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イラク邦人誘拐事件(2)
事態が一層間抜け混迷の度を深めつつある今日このごろ、皆様いかがお過ごしでしょうか。私は朝から4コマ講義があったのでもうだめです。明日は3コマです。ううう寝たいよう(いや寝ればいいんですが)。
まずよこはまさんの議論との関係を整理しておく。「救護義務」という言葉の使い方についてはよこはまさんの補足があった。この点の言葉遣いは私も不正確だったかもしれないが、いずれにせよ日本政府と被害者のあいだに特別な責務が存在することは肯定するという趣旨である。
国家が構成員の利益最大化にとどまらない価値の追求を行なう存在であるということ、それに対して我々が協力する責務を負っておりそれが遵法義務に結びつくというよこはまさんの主張については私と相違するところだが簡単に否定できたりされたりするレベルではない(主張の根幹に近い)と思うので、違いのみを確認しておく。私は基本善・公平などは国家が一定のメンバーをその成員と定めて利益追求をするという性質から導かれる内在的制約にあたると考えており、またそれらの価値が実際には何を意味するかということがメンバーの規範的決定に基礎付けられざるを得ない以上、メンバーの存在に先行するものではないと考えている。ただしもちろん私がここで言う「利益」は経済的利益のみではなく、精神的価値その他を含むものである。そのような前提から、私自身は遵法義務の存在についても否定的であり、人間には法を犯す自由があると考えている。もちろん他の成員には彼に罰を課すことを決める自由があるため、通常私たちは加えられる制裁を予期して自らの行動をコントロールする。しかし重要なのはこれが予期のレベルに留まることであり、従って事後に人々が喝采して結果を受け入れることを期待して・予想して法の埒外に行動を取ることが常に可能である(これが(私の考えるところでは)前エントリのコメントにおける田島理論)。
さて今回の事件についてはすでに諸方面で議論が百出している。ある意味巧妙であり、従って悪質だったのは池澤夏樹(朝日新聞4月10日朝刊オピニオン欄)。池澤は自衛隊撤収を主張するが、それは自発的政策転換としてなされるべきだとする。もちろんこれは詭弁でしかない。しかし池澤はそれが詭弁であることを認めつつ、国を挙げて救出するという言葉も「空疎であり、場を取り繕うための言葉に過ぎない」のだから、それは現在「詭弁が必要なほど事態が切迫している」ことを示していると主張するのである。
この議論が悪質だというのは、自らが詭弁を弄していると認めているかのように見えて、それは相手の議論を自らと同レベルにおとしめるためにのみ言われていること、そしてその際に相手の議論を故意に矮小化している点にある。もちろん中には「国家の威信か、三人の命か」という議論をしている人もいるだろう。しかし前エントリでも述べた通り、(実体としての)国家の利益とか威信といった話を持ち出さなくとも、個々人の生命が何よりも尊重されなくてはならないという原理に立ったとしてもなお、テロリストの要求に応じるべきではないという議論は十分に可能である。多くの政府当局者も将来の被害防止という観点から対処しているのだろうと私は思うし、少なくともそれを「国家の威信」という目でしか見ない池澤の視点に根拠はないと考える。また、テロリストの要求には応じず、しかし被害者の生命を可能な限り保護するというのもまさに現に政府によって行なわれていることであって、それは「詭弁」でも何でもない。
同欄に掲載された池内恵氏(国際日本文化研究センター)の主張、すなわち自衛隊撤退は拒否せざるを得ず、かつ直接的な救出手段を取ることが認められていない現在において日本が救出のために取り得る手段は何よりも戦後復興に日本が協力する理念をアピールすることだ、という議論に比べたとき、一見しおらしく反省しているかに見える池澤の議論の傲慢さは覆いがたく露出するのである。
それにしても今回もっとも皮肉だったのは、犯人グループがどのような集団であったにせよ、誘拐という手段に訴えることによってその要求内容である自衛隊の撤退を不可能にしてしまったこと。もちろんアメリカの占領統治がこんな状態になってしまったことを見れば派遣を決定した小泉内閣の責任追求も必要なのだが、それもまた封じられてしまった。少なくとも事件が(どのような結末を迎えるにせよ)解決して世界の注目が去ったあとでなければテロに屈したという印象をなんぴとにも与えてはならず、そのためにはとにかく、政府を支持するか黙っているかしかない。テロリストの要求にとりあうこと自体が、テロの効力を増しテロを増やすことになるのだ。民主党の対応はその苦境を物語っていて、責任追求をしたいが今はできない、従って黙っているしかないという状態。それでもまあ一応、テロリストの手にのって馬鹿をさらすような真似をしなかっただけ政権政党候補くらいの印象はあったのだが、徹底しきれてもいなかったようですな。
自分の行為が、ひとまずは自らの意思とは無縁のことがらとして、他者からどのように判断され得るのか、それがどのような影響を及ぼしていくのか。今回の事例はあたかもリトマス試験紙のように、自己の行為の結果というものに自覚的な人々と、そうでない人々、正しいと信じるところを常に主張していればそれが実現すると信じているのか、あるいはそもそも自らの主張が実践された場合の責任などというものについて考えたことがない人々の差異をあぶりだしている。念のために言えば政府のそもそもの責任を追求してはいけないなどとは一言も言っていないし、あの決定が正しかったと積極的に主張する気もない。「自業自得だから死ねばいい」と言っていれば良いというわけでもない。何を批判するにしても、それは今ではないと述べているのみである。
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レントより遅く、思考はロンド・カプリチオーゾ。そろそろ寝よう。。
いまごろ昨日入っていた号外(ということは新聞休刊日だったのか?)読んでいます。まだ人質は解放されてないんだって?
犯人の声明とやらをみて誤認に気がつく。これ10日づけ、つまり聖大土曜日。この日付けで「アラーの神」の名のもとに、キリスト教徒(少なくとも2人はそうだと聞いている、ご家族も。)にメッセージ送る、これってかなり嫌がらせだと思うなあ。まあ神学的には死んでいるのは人性におけるキリストではあっても、神性におけるキリストじゃないのだが。新聞見てると犯人はイラクの国内法は無視(さすがに誘拐は合法じゃないのね)してもイスラム法学者の発言には従うのね。すでに一年たつとはいえ、一応は世俗国家だったフセインのイラクは本当になくなってしまったのだなあ、感慨深いものがあります。しかしこれ法学者一個人の見解じゃなくて拘束力をもつ決定だな。裏返すとすごいこといってるんだけどそれは皆さん取り上げてないですな。
あ、ミルクあったまった。ではぁ。四月からあまり飛ばしなさんなや。>大屋先生