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シロウトさんには理解しにくいこと(3)
さて、「地裁支持なら高裁決定はプライバシを不当に制約していることになる」という主張については先に述べた通り失当。一方、「高裁支持の場合、地裁決定によって不当な言論弾圧が行なわれたことになる。国家介入を認めてもちっともうまくいかない」という議論も展開されている。なかなかうまい着眼点だと思うが、やはり成功しない議論である。
《事前と事後の救済について》
プライバシ権の存在を認めた上で、しかしそれを理由とする言論の事前差し止めは許されないという主張は、事後の救済で十分だという主張を内包している。権利が侵害されたかどうか、そしてその程度については言論が発表されたあとから裁判で争えばよく、そこで得ることのできるもの、具体的には損害賠償と謝罪広告という救済手段で被害者の受けた損害を回復することができると考えるわけである。週刊文春側の主張はこの立場である。
しかし事後の救済で被害が回復されるということを認めるならば、地裁の仮処分によって週刊文春の当該号が販売できなくなったことも問題にはならないはずである。何故なら高裁決定によってその禁止は解かれたのであるから、文春はこれから当該号の在庫を販売することができる。差止めがなかった場合に販売できたであろう部数と、これから販売することのできる在庫の部数は等しいのであるから、理論上損害はなかったことになるはずである。なに、現実には週おくれの週刊誌なんてどこでも売ってくれない? そんなの知ったことか。
現実の話をしよう。もちろん今から販売禁止が解かれたところで、仮処分がなければ売れたであろう部数を販売することは困難である(でまあ、現に出荷は断念したと伝えられている)。それは交通事故に対する損害賠償を受け取ったところで受けた傷が治らないのと、死んだ人が戻ってこないのと、同じことである。法によって受けた被害を真に回復することはできない。たとえ金銭被害に対して金銭賠償を受け取ったときでも、それは本当に被害を受けなかったこととは異なっている。もしそのときに100万円をだましとられなければ、その金額を株式に投資し、大もうけすることができたかもしれない(*1)。100万円を持っていなかったあいだに存在し得た無数の可能性を、法が取り戻すことはできない。それは法には時間を巻き戻すことができないからである(無論、神ならぬ我等にそのようなことができようはずもない)。事後の救済で本当に被害を回復することはできない。それは公開されてしまったプライバシを、公開されなかったことにすることができないのと同じことである。本当には回復できない被害を、我々が動かすことのできる金銭という手段によって、回復されたことにしてしまうのが損害賠償という制度に他ならない。それは法の機能の根本にある擬制なのだ。
しかしもちろん我々はここで、被害の形態による回復しやすさの違いについて考えることができる。金銭の場合、失われた可能性についても金銭で補うことが、まあできるような気がする。生命や健康被害については金銭で回復できないが、まあ他に仕方がない。名誉が傷つけられた場合、金銭で補うよりはむしろ当該発言は誤りでしたと表明してもらった方が実質的救済になると考えられる。従って民法は金銭賠償を基本に置きつつ、723条で名誉毀損について「名誉ヲ回復スルニ適当ナル処分」を命じることができると規定しているのである。
さて、事後の救済では十分ではないということを認めることにしよう。であるならば我々は、防げる被害は事前に防ぐという差止めの論理を認めなくてはならなくなる。被害の発生が確実・明白であり、かつ予防措置によって生じる被害が存在しないなら、もちろん差止めが許される(北方ジャーナル事件はこの例と考えられる)。被害の発生が予想される、あるいは予防措置自体が別の被害を生じさせる場合には、回復不能な被害よりは回復しやすい被害を起こす道を選ぶべきということになるはずだ。さて、雑誌の売行きが落ちたことにより生じる金銭的被害と、個人のプライバシのどちらが回復しにくい権利だろうか?(*2)
ここから出るための解決策は、プライバシ権の存在を認めないというもの。上記の問題はプライバシと言論の自由の相克を前提として成立するので、プライバシの権利性を否定するという議論はあり得る。憲法に条文上明記されているわけではないしね。しかしプライバシが明確な条文上の規定を持たないにも関わらず憲法によって保護されるべき価値であるということはすでに複数の最高裁判例により確認されていることであるので、それを否定するというのはやっぱり立法論。はい失格。
もともと日本の現行法は商品寿命など考慮していないのだ。例えば新聞記事の著作権なんて、商品寿命が1日しかないのに著作者の死後50年保護されてしまうことになっている(*3)。著作権があるから無断でコピーするなと主張しても昨日の新聞などどこにも売っていない。使いたい人間は使えないし、かといって権利者に報酬を払って使うための方法もない。結局、誰も得をしない「あるけど誰にも使われない権利」だけが残ることになる(*4)。これを良いとか悪いとかとりあえず言う気はない。しかしこの「商品寿命のことを考えていない」という性質をいままで使ってきたのが多くのマスメディアである。法的に争っても結論が出る前に商品寿命が尽きてしまっているので、事実上救済として意味をなさない。虚偽の報道と争って勝利しても、「あれが虚偽だった」という情報は当の虚偽より狭い範囲にしか広まらない。結局、多くのケースが泣き寝入りで終わってきたし、そうなるだろうという予期のもとにマスメディアが行動してきた。
ところが今回は、その商品寿命の短さを逆用されたことになる。本訴で争うと間に合わないが、仮処分申請で1週間止められるとダメージが大きい。しかしそのような形態を選択したのは当のマスメディアなのだから、その結果が有利に出ようが不利に出ようが引き受けるべきなのだ。国家・法・裁判所のいずれも、「ぜひとも週刊で出してくれ」と頼んだわではない。また我々にそのことについて同情すべき由縁もないだろう。天に唾すれば戻ってくるという、その限りにおいて教訓的な事象ではある。
さらにつづく。
(*2) 我々の「知る権利」については、いずれにせよ最終的に公開されれば大きな損害は生じないし、多くの権利に対して劣後すると考えるのが一般的なようである。例えば刑事裁判において被害者のプライバシと名誉を守るために傍聴席から見えなくするついたてが導入されたりするし、入学試験においても選抜過程に関する情報は公開しない。
(*3) 事実の雑報については著作権の対象にならないので、ここで言っているのは論説とか取材をまとめた連載企画などのこと。
(*4) というのは若干誇張なのだが(新聞記事の再利用可能性が高まっているから)、しかし新聞著作権をきちんと管理しようという試みがほとんど成功していないというのは事実。
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