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シロウトさんには理解しにくいことの二(3)
いい加減あいだが空いてしまっていて、もう本人しかこの話題を覚えていないのではないかという気もしつつ、意地になって続ける。前回はパンデクテン方式の説明をもとに、信義則や事情変更の原則といった「大原則」を最初から使うとバカにされるのだという話をした。ではこういう大原則は本来どういう使い方をするものかを見るためにちょうど良い判決が出たので紹介。
会社が破産した後、社長が社屋に放火して全焼させた場合、破産前に会社が契約していた火災保険は支払われるかどうかが争われた訴訟で、最高裁第一小法廷(甲斐中辰夫裁判長)は10日、「保険会社は支払わなくていい」とする初めての判断を示した。約2370万円の支払いを損保側に命じた二審・大阪高裁の逆転判決を破棄し、保険金の請求権を受け継いだ金融機関の支払い請求を退けた。
商法は「悪意や重大な過失で生じた損害」について、保険会社は保険金の支払いを免責されると定め、「会社の取締役の故意や重大な過失、法令違反で生じた損害には保険金を支払わない」とする約款も一般的に定められている。今回の訴訟では、破産後も社長がこの約款上の「取締役」といえるかが争点だった。
同小法廷はまず、「故意や重大な過失で保険事故を招いた場合に保険金請求権を認めるのは、信義則や公序良俗に反する」と商法や約款の免責条項を意義付けた。
そのうえで、破産後も取締役が社員総会(株主総会)の招集など一定の場合には引き続き権限を行使できると解釈されていることを踏まえ、「破産しても取締役は当然には地位を失わない」と判断。今回のケースで、社長は放火した時点でも約款の「取締役」にあたり、保険金はもらえないと結論づけた。
なお判決本文はこちら(平成16年6月10日最高裁第一小法廷判決。裁判所ウェブサイト「最近の最高裁判決」より)。
パンデクテンにおいて総則は編纂の基礎にあった(と観念される)個々の法規範から共通部分を抽出したものなので、個々の事例にはそれにふさわしい個別の条文があるはずであるということはすでに述べた。しかし、個々の条文の表現はしばしば曖昧であり、複数の解釈が成り立ち得る場合がある(*1)。そういった場合に、複数のあり得る解釈から我々はどれを選択するべきか。
上記のケースでは、「取締役」の故意による損害が保険金の支払対象にならないことは約款の条文から明らかだったわけだが、会社破産後の取締役がここで言う「取締役」にあたるかどうかが争点であった。両サイドの論旨は概ね以下の通り。
否定説: 会社は破産により解散する。その後は破産による清算の枠内で存続するだけで、会社財産の処分権も破産管財人に移る。破産前の取締役は、(1)破産により会社がなくなるので当然にその地位を失うと考えるか、(2)そうでなくとも会社の契約や財産管理に関与できなくなるので、約款の想定する「取締役」にはあたらない。
肯定説: 破産後も取締役は一定の権限を行使できるので、当然に地位を失っているとは言えない。約款は免責になる対象者を「その理事,取締役又は法人の業務を執行するその他の機関」と一律に定めており、契約や財産管理に対する実質的な権限の有無を問題にしていない。
どちらが正しいと思いますかね。ちなみにこの事件では二審の大阪高裁が否定説を取り、最高裁がそれを逆転させている(破棄自判)。まあそのくらい微妙な問題だということなのでしょう。私ゃ破産法も保険法も知りませんが。とにかくここで重要なのは、決め手が「信義則や公序良俗」だったということ。大原則というのはこういう場面で登場すべきもの、なのですな。
つまり、総則の内容は本来その条文にも含まれていたはずであるから、大原則の趣旨と一致するような解釈を取るべきだと考えることができる。大原則の典型的な使われ方は、解釈を取捨選択する際の指針なのだ。と、とりあえずそう言っておこう。さてこの話が憲法にどうつながるか。つづく。
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「規則『の』その意味」(?_?)
→「規則『と』その意味」ではないのですか?
院生会の名簿作成に追われるおや痔より.
直しました。ご指摘多謝。
巷の法律談義に対するおおや氏の批判の、より理論的な動機は、秩序論としての(?)コモンローにおける「判例法主義」への(相対的な)sympathyにあるように見えますが、どうなのでしょうか。
今学期ワイマール期法思想を扱う演習で、ケルゼン、シュミット、ヘラーなどの基本図書を読んでいますが、やはり先ず第一に感じるのは、ワイマール期の危機的状況において、法の権威の根拠を論じるのは、とりわけ英語圏の、分析的な法理論に偏向している私にとっては、かなり無理があるということです。いや、コモンロー法体系の相対的安定性に依拠して法的推論の構造や法的妥当性の根拠を論じるマコーミックを、基本的に支持する亀本先生が、いつかの飲み会で話していたように、ワイマールのような状況になったら、秩序の存立可能性について法哲学者が何か言えるなんてありえない、と開き直ってしまう手もあるとは思いますが、なかなかそこまでふんぎりはつきませんね。
どうなんでしょう。個人的には完全に制定法主義者だと思っているのですが。ただ、前に書いていただきましたが、professionalismへのsympathyは間違いなくあると思います。
昨日はお疲れ様でした。やはり井上門下が集まると議論の熱が上がりますな。
さて、随分時間を置いてしまって申し訳ありませんが、おおや氏がコモンローに対してsympathyを有しているのではないか、という診断を行った根拠について、記します。例えば(ありきたりですが)田中英夫の『英米法総論』上、第一章あたりでは、英米法における各論的考察の重視(§124:体系化の努力の不足、総則の欠如、具体的準則の集積としての法)に触れています。英米法のこのような特徴を抜きにして、Dworkinがよりよき正当化の条件として整合性を重視したことも、mistakeの議論がラディカルな法改革を許すものでは必ずしもないと考えたことも、理解できないと思います。
その上で、おおや氏が、個々の事実の形に即してつみあげられてきた準則(あるいは解釈)の積み上げを顧慮せずに、いきなり信義則や公序良俗に訴える議論を警戒するのは、単に現実の法実践における欠缺の認定のあり方について誤った認識に基づく点で批判されるべきであるからではなく、各論的考察を重視して、簡単には一般条項や原理に基づく正当化(の論争)の局面を現出させないことが、とりわけ根源的規約主義に基づく秩序観においては、肝要であるからではないか、と推測し、その秩序観は英米法の基本的精神と通じていると考えたわけです。