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ものを読むということ。
遠くから見ることしかなかった人だから、今日は遠くから偲んでいよう(挨拶)。さてネタ拾いの一環として『ユリイカ』(青土社)4月号の押井守特集「映像のイノセンス」を通読する。とりあえず同じことを言っている人はいなさそうなので安心。いや張りあおうとかいう気概は別にねえのですがネタがかぶってると恥ずかしい。
参考になるのは斎藤環氏、まあ精神分析批評なので当然かも知れんけど。テクニカルな観点から論じている阿部嘉昭氏のは勉強になるけどよくわからん(「ショットが存在しない」というそのショットとは何ぞや)。破綻なく上手くまとめている大澤真幸先生。相変らず分析するだけというか、「で、何が悪いんですか?」(and so what?)と聞きたくなる論調だがさすがに破綻がない。上野俊哉氏は押井監督相手の対談ではうまくまとめていたように思うのだが単独論文では変な政治色(というか私がよく苛立つところの「書くなら勉強してからにしろよ」感)が匂うのでもう一度注意して読むかな、暇になったら。ここまでが面白かったサイド。
パク・ジュンスン氏、内容はまあ普通という感じなのだが、
ってのは何だね。「偉大なる毛沢東主席のご指導により」みたいに書かないといかん文句なんだろうか。舞台が日本だからという以上の理由をここに見出す必要があるのかなあ。『アップルシード』だと日本に相当する「ポセイドン」も外部の脅威として扱われているのだが。
小谷真理、面白い指摘もあるのだが(『戦場のメリークリスマス』との共通性とか)、原作読んでないだろうとか押井監督の他の映画見てないだろうとか。とりあえず何でもジェンダーとグローバライゼーションで語るのはどうかと思う。主人公がなぜ女性か、という理由として士郎正宗がおねえちゃん描きたかったからというのは想定しないんですかな。媒体固有の制限とか発表経緯みたいな偶然をオミットするためには反復されるものの差異に着目する必要があるし、そのためにソースは見ておくだろうという気がするのですがね。
東浩紀さん。よくこれ掲載したねえ。ちょっと引用してみよか。
書けないなら書かなきゃいいのにと思うのだが、まあご商売ですからそうもいかんのでしょうなあ。でも全体的に「俺はこういう枠組を作って押井守を見てきたのに最近の作品はその中におさまってくれない、何故だ!」という繰言でしかない、と思うのだがどうか。そんなん事実としての作品(と監督)を所与として扱うしかないでしょうが。エヴァンゲリオンのときにも感じたことだけど、このお人は作品の位置付けとか整理とかがしたいので、作品の内容はどうでもいいんじゃないかな。まあそれはそういう流儀だとは思うし、「作品のすべてを無駄なく位置付ける必要なんてないでしょう?」というのは作品論をやらない(自分にとって面白いことしか語る対象にしない)私みたいな気楽な手法だから言えることなのかもしれないけど。
でもなんか「作品」という単位で一括して位置付けようとするから「〈悩むこと〉から〈語ること〉へ」(p. 148)みたいなすげえ粗い構造でしか語れなくなるし、個々の作品の位置付けに悩むことになるんじゃないかという気もする。こういう見方をすると、実は某研究会でご一緒しているのだが、その際によく感じる問題の区切れない人だなあという感想と一致するようにも思い。まあ人のことより自分の仕事せんとねえ。どっとはらい。
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トラックバックとかコメントでいろんな議論がされるのって面白いっす。 ずいぶん前の文らしいけど、「ユリイカ」の押井守評の評っていうのを見つけたのでトラックバックしてみます。... 続きを読む
今日は苦言しにきました。
ショットは映像学の最重要概念のひとつです。ショット、カット、シーン。etc.素人の weblog 批評ならともかく、みなはいわんぞ。だが
君が書いてることはカント読みに対して「その純粋悟性概念とは何ぞや」というくらい頭に頭痛が来る事です。もう少し勉強しておくれ。ドゥルーズの『シネマ』読めとはいわんが、まともな美学事典を買いたまえ。悪いこといわんから。
常勤のヤシにはものを教えないのがポリシーなのだが、昔のよしみで忠告する。真実にあなたにいいますが、君が金もらって映画批評を書くというのは、今の時点では間違っているよ。
苦言ありがたく頂戴いたします。しかしこう、映画批評を書いているわけではないので(映画を説明材料に使うところの批評とかでしょうか)、どう考えてもショット・カット・シーンの概念を必要とするような分析は過去にしていないと思います。「カントの食生活と散歩の習慣」を書いている医者が「純粋悟性概念とは何ぞや」と言っているようなもので、それに怒ってもなあと(しかも批評本文ならともかく)。
とはいえ逆鱗地帯であることは了解しましたし、もちろん知らないよりは知っている方がほぼ常に望ましいので、勉強させて頂きます。美学事典のおすすめって、ありますか?
逆鱗つーか、個別芸術学やる人たちからはその時点で相手にされないだろうなと。昔トマスの専門家から「趣味判断って何?」と超絶なのを食らって以来、この手の「常識」の違いには慣れています。怒っているわけではないのですよ。ただし作品を文節する語彙を持たない時点でどれだけ作品が語れるのか(説得力があるのか)ってのは問題の残るところですな。その不信感は残る。「この『条例』ってのは何ぞや」のほうが喩えとしては適切だったかもしれず。
>美学事典のおすすめって、ありますか?
一冊で済まそうとするとちと難しいですな。東大の佐々木先生の『美学事典』ってのがあるけど実際にはあの本は概念史だしなあ……しかし買って損をしない本ではあります。ご存知のとおり私も映像が専門なわけじゃないのですが、最後は英語かフランス語ということになるのかな。必要なら最近のお勧め本を調べときます(映像がらみじゃなければ古い本でもいいんだけど)。映像論でつっこんでやるならドゥルーズ『シネマ』『差異と反復』は最近の必読本らしいのですが、個人的にはあまり好きでない著者なので、お勧めはあえていたしませんです。
「映画を映画として見ていない・分節できていない」というのは事実なので、きっぱり受け入れます。映画もマンガも小説も同様に、ということはストーリーとしてしか把握していない。「語り方」の次元については皆目分からないので、基本的にはそれについて語らないことにしていますし、その面で相手にされないのは当然だと思います。というか感心して聞いてるだけでしょうな、私。ただ基本的にストーリーの次元で把握するということになると、ショット・カット単位で分節する必要性ってあまりないんじゃないかという気もしたり。
まあ逆に、こちら固有の見え方というのは映像論とか映画批評の人とかにはないものだと思うので、その限りで・別のものとして話そうと自己抑制しています。SF論だけでは「星界の戦記」の国家論は書けないだろうし、アヴァロンの路面電車の揺れ方を映画批評で語るのは無理でしょう。映画批評ではない、というのはそういう意味です。
あ〜もちろん阿部氏はショットの概念を説明してくれているのですが、「『息を潜める』感触がある」って何だよわかんねえよとか、実例との対応が取れてないのでしょうな。こういうのって「……として見る」の文法ですから、実例で感覚を身につけるしかないのかもしれないのですが、押井映画にはショットがないらしいので何度見てもわかるわけがなく。しょぼん。
映像学の人々は「スクリプト起こし」というのをやるのですな。秒単位でショット区切って持続時間計って台詞だの映像の動きだの音楽だの音はどっちから入ってどっちへ抜けるだの画面外のことどもなどを区切って、それを元に作品分析する。学位論文では一本まるごと起こして付録でつけます。これを何本かやると書かなくても分析的に見ていけるようになるそうですが、やはり評論等で気合いれて論じる箇所は時計で測って記述(beschreiben)するんだって。餅は餅屋。ぼくには到底まね出来ない。それで理論も読むんだから偉いよな、でもこういう人たちには雑誌の評論とかの話はなぜか来ませんね。この国ってほんと不思議の国だと思う。