだから」というときに、なぜそれを「私のスタンス」としていることの理由が明かされない(明かす必要性すらないかのように)ということ。僕自身、同一性や共感を詐称する態度にはもういい加減うんざりすることは多々あります。共感を詐称していないか、自分自身の振る舞いにビクビクしてもいます。しかし、「その状況を通じて痛がっている人」からすれば、「犯罪的に一面的に挑発すること」も同じくらいには不快だし、悪質だろう、と。なぜ、共感詐称でもなければ犯罪的な一面性でもない、別の道を探そうとはしていないのか。したけど諦めたのか、どうなのか。
以上、お忙しいこととは思いますが(日記見てても大変そうですよね。お疲れ様です)、おりをみて考えていただければ幸いです。
>しゃっくりさん
初めまして.いつもはこのブログの品位を下げる役割を専ら担っているおや痔と申します.しゃっくりさんの大変興味深いコメントを拝見しました.コメントに対する応答責任があるのは,本来であれば,わたくしではなくて,おおやさんなのですが,しゃっくりさんのコメントに触発されてしまい,いてもたってもいられなくなってしまいましたので,横レスを挿れさせていただくことをお許しください.
> しかし、「その状況を通じて痛がっている人」からすれば、「犯罪的に一面的に挑発すること」も同じくらいには不快だし、悪質だろう、と。
としゃっくりさんはお書きになっているのですが,おおやさんがヒールを演じることを敢えて引き受けようとされるのは,弱者と表象されることの多い当事者たちがある種の権威となり,その結果として,批判の対象ではなくなってしまうという事態に対しては,否定的だからではないかと忖度しています.また,おおやさんが「別の道を探」されるための契機を最初に創り出すべきなのは,他の誰でもなく,おおやさんよりもその問題に通じている(筈の)当事者たちだということになるのでしょう.そうした当事者たちの企てが何らかの公共性/普遍性を獲得し始めることによって,「当事者」の範囲が当初から拡大し,その問題を自らのものとして引き受ける新たな〈我々〉が常に構築されていくことになるのではないかと考えています.つまり,かの当事者たちの企てがより説得力のあるものとなるのであれば,それまでは部外者であったおおやさんもその〈我々〉に含まれるようになるということでしょうか.
ヘボい横レスで,どうも済みません.しゃっくりさんのご指摘された問題はとても難しいので,こんな程度のレスしかできないのですが.
>しゃっくり さん
ええ遅くなりました。まず第一点、その通りです。そのことの説明はいくつかあると思いますが、まず心理的な事実として私はそう思っていない。この問題が沖縄のものであるというのは理解できる。日本のものだというのは理屈ではそうかもしれないとは思うものの実感できているわけではない。これが鈍感だと言われると鈍感かもしれないですが、私のpersonal historyに沖縄との接点はないですから、特に鈍感だということではないだろうと思います。人間の関心を抱く能力とか共感能力、情報処理能力は有限ですから、身近なこと(だと感じること)から関心を抱くのは当然だ、と思います。すると問題は、私がその一例である「直接に痛みを感じていない日本人」に、基地が沖縄だけの課題ではなく日本全体の問題なのだと感じさせられていないのはなぜか、として示されるでしょう。ある意味私はここで、「無関心な日本人」の役回りを引き受けることによって問題を明示しようとしたということでもあります。まあそもそも私はそのような存在なので、引き受けるのは難しくも何ともないのですが(一応飛行機の着陸経路の下には住んでるんですけどね)。
もう一つ、私は本土に住んでいる人間であり、つまりこの構造の受益者です。そのような無自覚の受益者にも届く被害者の言葉とは何なのか、それを構築してごらん?という、これも挑発ですね。
そこで第二点。基本的にはおや痔氏の解釈してくれた内容で良いと思います。もう少し言うと、弱者(特に「ものいわぬ弱者」)を代弁するという構造が可能にする無制限の暴力の危険性、という話になります。我々は語り得ぬ他者の語りなどを騙るべきではない、と。
そのスタンスは笠井潔『テロルの現象学』(ちくま学芸文庫)に由来するもので、私自身このような立場から岡真理『記憶/物語』(岩波書店)を論評したことがあります(大屋雄裕「語り得ぬ他者の代弁をめぐって―岡真理『記憶/物語』と観念の外部」トーキングヘッズ叢書No. 15 『Hot Brit Groovers Exhibition: 英国偏屈展覧会』)。まあこの「外部」ってのは西原理恵子論のモティーフだったりもしましたね。より理論的には「不可視の基礎付け主義」批判として「規則とその意味」で検討しています。
というわけでスタンスの理由は明かそうともしていないわけではなく、書き切れねえのでご参照を乞うということでひとつ。
ん〜まあ、「やる気のある人間の相手はいくらでもするけど、口開けて待ってるガキの相手なんかしてる暇はねえ、痛いなら痛いって言え!」というのはそういう理論的検討とか倫理的考察とかの帰結じゃなくて、単なる私の根源的な性格だという気もするんですけどね、正直。おや痔氏は「ヒールを演じることを敢えて引き受け」ると言ってくれていますが、私が本質的に悪人であるという可能性も考慮せんとな。うん。
追加。「本当に痛いかどうか、直接的な被害者ではない私にはわからない」というのもあります。あるいは、「その痛みをどうしたいか」というのも。
もちろん今回の事件自体は沖縄にメリットをもたらさないものですが、基地の存在は沖縄に対する財政投入や支援、地代などの収入源、雇用や消費などの周辺利益を(もちろん周辺被害とともに)もたらすものです。基地の存在だけを取り出して好悪を言えばそりゃ基本的にみんな嫌がるでしょうが、しかし人生イヤなことを引きうけんとメシの種にはならんわけで、なにか痛みを引き受けて何かを得ることになる。そのとき、ある痛みが耐え難いものであって代償の如何に関わらず引き受けられないのか、代償によっては引き受けられるものなのか、まあもう引き受けようと思ってるんだけど条件闘争のために「え〜、痛いよう」とゴネるのか、それがわかるのも決められるのも、直接的に痛みを引き受ける当事者だけだと思います。
たとえば私は知らん人とお酒を飲んだり話をしたりするのが苦手なのでホステスさんの仕事とか「すげえなあ、えらいなあ」とか思うわけですが、向こうは人前で講義したり延々とモノを書き続けてたりする私の仕事を「信じらんない」と思ってたりするかもしれないわけで。そこで何を引き受け、何を拒絶するかは、まずやはり自己決定から始めなくてはならないだろうと(パターナリズムとそのもたらす暴力を拒否するためには)思います。
上にも書きましたが私自身がこの構造の受益者ですから、その位置に立ちながら沖縄に対して共感を示してみるというのも、つまり風俗に言って説教するオヤヂじゃねえかと思うわけです。当事者が自己決定権を蹂躙されており、そのことに本当に痛みを感じているのなら手を貸すにやぶさかではないのですが、そうでなければその状況がいかに悲惨に見えたとしてもせめて見守るにとどめるというのが、他者を他者として尊重する流儀であると考えています。ええと、理論的根拠についていくぶんかは前掲文献参照つうことで。
語りえぬ他者を代弁・代表することの暴力性を認識した上での謙抑という話は全く同感ですが、この事件あるいは日本の安全保障体制の適否や沖縄にその負担が不当に集中していることの構造的問題について、この話を持ち出すのは不適当ではないか、もっといえば逃げ口上ではないか、と思います。第一に本当に知らないのかどうか。逆に今沖縄について知っていることで判断することを留保あるいは躊躇する具体的な理由は何なのか、が問われるべきではないでしょうか。第二に、問題にされるべきは沖縄への共感ではなく、本土の沖縄への「ただ乗り」やstatus quoを所与としその正当化責任から免れる態度ではないか(この辺りは私は師匠の議論に基本的に賛同します)。沖縄の基地への依存に関する詳しい事情を知りえずとも、自他の間に立場の反転可能性を考えることが担保されなくても、私達は自らの基準において公平でない扱いをすることは許容されないわけです(正義理念を持ち出さなくても、各々が主張する正義基準に整合的な行為は要求される、ということです)。以上二つの話は、沖縄を「弱者」として特権化することに手をかさずとも議論できると考えます。
ただしそのことは元に戻って、大学事務局長や基地対策室の室長の発言自体の適切さを意味するものでは全くありませんが。
いろいろ興味深いコメントをありがとうございます。
逐次コメントは難しそうなので、絞って考えてみたいと思います。僕なら米軍司令官の発言についてどう書くかを示してみると、違いがハッキリするかもしれませんね。
「事故機のパイロットが、できるだけ被害が出ないような落下地点を選ぶという最善の努力をした。これは事実であり、それは少なくとも労われていいことだ。しかし、これを米軍の司令官が、日本の外相が言うことの意味については考えなければならない。ここで問題なのは、彼らが言った内容ではなく、彼らが言わなかったことだ。言うまでもなく、周辺が住宅地やガソリンスタンドが密集し、「最善の落下地が大学構内」でしかありえないのは基地の立地条件によるものであり、これは数十年にわたって指摘されながら放置されてきた構造的問題である。構造的問題に手をつけるべき責任があった(しかし、それをしなかった)人達が、ことさらに現場のパイロットの努力を労うだけであるのは、自分たちの責任を隠蔽する振る舞いに他ならない。」
ここで重要なことは、以上のような批判を行うにあたって、当事者(らしき)人達の発言を不問にして共感する必要はないし、沖縄国際大事務局長の発言を擁護する必要もない、ということです。沖縄問題についてのディティールを知る必要すらない。件のasahi.comについて記事をかけるほどの予備知識があればいい。僕らは、「語りえぬ他者」の代弁をしなくても、沖国大事務局長の発言のズレを不問に付さなくとも、この問題に必ずしも詳しくはなくても、米軍司令官発言についての批判はとりあえず可能だということです。
おおやさんの記事は、米軍の司令官や日本の外相の発言への批判を実質的にせず、沖国大事務局長の発言のみを批判している。これは駐車違反を取り締まりながら目の前のひき逃げ事件を見逃すような振る舞いであり、僕が「犯罪的に一面的だ」と批判したのは、このアンバランスさなのです。このアンバランスさに関連して、僕は先の僕流の記事に次のような文章を続けることになります。
「しかし、「構造的問題に手をつけるべき責任があった人達」の背後に、我々日本人の大多数がいることを思い出さねばならない。この米軍司令官や町村外相の発言にある程度共感しうる内容があることは、冒頭二行で書いたとおりである。しかし、日本国民として当事者たる私たちが彼らの発言をなぞってしまうことは、それもまた自分たちの責任を隠蔽する振る舞いに他ならないことを自覚するべきだろう。」
おおやさんは、「私は本土に住んでいる人間であり、つまりこの構造の受益者です。そのような無自覚の受益者にも届く被害者の言葉とは何なのか、それを構築してごらん?という、これも挑発ですね。」とおっしゃる。では、僕の一連の言葉は届くのかどうか。
蛇足になりますがついでに。
これは何もおおやさんに限った話ではなく、違うテーマにおいては僕自身にも当てはまる問題だし、社会問題がなぜ問題化されないのかを考える上で普遍的な問題を含んでいると思うんですね。こうしたやり取りの中で、僕も自身の考えを具体的に言語化できましたし、お付き合いいただき本当に感謝しています。
おおやさんの「規則とその意味」および岡真里批判についてはとても興味があるので、是非入手して拝読させていただきます。
もう一つ、大事な一言を忘れてました。
先に「僕らは、「語りえぬ他者」の代弁をしなくても、沖国大事務局長の発言のズレを不問に付さなくとも、この問題に必ずしも詳しくはなくても、米軍司令官発言についての批判はとりあえず可能だということです。」と述べました。
しかし、僕自身の経験から言えば、僕のやり方で米軍司令官の発言への批判を考えるにあたっては、語りえぬ他者の問題を引き受けようとする意志がなければ出てこなかっただろう、ということです。
語りえぬ他者を代弁したい、その必要性を感じることは、それをせずに別の方法を探るために必要な動機を与えるものです。その意味で、おおやさんのスタンスの取り方に理由があるとしても(論文読ませていただきますね)、そのスタンスの持っている本質的な問題点として指摘できるのではないでしょうか。社会の現状維持を叫ばないというやり方で、現状維持に導こうとする側に加担してしまう。そうなってるんじゃないか、と。
ひとまずこれにて。
>よこはま さん
おっしゃっていることが間違いだとは思いませんが、それはやはり我々に無限のコミットメントを要求する倫理のようにも思います。我々はアフガンもダルフールも知っているわけですし、どちらのケースでもその背景に南北問題というstatus quoがあると言うことは可能だと思います。もちろんすべての事例に平等にコミットできるのなら良いですがそれが不可能である以上、我々はコミットする対象を選択せざるを得ず、かつ私はその選択自体を他者に対して正当化する必要があるかについては疑問を感じています。というかそんなことを私に要求できる「他者」とは誰なのか、と。
第二点もこれに関連すると思いますが、そもそも我々には正義に叶って行動する義務があるかという問題です。少なくとも私はそのような義務を措定しませんから、議論はここで擦れ違うことになると思います。もちろん私は正義が不要だと言うわけではありませんが、重要なのは人々が私の行為が正義に叶っていると考えるかどうかであって、正義に叶っていること自体ではないと考えます(根元的規約主義に立つと、ある行為が個々人の正義基準に合致しているかどうかも客観的には定め得ないわけですから、いずれにせよ他者たちの自由な評価によるコントロールに委ねざるを得なくなるというのもあります)。
# そもそもコミット可能な範囲は限られているんだから、コミットする気のない事柄については謙抑を守る方が人民なり国民なり他者たちなりにより正確な情報を提供するという観点からは「正しい」とも思います。私には、内容をよく知りもしない宣言文だの声明だのに名前を貸す趣味はねえのです。
>しゃっくり さん
いや米軍司令官の発言が問題だというのはその通りですが、それはみんな言うてましたからね(にこにこ)。私の書き方が「犯罪的に一面的」だったとすれば(そのことを否定する気はそれほどありませんが)、しかし現場の兵士たちの努力を評価することを基地の構造的問題によって封じようとする事務局長氏の発言も、同様に一面的ではないかとは思います(もちろんだからと言ってあの時あの場で言う司令官が利口ではないのは確かですし、構造的問題があることも間違いありませんし、そもそも司令官が言い出さないと現場の努力というものを考えようともしないマスコミの貧困さというのもありますが。最後の点は上越新幹線脱線問題でも如実に出たところですね)。
「現状維持を叫ばないというやり方で、現状維持に導こうとする側に加担してしまう」というのは、実は自覚的にやってる部分もあります。いや私は保守主義者であり、その意味するところは「現状」というものの持つ価値、それが普通の人々にもたらす利益を重視する点にあると考えています。普通の人の生活は、この世の中が変わらないという点に対する信頼に依存しているのであり、その信頼は守らなくてはならない、と。もちろんそれが現実に被害を生み出していれば補填・是正されなくてはならないと思いますが、その被害をvoice outしない「語り得ぬ他者」のことは配慮しない。それは、その「配慮」が我々の社会の基盤である(と私が信じる)自己決定的な主体という概念を掘り崩してしまうからだ、と(なんか書いてて「邪悪だ」と言われる理由が自分でもわかってきたような)。これは『思想』論文で展開した議論でもあります。
# そういや「規則とその意味」(の元になった論文)について、某T先生が「これは革命は可能だという思想だ」と評価してくださったのに対して、「いや私はしたくないんです」とか答えたこともあったなあ。
語り得ぬ他者の問題については、私自身非常に迷いを感じてきた地点ではあります。しかし私はやはり絶対的な暴力の可能性を封じるためには代弁の論理を許してはならないし、そのときに初めて、ホロコースト的な絶滅を「絶対的な悪」として名指すことができるのではないかと考えるに至りました。無制限な代弁が可能であるとするなら、証人を残す通常の殺人を数百万件たばねたものと、証人も証拠も残さないことを目指す絶滅とのあいだに何の差があるというのか、と。
いや議論は面白かったのでぜひ論文もお読みいただけると嬉しいなあと思います。ご賛同いただけないだろうとは思うわけですが、でも議論の意味って意見が最後に一致するかどうかじゃないよね、きっと。
先日はお疲れ様でした。あちらこちら飛び回っている最中に申し訳ありませんが、敢えて一言。私に対する応答では、(情報の制約より根源的には私達が顧慮しうる範囲の有限性などの条件により)無限のコミットメントは不可能であることが、単に制度論上の関心の分配の問題(師匠の、世界大の分配的正義を常に直に考慮することの困難さを理由にした主権国家体制の正当化など)にとどまらず、自らの関心の「偏り」を批判しうる他者の存在に対するより根源的な懐疑に結び付けて主張する点が、核心であると思います。なぜそのように根源的に論じなくてはならないのかについても疑問がありますが、他方この懐疑は、しゃっくりさんへの応答にある、「「現状」というもののもつ価値、それが普通の人にもたらす利益」の重視には直にはつながっていきません(まさにT氏が保守主義、さらに根源的規約主義的言語観を採りつつ革命を論じることに積極的であるように)。正義による批判の可能性に対する根源的懐疑と現状重視の姿勢とをつなぐ根拠が提示されるべきであると思います。
すみません、てにをはを間違っていました。「不可能であることが」→「不可能であることを」、です。
>よこはまさん
すべてを同時に疑うことはできず、ドアを開けるには蝶番が固定されていなくてはならないのだから、peacemeal engineeringしかない、というのがとりあえずの回答でしょうか。T先生は無秩序の危険に直面するという極限状況での「英雄」を肯定しており、私もその点に同意はするのですが、同時にそのような危機を生じさせた段階で統治としては失敗だよな、とも思います。「英雄を必要とする時代が不幸なんだ」ってなブレヒトでしたか。