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メディア・コミュニケーション・リテラシ

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イラク人質問題が気にかかって継続的に見ているなかで、気にかかることがまた一つ出てきた。マスメディアの抱えている問題というか、情報化社会においてコミュニケーションの様式が本質的に転換していること、正確に言えば従来のものに加えてネットワークを媒介にしたコミュニケーションが併存しているという状況に対する自覚があまりにも薄い人々が目に付くということである。

発信者と受信者をつなぐ情報の流通構造を考えたとき、従来から存在した二つの様式、すなわち(1)face to faceの関係を通じて双方向的に・限定された範囲で情報が伝わる直接的コミュニケーションと、(2)メディアを通じて一方向的に・広範囲に伝わるメディア・コミュニケーションに加え、コンピュータ・ネットワークの肥大と一般化によって(3)双方向的・かつ広範囲に情報のやりとりされるネットワーク・コミュニケーションというものが生まれたのだ、というのを過去の論説で扱った(*1)。それが生み出したものを「世界規模の井戸端会議」とか、呼びたければ呼んでも良い。要は質の低い情報も高い情報も一緒くたに、実社会におけるどこの誰が発言したのかがよくわからないような状態で、皆が喋る(そして聞く)空間が生まれたということである。それを肯定的に捉えるか批判するかという議論はもちろん可能なのだが、しかしその存在をもう我々は無視できない、はずだ。

メディアは確実にその影響を受ける。かつてのように、広範囲に情報が共有される方法はもはやメディアだけではない。メディアの対する疑問が、直接的に語り合える人々の範囲に閉じ込められるわけでもない。その影響範囲をメディアほど広く見積もることができるわけではないが、ネットワークに媒介される情報流通は、メディアに対する評価・批判・検討が共有される程度には強力なものになっている(*2)。メディアが情報を流す際には、それがどのように受容され語り合われるかを予期しなくてはならないはずだ。しかしどうもこの点に不注意な報道が多く見られるように思われる。

例えばパウエル・米国務長官の発言について。TBSの単独インタビューに対して同氏が「より大きな、よりよい目的のために、我が身を危険に置こうとした日本の『市民』がいることをうれしく思う。日本の人々は、そういう行動をしようとした市民がいることを、リスクを冒しながらイラクに派遣されている日本の『兵士』と同様に、誇りに思うべきだ」(朝日新聞・高成田氏訳)と答えたのだが、TBSはWebで当初この発言の後半をオミットして掲載し、しばらくして修正したという(*3)。同局はその後、誘拐犯の要求に対応して行なわれたイタリアでのデモが人質解放のみを掲げ、誘拐という行為に同調しないためにイタリア軍撤退をあえて掲げなかったことについても、イタリア軍撤退を要求したデモであったと誤報(?)している。こんなことが何故わかるか。サイトを見張っていて比較したり報告する人がいて、「2ちゃんねる」に書き込んでいるからである。もちろんその情報が正しいかを検証する人もいる。暇人が多いなあと思わないでもないが、貴重な貢献である(*4)。ネットワークでの検証にさらされることを考えれば、メディアはもう、迂闊な報道はできないはずである。しかしそのことにメディアは気付いているのか。これはしばらく経過観察の必要な事項だろう。

さて。メディアの評価とは別に、ネットワーク・コミュニケーションの発達は我々が情報を受容する態度に変化をもたらしたとも考えられる。普通の人々のフィクションを読み解く能力、事実の断片から背後にある(かもしれない)ストーリーを構成する能力の肥大である。

まあもともと我々はストーリーを読んだり見たりするのが好きであった。日本の大人が通勤電車で漫画を読むのが理解できないと欧米人が偉そうに言う、という定番の社会批判も、それくらい我々はストーリーが好きなのだということかもしれない(*5)。漫画の代わりに東スポを読んでいても同じことである。あれを「事実の報道」だと思う人間は、まさか日本にはそういまい。針小棒大や荒唐無稽や支離滅裂を、それを知りながら受容して楽しむ能力、逆に言えばある事実から想定される「普通のストーリー」を読み解く能力が、我々にはあるのだ。これは北朝鮮日本人拉致事件について、確か鹿野司氏が指摘していた視点である。拉致された人々の「死因」であると称して北朝鮮側が唱えたストーリーについて、日本人の多くは荒唐無稽あるいは「無理がある」と反発した。それに対して北朝鮮側は、真っ当なストーリーを日本側がわざと受け入れない、と批判した。その背景にあるのはストーリーの評価の差異、ストーリーを読み解き妥当性を評価する能力の差ではないか。彼らは本当にあれが真っ当なお話になっていると信じていたのではないかというのである。

これを反転させれば、我々がお話を聞き・評価し・あるいは作る能力が肥大しているという今回の話になる。そしてそれは、ネットワーク・コミュニケーションで求められる種類の能力であり、そこで育成されてしまうものでもあるのだ。情報はすべて検証されなくてはならない。どこの誰が話しているかわからないからこそ、ソース(情報源)を出せ、事実を提示しろ、検証可能性を確保せよという要求が厳しく突き付けられる。例えば(平井宜雄先生流に)反論可能性の高い議論が「良い主張」であると考えた場合、匿名化することによって実は議論の質が高くなる可能性がある。これは2001年日本法哲学会のシンポジウムで指摘したポイント。もちろん検証可能性を確保するためにコミュニケーション・コストが高くなるし、そんなことお構いなしで無根拠な誹謗中傷や思い込みを発言する人間もいるから、ネットワークは薔薇色だというわけにはいかないのだが。

そして仮にこの「読み解く能力の肥大」ということが事実だとすれば、コミュニケーションにおいてはそれを前提した者・うまく利用する方法を身に付けた者が優位に立つということになろう。自分の提示した情報が他者に検証され、あるいは自分の意図を超えて理解されてしまう可能性があるということを踏まえて発言する能力、従って他者による検証に耐える形での情報の出し方と、他者の受ける印象を予期し操作する技術が必要だということになろう。そこで私の懸念は、そのような技術を野党でも左翼でも良い、十分に身に付けているかという点にある。

政見への賛否はひとまず措く。しかし自民党というのはタテマエとホンネを使い分け、人前で(公の席で)言って良いこととそうでないことを区別して語ることを実践してきた集団である(*6)。実際、今回の事件においても、人質になった人々(の一部)の活動内容に反対であるとか、彼ら自身が政府にとって「好ましからざる人物」であるといったような発言は党・政府の重要人物からは一切出ていない。そんなうかつな発言をしでかしたのは柏村参院議員という、政治家としても官僚としても訓練を受けていない下っぱのみだ。一部の新聞や市民団体が「政府にとって好ましからざる人物だからといって差別するな」と主張していたのに対して、福田官房長官あたりは「誰が『好ましからざる人物』だなんて言いましたかねえ、被害妄想なんじゃないですか?」とか含み笑いをしていたに違いないのである(邪推)(*7)。

私は自民党内部の人材育成システムについてはほとんど知識がないが、党人派(政治家としてのキャリアのみを持つ人々)の場合、こういった訓練は党の「部会」などで下積み修行をするあいだに行なわれるものだと思う(官僚派の場合はもちろん官僚として勤務するあいだに訓練される)。田中真紀子・前外相の放言癖(あからさまに発言の効果を計算していない暴言)も、この修行を積まなかったためだと考えると理解しやすい。

一方、目を野党に転じてみる。社民党のていたらくについては秘書給与詐取事件のときの対応で歴然としている。共産党は、まあ着々と議席を減らしているあたりにすでに現われてはいたのだが、今回の事件への対応で完全にミソを付けた。民主党は、どうか。55年体制の下でタテマエとホンネの使い分けの共犯者であった旧社会党の政治家たちなら、良かれ悪しかれ自民党の技術についてこられたのだろう。今の野党に、それに相当するだけの能力を持っている人々がいるのだろうか。

念のために言うと、以上で考えているのは何が正しいか議論するとか、それを社会が支持すべきかを考えることとはまったく独立の、別の次元の問題である。民主主義社会における政治とは世論の支持獲得競争で(も)ある。たとえどんなに正しい議論を組み立てられるのであっても、それに対して社会的な支持を得ることができなければ実現へのスタートラインに立つことすらできない。従って、規範的な議論を行なう能力とともに(あるいはそれ以上にむしろ)世論が何を好むか、情報をどのように受け止めるかを予測する能力が重要なのだ。本質に問題をそらすなという唐沢俊一氏の指摘(*8)は、絶対的に正しいのに。

……とこの辺まで書いたところで、年金未納問題を理由として福田官房長官が辞任するというニュース(asahi.com)を聞く。この行為が社会的に持つ意味については、例えば渋川さんの分析を参照されたい。確かなのは民主党が今回もまた自民党に出し抜かれ、世論を読むという能力の違いを見せつけられたということだろう。あ〜もう。

(*1) 大屋雄裕「Digital Empowermentの功罪: レヴァイアサンからレギオンへ」, 科学研究費補助金・基盤(C)一般「公共圏の重層的多元化と法システムの再編」(研究代表者・井上達夫(東京大学教授))研究成果報告書, 2003, pp. 89-97.
(*2) 再度注記しておけば、ある程度強力であるということと質の高低は独立のことがらであり、ネットワーク上には高品質の議論も低品質の中傷もともに存在する。
(*3) 高成田氏は、パウエル発言の報じられ方について報じた産経新聞の記事「パウエル発言の引用されない部分」について、ニュースDrag「一人歩きしたパウエル発言」で反論している。反論の内容についてはかなりreasonableであると思うが(特に「新聞記者は「だぶり」を極度に嫌う」というあたりなどは成程と思う)、しかし氏の文章を含め同紙の記事がパウエル発言の一部を強調していること、それらの報道に基いて同発言を誤解(あるいは意図的に曲解)している発言がかなり見受けられることを考えると(一例として「緊急アピール イラクで人質になった方々の活動に敬意を表し、これらの方々への非難・中傷を直ちに止めるよう訴えます」)、誤解しやすいように書いた責任はあるだろうとも思われる(それが腕だ、と言われれば否定する気はない)。なお高成田氏が「ニューヨーク・タイムズ紙は「お上社会」と皮肉った」と書いている部分については、2ちゃんねる某板で早速筆者の名前が検索され、「Norimitsu Onishi」という人物の手になることが判明するや「マッチポンプじゃねえか」という嘲弄が浴びせられたりしていた。念のために言うとこのオオニシ氏が日本人であるかどうかが苗字だけから判るものでもないのでマッチポンプという評価が正しいかどうかはまた別の問題である。ここでは「普通の人」の調査能力がその程度には高いということと、記事の信頼性に影響するにも関わらず高成田氏(だけではないが)が言っていないことがここにもあるということを指摘しておくにとどめる。なお当の記事については、むなぐるま氏の分析が参考になる。
(*4) それを読んでるおまえは何だと言われれば貢献してない暇人としか答えようがない。すいません、逃避行動です。
(*5) 欧米には東京のような長時間通勤がないだけではないかとか、欧米の漫画なら我々も読みたくならないであろうといった議論も、もちろんあり得るわけだが。
(*6) もちろん「ここだけの話」という語り方が通じなくなるにつれてこの技術も調整を迫られている。その点を示す好例は、森・前総理の「神の国」発言問題だろう。
(*7) そう考えると、柏村発言に同調・擁護する人々が党・政府から出てこないことが理解できる。勝谷誠彦氏(サイバラまんがの「ホモかっちゃん」)が「商売右翼」と呼んで怒っていることの意味も(参照、「勝谷誠彦の××な日々。」2004年4月27日)。
(*8) 「裏モノ日記」2004年4月23日。

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Comment(7)

おおや さんのコメント (2004年5月 8日 00:04):

見直すと話がうまくつながっていない。というか後半は読み取り能力の肥大という要素なしでも成立する議論なので別のエントリにした方が良かったかな、こりゃ。まあデッサンだと思ってください。直してる時間はないのです。

よこはま さんのコメント (2004年5月 8日 01:26):

後半について言うと、自民党だから発言のパフォーマンスへの留意、あるいはパフォーマンスの利用(と依存)への関心が常日頃から研ぎ澄まされている、というのは一面的にすぎると思います。今の民主党の殆どの議員は、細川内閣までは自民党あるいは政権与党にいたわけで、問題を厳密にとらえるならば、パフォーマンスの趣旨解釈のあり方が80年代(55年体制下)、90年代、90年代末以降で変わってきている(それゆえ適応への失敗がおこる)こと、さらには趣旨解釈の枠組み自体に対する批判が積み重ねられてきた結果、一定のパフォーマンスのあり方を墨守する政治家がある一方で、とりわけ自民党政治を批判する側に、パフォーマンスとしての政治そのものに対する関心を失って構わない雰囲気が醸成されていることが、自民党と民主党の対応の差を生んでいる、というべきと思います。まあこんな小難しい理屈ではなく、この前の選挙で民主党が勝てなかった要因をきかれて小沢一郎が述べたように、選挙運動の仕方もろくにわかっていないあまちゃんが多い、というのが現在の状況を最もよく説明するのかもしれませんが。

桶 さんのコメント (2004年5月 8日 01:27):

すとーりーをよみとくのおりょくかしら。ならてぃヴの分析じゃないかしら。れヴぁいあさんって読み方は珍しいかも。れびあたんかリヴァイヤサンかどちらかが普通。東京からでした。

おおや さんのコメント (2004年5月 8日 02:04):

>よこはまさん
単純化しました。しかし今の民主党執行部の面子を見ると与党できちんと育成されてはいないような(細川政権は寄せ集めだったし人材育成機能は果たせなかったでしょう)。選挙は典型的ですが、それ以外の局面でも政治家として単に能力不足、なのかもしれません。こんなことじゃ困るんですがね。

>Brittyさん
あ〜どーすかね。narrativeにすると説明が面倒つうのもあってとりあえずstoryで書いてますが嘘になってないか確認しないと(「規則とその意味」はnarrativeで書いてます)。fictionの扱いが面倒だから深追いしたくないのです、ここでは。
レヴァイアサンはなんでこうしたんだっけかな。とりあえず政治学関係の雑誌は『レヴァイアサン』なのですよ。see. http://www.bokutakusha.com/leviathan/leviathan.html

たにぐち さんのコメント (2004年5月 8日 12:04):

本筋からは逸れますけど、「部会」って訓練の場になって
るんですかね?あそこで話されている内容はまず非公開だ
し、むしろ国民には聞かせられないような生々しい私見が
「言いたい放題」であるような気もしますが。

全く余談ですが、昔、知り合いに或る部会を見学させてく
ださいと言ったら、「勘弁してください」と断られますた
です(笑)

よこはまさんの仰る通り民主党の中にも、かつて政権党内
に居たひとは存在するので、皆がひとしなみに「分かって
ない」人々というわけでもないとは思うのですけれども、
権力は近くに居ない期間が少しでもあるとすぐに鼻が利か
なくなる性質のものであることが、ここでは端なくも例証
されているのかもです。

まあ、政治家の妄言・失言とされるものは色々ありますけ
れど、当人にとっては必ずしもそれらが妄言・失言ではな
く、具体的な支持団体等をアテこんだ上での「現実的」に
計算された発言であることも少なからずありましょうから
、これこそ個々の政治家の「自己責任」でやって貰えばイ
イんじゃないでしょうかね。落ちたり受かったりするのは
あくまで当人ですから。

最初の話に戻って、おおや氏の仰る「自民党内部の人材育
育システム」ですけど、そういうわけでホンネとタテマエ
の使い分け方の技量もまた、選挙に受かるか落ちるかに直
結する生々しい権力の技法なわけですから、こればかりは
教えたり教えられたり、或いはシステム化されたりという
ものでは、そもそも無いような気も。O山礼子先生と昔こ
ういうこと話した記憶が甦ったり甦らなかったり。

蛇足ですが、「部会」等の自由民主党内の意思決定シス
テムの静態及び動態については、以下の文献がまあまあ
参考になります。

参考)村川一郎『政策決定過程』信山社

たにぐち さんのコメント (2004年5月 8日 12:05):

あれま、ボタンの押し間違えで2回投稿されてる(汗

宜しくご削除お願い致しますです。

おおや さんのコメント (2004年5月 9日 14:01):

削除しました>二重になったコメント。

部会が公開できないのはまさに「舞台裏」だからだと思うのですよね。実際には派閥での「雑巾がけ」が重要なのかもしれませんが、表に出せないことを言った若手に釘を刺すとかいう形で。

こういうのが生々しい権力の技法だというのはその通りで、だからこそ「党」としてのシステマティックな教育とかではなく権力集団としての派閥において継承されたのではないか、それが人的系譜のつながらない民主党のリテラシの低さに帰結するのではないかと。まあもう派閥にもかつてほどの締め付け能力=教育力はないでしょうが。

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