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シロウトさんには理解しにくいことの二(2)
「先生の立ち位置について」って何のメイルだよっ!……と思ったら教室配置の話か(挨拶)。ああびっくりした。ええと今回のWinny事件に関して出てくる意見を読んでいると、法律家・法学者が(まあ私もそのハシクレに入るわけだが)刑法の問題として故意が認められるかどうかという議論をしているのに対し、それ以外の人々が表現の自由とか通信の秘密といった憲法上の価値を持ち出しているという対比が、結構鮮明である。まあ例えば「2ちゃんねる」の司法試験板とダウンロード系の板でも見比べてごらんな。
これはまあ、ある程度は当然の現象だと言える。刑法の議論は難しくてシロウトには立ち入りにくいものである(まあだから私自身もよくわからんと書いておいたわけだが)のに対し、憲法の内容は高校の公民科でも教えているし(だから法学部に行かなかった人もある程度は覚えているだろう)、国の最高法規なのだからみんなに良く知られていて当然である。しかし気になるのは、どうもその憲法を持ち出すシロウトさんたちが、議論にはそれで勝てると決まっているのであって、我々法律家が刑法の分析などをやっているのは無意味だったり無価値だったりすると思っているらしいところである。しかし、まあとりあえず「我々の感覚」っぽいものを乱暴に言い切ってしまえば、むしろ憲法を持ち出してくるような議論の方がシロウトくさい価値の低いもので、そんな主張はした時点で物笑いのタネである。いったいこの擦れ違いはなぜ起きるか。
ここでシロウトと呼んだ人々の考えの背景は、理解できるような気がする。憲法は「国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない」と当の憲法に書いてある(98条)。つまり憲法最強。憲法>法律>政令>省令という力の差があるのだから、憲法に根拠があればそれを主張すれば法律には勝てるはずで、同次元で張り合う必要などないという話ではないか。つまりまあ、トランプの「大富豪」のようなものですな。場に「4」が出ている。「K」を持っていればそれを出せば勝ちになるので、わざわざ「5」だの「6」だのを出す必要はないじゃないかと。
しかし法律はトランプではない、というのが今回のネタである。トランプの札は各個に独立である。「3」と「K」のあいだにはいかなる論理的関係もない。しかし憲法・法律・その他の法規範のあいだは、そのような関係ではない。
パンデクテン方式と呼ばれる民法の作り方(編成方法)がある。日本の民法も、『ローマ法大全』(*1)の方式を受け継いだドイツ民法典(*2)の影響を受けて、この方式で成り立っている。それはこういうことだ。まず個々の具体的な法規範を考える。その中で共通する部分を「総則」として前にくくり出す。さらにそれらの共通部分や、定義しておくべき用語を前に一括してくくり出す。これを繰り返すと、一番最初にもっとも抽象的な部分、つまり全体に通用する原理や定義を集めた「民法総則」があり、次の段階としてそれぞれの分野の総則(例えば「物権総則」「債権総則」)があり、そして抽象的な部分をくくり出したあとの個別法規範が「各則」として並ぶという構成ができあがる。これがパンデクテン。だから民法の最初には、例えば「第一条ノ三 私権ノ享有ハ出生ニ始マル」という定義的条文や、「第一条 私権ハ公共ノ福祉ニ遵フ」といった抽象的な原理を宣言する条文が並ぶことになる。
さてそうすると。こういった総則の条文はもちろん民法全体を通じて適用されるもので、その意味で通用範囲が広く、しかもそれに個別の規範をこれに反して解釈することは許されないから(何故なら総則の内容はもともとは個別の法規範に含まれていたはずのことだから)、強いと言えば強い。しかしでは法律家はこの総則に基づいて多くの主張を行なうかと言えば、普通はそうしない。何故か。それは、もし現在の事例にぴったりと適合する法規範があれば、それは各則として規定されているはずだからである。逆に言うと、根拠となる条文が総則しか見付からないような場合、編成作業の元にあった(と想定される)具体的な法規範の集合の中に今回の事例を想定したものはなかったと推定しなくてはならないことになる。法解釈には「特別法は一般法に優越する」(*3)という原則があるが、それは法の構成のされ方というこのような理由に基づくのである。
別の言い方もできる。個別具体的な条文は、どのような場合にどのような法的効果が認められるかが明確に定められている。例えば「動物ノ占有者ハ其動物カ他人ニ加ヘタル損害ヲ賠償スル責ニ任ス」(民法718条)とある以上、飼犬が誰かに噛みつけば(他の事情を考慮する必要があるがとりあえず)それに対する損害賠償責任が生じることは明白である(ここでは「誰もが受け入れざるを得ない」と、一般的な信念に基いてパラフレーズしておく)。「そんなことはない」という主張は、他の具体的な条文に根拠を持つのでない限り(*4)、妥当なものとは見做されないだろう。だが総則の規定はどうか。例えば「権利ノ濫用ハ之ヲ許サス」(民法1条3項)という。しかしある権利の主張が濫用にあたるのか正当なものなのかは、それこそ立場によって認識が異なり、裁判によって争われる当のものである。「これは権利濫用である」と主張し、それによる法的効果を要求しても、それが法廷の認めるところとなるかどうかは、まったく不明確であり予想しづらい。「公ノ秩序又ハ善良ノ風俗ニ反スル事項ヲ目的トスル法律行為ハ無効トス」(民法90条)と言われても、それが何を意味しているのかは、事前にはよく分からないのである。従ってその主張が通用するかしないかということを基準に考えるならば、むしろ総則に根拠を置く主張が「弱い手」であり、具体的条文があれば「強い手」だ、ということになろう。
もちろん法律家は、総則などの抽象的条文を根拠とした主張も行なうのが通例である。しかしそれは、裁判が野球ではないからだ。裁判は自分がどれだけのスコアを挙げて相手に対してどの程度優位にあるかが時々刻々知られるようなものではなく、審理というプロセスの中で自分に有利になりそうな要素をとにかく積み上げておいて、「せーのどん」で相手とのあいだのカーテンを取り除いて初めて、勝敗が判明するというゲームである(*5)。従って勝負が終わる前に、使えそうな要素はすべて使っておかなくてはならない。しかしそれは、他のより使えそうな・より予測可能性の高い議論をすべて使ってしまったあとに持ち出すべきもので、最初からそれを出すと「もう手の中に役がないな」と相手に教えるようなもの、自分の弱味を悟られる「弱い手」なのだ。
民法には、どんな場合でも使えるような・外形的にはその要件に合致させられるような便利な原則がいくつも存在している。しかし議論の最初でそれを持ち出すと、確かに形式的にはそれが使えるにも関わらずいたく軽蔑され、例えば「なんでも信義則病」(*6)呼ばわりされることになる。総則に頼らず、個別具体的な条文の解釈でどれだけ粘れるかが法律家としての能力と議論の強さを証明する基準なのである。
つづく。
(*2) Bürgerliches Gesetzbuch (BGB). 1874年から起草作業が初まり、1896年に公布。
(*3) 例えば民事の基本法は民法だが、商行為に関連する場合は商法という特別法が優先適用されることになる。
(*4) 例えば同条後段「但動物ノ種類及ヒ性質ニ従ヒ相当ノ注意ヲ以テ其保管ヲ為シタルトキハ此限ニ在ラス」に該当すると主張する場合など。
(*5) 誇張である。実際には専門家であれば個々の議論がどのくらい通用するか、裁判がどのくらい有利に進んでいるかの推定が相当程度に可能である。だが、それでも時に(あるいはしばしば)予想外の判決が出る、というのもまた裁判である。
(*6) 類語として「なんでも公序良俗病」「なんでも事情変更の原則病」などがある。
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最近の日記を見ていると、おおや氏がTocquvilleが民主政の数の万能(の僭称)を牽制する「法律家」なのではないか、という気がしてきました(いまさら、というところかもしれませんが)。デモクラシーの政治のいきあたりばったりな変動のかげで、卓越的なものは度外視あるいは蔑視され、貴族は田舎でひっそりと仲間内で暖を取り合っているなかで、秩序的に生きることを徳とし、周りが何といおうと、(1830年代では極度に州権に固執する形で)法律に言われていることを厳格に適用する態度を頑として変えない(その意味で「保守主義」的である)法律家は、多数者の専制への有効な防波堤である、とトクヴィルは認めたわけです。けれどもトクヴィルの民主政論にはどうしてもアイロニーがつきまといます。「デモクラシーを生きる」とは、そのアイロニーを引き受けることなのかしら。
すみません。Tocquviileではなく、(ついでにde)Tocquevilleです。
はじめまして。すごい腑に落ちました。といいますか、著作隣接権侵害の幇助という問題とソフト設計の自由という問題がどうしてこうもリンクされて論じられるのか、またそうした主張を行う方々が「技術のニュートラリティ」を論拠にしている点にも首を傾げまくっていました。すごい明解に私自身の腑に落ちなかった点が理解できました。どうもです。