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知識人という病

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……って誰かが書いてたような気がするわけですが、誰だっけ。さてさて。

「であれば「文学者なら、知らないこと書くな」というのはそもそも無理な要求だと認めるわけですな?」何故? というか議論が完全にずれています。

詩人としての腕前・業績と、市民運動家とか行政官としてのそれが本質的には無縁であるということについては同意。しかしギョエテの場合はよく知りませんが、例えば石見人森林太郎のように前者が後者としての評価を受ける際の障害になった場合なら、彼が医学について語っているときに「お前文学者なんだろう」と言うのは妥当ではない。何故なら彼は医学者としての実力と名声において発言しているからです。

しかし今回の高橋源一郎氏の場合はそれとはまったく事情が異なります。彼には法学・政治学に関する基礎知識すらないことは明白であり、ここでの発言は(文化面であることにも示されていますが)あくまで文学者としての知識と名声において許されている。その背景には、一定の学芸において専門家として認められた者は「知識人」としてその他多くのことがらについても十分な発言能力があるはずだ、という信仰があります。しかしそれは完全に信仰に過ぎない。特に社会問題については、前に書いた現代法律学のアポリアとも関係することですが、知識人であれば理解でき発言できるはずだと考えている人が、当の発言する人々の中にも、多くいます。帰れお前ら、というのが私の時々感じる苛立ちなわけですな。もちろん逆も真であって、法学者・政治学者・社会学者だって自分のよく知らないことに発言するべきではないのですが、人文学の人々が社会問題に大口を叩くほどには、こちらはあまり積極的にする人はいないようです。(おまえはどうなんだという声あり。反省。)

私が問題にしているのは、詩人が詩人として語るなかにおいて自らの知らないことを開示してしまうという点ではなく、詩人のはずなのに詩以外の形式において・しかし詩人としての名声を利用して語らされてしまい、しかもその愚かさに気付いていないということ、なのですが。従ってここでは偶然に文学者を問題にしましたが、それ以外を専門とする人々に対しても、彼らが専門以外において語る場合には常に問題になることです。

理解していますか? 私は文学者を特に問題にしているわけではないのですよ?

「そしてかくのごとき場合、責められるべきは詩人=文学者としての彼ではなく、後者ではないのか。」その通り。だから私はあなたは詩人なのだから詩作に集中しなさいと言っているわけです。小説家としての高橋源一郎氏の業績についてはよく知りませんが、朝日新聞に連載されていた作品は結構面白かった記憶があるので。少なくとも柳美里の何がどう面白かったり新しかったりするのかさっぱりわからない妄想小説よりは三十倍くらい。でも最近で一番愉快だったのは奥泉光さんだと思います。

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おおや さんのコメント (2004年4月22日 14:23):

ところで私は冷徹な近代法学者ですので、国家による暴力に(も)反対したりすることはできねえのです。だって国家は暴力ですからねえ。

「国家による不正な暴力の行使」になら反対しますけど、イラクのあれが不正かどうかは、なんとも。「自己支配できないものは他者に支配される」というだけのことではないかという疑いと、「攻め込まないで勝手に体制が枯死するまで待てば良かった」てえのもひどい話だという思いと。第二次湾岸戦争が賢明だったかと聞かれればそうは思わないと答えますけど、じゃあどうすれば良かったのか。

答の思いつかない私には彼らを批判する資格はありますまいよ。とりあえずがんばれパウエル国務長官(←たぶん一番苦労している人)。

鰤 さんのコメント (2004年4月23日 01:01):

ずれてる理由一つ分かった。プラトンの(そして私の)主張は「世界了解としての詩は知ではありえない」ということなので、「知っていることについて語る」ことは「詩人」には不可能なことになる。ぎょえては自然哲学者でもあることに言及したほうが明快だったかもと反省。「詩は知ではない」はとても強い主張なので、国家暴力論より受け線が狭いかも。

余談に戻ると、近年の作品はあまり評判よろしくないようで。>T氏

よこはま さんのコメント (2004年4月23日 12:27):

私はモットーとして、誰が言ったかはその発言の評価においてできるだけ排除しようと心掛けています。問題は発言を解釈する際の慈悲がやはり有限であることで、そのため「かつてああいうことを言った、行った人なのだから」という特権化を行ってしまうことがどうしても避けられないことです。しかし基本的には(当たり前ですが)優れているもの、理解可能なものと、そうでないものとの違いは、それほど曖昧ではなく、それよりは評価が困難であるのも関わらずどうも引っかかるものをどう扱うかが悩ましいわけです。
 高橋氏の議論はまだ直に読んではいませんが、話をきいていると(3つのうちの)2つ目に当たると推察されます。そして彼が小説家だろうと競馬評論家だろうとただのオッサンだろうと、核心的なことを言えば(歴史を記す)詩人になれるし、そうでなければ忘れられる。少なくとも現代においては、詩(に値するもの)を記した者がその限りにおいてのみ詩人であるのであって、そうでなければそうでない。理論家、哲学者もまたしかり。(なんかお説教くさくて申し訳ありません。)

鰤 さんのコメント (2004年4月23日 17:24):

>そうでなければ忘れられる。

そうかなあ?私はそこのとこ悲観的。ソクラテスの弾劾者が誰だったか我々はみな知っているけれど、ソクラテスの対抗演説(apologia)を我々は知らない。プラトンの残したものがプラトンの著作なのかソクラテスの忠実な聴き取りなのかは常に議論となるところ。

善き物と美しき物がつねに残るというわけではないのですよ。歴史記述が詩人の仕事であることは確かだとしても、詩人はつねに我々といるわけではないわけで。かくて我々はきょうもくだらない騒々しいおしゃべりに興ず。

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>そうでなければ忘れ
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私はモットーとして、
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ところで私は冷徹な近

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