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もうだめなのかなあ

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いや何かと言うと宮台真司センセイのことですよ。オウム事件の頃から真面目に読む気はなくなっていたのですが、たまたま本屋で読んでいたSPA!(*1)の対談に登場しておられたので(*2)。週刊文春事件についての対談だったのですが、そこでセンセイが繰り返しているセリフは以下の通り。

「公人にプライバシーがないのは近代法の常識」

( °д°) ポカーン

ええと、何がおかしいかというとですね(←ネタにマジレスかこわるい)。

(1) そもそも「近代法」とは何かというのが大問題ですが、私ならそう、国王裁判権を中心とする司法権の統一を背景に、国家による強制が可能になった絶対王政以降の法とでも言うかな。フランスだとルイ14世期以降、という感じでしょうか。わりと憲法学に引っ張られて市民革命を重視するならフランス革命まで遅れます(*3)。一方プライバシー概念が生まれたのは20世紀に入ってからのアメリカ。ポカーン。

(2) アメリカで生まれた概念を「近代法の常識」と言えるか、というのも簡単ではない。そもそも英米法と大陸法とではかなり根本的なところで発想が異なっている(cf. 白田先生@法政大学のわかりやすい解説(HotWired))。なお日本は大陸法国。もちろんこの対比は絶対的なものではないし、日本法は敗戦後にアメリカ法の影響を受けているのでまったく無縁とは言えないのだけれど、たとえば判事の役割をどう考えるかという点はまったく違うと言っても、まあ過言ではない。アメリカでは判事が判決を通じて法を創造するのに対し、日本では既存の法を適用するというのが基本的なイメージ。だからたとえば下級審では判決に個々の裁判官の意見は記載されない(*4)。「決定を出した裁判官を晒しアゲ」みたいな発言もしてるのですが、この点も日本法の感覚からは相当おかしい。ポカーン。

(3) いやまあここできっと彼は「近代立憲主義の常識」だと言いたいのだ、と慈悲の原理principle of charityに従って最善の解釈を採用してみる。それでもなあ、公人であれば何でも公開して良いという彼の理解は、アメリカの公人理論public figureとも違っているし、日本の名誉毀損法制(cf. 刑法230条・230条の2)とも違うなあ。もちろん公人の公的生活に関わる事実、公人としての評価に直接影響する事実についてはプライバシが制限されるというのは正しいけど、じゃあ政治家相手にストーキングしていいか、24時間監視して記録していいか(peeping-tom設例みたいに)していいかというとそれは違うだろう。ポカーン。

(4) そもそもね、本件決定および審尋における主要争点の一つは、田中外相の娘さん=本人は「公務員又は公選による公務員の候補者」(刑法230条の2第3項)ではないのに公人と言えるかどうかという点にあったのですよ。それを全部スルーして「公人にプライバシーがないのは近代法の常識」とだけ言ってどうするですか(*5)。ポカーン。

あ〜もう。今を去ること十年前に受けた宮台センセイの講義で社会学を知った私としては、何と言うか、とてもさびしい。なにも今から法律の専門家になれと言うのではないけれど、「語るまえに・「使う」まえに、まずちゃんと読んでくれとおねがいしたい」わけですね。とか言いつつ今日もセンセイの権力概念を使って論文を書く私。いや面白いし楽なのよこれ。

(*1) なんでそんな雑誌を読んでいたかというと切込隊長氏のコラムのためです。
(*2) 対談相手が森達也氏と岡留安則だという段階でセンセイの扱われ方がわかるような気もしますが。いえ森氏のことは結構尊敬しているのです。主張にほとんど賛成できるところはないのですがときどき視点は鋭いし、主張は一貫している。ああいう人が存在すると社会はより健全になります。
(*3) フランス革命を断絶とする視点については、すでにトクヴィルが『大革命と旧体制』で批判していることに注意。彼によれば、革命はそれ以前から進展していた集権化と同質化の過程をむしろ促進したということになる。cf. Alexis de Tocqueville, L'Ancien R'egime et la R'evolution. → アレクシス・ド・トクヴィル『旧体制と大革命』小山勉(訳)、ちくま学芸文庫、筑摩書房、1998。
(*4) 仮に合議で少数意見があったとしても、それは書かない。裁判は法の適用なので個々の裁判官の個性は問題にならないのである、というのは少し言い過ぎかも。
(*5) この論点については「政治家の子息はそのこと自体によってさまざまな利益を受けているのだから、人権を制限されて当然」という趣旨の発言をしている人があちらこちらにいるのですが(例えば文春の特集における、誰だっけ何とかいう二世議員だよほら、の発言)、それって「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」(憲法14条)という「近代法の常識」に激しく反しているのですが、どうよ。

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Comment(15)

なんばりょうすけ さんのコメント (2004年3月31日 02:32):

SPAは読んでませんが、丸劇トークオンデマンドで同様の主旨の主張を見ました。
近代法云々はわかりませんが(4)とか先日のエントリとかに概ね同意。一般論で言うとあの決定を否定できなさそう。
ただ今回の事件はいかにも裏がありそうな話ではあるので、一般論でおしまいにしていいかというと疑問なんですが、どっちにしろ宮台氏の発言は(今回の事件に対するコメントとしては)不適切な印象を受けました。

kaito さんのコメント (2004年3月31日 12:36):

そっかー、だめですかー。
意外と迂闊だったんですねぇ宮台センセイ。
私も駒場で教わったりとかでそこそこ興味深く見てたんですけども。
#高校の遠い先輩ってこともあって一方的かつ変な同属意識みたいなのもあったんですけどね(笑
ちょっと残念。

とはいえ、彼の人でなければできないこともまだまだあるような気はするので、ご活躍いただきたいとも思う次第です。

Britty さんのコメント (2004年3月31日 13:05):

わー。コメントできない。「冗談でーす。本気にした?」っていまからでもいってほしい。

社会学は人文学部で唯一選考試験のある超人気学科(学科制度なくなるけどさ、明日から)なだけに、教わっていないとはいえ南大沢住民であった私もさみしくかなしいです。
明日から文学五学科切り離し作戦も公式始動だし大丈夫なのかしら(がくがくがくがく)
# 田島寮本日で閉鎖。さみしい。

ご活躍いただきたいというのはそのとおり。ところで大屋先生、(4)は「理想的な解釈者」を前提にする点で迂闊な発言だと思いますがいかがでしょう。

なんばりょうすけ さんのコメント (2004年3月31日 17:56):

SPA!の記事読んで、これだと誤解されそうだなと思ったので補足。
宮台氏は別に学問的な議論をしてるわけではなくて、運動家としての活動の一環として喋ってるんですよね。現行法に照らし合わせて合法・違法という話をしているわけじゃなくて、彼流のリベラリズムに基づいて良い悪い(社会にとって得か損か)みたいな話をしています。
だから(1)(2)(3)の指摘はそれ自体は正しいかもしれませんが、批判としては的はずれだと思います。というか大屋さんは別に彼の主張を批判してないのかもしれませんが。
# 細かい話は別途blogに書いてトラックバックします。

おおや さんのコメント (2004年4月 2日 00:25):

う〜んと、もともと宮台センセイの怖いところというのは、過激な主張をしているように見せながらちゃんと背景に理論的な考察があったり、データの蓄積があったりするというところだったと思うのです。逆に言うと、きちんと考えない・調べない「社会学者」ってのは電波さんとどう違うのかという。

もちろんそれは「アカデミシャンとしてはどうなのか」ということなので、運動家としての評価については私ゃ知りません。そんなもんどう計るのかとも思いますが、結果として自分の主張したことが達成されているのが良い運動家かなあ(帰結主義的ですね)。私はただ、アカデミシャンとしてやっていく気がもうないのなら大学から出て行け、と思うだけです。どうせクビ台もとい「首都大学東京」らしいから、もはやよきこともなからむとぞおもへ。

で、なんばさんの言われるように彼が「まだ見ぬ近代」を構築するという啓蒙のプロジェクトに邁進していると仮定した場合の解釈が(3)なのです。まあこの場合、きちんとした批判はそれ自体が良い社会像を提示する運動的視点に立たざるを得ないと思うのでそこまで付き合う気はないというのが私の限界ではあるわけですが(そもそもそういう啓蒙を批判する立場ではないかとも思われ)、プライバシの生まれた国であるアメリカでも、いま私たちと宮台センセイの住んでいる国である日本でもそうなっていないというのは、確かに十分に強い批判ではないでしょう。私としてはまあそうですな、「作られた伝統」を過去に仮託する姿勢というのが啓蒙と整合的な関係にあるのかという点だけを指摘しておきたいと思います。

ところでまあ裏に何かあるのかも知れんとは思うのですが、その事情を表に出せなかった時点で負け、というのが法の世界であります。適切なる形式が整うことなしに実質を判断することあり得べからず。「樹を返せ」と言うべきところ「葡萄樹を返せ」と述べればすなわち敗訴というのが法の古層であります。

あのにむ さんのコメント (2004年4月 2日 01:09):

たのむ、その「くびだい」ってのは、やめてくれよ。。
 遺族共済年金受給者某より

Britty さんのコメント (2004年4月 2日 01:12):

>「樹を返せ」と言うべきところ「葡萄樹を返せ」と述べればすなわち敗訴

よくわかだだいので解説を希望。典拠あるならそれも。

おおや さんのコメント (2004年4月 2日 15:45):

see. e.g.「ガイウスの伝える挿話は、人口に膾炙している。ぶどうの樹を伐られて訴えた被告が、おそらく陳述で、ぶどうの樹(ヴィテス)を伐ったから幾らの金額を請求すると述べて、敗訴した。十二表法は、他人の樹木(アルボレス)の伐採について訴権(アクチオ)を認めたが、ぶどうの樹とは決して述べていない。そういう理由で敗訴した、というのである。法律訴訟は、厳格な形式(フォルメン)をもっていた。」(吉野悟『ローマ法とその社会』近藤出版社, 1976, p. 236.)

初期の法において救済が得られるのはある一定の場合においてある一定の形式によって請求がなされた場合のみであり、法は訴え得る事例を訴権actioとして規定することで成り立っていました。つまり現代のように本権の存在を規定する実体法と、訴訟手続を規定する訴訟法が分化していなかったのであります。そこでは、たとえ実質的正義において配慮すべき理由がどれほどあろうとも、訴訟により保護される形式を構成できなかった時点で救済を得ることは不可能となったのであります。初期ローマ法が占有possessioという事実的概念とその移転における不正を扱うのみであり、正原因iusta causaを基礎とする所有dominatioの概念を扱わなかったことには、このような原因があります。

……というくらいでどうでしょう。

よこはま さんのコメント (2004年4月 2日 18:45):

最近論壇の人間が運動論的っていうとき、つまりは固有名の権威性(あるいは固有名への信頼)のことを言っていることが多い気がする。「宮台さん(東さんでも柄谷さんでも何でもよい)が言ったのだから、荒唐無稽なものでも何か合理的な意図があるのだろう」「文字通り判断すれば間違い以外のなにものでもないが、それだけで評価するのではなく彼の一連の活動の文脈の中に位置づけるべきである」。こういう形で解釈的慈悲に格差をつけてしまうことは避けられないと思いますが、権威と見做されている者自体が自らへの掛け値なしの信頼に依存している様は醜いことこの上ありません。

なんばりょうすけ さんのコメント (2004年4月 2日 21:51):

うーん、揚げ足取りになるかもしれませんが。。。
(3) については、そもそも宮台氏は24時間監視せよとか言ってませんが。何でも公開して良いとも言ってないと思います。「投票の際に誰のどの言葉を信じるべきかの判断材料になり、それが公益を左右する」から公人の私生活は公開してよい、という話をしているので自ずと制限はあるかと。

おおや さんのコメント (2004年4月 2日 23:59):

補足>Brittyさん

Gaiusの原典、ぐぐったら出ました。see. GAI INSTITVTIONVM COMMENTARII QVATTVOR, iv. 11. e.g. http://www.thelatinlibrary.com/gaius4.html なお、私の記憶が正しければ十二表法のオリジナルテクストは現存しないはずです。参考までに。

>Gaius Valerius Catullus. Carmina.

これはカトゥルスの詩集『カルミナ』。

> M. Tullius Cicero. Speech before Roman Citizens on Behalf of Gaius Rabirius

これはキケロのラビリウス弁護演説では。

さんのコメント (2004年4月 3日 02:08):

おお、小腹の出た、背の低い、
口の悪いものぐさな田舎出の坊や、
生きようよ、そして愛し合おうよ(違

Vielen Dank fuer deine Bemuhungen. google する手があったか。しかし日本の古典も電子化してくれないもんかね。旧国立大学が率先してやって……予算と時間がないか。

# 誤解する人もいないと思いますが、上三行はカトゥルスの別々の詩篇(Carmina)のパロディです。

Britty さんのコメント (2004年4月 3日 02:15):

なんばさんの気持ちはわからないではないのですが、「プライバシーはない」といいきってしまう時点で、すでに「粗雑である」との批判を受ける余地を作ってしまうのではないでしょうか。ここ「ない」と「制約される」は違う、と突っ込みたくなるポイント。まして法学プロパーの方々においておや。

もちろんアジテーションとしては、後者は勢いがないのですが、アジテーションだからといって、やはりテキストは、ところで大屋先生、この日記にテキストはありますか?

おおや さんのコメント (2004年4月 3日 13:30):

There's no such thing as free speech, and it's good thing, too. とでもお答えすればいいでしょうか(にっこり)。

ええとですね。公人のプライバシが絶対のものではなく制約される可能性があるという話なら、それこそ常識です。しかし「可能性がある」ならその基準を明らかにしないと裁判ができないわけで、そのために出てきたのがアメリカの判例法理としての「公人理論」public figure theoryだったり、日本の刑法230条の2であるわけですね。

で、その方向性を簡単に言えば、(1) 報道目的が正当であること(公人理論でも「現実の悪意」actual maliceが立証できる場合には免責されない点に注意)、(2) 報道内容が事実であること・事実と信じても無理がないこと、(3) 報道目的と報道内容の相関性、ということになるでしょうか。(3)は報道目的の正当性について本人の主張のみでは足りないとしていることから導けます。第三者の観点から報道された事実を見て、報道目的が正当であることを納得できないといけないわけですから。

この基準で言えば、宮台氏も挙げていた例だったと思いますが、性道徳の向上を説く政治家の乱脈な性行動について報道することは、それがプライバシの侵害にあたるにも関わらず、問題なく許されます。政治家本人の行動でない場合でも、政治家としての評価に関わる場合には許されることになるでしょう(cf. 東京高裁決定)。この基準の適用の仕方をめぐって争われたのが今回の週刊文春事件であったと、大まかには定位することができます。

さてこのような状況において宮台氏が「政治家にプライバシはない」と東京地裁仮処分を批判されるのであれば、その意味するところは以下の三つのいずれかであると思われます。

(1) 宮台氏は、以上のような基準をめぐる議論についてまったく知らずに発言している。

(2) 以上の基準は誤りであり、表現の自由が絶対的に優先されねばならないと主張している。

(3) 何も考えていない。

私としては(2)の解釈を採ったわけですが、「慈悲の原理」principle of charityにもっとも沿った行動であると考えております。いかがでしょうか。もっとも正確には、

(4) このくらいのことは理解しており、自分の発言がアカデミックには相手にされないくらい誤っていることを知りつつ、政治的行動としてアジテーションを展開している。

という可能性があろうかと思います。前述した通り私は運動家としての価値如何に関心はないので、もしそうであれば学者としての宮台氏の死を悼みつつ「大学から出て行け」と言うのみです。これも書いたことですが、SPA!という舞台で森達也氏や岡留安則と並べられてしまうという時点で運動家としての価値が世間からどう見積もられているかというのがわかる気もしますが、しかし繰り返せばそんなことは私にとってどうでもいいことです。

なんばりょうすけ さんのコメント (2004年4月 5日 10:31):

公人理論の解説ありがとうございます。ですが、そもそもあの座談会で(実は他の場所でも)宮台氏は文春事件について「田中氏の娘に公人性が認められるべき」とも「(仮に公人性が認められるとして)あの記事の内容が公益性等の基準を満たす」とも言ってないのです。彼は文春事件とは直接関係ない原則論を述べているだけなのです。僕としてはそこが不満ですし、「奥歯にものがはさまったような」変な語りだと評する人もいます。

というわけで宮台氏は(2)のような強い主張をしていません(過去にもそんなことを言ったことはないはず)。これはおおやさんが深読みしすぎだと思います。しかし、おおやさん的には「そうとでも解釈しないことにはなんで彼があそこに出てきて喋ってるのかワケワカラン」というのはわかります。

宮台氏は文春事件をここ数年のメディア規制強化の流れに位置付けていて、今回の判断が前例になって今後公人(もしくはそれに近い立場の人)のプライバシーを報道したメディアが事前差し止めされる事を危惧しているのでしょう。

そうなった時にSPA!の読者とかが即「これっておかしい」と判断できるように、世間の耳目の集まってる今のうちに先回りしてあんな(今の段階ではお門違いな)ことを言ってるのでしょう。

これは宮台氏がよくやるパターン(例:酒鬼薔薇事件の時の「学校化」関係の発言)です。でも今回は報道被害を憎む一般市民は「文春ざまぁ見ろ」みたいに思ってたりするわけで、そっちに対するフォロー抜きであんな語りをしてると誤解されたり市民の敵認定されたりしかねないなぁ、うかつだなあ、と僕は思うわけですが。

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