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シロウトさんには理解しにくいこと(1)

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週刊文春事件に関するエントリに対していただいたコメントについて考えたことです。第一印象、「ああ、この人シロウトだ」。

《事実認定と法解釈の差異》

まず第一に、法規範が何を許容し何を禁止しているかを考えることと、それに基いて個々の事例をどう判断するかは別の次元の問題であるということ。前者を通常は「法解釈」と呼び、ここではあらゆる問題は言語により抽象化された次元で論じられなくてはならない。例えば「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは三年以上の懲役に処する。」(刑法199条)という条文について、これは故意による殺人に対する罰則を定めたものだが、「未必の故意」(結果発生を予想しつつ、そうなっても構わないという認容のもとに行為した場合)を罰する趣旨であるかどうかを考えるわけ。

それに対して後者は事実認定の問題。そもそも「人を殺した」という事実なんて、世界には落ちていない。あるのは「AさんがBさんの胸にナイフを刺した」とか、「Aさんは以前から『Bを殺してやる』と漏らすことがあった」「その日は他に使う用事もないのにナイフを携帯していた」(計画的犯行を推認させる事実)、「ナイフはBさんの胸にまっすぐ突きささり、心臓に達していた」(力を込めて刺した → 故意の存在を推認させる事実)、「Bさんは出血多量により死亡した」(結果発生を推認させる事実)といったむきだしの事実だけ。それらむきだしの事実をもとにして、「AさんはBさんを殺した」という法的事実を構成することができるかどうか。これを論じるのが事実認定と呼ばれる次元である。

そして、まず「法が何を命じているか」を認識し(大前提)、「この事例の法的事実はどうであったか」を認定すれば(小前提)、推論の帰結として「この事例で法は何を命じているか」という判決が得られる、というのが基本的なモデルとしての「法的三段論法」と呼ばれるものである(*1)。

さてこのように段階を分けて考えると、必要な情報の差が見えてくる。法解釈の次元において必要な知識は現行法令で足りる(*2)。そしてこの次元だけでも、最終的な判決において何が許されていて何が許されていないのかを語ることはできるのである。例えば日本の刑法が殺人罪に関して上記の通りの規定を置いているからには、「殺人罪で懲役3ヶ月」という判決を出すことはできない(法解釈の次元)。このことは当該事件の事実について何も知らなくとも言うことができ、従ってそのような判決が仮に出た場合には「誤り」と評価することも、当該事件の知識なしに可能なのである。

さて週刊文春事件について述べると、問題は第一に「プライバシを根拠にした出版差し止めが認められる場合が存在するか」という法解釈の次元であり、第二に「今回の記事はその場合に該当するか」という事実認定の次元である。最初のエントリにおいて私は、前者について「存在する」という主張を明確にしているのに対し、後者については「判断を差し控える」と述べているにとどまる。それが何故かと言えば、前者は事実を見ることなく言えることがらなのに対して後者はそうではないし、事実をどのように認定するかは裁判官にのみ公的な決定が許されていることなので、私が口をはさむべきではないからである。

「高裁決定をどう考えるか」というのもシロウトの質問としか言えない。すでに分析している通り、高裁決定は法解釈の次元においては地裁仮処分・決定を否定していない。高裁・地裁の結果の違いは、当該事実が「要保護性のあるプライバシ」という法的概念に該当するかどうかという事実認定をめぐる判断に由来している。従って法解釈の次元では両者は矛盾していないし、私の主張が否定されたわけでもない。なお差の違いになった事実認定については「正論すぎる」という印象を持っているが(*3)、先にも述べた通りその点は裁判官に任されている事柄なので、批判はしない(*4)。

さらに言うと、差止めを認めた最高裁判例を「例外」と主張しているが、普遍的な条件によって記述できない「例外」など、法の世界には存在しない。それはあくまで「一般的にはAだが、この条件が満たされている場合にはBになる」という一般的規範の例であるから、逆に言えばその条件が満たされた場合には例外なくBと判断されることになる。一例でもBを認めてしまった段階で、Aは「絶対的」とは言えなくなるのである。従って言論の自由を「なんの制約も受けない」と言うことと、最高裁判例を認めることは矛盾している(念のために言うと、最高裁判例の認めた条件はこの場合にあてはまらないというのは事実認定の次元なので、差止めを認められる可能性が理論上存在するという法解釈の次元での反論にならない)。

この点を逃れる方法はただ一つ、最高裁判例の正当性を否認することである。もちろん判例とは法の適用例でしかないので、根拠となる法が変わった場合、正当性が無条件には維持できなくなる。従って憲法を改正して言論の自由の絶対性を明記すべきだという議論は、十分に成り立ち得る。また日本法では先例の変更が許されているので、最高裁自身が先例とは異なる判断を示すべきだという主張をすることもできる。しかしこれらはいずれも「法はこうあるべきだ」という規範的な主張であり、「法はこうだ」という事実的な主張ではない。前者を立法論、後者を解釈論といい、両者は区分して・切断して論じられなければならないというのが法学のイロハであるので、上述したような主張を法廷で行なっても一蹴されることになる。これを混同してとにかく「べきだ」論にしてしまうのもシロウトの特徴(*5)。

つづく。

(*1) なお以上は法律学における一般的な常識について語っているので、「そもそも法解釈と事実認定を明確に分離できるのか」とか「『むきだしの事実』など存在するのか」とか「法的三段論法は正しいのか」とか言ってはイケマセン。というかそれは私が助手論文でやった作業ですが、「本当はどうなのか」ということと、「どうだとみんなが思っているか」ということはとりあえず無縁であり、もちろん社会を動かしているのは後者である。
(*2) 判例についての知識を持っている必要は、日本法においては、論理的にはない。アメリカ・イギリスなどの判例法国と異なり制定法主義を取る日本においては、判例は事実上の拘束力しか持たないというのが通説である。つまり「前はこうだったから今度もこうだ」という期待をある程度は保護しないといけないし、最高裁判例に反する判決を出しても上告審でひっくり返されるだけだから普通はやらないよね、というレベル。しかしまあ現実には法令だけを見ても白黒がよくわからんから裁判になっているものなので、先行判例を通じてより細かくはどういう基準が形成されてきているかを考えるというのは必須の作業になる。
(*3) 簡単に言うと「そんなことで差別する社会が間違ってるんです」という判断なのだが、しかし現実には社会的差別が存在するのでねえ、という感じ。もちろん現実の差別を根拠として許すとその差別の定着を促してしまう側面もあるので、一概に否定はできない難しい問題ではあるのだが。
(*4) おそらくこれが、田中氏側が特別抗告を断念した理由の一つである。事実認定は高裁までで行なわれるものであり、最高裁は法律審として法解釈の誤りの有無のみを判断するというのが日本における裁判制度の基本的考え方である。従って事実認定に問題があったという理由で特別抗告しても、判断が受けられない可能性が高い。
(*5) 本当はその両者は区別できないんじゃないか? というのはまったく正しい(と私は考えている)。しかし第一に、現実の法律家はこの区別に依拠して議論の成否を判断しており、第二に、この区別を理念として維持しておくことには実際的な意味がある。

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事柄そのものについては 784D-785A につきるが、おかげで面白い見物が見られるので当該の無名氏に感謝。 畑が違うと語法も違うので理解しにくいことがいつぱいになる。とりあえず、認定されるものは「 ... 続きを読む

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