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生きていくわたくし
学生から質問を受けました。内容は、私が講義でロールズ正義論を取り上げて、その背景には「個人の人格・能力は自然的・社会的偶然によって形成される」という考え方があると述べたことについて、それと刑法的な責任概念との関係を問うという極めて真っ当かつ高水準のものだったのですが(*1)、それに続けて「先生も法律学者なら…………ですよね?」 ですよねって何だ(挨拶)。
平成16年度 名古屋大学公開講座 「『見る』―認知・認識への挑戦」
第14回(10月12日(火)・18:00-19:30) 「事件の『真実』を見る」(法学研究科・大屋雄裕)
※ 残念ながら有料です。お問い合わせは名古屋大学社会連携課「公開講座」係まで。
(2004.11.17 ヘッダからエントリの中に移しました。)
第14回(10月12日(火)・18:00-19:30) 「事件の『真実』を見る」(法学研究科・大屋雄裕)
※ 残念ながら有料です。お問い合わせは名古屋大学社会連携課「公開講座」係まで。
(2004.11.17 ヘッダからエントリの中に移しました。)
さて標記の通り本年度の名大公開講座で喋ることになりました。各部局から1人ずつ講師が出て、統一テーマの下で連続講演をいたします。私はともかく他部局からは結構面白そうな内容が予告されておりますので、ご興味ご関心の筋はぜひどうぞ(*2)。
ちなみに私の講義内容は下記の通りであります。
裁判とは事件の唯一の真実を発見し、正義を実現する場であると、映画やドラマではよく描かれます。しかし実際に双方の当事者が激しく対立している場合に、何が本当に起きたことなのかが容易にわかるわけではありません。当事者はどちらも、自分にとっての「真実」を語っているかもしれません。もちろん現実に起きた「事実」は一つであるはずですが、裁判・法律とは、その事実をどのような「真実」として社会が認めるか、当事者が見るようになるかという問題に関わるものです。当事者のすれちがいをどう考え、認識を統合していくのか。「真実」を構築し、擬制を作り出す作業としての裁判と、法律が内包するモノの見方について考えます。
なお8月10日には「倫理コンプライアンス研究会」なるところで喋るということになってまして(*3)、まあその何だ、異文化に身をさらすことによってタコツボ化を打破し、人格的成長が達成されるわけですね(*4)。かえってストレスを溜めて過食に走り、体格的成長を達成することのないよう努力する所存です(*5)。
(*1) ああ、しかし性急に私の見解を問い詰めるのはやめてください。こんな面白い問題、4〜5回使って語り尽くしたいぞ。でも簡単に言うなら(まあこう答えたのですが)、本当は個人の人格とか決断なんかないからこそ、あることにするんだということになるでしょうか。法の本質は擬制であります、という話を公開講座ではするのです。責任概念とリスク社会論を結び付けて云々という面白そうなことを阪大の中山先生がやろうとしているので目下わくわく中。
(*2) ……ってご案内のウェブページにでもリンクを張ろうとしたところまだ工事中。商売がぬるいよ、受付期間もう始まってんだろうが。もう民間人なんだからその辺はしゃんとしてほしいよな。ちなみに受講料はコンビニでお支払いいただけます。目下のところ私が発見した唯一の「法人化されてよかったところ」。
(*3) しかし私に喋らせると「法律は守ったように見せかけないと損をするのでコンプライアンス重要」という話になってしまうと思うんだけど、いいのかな。「パノプティコンで重要なのは『規則違反をすると撃たれる』という信念を囚人に持たせることだから、重要なのは誰かを撃つことであって規則違反をした人間を撃つことではない」とか言ったら学生に引かれたしな。
(*4) このような努力の積み重ねの結果として、おそらく日本唯一であるところの、東京電力原発損傷隠蔽事件について語れる法哲学者という地位を得たわけであります。それが羨むべき地位かという点についての見解は人それぞれでしょうから私には何とも言えないな。
(*5) 結局二連発で体重ネタ。いい加減にしないとデブキャラ化してしまうので、気をつけないと……。
(*2) ……ってご案内のウェブページにでもリンクを張ろうとしたところまだ工事中。商売がぬるいよ、受付期間もう始まってんだろうが。もう民間人なんだからその辺はしゃんとしてほしいよな。ちなみに受講料はコンビニでお支払いいただけます。目下のところ私が発見した唯一の「法人化されてよかったところ」。
(*3) しかし私に喋らせると「法律は守ったように見せかけないと損をするのでコンプライアンス重要」という話になってしまうと思うんだけど、いいのかな。「パノプティコンで重要なのは『規則違反をすると撃たれる』という信念を囚人に持たせることだから、重要なのは誰かを撃つことであって規則違反をした人間を撃つことではない」とか言ったら学生に引かれたしな。
(*4) このような努力の積み重ねの結果として、おそらく日本唯一であるところの、東京電力原発損傷隠蔽事件について語れる法哲学者という地位を得たわけであります。それが羨むべき地位かという点についての見解は人それぞれでしょうから私には何とも言えないな。
(*5) 結局二連発で体重ネタ。いい加減にしないとデブキャラ化してしまうので、気をつけないと……。
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こういう話を聞くまでもなく、しかし聞くとなおさら、7月10日の基礎法研での師匠の報告の際、からむべきだったのは、ろ○もと先生でも、は○ぬま先生でもなく、おおや氏であった、とつくづく思います。
師匠はUP5月号に記したネタを含めた報告で、「法学・哲学論集」邦訳第1章の、ハートの教授就任講演でなされているG.ウィリアムズの唯名論的法概念論批判を引いて、重要なのは(勿論実念論に退行することではなく)法概念が何故重要なのかの問題動機にこそあり、問題動機を度外視して概念分析をもてあそぶフェティシズムは厳に戒められるべきである、とする一方で、問題動機は悪法問題(悪法もまた法としての規範的地位を主張するものとして、また実際にその地位を有するものとして扱わなくてはならない理由は何か、師匠の場合答えは、二階の公共性問題を規制する正義理念と「正義への企てとしての法」)にこそある、と主張しました。私にとってはまさに我が意をえたりというところですが、政治哲学の上では井上リベラリズムを支持するおおや氏もこの点は、根本的に異論のあるところではないでしょうか。
>よこはまさん
学部の行事に動員されて10日の師匠の発表に行けず、残念至極のおおやであります。詳細にはまた検討しないといけないのではありますが、悪法問題が問題であるとする姿勢がすでに、一定の法概念と正義概念を前提していると思います。これはよこはまさんに対して私が主張したところと重なるのですが、悪法問題が成立するためには(1)善の概念を内包しない価値中立的な法概念をとる必要があり(その意味でフラーではなくハート的である必要があり)、かつ(2)正義ないし善についての実在論的立場をとる必要があります。後者が師匠と私の主要な対立点であり、私としては井上リベラリズムを支えるためにこそ放棄されなくてはならない立場だと考えているのですが(「規則とその意味」最終回の論点でもあります)、前者からは今回の報告のような主張は典型的な論点先取であるという批判も出てきそうです。いずれまたじっくりと考えなくてはなりますまい。
>(*4)
ちなみに本人はわりと気に入っています。人生は面白く、まだ生きるには飽きない。