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シロウトさんには理解しにくいこと(2)

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さて、つづいて法解釈上の論点に入っていこう。

《言論の自由は憲法上無制約である、か。》

こういう読み方をする人は、言論・表現の自由を定めた日本国憲法21条が「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」となっていることを根拠にしているのではないかと思われる。例えば居住・移転の自由を定めた22条「何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。」と比較すると、「公共の福祉に反しない限り」という但書がないではないか、であるとすればその制約はかかっていないのだ、という。

ところで憲法の人権部分の総論にあたる条文では、以下のように定めている。

第十一条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。

第十二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

第十三条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

つまり「公共の福祉に反しない」という制約は、12条によってすべての人権について課されているので、21条に明記されていないというのはその制約が解かれていることの根拠にはならない。そもそも13条で生命権に対しても公共の福祉による制約を課しているので、一般的には生命権に対して劣位の人権とされる表現の自由にそれが課されていないと考えるのは失当である(*1)。

じゃあ条文上の差異にはどんな意味があるんだよう、ってのはもっともな疑問ではある。一つのアイディアは、いずれにせよ公共の福祉による制約に服するということは認めつつ、その程度の差を示しているのではないかというもの。つまり居住の自由と言論の自由が対立したら(どういうケースなのかいまいち想像できないが)、言論の自由が優先だと憲法に書いてあるんじゃないかと。経済的自由と精神的自由を区別し、前者に対しては後者よりゆるやかな基準で制限が認められるとする「二重の基準」説(芦部信喜・学会の通説か)は、この観点に近い(*2)。ところでもう一つのアイディアは、憲法の条文はいずれにせよあまり考えて書かれてないので、大した意味はないというもの。実際まあ、法律を書くときのテクニカルな観点から言うと日本国憲法というのは極めて質が低いというのは法律家の常識だと思うので(*3)、あまり考えてもなあというのが私の本音ではあり。

さて話を戻して。出版の事前差止めが認め得るとする根拠は、一般的にはこの「公共の福祉」に求められる。ただしそれは「国家」とか「国益」を根拠とした制約が認められるというのではなくて、別の人権との衝突が生じた場合にはその限りで制約が課されるというのが「内在的制約説」(宮沢俊義・かつての通説)。他の人権を尊重し、両立可能な存在でなくてはならないというのが人権自体の成立前提だというわけだ。この立場に立てば、言論の自由というのも「他の人権を害さない限り」という前提が暗黙のうちに付されているので、それに反する言論については一定の制約もやむなしということになる。わかるスジはカントの定言命法を想起しても可。人権制限の根拠が人権にあるというこの内在的制約説は、それこそ憲法学のイロハのイくらいの位置にある。先の「二重の基準」説にしても、この「内在的制約」の基準をどう明確化するかというスジで出てきているので、絶対的に保護されるべき人権などというものは想定しない。芦部自身が報道の自由とプライバシ権は「同じ程度の重要な二つの人権」なので比較衡量論でいいんじゃないかと述べているしね(*4)。

そもそも言論の自由が絶対的なものであるなら、刑法で名誉毀損や猥褻図画販売目的所持が禁止されていることが問題になるはず。もちろん現行刑法が制定されたのは大日本帝国憲法下なのでそういう条文が存在してしまうのは仕方ない。しかし仮にこれらが憲法の規定に反するものであるなら新憲法制定にあわせて廃止されてしかるべきはずである。しかるに、実際にいくつかの罪(不敬罪など)が廃止されるに至ったにもかかわらず、これらの罪は存続している。ゆえに言論の自由は絶対的な権利ではなく、相対的に保護されるべき権利に過ぎない。証明終(*5)。

ところが実は、憲法上の言論の自由は無制約であり、かつ名誉毀損罪の存続は認められるとする理論は存在し得る(というか、実際にあった)。それは、「名誉毀損のように違法でレベルの低い発言は憲法上の『言論』にあたらない。だから制限しても憲法違反ではない」というもの。考えてみれば、憲法には確かに「表現の自由は保障する」と書いてあるものの、何がここで言う「表現」で、何がそうでないかまで書いてあるわけではない。法的概念と日常用語が一致しなくてはないいわれはないので、この概念をいじれば「言論の自由は無制限である」という主張を無矛盾に行なうことができます。さあどうですか。

しかしもちろんこれは危険きわまりない道である。つまり保護されるべき価値の有無を憲法上の「表現」にあたるかどうかの基準にしようという提案なので、結局憲法の命じるところは「保護されるべき表現は保護すべきだ」という同語反復になってしまう。これではまずい、あくまでも憲法の「表現」「言論」は日常用語で考えるべきだ……であれば、我々はそれが一定の制約に服するということを認めざるを得ないことになるのだ。

まだつづく。

(*1) なおこの点も、「現実の憲法がどうこうではなく、民主主義国家においてそうあるべきかどうかが問題なのだ」という議論とは別の論点である。それは立法論。
(*2) いやまあ、「精神的自由に対してはより厳しい基準を満たさない限り制約が認められない」と書いた方がウケがいいのはわかってるんですが。なお二重の基準説に対する批判として例えば参照、井上達夫「人権保障の現代的課題」碧海純一『現代日本法の特質』第七章、放送大学教育振興会、1991。
(*3) 内容がどうこういう話ではなく、例えば内閣が衆議院を任意のタイミングで解散できるかどうかが明記されていないとか(通説は7条を根拠として肯定)、三権分立なのに41条で「国会は国権の最高機関」とか言ってて意味がわからないとか(通説は単なる美称と解釈)、89条で公の支配に属しない教育に対する公金支出を禁止していることと私学助成の関係とか(通説は「公の支配」を拡張解釈することにより合憲)、そういう次元。
(*4) 芦部信喜『憲法』岩波書店、1993、89頁。
(*5) 念のために言うと、「いや、本当はここで廃止されるべきだったのだ」という主張で争った事例はあるのだがすべて否定されている。それがおかしいので変更すべきだという主張は立法論。

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おおや さんのコメント (2004年4月 7日 02:29):

ちょっと補足。何に注意を促したいかというと、「法律を読む」ということの内実について。

シロウトさんがよくやる誤りは、六法を辞書のようにひくことである。なにか関係のありそうな条文を見て、それで法律を読んだと思っている。ところが実際には、それではその条文の内容すら理解できないというのが法律の構成である。

日本法は基本的に、ドイツ流「パンデクテン方式」で編まれている。これはどういう考え方かというと、まず個々の法規範の内容を想定する(これが個々の条文の基礎になる)。そのうちいくつかの条文に共通部分を、総則として前にまとめて抜き出してしまい、個々の条文ではその部分を繰り返さないことにする。部分ごとに総則ができたら、さらにその共通部分を総則として抽出する。さらに抽出する。そうすると全体に共通適用される概念や考え方を定めた根本的な条文が最初の方に並び、そのあとに各部分が総則→各則の順に並ぶという形式の法律ができあがる。

さてそうなると、個々の条文を見ただけではその意味はわからない。共通部分は総則に書かれているから、そちらを先に読まないといけないということになる。ところがそれではまだ終わらない。例えば大会社の運営方式について調べようとすると「商法特例法」(という略称の法律)の該当条文を見て、総則にさかのぼることになるが、商法特例法自体が会社運営の基本的部分を定めている商法の特例にあたるので、商法をまず見ないとわからない。ところが商法は商行為に関する民事法の特例を定めている法律なので、民事の基本法である民法の理解が前提となる。結局、民法を基礎に置く民事法体系の基本的な理解がないと、何もわからないということになるのだ。

でも憲法は国の最高法規じゃないか……というのは正当化の根拠付けの問題であるに過ぎない。そもそもローマ以来2500年の法の歴史の中では、近代憲法などわずか200年強の歴史しか持たない新参者であるに過ぎないのだ。また、近代国家の理念的支柱である社会契約説は、契約・権利・義務といった民事法の概念を基礎にして成立している。誇張ではあるが、憲法は国家・個人関係を扱う民法の特則に過ぎないとも言える。結局、法とは一つの大きな体系であり、根本的部分の理解を前提としたうえで個々の条文を体系の内部に位置付けていくというのが、「法律を読む」という知識と熟練を要する作業なのだ。

従って、正しく「法律を読む」ためにはまず民法総則の抽象度の高い条文をきちんと読みこなしていく必要がある。なにせ民事法の共通部分の共通部分の共通部分であるからやたらと抽象度が高くて理解しにくいし、中には「なんでこんな条文が必要なのか」と思う部分もあるのだが、とにかく理解を蓄積していく。そうすると債権各論で個々の契約類型を論じる部分まで来て、一気に展望が開けるはずである。それまで身につけてきた概念の意味が理解されるようになるのは、総則と個々の法規範の結びつくこの段階に至ってである。とにかく我慢強く総則から読みなさいというのが、初学者に対する私のアドバイス(などと言うと本当の専門家である実定法学者に笑われちゃうんですけどね。私はいわば解剖学者であって、臨床医学の先生ではないので)。

ちなみに民法総則・物権をやっていて「占有訴権がわからん」と言うのは正常です。あれは物理的概念を基礎とした占有possessioとその移転形態のみを扱う初期ローマ法の伝統もしくは遺物なので、正原因iusta causaを基礎にした所有dominatioを本権として扱う近代民法でその実質的意義が失われるのは当然。このように民法を正しく読むためには法の歴史に対する認識が必要なのであるぞと存在意義を主張してみる基礎法学者の私。←必死だな(藁)。

kaito さんのコメント (2004年4月 7日 11:57):

シロウトさんなので興味深く読ませていただいておりますです。
続編も期待しております。

なるほど、週の前半は殺伐とされているようで。:)

鰤 さんのコメント (2004年4月 7日 12:27):

殺伐としておりますな(w 
その調子でひとつ18C末から19C末のドイツ法での成文法と慣習法の解説もきぼん(と気楽にいう)。

ドイツ法哲学が読みにくいのは領邦国家だから「どこで書かれた」かが暗黙の前提として機能するからだと最近気がついた。その点カントの法論からヘーゲルの法哲学は問題連関がわりとなめらかにつながるんだよな。ローマ法からプロイセン法へのつながりで強引に古代から近代くくっちゃうから(粗雑じゃないかという野暮なことはいいっこなし。ていうか「コスモポリタンとしての田舎者」なんだね、あれは)。お腹すいた、ひつまぶし食べたい〜。

よこはま さんのコメント (2004年4月 7日 15:30):

なにやら法学概論の講義の様相を呈してきましたな。パンデクテンの話は民法第1部で(私は大村先生から)ききました。大体同じような話だったと記憶しています。

もう一つ、言論の自由の絶対性の否定の議論を、立法論でなく解釈論として示す本論について、その区別が言っているほど明確でないように思います。というか、上記の議論に揺れがあるように見えます。公共の福祉の制約は全ての人権条項にかかるといっている脇で、憲法の条文はあまり考えて書かれていないと言ったり。それは冗談ですが、言論の自由と刑法上の名誉毀損罪の規定との衝突は、単に言論の自由の相対性の根拠であるのではなく、法の欠缺として理解することも可能であり、その場合にはドゥオーキン的に考えれば、高次の政治原理に照らしてより言論の自由を擁護する方向に判断することも、(単に)解釈論でないとは言えないわけです。まあ大屋氏にこの話をするのは愚かだと知りつつ、一応念のため。

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