さらに縛り首

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仕事を一つ終わらせたら、その日のうちに二つ増えました。いやあの、ポケットの中のビスケットじゃないんだから、ほんとに(挨拶)。さて面白い本を読んだのでご紹介。著者は『クソマルの神話学』(青土社)で名を挙げた人。

  • 東ゆみこ『猫はなぜ絞首台に登ったか』光文社新書、光文社、2004。

今回は、ホガース「残酷の四段階」(Willam Hogarth, The Four Stages of Cruelty)に描かれている動物虐待の光景と、1730年代後半にパリの印刷工場で起きた「そこに勤める職人たちが、猫を一匹残らず集めてきて、皆殺しにする事件」(p. 52)を題材として、その背景にあるものを探るという筋書き。後者の事件で印刷工たちが猫を裁判にかけていたというのが題名の由来ですな。

処刑が開始される。死刑執行人、一連の護衛兵、聴罪司祭が指名される。次いで罪と刑が宣告される。(p. 56)

確かに当時、動物愛護という考え方は乏しかったし、虐待も一般的だった。しかしそれなら何故「裁判」という形式が取られているのか。「要するに、裁判せず、ただ殺せばいいはずなのに、わざわざ裁判をし、縄で吊り下げ、絞首刑に処しているのです。これは何を意味しているのか」(p. 67)。

一つ目の解答。労働構造の変化、都市人口の拡大などを背景に親方(ブルジョア)と職人の対立が悪化していた。猫の大虐殺は、この対立における弱者である労働者たちが、強者の道具である「裁判」を戯画化しつつ反抗した、価値観の転倒としての祝祭(カーニヴァル)であった。ダーントンの解釈がこれにあたる。

労働者たちが猫の大量虐殺におもしろさを感じたのは確かなようだ。その理由は、虐殺によって彼らがブルジョアと主客を転倒する方法を手中に収めたからであろう。彼らは猫の鳴き声をまねてブルジョアを悩まし、猫狩りの命令を出させた。次いで、猫の虐殺を利用して象徴的に彼を裁判にかけた。その罪状は不当な工場経営である。労働者たちはまた、この虐殺を魔女狩りにも利用した。すなわち、魔女狩りを口実に細君の大切な猫を殺し、彼女自身が魔女であるとほのめかしたのである。最後に、彼らは虐殺事件を「嫌がらせの儀式(シャリヴァリ)」に変形させた。これによって親方を寝取られ亭主として嘲笑するとともに、細君を性的に辱めた。(p. 104, Robert Darnton, The Great Cat Massacre and Other Episodes in French Cultural History, p. 100よりの引用)

しかしこのような二項対立とその転倒という単純な図式では見落とすものがあると東氏は主張する。一つの対立に注目することによって見えなくなってしまうその他の構図を見出さなくてはならない。秩序の混乱だけを見ても、上下の転倒だけではなく水平的な混淆という現象もあり得る。ダーントンの分析では猫が女性の象徴であるが故に親方の細君の象徴と見られたわけだが、ホガースで虐待を受けている動物は猫に限られない。それに、なぜ逆吊りなのか。ダーントンが見逃している部分に注目しなくてはならない。では東氏によれば、猫はなぜ絞首台に登ったのだろうか。

なぜ猫が裁判を受け、吊り下げられているのか。この謎を解明すべく、絞首刑、および逆さ吊りの意味を考えてきたわけです。結果としてそれは、そもそも儀礼的な側面を有しており、犯罪者に対する処罰を超えたものでした。(……) 猫の吊り下げはオージンへの供犠だった。(p. 172)

( д ) ° °

いかがなものか。ええと、面白いんですよ、ええ。ゲルマン神話などにおける首吊りの位置付けとか参考になりましたしね。多数の事例を挙げながら首吊りにイニシエーションとしての意味があることを主張していくあたりは結構説得的である。だがしかし。

いや私はこの結論を云々できるほど神話の詳しい知識があるわけではねえですが、しかし例えばローマのサトゥルヌス祭を挙げて、供犠に続く祝祭が「死と再生」のイニシエーションになっていると論じるわけだが、そのような聖なる供犠と、犯罪者に加えられる刑罰としての縛り首を同一視して良いものだろうかという疑問はただちに出てきますな。前回絞首刑について述べた際に引用したように、聖書・申命記は木にかけられた死体を「神に呪われたもの」としている。縛り首にした死体を鉄カゴに入れてのざらしにしておくというイギリスの習慣にも言及されているのだが、その説明としてオーディンを持ち出してくるよりはこっちの方がしっくりくるような。

そもそもまあ、その事例がエリアーデとフレイザーから出てくるという段階でいろいろと「いかがなものか」感が漂うわけではあります。つまり膨大な事例を揃えればその中には目下の仮説に合致している(ように見える)ものがある程度あるのは当然のことである。仮説が正しいと主張するためには、(1)反例が存在しないか、(2)偶然では説明できないほど合致する例の方が多いことを証明しなくてはならんわけですが、少なくとも東氏のこの本ではそういう作業は一切なされていない。「こうも読めます」「こう読むと面白いです」というのはわかるけど、「こうとしか読めません」という根拠は、どこにもない。それじゃ「万葉集は朝鮮語で書かれていた!」みたいな話と同じ、ではないだろうか。

それで悪いかと聞かれれば微妙である。少なくとも私はこの本を読んで大変に楽しんだ。しかし「アカデミック」であろうとするなら、このモノイイではダメだろうとも思う。しょせん新書であると言われれば否定する気はないし、私も「アカデミック」でない評論を書いている身であってみれば大きなお世話であるという気もする。しかしまあ、この人がきちんと「学問」のできる人なのかはちょっと気にしないといけないなあと思ったわけではあることです。

やや細かい点ではあるが、二つほど。第一は割とどうでもいい話ではあるのだが、「絞頸」と「縊頸」の概念がまったく区別されていない点。本文中で「絞首刑」と呼んでいるものはすべて「首吊り」すなわち「縊頸」のことなので、注意が必要である。まあ本来の「絞頸」は一切登場しないので、混同する危険はないし、著者は医学者でも法学者でもないので、これが区別できていないからどうだと言う気もない。

第二点。ホガース「残酷の四段階」の4枚目「残酷の報い」(The Reward of Cruelty)について、著者はどうもこれを生体解剖による死刑のシーンであると理解しているようである。「公開の外科講義の中で、生きながら解剖されています。(……)トムの顔は苦痛でゆがんでいるのに、彼を取り巻くまわりの外科医たちは平然とそれを眺め、互いに話をしています」(pp. 24-25)。あるいは学生の反応を紹介して、「トムに対する死刑のやりかたも、むごすぎる」(p. 41)。

いや私もホガースを良く知るわけではないので断言はしかねるが、しかしこりゃ生体解剖じゃなくて縛り首のあとの死体解剖のシーンだろう。解剖台の上のトムの首には縛り首の縄がかかっているし、またそう理解しないと1枚目の「セント・ジャイルズ小教区にて」(in the care of the Parish of St. Giles)でトム・ネロの末路がすでに暗示されていることとの整合性が取れない。画面中央付近で少年が壁にしている落書きは、絞首台から吊るされるトム・ネロの姿なのだから。

しかし解剖台のトムは苦痛で叫んでいるように見える……ここでトムが生きていると考える場合の解釈は、これが(形は違うが)「早すぎた埋葬」だというものだろう。当時の縛り首は落下式ではなかったので死刑囚が瞬時に絶命するようなことはなかった。このため、死刑囚が意識不明や仮死状態に陥ったのを死と誤認して縄から下ろしてしまうというケースが発生し得たようである。実際にそれで蘇生して赦免された事例も知られている(1705年の「半吊りスミス」(Half-hanged Smith)、1767年のパトリック・レイモンドなど)。しかしせっかく息を吹き返しても、それが解剖台の上で、しかもすでに内臓が抜かれはじめてたら……という話だと理解するわけである。リンクしておいたGraphic Witnessのページも「解剖の際に息を吹き返すのが最大の恐怖であった」と述べてこの説を紹介してますな。「解剖」というものに対する考え方、あるいはイギリスの刑罰史を考えれば、これが純然たる生体解剖だという解釈は出てこないだろうとは、思うのですがね。

ちなみに猫虐待反対

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コメント(3)

動物裁判って面白いですな。古典古代にはないようなので中世以降の西欧社会に固有の現象の様子。ところで中世の動物裁判への言及はないんでしょうか。>同書

以前に付言しようとして忘れたのですが、申命記の「木にかける」はそれ自体としては絞首刑ではなく磔刑ですな。それが絞首刑に変形するというのは面白い。

なお「陸軍刑法」うんぬんは、「俺はそんなこといってない、『f* にこういうことをいうお馬鹿がいた』といったのだ」と厳重な抗議がいずかたともなきところから参りました。各方面にお詫びして訂正。

3ページくらいあります。しかしまあ、池上『動物裁判』を参照しているだけ程度の扱い。ホガース(猫を含めた動物の単純な虐待)とフランスの例(猫の裁判)のあいだで、あるときは「裁判であることに注目せよ」と言ってみたり、「他の動物も犠牲になっていることに注目せよ」と言ってみたり、相当にアドホックな立論をやっている印象はあります。ちなみに確か池上氏も動物裁判は中世後期特有と指摘していたような。

そうですか、申命記は磔刑ですか。じゃあこの仮説も検討が必要ですな。「吊し刑」(刑死体をのざらしにする。わざわざ防腐のためにタール塗ったりして)は「大地に返さない」というあたりに意味があるんだろうなあ、とは思うのですが。

>「俺はそんなこといってない」
はい、ではそのように>各方面。

そもそも申命記では死体にした後で木にかけたはず、と思って調べてみたら最近は死海文書などから反論もあるようです。いずれにせよ「木にかけたまま、夜まで放置するな」なので、ユダヤの場合は埋葬されるのですな。洞穴に遺体を安置するわけですが。

一方、Tacit., Germania XII によればゲルマーニアの死刑には絞首刑と溺刑があるそうな。後者は沼に沈めるようですが、前者が死体をどうするかは記述がありません。ちなみに逃亡犯は「木に吊るす」だそうです。って何夜中に調べてるんだか。

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