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ひとことで言い当てられてみる。

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歩いて重要(らしい)会議に行ってきた。愚劣だった(挨拶)。さて以前に書いた「愚かさと私の貧乏性について」について、「bewaad institute」さんでイラク人質事件との関係も含めて言及されており(ありがとうございます)、え〜かなり言い当てられているという気はするのですが、ただ私が問題にしているものを「フィージビリティ」とだけ言われると若干の違和感がある。フィージビリティの低いことであっても、私と無関係な人間がやっていてその帰結を自分で引き受けているなら、私は「あほやなあ」と思うだけのことである。南山のケースでもイラク人質事件でも私が苛立つのは、単にフィージビリティが低いというだけではなく、その背景にあるものに対してである、のではないか。

低いフィージビリティの背景にあるものは、他者の行動に対する予測・予期である。自分がある行為をしたときに、他者がどのように反応するか。この予期と実際の相手の行動の乖離が大きければ、当然ながら計画には問題が発生することになる。しかし予測は予測である以上必ず一定の不確定性を含んでいる。そこで通常は、(1)相手に関する実態調査を行なうなどの手法によって予測の精度を上げようとするし、(2)「予測外れ」の場合のリスクを可能な限り低くしようとする。例えば後者については、同じ「予測外れ」でも一般的には「予測よりも良い」方が「予測よりも悪い」より被害が少ないので、現実化しそうなうちで最悪のケースを予測しても維持可能なスキームを描くというような手法がある。「悲観的に予測し、楽観的に実行せよ」という格言は、このことの表現である。この手法を取る人間なら、例えば「相手は私に特段の好意も悪意も持っておらず、自分の利益になる提案なら応じようとする」(経済人homo economics)というような仮定を置いて相手の反応を予測しようとするだろう。

ところが相手の反応を予測する際に、他者も自分と同じ立場に立ったならば自分と同じように考えるに違いないと考える人々がいる。自分はこう考えており、それは正しいのだから、他者も自分と同じだけの情報を持ったならば自分と同じ結論に到達するに違いない、というわけだ。「話せばわかる」という言葉をてらいなく使える人々というのが、その人種である。そこには他者と自己の同質性への信頼が隠れている。

だが私の考えるところでは、このような立場は他者を他者として尊重していない。他者とは、自分と異なる存在・どこかで理解できない存在だからこそ他者なのである。「話せばわかる」と言う人々は相手との理解可能性を主張することによって、実はかえって他者の他者性を損ない、侮辱していることになるのだ。この論理が理解できない人々、他者は自分と同じだから自分がこう考えていることを説明すればそれに同意・同情してくれるに違いないと考える人種がうごめいているのが、南山やイラクのケースの背景には見えるのである。

相手が理解不能であること・従って自分の主張が受け入れられるとは限らないことへの畏れ、そして、にもかかわらず相手に対して自己の考えを表明し、それによって相手と交流しようとする意志。あるいは死にもの狂いで相手の反応を予測しようとする知的な緊張。そういったものを欠く臆面のなさ・知的な怠惰が、私を苛立たせるのだ。

さて、少なくとも私はこういう種類の人間が大嫌いである。何故かというと、この種の人間と私がつき合うと私が一方的に不利だからだ。私の側では「相手は私と違う考え方をしているかもしれない」と気遣う。しかし彼は私が彼と同様に考えるに違いないと決め付けてくるので、私の方だけが「気遣いコスト」を支払うことになる。問題は不寛容に対する寛容の限界とまったく同型である。つまりここでは配慮に対して配慮が返されず、互恵的な関係が成立しないのだ。相手は私の他者性を否定し、私が現在持っている思考・意見・感情その他は「情報不足」「理解不足」「誤り」だと決めつける。この関係において私は独自の人格であることを否定され、彼に(あるいは彼の信奉する価値に)従属すべき一部であると見做される。自らの存在と人格を否定しようとするものに対して嫌悪感を抱くというのは、むしろ当然のことではあるまいか(従ってこれが「生理的ともいえる嫌悪感」(bewaad institute)と呼ばれることはまったく正しい)。

不愉快な経験を重ねたのち、私は私自身の生存を確保するためにはこの種の人物をできるだけ近付けない必要があるという結論に達した。どうも「嫌い」という私の感覚は本能の叫びであったらしい。とにかく私の前でこの種の性質を見せた場合には以降ダニを見るような目で見るのでそのつもりで。狷介と言いたければ言うがよろしい。

ところで先日は学生から「ていうかリアリストですよね」とやはりひとことで言い当てられました。理論的には徹底した反実在主義(anti-realism)を取ることによって、現実的にはリアリズムになるというのは、いや当然の理屈であるとは思うのですが、表現的には愉快だよね。

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Comment(7)

よこはま さんのコメント (2004年6月19日 21:21):

うーむ、単に無視あるいは放置するのでも蔑視するだけでもなく、嫌っているところが、もうひとひねりあるように思います。だからこそおおや氏は世界観においてある種の合理主義者ではなく、根源的規約主義者なのだということですが(ソクラテスは自家撞着に陥っている対話者をまさに放置しました)。

理念こそが現実的なのである さんのコメント (2004年6月20日 21:25):

イロニー重要。超重要。ビバ超越論的道化芝居。ソクラテスはぼくらの同時代人*
 といっていた御仁は後に保守反動に鞍返ったわけですが、おおや氏はどうなるのでしょうか。わくわく

ところで「フィージビリティ」とはなんぞや。学がないので分からないよ orz

* とまではさすがにいっていません。vgl. Fr.v.Schlegel, Atheneum Fragment

おおや さんのコメント (2004年6月21日 11:11):

>よこはまさん
そうですな、単にfeasibilityの問題なら放置で済む(自分の利害に関係する場合にのみ排除)と思うのですが、私は積極的に嫌いなので、やはり実存的な問題があるという話ではないかと。

>Brittyさん
ていうか私は最初から保守反動ですが、なにか。
# 現代においては保守反動がもっとも反体制的なのだとか言ってみたり。

nervenarzt さんのコメント (2004年6月21日 14:36):

「気遣いコスト」が「気違いコスト」に見えて仕方ない。
十分に体系化され、本人にとって自我防衛的な妄想もまた、人を寒々とした気持ちにさせるしね。

もちを さんのコメント (2004年6月22日 03:34):

本文の趣旨からずれるのかもしれませんが。
「他者とは、自分と異なる存在・どこかで理解できない存在だからこそ他者なのである。」というとき、畏れながらも相手と交流しようとする意志」をもち、「知的な緊張」を保って対話をしたとしても、その対話に対する相手の反応を私はどこかで理解できないことになるのでしょうか。そうだとすれば、自分が言ったひとつの言葉が相手にとっても同じ意味をもつのかすら判断できない私は、その言葉に対する相手の反応を得ても、果たして自分が相手に「気遣い」ができたか否か、判断できないことになるのですか。

おおや さんのコメント (2004年6月23日 15:07):

>nervenarztさん
「気違い対応コスト」というのは一部の学術分野(物理学とか哲学とか)では無視できないものであるようです。幸い私のところには本が送りつけられてくるという程度のことしかありませんし、内容も「気違い」というほどのものではないのですが。キチガイじゃけえ仕方ない。

>もちをさん
このあたりはまだ考えを詰め切れてはいないところなのですが、他者が他者である以上理解を共有できたということが確証される事態はないと考えるべきだと思います。逆に、だからこそ「よどみ」(コミュニケーションのギャップ)が発生しないことによってネガティブに理解の共有を推定するしかないし、それで十分なのでしょう。それ以上の可能性があらかじめ閉ざされているのだから、相手がイヤそうな顔をしていなければ十分な「気遣い」ができたのだと考える、しか我々にはないのではないでしょうか。

まあその逆を考えると、そのように共有の可能性が閉ざされている以上不快なことがあればそれが伝わるようにきちんと表現するべきだということになるのではないかと思います。というわけで「イヤなことはイヤと言う」に続くわけです。どっとはらい。

鰤@たまには土管を離れてみる さんのコメント (2004年6月26日 21:16):

>私は最初から
そうだったね。gols'e.

他者と分かるものは真に他者なのか? フィヒテは「私でないもの」と「私と違うもの」をわけ、ヘーゲルは後者を他者と呼んだ。

レヴィナスは他者を超越と呼び、私が理解することの出来ないものであるという。そこでは他者とは死者の別の名に他ならない。
我々は死者を「われわれへと応答不可能なもの」と定位することができよう。そのとき彼らは我々にとって何であり、我々は彼らにとって何でありうるのか。無数の応答しない死者たちを前にして、アドルノが指摘するように、我々は自らの生を「罰せられたもの」としてしかもはや引き受けることが出来ないのか? それともまだ我々には我々をしてなにごとかをなさしめる一輪の薔薇が残されているのだろうか。---- そもそも死者とは誰/何のことか。死者が他者であるなら、我々は彼らを誰かとして語ることがそもそもできるのであろうか。

問・上記の文章?の電波度を測定せよ

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